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メインウェーブ日記

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古今東西、世に盗人の種は尽きませんが、江戸時代にも多くの泥棒たちが暗躍していました

そんな一人・田舎小僧(いなかこぞう)と名乗った大泥棒を紹介したいと思います

果たして彼はどんな人物で、どんな最期をたどったのでしょうか

田舎小僧の生い立ちから初犯、勘当されるまで

田舎小僧は宝暦2年(1752年)ごろ、武蔵国足立郡新井方村(埼玉県川口市)で百姓をしていた、市右衛門(いちゑもん)の倅として生まれました

実名は新助、13歳となった明和元年(1764年)に、江戸の神田同朋町(東京都千代田区)で紺屋を営む佐右衛門(そうゑもん)の元へ年季奉公に出されます

その時の働きぶりについて、詳しいことは分かりません
とにもかくにも年季が明けた安永2年(1773年)、新助は22歳になっていました

年季が明けたのだから故郷に帰ってもいいのですが、どうせロクな食い扶持もないため、今度は下谷坂本(東京都台東区)の又兵衛(またべゑ)に奉公します

しばらくは真面目(それなり)に勤めていたのでしょう
しかし、25歳の安永5年(1776年)12月6日、新助は又兵衛から3両2朱(または3分2朱)を盗んで逐電しました

仮に1両≒10万円/1分≒2.5万円/1朱≒6250円とした場合、新助は約31万~9万円を盗んだことになります

その場はまんまと逃げおおせた新助ですが、12月10日、武蔵国金杉村(埼玉県松伏町)で再び盗みを働こうとしたところを捕らわれてしまいました

捕らわれた新助は、寺社奉行の太田資愛(おおた すけよし。備後守)に引き渡され、投獄されます

前科者の入墨をされた新助に対する判決は、敲放(たたきはなし)の刑
棒や鞭で打たれた上に、地元への追放でした

親元で更生することを期待された新助は、暫く紺屋の手伝いなどをしていたものの、やはり素行は改まりません

お灸で入墨を焼き消した新助は、相変わらず悪さばかりしていたようです
そしてついに天明元年(1781年)、両親から勘当されてしまいました

※別説には、両親の死後に村を出たとも言われます

田舎小僧が大暴れ!大名たちが次々と被害に

かくして無宿者となった新助は江戸に出て、浅草駒形町(東京都台東区)で商売を営む惣八(そうはち)の元で、棒手振り(行商人)として励んだそうです

しかし天明3年(1783年)に惣八が廃業すると、今度は上野国市場村(群馬県桐生市)で百姓をしている四郎左衛門(しろうざゑもん)の元で日銭を稼ぎました

いきなり江戸から上州とは思い切ったものですが、行商で培った人脈がものを言ったのでしょう

しかし、これもそう長くは続かず、天明4年(1784年)が明けるころには江戸へ舞い戻り、いよいよ泥棒稼業を本格化することになります

「田舎小僧」と名乗った新助が泥棒として暴れ回ったのは、天明4年(1784年)3月から翌天明5年(1785年)8月までの約1年半
この間に合計27回の盗みを働きました

田舎小僧が特に狙ったのは武家屋敷や寺院、町家などでした
被害は、小さなところよりも大きなところに集中しています

そう聞くと、一般人の感覚では「大きなところは警備が厳重なんじゃないの?」と思いがちです
しかしこれが意外と逆で、大きなところほど監視の目が行き届かず、楽に仕事ができたそうです

以下は、田舎小僧の被害にあったとされる大名です

・浅野重晟(しげあきら。安芸広島藩主)
・池田治政(備前岡山藩主)
・小笠原忠総(ただふさ。豊前小倉藩主)
・島津重豪(しげひで。薩摩藩主)
・田沼意次(遠江相良藩主)
・藤堂高嶷(たかさと。伊勢津藩主)
・松平資承(すけつぐ。丹後宮津藩主)
・松平信之(大和郡山藩主)
・松平康福(やすよし。石見浜田藩主)
・松平頼起(よりおき。讃岐高松藩主)
・細川重賢(肥後熊本藩主)

果ては田安家・清水家、そして一橋家の御三卿に至るまで、片っ端から狙われたのでした

田舎小僧は「義賊」だったのか?

お殿様から金銀財宝を奪いとった田舎小僧の存在を、江戸の庶民たちはどのように思っていたのでしょうか

大泥棒は往々にして「富める者から奪い、貧しい者に分け与える」義賊のイメージがつきがちです

しかし田舎小僧は、盗品を売り払った金(※)で遊興三昧
酒を呑んだり遊女を買ったり、博打を打ったり「呑む・打つ・買う」の三拍子を尽くしました。とても義賊とは言えません

(※)換金額は140両余り(約1400万円)とも、39両1分2朱250文(約390万円)とも言われます

また、大名たちも家名を汚すことを恐れて、被害の公表を憚ったようです
そのため一般庶民に田舎小僧の存在が知られることは、ほとんどなかったでしょう

そんな田舎小僧が捕らわれたのが天明5年(1785年)8月16日
一橋邸で夜回りの中間に捕らわれ、町奉行所へ引き渡されます

町奉行の曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ。甲斐守)は「重々不届至極」として獄門の判決を下しました

そして天明5年(1785年)10月22日、田舎小僧は市中引き回しの上で処刑されたのです
享年34

終わりに

今回は江戸を騒がせた大泥棒・田舎小僧について、その生涯をたどってきました

悪行の報いとは言え、何とも言えない気分になります

当時は他にも葵小僧(あおいこぞう)や稲葉小僧(いなばこぞう。田舎小僧と同一人物説も)など、著名な泥棒が存在するので、改めて紹介したいと思います

※参考文献:
・阿部猛『盗賊の日本史』同成社、2006年5月
・丹野顯『江戸の盗賊 知られざる“闇の記録”に迫る』青春出版社、2005年5月
・山下昌也『実録 江戸の悪党』学研新書 2010年7月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

古今東西、世に盗人の種は尽きませんが、江戸時代にも多くの泥棒たちが暗躍していました

そんな一人・田舎小僧(いなかこぞう)と名乗った・・・


田舎小僧は江戸の闇を駆けた大泥棒で多くの大名・御三卿すらも被害にあったといいます

 

 


いつの時代も盗賊はいたようです
盗賊は悪ですが気になる存在でもあります・・・
盗賊のに日本史をひもとく

アドルフ・ヒトラーは、ナチス・ドイツを率いて第二次世界大戦を勃発させ、ユダヤ人に対する大量虐殺「ホロコースト」など非人道的な政策を実行した
20世紀最大の独裁者として知られる

第一次世界大戦敗戦で疲弊したドイツ国民の心を掌握し、ドイツを一党独裁国家に仕立て上げたヒトラーだが、学生時代の彼は、独裁者どころか政治家すら目指していなかったといわれる

若き日の彼が、幾度もの挫折を味わいながらも目指していた職業、それは「画家」
だった

ヒトラーの芸術への関心は、ナチス党首就任後も変わらず、自分の本質は「政治家ではなく芸術家である」と信じ続けていたという

画家になり損ねて独裁者になったヒトラーの生い立ちや、青年時代に手掛けた絵画、さらには政策にも表れた「芸術家」としてのこだわりについて、掘り下げていきたい


父との不仲と学生時代の挫折

政治家としてカリスマ的な支持を集めたヒトラーも、その少年時代は決して輝かしいものではなかった

彼は決して成績優秀な生徒ではなく、教師からの評価も芳しくなかったとされる

父のアロイス・ヒトラーは、オーストリア帝国の税関職員として堅実に出世した人物であり、封建的で厳格な性格で知られていた
若きヒトラーはこの父に対して早くから反抗心を抱いていたとされ、小学生のころからしばしば口論になっていたという

父は息子を公務員か技術職へと進ませたがっていたが、ヒトラーは芸術家への夢を抱いており、14歳で実科中等学校に入学したものの、勉学に対する熱意を示すことはなく、出席率も悪かった

この学校は、ギムナジウム(大学進学を前提とした中等教育機関)に比べれば、実務的な教育を目的とした学校だったが、それでもヒトラーにとっては居心地が悪かったようである

やがて彼は二度にわたって留年し、最終的には退学処分を受けている

その後、別の学校に編入するも、再び成績不振と素行不良によって退学を余儀なくされた

結果として、ヒトラーの最終学歴は初等教育(小学校)卒業にとどまり、中等教育課程を修了することはなかった

リンツでの優雅な無職生活

父・アロイスは1903年、ヒトラーが14歳のときに病没した

その後、ヒトラーは前述したように学業を中断し、母・クララと妹とともにリンツに戻ったが、再び学業への意欲を見せることはなかった

父・アロイスは上級事務官として一定の財産を遺しており、遺族がすぐに困窮することはなかった
ヒトラーも働くことなく生活を送ることができ、当時は無職でありながら身なりも悪くなかったとされる

それでも家長を継ぐべき息子が定職にも就かないことに、母のクララは心を痛めていた

本来なら学業を辞めた青年は、何らかの仕事に就くための訓練を受けることが当時の通例であった
しかしヒトラーは心配する母に「画家として生計を立てていく」と語って譲らず、「ただ食い扶持を稼ぐための仕事」を軽蔑していたという

画家になる夢は母だけではなく、いつも行動を共にしていた友人や、片思いした女性に対しても打ち明けていた

1907年、18歳になったヒトラーは財産分与の権利を得て、当時の郵便局員の年収にあたる遺産を手にする
この頃、クララは乳がんを患い、闘病生活に入っていた

しかしヒトラーは、画家になる夢を実現させるために、病身の母に経済的な支援を頼んで仕送りの約束を取り付けると、美術の道を志して単身ウィーンへと旅立った

ウィーン美術アカデミーを受験するも落第

画家としての将来に希望を抱いていたヒトラーは、1907年9月、ウィーン美術アカデミーの入学試験を受けた

実技による予備試験には合格したものの、本試験で提出したポートフォリオには人物の頭部デッサンがほとんど含まれておらず、審査官から不十分と判断され、不合格となってしまった

まさかの不合格という結果はヒトラー自身も想定しておらず、病身の母や介護に忙しい姉妹や叔母に、すぐに伝えることはできなかったという

試験の翌月にはクララの病状が悪化し、ヒトラーは急ぎ帰郷したが、1907年12月21日、母は乳がんで死去した
いつまでも定職に就かない息子に失望しつつも、愛情を注ぎ続けてくれた母の死に、ヒトラーは大いに打ちひしがれた

翌1908年、ヒトラーは父の遺産の大部分を相続し、国家からの遺児年金も受けながら再度ウィーン美術アカデミーの門を叩くが、再び不合格の通知を受ける

やがて彼は、リンツ時代の友人たちとも疎遠になり、遺産を取り崩しながら絵葉書や風景画を描いて生計を立てる放浪生活に入っていく

その一方で徴兵忌避の疑いをかけられ、1909年には一度逮捕された
だがザルツブルクでの徴兵検査では「心身虚弱」と診断され、不適格と判定されている

第一次世界大戦が勃発すると、ヒトラーは志願兵としてバイエルン陸軍に入隊し、前線で伝令兵として従軍
戦功を挙げて勲章を授与され、社会的な承認を得る

戦後の混乱のなかで「理想の国家」の実現を志すようになったヒトラーは、政治活動の世界へと足を踏み入れていくことになるのである

ヒトラーの絵に対する評価

ヒトラーが1907年に受験したウィーン美術アカデミーでは、建築物の描写に関しては一定の評価を得たが、ポートフォリオに人物デッサンを入れなかったことが不合格の決め手となった

しかし、そもそもヒトラーが好んで描いていた写実的な絵画は、当時すでに時代遅れな芸術とみなされていた

すでに写真技術が浸透していた当時のヨーロッパにおける芸術の流行は、目に見える物をそのままキャンバスに映し取った写実的な絵画ではなく、人物の内面を含めて抽象的に表現する「世紀末芸術」が主流となっていたのだ

例えば、同じオーストリア出身のグスタフ・クリムトは、1908年に代表作『接吻』を発表し、華やかで象徴的な作風で高い評価を得ていた

また、ヒトラーが受験した前年にはエゴン・シーレがアカデミーに入学し、やがてクリムトの薫陶を受けて、前衛的な人物画を次々と発表するようになる

こうした中で、ヒトラーの描く絵は時代の流れに逆行していた

さらに、建築物の緻密な描写に比べて自然や人物の描写が甘かったこともあり、アカデミーの教員からは画家になるよりも建築家としての進路を推奨されたのだ

しかし、建築を学ぶには中等教育を修了している必要があり、すでに退学していたヒトラーにはその資格がなかった

学力や規律面で再び学校に戻る意思もなかった彼は、ウィーンでの将来を断念せざるを得なかったのである

政治に表れたヒトラーの芸術に対する意識

ヒトラーが生涯抱いていたとされる芸術家としての自負とこだわりは、ナチスの政策にも表れている

ナチス総統として大衆の支持を獲得できた背景には、徹底したイメージ戦略があった

ナチスは人々の心を掴むために、難しい言葉や理屈は使わず、簡潔かつ強力な言葉と、一見しただけで強烈な印象を与えるデザインを多用した

そしてナチスの代表者たるヒトラーは、父の遺産と恩給で豊かな生活を送っていたことは隠し、貧困の中で立ち上がった労働階級の代表者として振る舞った

民衆の心を掌握するための要であった党大会は、人々の判断力が疲労で鈍る夕方以降に開催し、わかりやすい簡潔な言葉を使い、時には沈黙を効果的に用いて、一挙手一投足にまで綿密な計算を配して演説を行った

その演説が行われたニュルンベルクの党大会会場は、ヒトラーが強い信頼を寄せた建築家アルベルト・シュペーアによる設計で、建築物そのものにも彼の美学が反映されていた

ヒトラーは、シュペーアを単なる優秀な部下というよりは、建築に関する意見を対等に交わし合える腹心として扱っていたようである
シュペーアが総統室を訪れた際は、他の仕事を投げ出して建築話に花を咲かせていたという

ナチスが掲げた「アーリア人種」の概念は、本来の語族的な定義を離れ、金髪・碧眼・長身といった外見的特徴によって、ドイツ民族の優越性を象徴的に主張するものとなった

軍服や制服類も、機能性以上にデザイン性が重視されており、金髪碧眼で体格のよい親衛隊員たちに着用させることで、ヒトラーが掲げた「理想の人種像」を視覚的に表現する役割を担っていた

そして、そうした「演出」の頂点に立ったヒトラー自身は、威厳ある指導者として舞台に立ち、貧困と疲弊にあえぐ民衆から熱狂的な崇拝を集めるようになっていった

もっとも、ナチスのプロパガンダがここまでの効果を上げたのは、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの巧妙な手腕によるところが大きいとされている

ヒトラーは自分の才能を認めなかったウィーン美術アカデミーや芸術界に対しても、権力を利用して圧力をかけている

ナチス・ドイツは1938年のオーストリア併合(アンシュルス)以降、モダンアートや前衛芸術を「退廃芸術(Entartete Kunst)」と位置づけ、強制的な収蔵品の押収や作者への弾圧を行った

その対象には多くのユダヤ系芸術家も含まれており、中には亡命に失敗し命を落とした者もいた

押収された作品の一部は、1937年から開催された「退廃芸術展」において、嘲笑と侮蔑の対象として一般公開された

この展示はドイツ各地を巡回し、ナチスが「堕落した芸術」と位置づけた作品をあえて晒すことで、国民の文化的嗜好を統制しようとするプロパガンダの一環でもあった

こうしたナチスによる芸術弾圧は、ドイツやオーストリア国内にとどまらず、併合・占領地域にも及んだ

たとえばチェコの国民的画家として知られるアルフォンス・ミュシャも、ナチスによるチェコスロバキア占領後にゲシュタポに逮捕されている

彼は「民族意識を煽る芸術家」として尋問を受けた後に釈放されたが、その直後に体調を崩し、まもなく病没した

“芸術家”ヒトラーが描いた理想の国家

ヒトラーの絵画は、一人ひとりの人間に対する関心が薄く、建築物のディテールにばかり力が注がれ、全体の調和やバランスを見失いがちだった

独裁者としてもこの傾向は表れており、人種を優劣で判断して個人の生命を軽視し、自らの理想を目指して突き進んだばかりに全体像を見失い、着実に窮地へと追い込まれていった

さらには敗戦の色が濃くなった1945年春、自国の国民の戦後の生活すらも顧みずに「ネロ指令(焦土作戦)」を出してドイツ国内の産業を破壊し尽くすように命じた

これは「ドイツが敗れるのであれば、その文明ごと滅ぶべきだ」という極端な思想に基づく命令であった

この指令は、当時の軍需大臣アルベルト・シュペーアによって密かに無効化されたが、ヒトラーが敗北後のドイツ国民の生活にまったく関心を示していなかったことは明らかである

ソ連軍に包囲されたベルリンでは、側近たちが次々と脱出する中、ヒトラーは最後まで地下壕にとどまり、逆転勝利の幻想にしがみついていた

しかし最終的には現実を受け入れ、もっとも愛していたとされる飼い犬ブロンディに毒を盛って薬の効果を確かめたのち、1945年4月30日、半日前に結婚したエヴァ・ブラウンとともに自殺した

人間に興味を持たなかったヒトラー

第二次世界大戦終戦後、ヒトラーが生前に描いた絵のうち数10点は高額で売買されたが、それは「独裁者ヒトラー」が描いた絵だからこそ高値が付いたものである

いわば凶悪犯罪者の絵が高額で取引されることと同じで、芸術性の高さが認められたわけではない

ある美術評論家が、作者の名を伏せられてヒトラーの絵の批評を求められた際は、建築物の絵に関しては「素晴らしい」と賞賛したが、人物画については「作者が人間に少しも興味を持っていないことがわかる」と評したという

これは結果論に過ぎないが、ヒトラーが独裁政権を率いる政治家として歩んだ経過と末路は、彼が若き日に描いた作品に既に暗示されていたのかもしれない

彼が画業の師と仰いだルドルフ・フォン・アルトのように、有象無象の人々の生活を活き活きと描けるような画家だったなら、少なくとも無慈悲な大量虐殺が実行されることはなかったのかもしれない

参考 :
村山秀太郎 (著)『暴虐と虐殺の世界史 人類を恐怖と絶望の底に突き落とした英傑ワーストイレブン』
橘 龍介 (著)『歴史上のカリスマリーダーに悪人が多い理由』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

アドルフ・ヒトラーは、ナチス・ドイツを率いて第二次世界大戦を勃発させ、ユダヤ人に対する大量虐殺「ホロコースト」など非人道的な政策を実行した
20世紀最大の独裁者として知られる

第一次世界大戦敗戦で疲弊したドイツ国民の心を掌握し、ドイツを一党独裁国家に仕立て上げたヒトラーだが、学生時代の彼は、独裁者どころか政治家すら目指していなかったといわれる

若き日の彼が、幾度もの挫折を味わいながらも目指していた職業、それは「画家」だった

ヒトラーの芸術への関心は、ナチス党首就任後も変わらず、自分の本質は「政治家ではなく芸術家である」と信じ続けていたという


個人的にはヒトラーには絵の才が足りなかった気がする
(学力とやる気も・・・)
(「時代」や「流行」も・・・)

さらに人間に興味がなかったことも独裁者への道につながった気がする



 

 


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知っているようで知らない三国志の結末

歴史上、三国志の結末は以下のように整理される

・魏が蜀を滅ぼす(263年)
・魏が晋に禅譲する(265年)
・晋が呉を滅ぼし、天下統一を果たす(280年)

魏から晋への政権交代や、最終的に晋が呉を滅ぼして中国を再統一したことは、歴史の知識として知られている

しかし、小説『三国志演義』を原作とする漫画やドラマの多くは、蜀の滅亡で幕を閉じており、それ以降の展開まで目を向ける人は、三国志ファンの中でもかなりの通である

たとえば、筆者にとってのバイブル『横山三国志』も、蜀の滅亡をもって完結しており、晋の建国や呉の滅亡までは描かれていない

ドラマ『三国演義』では、魏が晋となり、晋が呉を滅ぼす映像がエンディングに簡潔に挿入されるのみで、物語としてのラストは姜維の反乱と自害で終わる構成になっている

今回の主役は、魏・晋に仕えて三国時代を終わらせた最後の名将、杜預(とよ)である

ドラマや漫画などではほとんど描かれることがなく、知名度も高くはない
だが、歴史のうえで三国志という時代を終わらせたのは、まさしく杜預であった

はたしてどんな人物だったのだろうか

魏のエリートコースを歩むはずだった男

222年に生まれた杜預は、魏の名門の出身であった

祖父の杜畿(とき)は魏の尚書僕射、父の杜恕(とじょ)は幽州刺史と、代々要職を歴任した家柄である
杜預も、名家のサラブレッドとしてエリートコースを歩むはずであった

その杜預の歩みを語る前に、まずは父・杜恕(とじょ)の人物像に触れておきたい

杜恕は良くも悪くも物事をはっきりと言う性格で、事実上のトップであった司馬懿を初めとする魏の面々との折り合いが悪かった

249年、鮮卑族の王族に対する処刑を巡る事件で、その処分に関する報告書を提出しなかったことが咎められ、弾劾を受けることとなる

この時、父・杜畿の功績により死罪は免れたものの、杜恕は官位を剥奪され、平民に落とされてしまう
その後、征北将軍として北方に駐屯していた程喜(ていき)から、減刑と引き換えに妥協を求められるが、これも頑として拒否し、失意のうちに252年、55歳で没した

その影響は、息子の杜預にも及ぶこととなる
父の失脚によって、彼に用意されていたはずの出世の道は閉ざされ、平民として不遇の日々を過ごす事になったのだ

だが、杜預は困窮しても心は折れなかった
孔子の『春秋』を読み込み、知識を深めながら復帰の時を待ち続けたのである

特にその中でも『春秋左氏伝』への傾倒は尋常ではなく、自らを「左伝癖(左伝マニア)」と称するほどであった

杜預の復帰から蜀滅亡まで

そんな杜預の人生が大きく動き出したのは、30歳を過ぎた頃のことだった

251年、司馬懿がこの世を去り、その後継として次男の司馬昭が政権の実権を握った

実は、杜預の妻は司馬昭の妹にあたり、すなわち司馬懿の娘でもあった

この縁によって、長く不遇の時を過ごしていた杜預に、再び登用の機会が巡ってくる

杜預が、いつこの縁組を果たしたのかは不明であるが、父・杜恕がかつて司馬懿と対立していたにもかかわらず、両家の婚姻が成立した背景には、司馬昭の意向が働いていた可能性もある

こうして中央政界に復帰した杜預だが、復活早々から華々しい活躍をしたわけではない
263年、魏が蜀漢を攻め滅ぼす戦いに従軍したが、戦功として特筆されるような記録は残されていない

また、その直後に起きた姜維と鍾会の反乱では、杜預は計画に加担せず、巻き込まれることもなかったため、処罰の対象とはならなかった

なお、蜀を滅ぼした最大の功労者である鄧艾(とうがい)を、杜預は深く敬愛していた

参考 : 『三国志』蜀を滅ぼした男・鄧艾 ~なぜ“英雄”は殺されたのか?
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/106495/

ゆえに、その鄧艾を陥れて死に追いやった衛瓘(えいかん)や田続に対しては、強い怒りを公然と示している

天敵との関係

蜀の滅亡からわずか2年後の265年、魏は司馬昭の子・司馬炎により禅譲され、晋が建国される

杜預は新たに晋の官吏となり、法の整備や政治改革に尽力するが、その道は決して平坦ではなかった

彼の前にたびたび立ちはだかったのが、同じ晋の重臣でありながら、終生そりの合わなかった男・石鑒(せきかん)である

両者の対立が顕著に表れたのが、270年に起きた異民族・樹機能(じゅきのう)による反乱である
晋はその鎮圧にあたり石鑒を総司令官に任じ、杜預も軍に加えた
もともと折り合いの悪かった二人は、この戦地でついに激しく衝突することになる

石鑒は、士気が高く装備も整った樹機能軍に対してすぐに出撃すべきだと命じたが、杜預はこれを危険視し「春までに兵糧と兵器の準備を整えてから進軍すべきだ」と強く進言した

しかしこの意見は聞き入れられず、石鑒は逆に「無許可で城門や官舎を補修した」との罪状で、杜預を檻車に乗せて都へ送り、廷尉に突き出してしまう

結局、杜預が司馬炎の叔母(高陸公主)の夫であることが考慮され、罪には問われなかった
しかもその後、戦況は杜預の予見通りに推移し、石鑒の軍は思うような戦果を挙げられず、撤退を余儀なくされる

この一件により、杜預の軍事的才能は高く評価されることとなった

実は、杜預は馬にまたがることすら不得手で、弓術も苦手であった
しかし、それを補って余りあるほどの作戦立案能力を持つ、まさに用兵の才に秀でた指揮官だったのだ。

三国時代の終焉

杜預は、政治家としても優れていた

かつて祖父・杜畿が、孟津の渡し場で水難事故に遭って亡くなったこともあり、彼は同地でたびたび起こる水害の防止策として、橋の建設を提言し、これを実現させた

また、水利・農政・財政の改革にも手腕を発揮し、数多くの施策を進言して採用された
その博識ぶりは朝廷内でも群を抜いており、「杜武庫(とぶこ)※あらゆる知識を備えた武器庫のような人物」とまで称された

こうした実務の積み重ねを経て、ついに杜預の集大成ともいえる大戦が始まる

「呉への侵攻」である

279年、長らく晋を悩ませた樹機能の反乱がほぼ鎮圧され、軍の動員が可能となった
これを好機と見た司馬炎は、中国統一の総仕上げとして呉への全面侵攻を決断する

その総司令官に任じられたのが、杜預であった

当時の呉は、君主・孫晧(そんこう)の暗愚と政治の乱れによって弱体化していた

開戦に際し、杜預は以下のように述べたと伝えられている

今兵威已振,譬如破竹,數節之後,皆迎刃而解,無復著手處也。

意訳 : 今や兵の威勢はすでに振るい立ち、まるで竹を割るかのようである。
初めのいくつかの節さえ裂けば、あとは刃を入れるだけで自然と裂けていき、もはや手をかけるまでもない。

『晋書』巻三十四「杜預伝」より

まさにその言葉どおり、晋軍は怒涛の進軍を見せ、呉はほとんど抵抗らしい抵抗もないまま崩壊し、翌年280年、孫晧は降伏する

なお、かねてより呉への侵攻を主張していたのは、荊州を守る鎮南大将軍・羊祜(ようこ)であったが、彼の存命中には実現せず、病に倒れる直前に杜預を後継として推挙していた

杜預はその期待に応えて呉を滅ぼし、晋による中国統一を現実のものとした

蜀の滅亡もそうであったが、呉の終焉もまた、最終決戦とは思えないほどあっけないものであった

しかし、これこそが三国時代の結末だったのである

三国時代完結のその後

ついに三国時代は幕を閉じ、歴史の転換点に活躍した杜預も、わずか4年後の284年、63歳でこの世を去る

だが、ようやく訪れた晋の時代も、平穏が長く続くことはなかった

晋の初代皇帝・司馬炎は、天下統一を果たしたのちに政務への関心を失い、各地で反乱が続発した

290年に司馬炎が崩じると、後継を巡る司馬一族の内紛が始まり、国は再び不安定な時代へと傾いていく

やがてこの争いは、「八王の乱」と呼ばれる深刻な内乱へと発展する

その経緯や顛末ついては、また別の機会に取り上げたい

参考 : 『晋書』巻三十四「杜預伝」巻三「武帝紀」他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

歴史上、三国志の結末は以下のように整理される

・魏が蜀を滅ぼす(263年)
・魏が晋に禅譲する(265年)
・晋が呉を滅ぼし、天下統一を果たす(280年)

魏から晋への政権交代や、最終的に晋が呉を滅ぼして中国を再統一したことは、歴史の知識として知られている

しかし、小説『三国志演義』を原作とする漫画やドラマの多くは、蜀の滅亡で幕を閉じており、それ以降の展開まで目を向ける人は、三国志ファンの中でもかなりの通である

たとえば、筆者にとってのバイブル『横山三国志』も、蜀の滅亡をもって完結しており、晋の建国や呉の滅亡までは描かれていない

ドラマ『三国演義』では、魏が晋となり、晋が呉を滅ぼす映像がエンディングに簡潔に挿入されるのみで、物語としてのラストは姜維の反乱と自害で終わる構成になっている

今回の主役は、魏・晋に仕えて三国時代を終わらせた最後の名将、杜預(とよ)である

ドラマや漫画などではほとんど描かれることがなく、知名度も高くはない
だが、歴史のうえで三国志という時代を終わらせたのは、まさしく杜預であった


彼は馬にまたがることすら不得手で、弓術も苦手であった
しかし、それを補って余りあるほどの作戦立案能力を持つ、まさに用兵の才に秀でた指揮官だったのだ。

三国時代の終焉

杜預は、政治家としても優れていた

かつて祖父・杜畿が、孟津の渡し場で水難事故に遭って亡くなったこともあり、彼は同地でたびたび起こる水害の防止策として、橋の建設を提言し、これを実現させた

また、水利・農政・財政の改革にも手腕を発揮し、数多くの施策を進言して採用された
その博識ぶりは朝廷内でも群を抜いており、「杜武庫(とぶこ)※あらゆる知識を備えた武器庫のような人物」とまで称された

こうした実務の積み重ねを経て、ついに杜預の集大成ともいえる大戦が始まる

「呉への侵攻」である

279年、長らく晋を悩ませた樹機能の反乱がほぼ鎮圧され、軍の動員が可能となった
これを好機と見た司馬炎は、中国統一の総仕上げとして呉への全面侵攻を決断する

その総司令官に任じられたのが、杜預であった

当時の呉は、君主・孫晧(そんこう)の暗愚と政治の乱れによって弱体化していた

開戦に際し、杜預は以下のように述べたと伝えられている

今兵威已振,譬如破竹,數節之後,皆迎刃而解,無復著手處也。

意訳 : 今や兵の威勢はすでに振るい立ち、まるで竹を割るかのようである。
初めのいくつかの節さえ裂けば、あとは刃を入れるだけで自然と裂けていき、もはや手をかけるまでもない。

『晋書』巻三十四「杜預伝」より

まさにその言葉どおり、晋軍は怒涛の進軍を見せ、呉はほとんど抵抗らしい抵抗もないまま崩壊し、翌年280年、孫晧は降伏する

なお、かねてより呉への侵攻を主張していたのは、荊州を守る鎮南大将軍・羊祜(ようこ)であったが、彼の存命中には実現せず、病に倒れる直前に杜預を後継として推挙していた

杜預はその期待に応えて呉を滅ぼし、晋による中国統一を現実のものとした

蜀の滅亡もそうであったが、呉の終焉もまた、最終決戦とは思えないほどあっけないものであった

しかし、これこそが三国時代の結末だったのである

三国時代完結のその後

ついに三国時代は幕を閉じ、歴史の転換点に活躍した杜預も、わずか4年後の284年、63歳でこの世を去る

だが、ようやく訪れた晋の時代も、平穏が長く続くことはなかった

晋の初代皇帝・司馬炎は、天下統一を果たしたのちに政務への関心を失い、各地で反乱が続発した

290年に司馬炎が崩じると、後継を巡る司馬一族の内紛が始まり、国は再び不安定な時代へと傾いていく

やがてこの争いは、「八王の乱」と呼ばれる深刻な内乱へと発展する



 

 


魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した

現代中国の「地図」が暴く、清が行った“民族統治”とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある


● 清の支配領域から読み解く「現代中国」

清の支配領域は大きく2つに区分できます
一つは東部の直轄領、もう一つは西部の藩部です
この2つの地域は政治・社会体制が大きく異なっており、清ではこれに応じた柔軟な支配で臨みます

まず、直轄領は漢民族を中心とした農耕民が多く、これには中国の伝統に倣った地方統治体制(具体的には県→府→省の3単位からなる行政区分)を敷きます
また儒教や科挙といった漢民族の伝統も保護し、いわば清の君主は「中華皇帝」としてこの地では振る舞います

一方、藩部はモンゴル諸部族が割拠し、ここでは「モンゴルのハーン(大カン)」として権威付けを試みます
ここで重要な地域となるのがチベットです
チベットはチベット仏教の発祥地であり、これはモンゴル帝国(元)が保護したことにより、モンゴルの民族宗教としても普及します
現在でも、モンゴル国と内モンゴル自治区のモンゴル人の多数派を占めるのが、このチベット仏教徒なのです

清の君主は、チベット仏教の最高僧であるダライ・ラマを保護し、その宗教的な権威も利用してモンゴル諸族に支配を及ぼしたのです
実際の藩部の支配には、理藩院という機関を設置して統治に当たりましたが、諸族がその支配に服したのも、内陸アジア伝統の政治・宗教的な権威を利用したものだったからです

● 2つの地図を見比べてみよう

このように巧みな多民族統治を実現した清ですが、その統治は現在でも応用されていると言えます
ここで、現在の中華人民共和国の行政区分と見比べてみましょう

すると、省の設置された地域は清の直轄領、自治区が設置された地域は清の藩部をそれぞれ踏襲していることがわかります
現在中国の地方統治にも応用されているのは、清の編み出した統治体制が優れていたことの証左であると言えるでしょう

また、18世紀にかけて全盛期を迎えた清では、人口が3億人を突破し、明代より陶磁器や綿織物、絹織物などの手工業が発達します
乾隆帝の治世(おおむね18世紀の3分の2)における中国のGDDPは、当時の世界の3割を占めるという圧倒的な生産力を誇りました

膨大な人口と他地域を圧倒する産業を抱えた清は、大航海時代を迎えてヨーロッパからやってきた商人にも盛んにこれらの商品を輸出し、18世紀に繁栄を謳歌します
中国は世界的な工業大国となっていますが、これは見方を変えれば、アジアが中心であった18世紀の世界経済に回帰しつつあると考えることもできるでしょう

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDiamond onlineの記事で作りました)

● 清の支配領域から読み解く「現代中国」

清の支配領域は大きく2つに区分できます
一つは東部の直轄領、もう一つは西部の藩部です
この2つの地域は政治・社会体制が大きく異なっており、清ではこれに応じた柔軟な支配で臨みます

まず、直轄領は漢民族を中心とした農耕民が多く、これには中国の伝統に倣った地方統治体制(具体的には県→府→省の3単位からなる行政区分)を敷きます
また儒教や科挙といった漢民族の伝統も保護し、いわば清の君主は「中華皇帝」としてこの地では振る舞います

一方、藩部はモンゴル諸部族が割拠し、ここでは「モンゴルのハーン(大カン)」として権威付けを試みます
ここで重要な地域となるのがチベットです
チベットはチベット仏教の発祥地であり、これはモンゴル帝国(元)が保護したことにより、モンゴルの民族宗教としても普及します
現在でも、モンゴル国と内モンゴル自治区のモンゴル人の多数派を占めるのが、このチベット仏教徒なのです

清の君主は、チベット仏教の最高僧であるダライ・ラマを保護し、その宗教的な権威も利用してモンゴル諸族に支配を及ぼしたのです
実際の藩部の支配には、理藩院という機関を設置して統治に当たりましたが、諸族がその支配に服したのも、内陸アジア伝統の政治・宗教的な権威を利用したものだったからです

● 2つの地図を見比べてみよう

このように巧みな多民族統治を実現した清ですが、その統治は現在でも応用されていると言えます
ここで、現在の中華人民共和国の行政区分と見比べてみましょう

すると、省の設置された地域は清の直轄領、自治区が設置された地域は清の藩部をそれぞれ踏襲していることがわかります
現在中国の地方統治にも応用されているのは、清の編み出した統治体制が優れていたことの証左であると言えるでしょう

また、18世紀にかけて全盛期を迎えた清では、人口が3億人を突破し、明代より陶磁器や綿織物、絹織物などの手工業が発達します
乾隆帝の治世(おおむね18世紀の3分の2)における中国のGDDPは、当時の世界の3割を占めるという圧倒的な生産力を誇りました

膨大な人口と他地域を圧倒する産業を抱えた清は、大航海時代を迎えてヨーロッパからやってきた商人にも盛んにこれらの商品を輸出し、18世紀に繁栄を謳歌します
中国は世界的な工業大国となっていますが、これは見方を変えれば、アジアが中心であった18世紀の世界経済に回帰しつつあると考えることもできるでしょう



 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

ゾンビや吸血鬼といった、死んだはずの者が蘇る怪異は、世界中の神話や伝承に登場する

こうした「死体のような存在」は、ホラー映画やゲームといった創作の世界でも定番の題材となってきた

だが、伝承をひもといてみると、実は死者ではなく、はじめから生きていたとされる者たちも少なくない

そんな「死者に見えて実は生きていた異形の存在たち」を、各地の伝説をもとに紹介していきたい


1. スパルトイ

スパルトイ(Spartoi)は、ギリシャ神話に登場する戦士である

ある時、カドモスという男が部下たちに、泉から水を汲んでくるよう命じたそうだ
ところが、その泉には獰猛な竜が生息しており、哀れにも部下たちは皆殺しにされてしまったという

部下を失ったカドモスは激怒し、報復として竜を抹殺した
すると、そこへ戦の女神「アテネ」が現れ、竜の歯を地面に蒔くことを勧めてきた

言われた通りカドモスが竜の歯を蒔いたところ、驚くべきことに、地面から数人の武装した兵隊たちがニョキニョキと生えてきた

彼らは「スパルトイ」といい、その名は「蒔かれた者」を意味するという
スパルトイたちは即座に殺し合いを始め、最終的に5人が生き残った
カドモスはこの選りすぐりの戦士たちを、部下として迎え入れたとされる

このスパルトイだが、創作の世界では「骸骨の戦士」として描かれることがしばしばある
これは、1963年公開の映画『アルゴ探検隊の大冒険』の影響が大きいとされている

映画内では、地面に蒔かれた竜の歯より生じた、7体の骸骨戦士が登場する

ストップモーション(1コマずつ撮影した映像をつなげて、あたかも動いているように見せる技術)の第一人者、レイ・ハリーハウゼン(1920~2013年)の手腕がいかんなく発揮されており、まるで生きているがごとく動き回る骸骨たちの姿は、まさに圧巻の一言である

2.デュラハン

デュラハン(Dullahan)は、アイルランドに伝わる妖精である

その姿はなんと、「自分の生首」を小脇に抱えているという、大変恐ろしいものだ

アイルランドの作家、トマス・クロフトン・クローカー (1798~1854年)の著作『南アイルランドの妖精物語と伝説』によると、その首は異常に血色が悪く、クリームチーズにブラックプディング(豚の血を腸詰めしたもの)を巻いたようだと形容されている

普通の人間なら、首が切断されてしまえば間違いなく即死するだろう
だがデュラハンは妖怪ゆえに、特有の摩訶不思議な力が働き、生き長らえているのである

伝承によるとデュラハンは、近い内に死ぬ者の前に現れる、いわば死神のような存在であるという

デュラハンはコシュタ・バワー(Coshta Bower)という馬を駆り、ゴロゴロと音を立てながら現れる
この時、うっかり家の戸を開けてしまった者は、タライ一杯分の血を浴びせられるというから堪らない
他にもデュラハンの姿を見た人間は、鞭で目を潰されるという伝承も存在する

このような見た目と行動ゆえに創作の世界では「首無し死体がよみがえった怪物」と設定されることも多い

3.グール

グール(ghoul)は中東に伝わる怪物である]
日本語では食屍鬼(しょくしき)などと訳される

創作においては往々にしてアンデッド(死体の怪物)とされることがほとんどだが、伝承では生ける怪物として語られており、かの『千夜一夜物語』にも登場する由緒ある存在である

グールは主に砂漠に生息し、体色をカメレオンのごとく自在に変えられるとされる
また、変身能力も有しており、ハイエナなどによく化ける

邪悪な怪物であり、旅人を襲ったり、子供をさらって食べてしまう

メスのグールはグーラー(ghulah)と呼ばれ、美女に変身して男を誘惑したのち、いざベッドインというところで正体を現し、男をバリバリと貪り食ってしまうのだという

また、意外なことにグールは卵生の生物であり、子供のグールはグーラーの乳を飲んで育つとされる

このように凶悪な怪物として描かれることの多いグールだが、伝承によっては、人間に親しみを示す例もある
中には人間と結婚して子をもうけたり、イスラム教に改宗したと語られるグールも存在するという

4.ナスナース

ナスナース(Nasnas)またはニスナスは、グールと同じく中東の伝承に登場する怪物である

ペルシャの学者、ザカリーヤー・カズウィーニー(1203~1283年)の著作『被造物の驚異と万物の珍奇』によれば、その姿はなんと「縦に真っ二つに切り裂かれた人間」という、驚愕すべきものである

普通の人間なら、縦に真っ二つになってしまえば確実に死に至る

だが摩訶不思議なことに、ナスナースは問題なく生存しており、それどころか凄まじく俊敏に動き回るという

アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899~1986年)の著作『幻獣辞典』では、胸に顔があり羊のような尻尾を持つタイプや、コウモリの羽が生えたタイプのナスナースが紹介されている

参考 :『ギリシャ神話集』『千夜一夜物語』『幻獣辞典』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

ゾンビや吸血鬼といった、死んだはずの者が蘇る怪異は、世界中の神話や伝承に登場する

こうした「死体のような存在」は、ホラー映画やゲームといった創作の世界でも定番の題材となってきた

だが、伝承をひもといてみると、実は死者ではなく、はじめから生きていたとされる者たちも少なくない


「死者に見えて、実は生きていた」とは非常に不思議で不気味な存在だ



 

 


竜といった想像上の生き物や、古今東西の文学作品に登場する不思議な存在をめぐる120のエッセイを紹介
古今東西の幻獣を掲載

沖縄本島中部に位置する読谷村(よみたんそん)は、座喜味城跡などの歴史遺産や美しいビーチに恵まれ、観光地や移住先としても人気のある地域である

この地は、17世紀初頭に薩摩の琉球侵攻の上陸地とされた歴史を持ち、1993年の大河ドラマ『琉球の風』の舞台にもなった

一方で、太平洋戦争末期には南西部の渡具知(とぐち)の浜からアメリカ軍が上陸し、沖縄戦において激しい戦闘が展開された場所でもある

沖縄戦では、軍人のみならず多数の住民が巻き込まれ、民間人だけでも約9万4千人が命を落としたとされる
この数は、当時の沖縄県の総人口の約4分の1にあたる

こうした民間人戦没者の中には、銃撃や爆撃によってではなく、アメリカ軍に捕まることを極度に恐れ、自ら命を絶った人々や、家族同士で命を奪い合うという悲劇に巻き込まれた者も少なくなかった

その数は約1000人にのぼるとされている

なぜ人々は投降して捕虜となることを拒み、自ら死ぬ道を、さらには大切な家族の命を奪う道を選んでしまったのだろうか

戦時下の情報や教育がいかに人々の判断に影響を与えたのかを見つめ直すとともに、読谷村・チビチリガマで起きた集団死の記録から、戦争の残酷さと平和の大切さについて考えていきたい


天然の防空壕として使用された“ガマ”

「ガマ」とは、沖縄本島の南部によく見られる天然の洞窟(鍾乳洞)である

その多くが古くは風葬の場としても用いられていたが、太平洋戦争末期には防空壕や避難壕として、また時には野戦病院として利用されるようになった

読谷村波平に位置するチビチリガマも、そうしたガマのひとつである

海岸からおよそ600メートル内陸に入った場所にあり、近くにはさらに規模の大きいシムクガマも存在し、直線距離で約1キロメートルほど離れている

沖縄戦は、終戦の約5か月前にあたる1945年3月26日、慶良間諸島へのアメリカ軍上陸によって始まり、4月1日には本島中部の読谷村・渡具知の浜からアメリカ軍の本格的な上陸作戦が開始された

これに先立ち、沖縄本島ではすでに空襲が激化しており、読谷村の住民たちは爆撃のたびにガマへと逃げ込んでいた

特に3月下旬以降は連日昼夜を問わぬ攻撃が続き、村人たちは自宅を離れ、チビチリガマやシムクガマ、あるいは周辺の小さなガマへと避難し、そこで寝泊まりをしていた

当時、チビチリガマには約140人、シムクガマには約1000名もの住民が避難しており、ガマの中は戦火の恐怖に震える人々で埋め尽くされていた

シムクガマよりも海岸から近いチビチリガマには、4月1日の午前9時半から10時頃には、アメリカ軍の兵が到達したといわれている

4月1日のチビチリガマの状況

1945年4月1日午前、チビチリガマに到達したアメリカ兵は、ガマの入り口付近まで降り、日本語で「デテキナサイ、コロシマセン」と呼びかけたという

当時の日本で推進されていた「軍国教育」は離島の沖縄でも行われており、鬼畜と教え込まれていたアメリカ兵が突然接近してきたことに、住民たちはパニックを起こした

その場で、1人の若い女性が「恐れるな、竹槍で戦え」と呼びかけたことで、動揺していた住民たちは一時的に落ち着きを取り戻す

避難していた人々は、アメリカ軍が大規模に上陸していた事実を知らず、少数の落下傘部隊が降りてきたのだろうと誤認していた
敵の数は限られているはずだと考えた3人(若い女性1人と高齢の男性2人)が竹槍を手に取り、ガマの入口へ向かった

3人は外にいたアメリカ兵に向かって突撃を試みたが、銃撃を受けて男性2人が重傷を負い、のちに死亡したとされる

アメリカ軍はチビチリガマ内の避難者の保護を一旦諦めて、投降を促すチラシとともに、缶詰やチョコレート、タバコなどを置いていった

アメリカ軍がガマの外から去った後、南方から帰還した元日本兵だという高齢の男性が「サイパンでは皆こうして自決した」と言って、持ち込んだ布団を燃やそうとした

だが、幼い子をつれて避難していた4人の女性が、慌てて火を消したという

4月2日のチビチリガマの状況

翌4月2日の午前8時頃、再びアメリカ兵がチビチリガマにやって来た

今度は武器を携えず、丸腰のままガマの中に入り、身振りを交えながら住民に投降を促したという
ガマの入り口には、投降を呼びかける内容のチラシや、缶詰・チョコレート・タバコなどが残された

しかし、前日に自決を試みた元日本兵とされる男性は、ガマ内で混乱する住民たちに「出れば殺されるぞ」と繰り返し訴え、配布されたチラシを「見てはいけない」と言って回収して回った

逃げ場をなくした人々で過密状態になっていたチビチリガマの中には、動揺と混乱、そして絶望が広がっていった

「自決する派」と「投降する派」で、意見の対立が生まれていたとされる

再び元兵士が「昨日のうちに死んでおくべきだった」と呟きながら、持ち込んでいた布団に火を放とうとしたが、4人の母たちがまたその火を消した

それでも、「捕まれば乱暴され、殺される」といった恐怖がガマの中に強く根づいており、住民たちのあいだには「ここで命を絶つべきだ」とする空気がじわじわと広がっていった

当時の人々の判断を、現代の価値観で一概に断じることはできない

戦時下の教育と情報統制の中で育った人々にとって、投降を拒むという選択は、むしろ「当然」とされる行動でもあったのだ

チビチリガマの集団死

騒然とするチビチリガマの中では、やがて極限の恐怖と絶望のなかで、悲劇的な行動が相次いだ

証言によれば、1人の若い女性が母親に感謝の言葉を述べた後、「殺してほしい」と静かに頼んだという
母親は娘の願いに応え、手にした包丁で娘の首を刺し、さらにその弟にも手をかけたとされている

また、ある女性は満州で従軍看護婦をしていたが、この時は偶然帰国しており、家族と共にチビチリガマに避難していた

彼女は、満州で民間人女性がいかに惨い仕打ちを受けたかを語り、手持ちの毒薬を親族や知人に注射して、最後は自らに注射して絶命した

毒薬を注射されて静かに死んでいく彼女らを見て、注射を打ってもらえなかった周囲の人々は「あんなに楽に死ねるなんて」と羨んだ

やがてガマ内には、持ち込まれた布団や衣類に石油がまかれ、火が放たれた
洞内には炎と煙が充満し、避難者たちは逃げ場のない中で次々と命を落としたという

こうしてチビチリガマに避難していた約140名中、83名が命を落とし、前日に竹やりで突撃後亡くなった2名を加えて、犠牲者は85人となった

そしてそのうちの半数以上が、まだ18歳以下の子供だった

一方で、煙に巻かれて苦しみながら死ぬより、外に出てアメリカ兵に殺された方がマシだと考え、ガマの外へ出た者もいた

彼らはアメリカ軍によって保護され、捕虜収容所へと移送されて生き延びた

避難者全員が助かったシムクガマ

チビチリガマからおよそ1キロメートル離れた場所にあるシムクガマにも、当時約1000人の読谷村住民が避難していた

しかし、避難者の命は1人も失われることなく、アメリカ軍に保護されて収容所へと移送されている

2つのガマの運命を分けたのは、アメリカ軍に対する認識の違いと英語力だった
アメリカ軍は、4月1日にチビチリガマに投降を呼びかけた後、シムクガマにも投降を呼びかけている

シムクガマ内でもチビチリガマと同じように「投降せず自決するべき」という空気が広まり、シムクガマの警備にあたっていた少年たちが竹やりを持ってアメリカ兵に突撃しようとしたが、2人の人物がそれを止めたのだ

その2人とは、ハワイ移民からの帰国者である、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(同63歳)であった

アメリカ暮らしの経験を持つ彼らは、日本の軍国教育を本土ほどには受けておらず、英語も理解できた
2人は沖縄の方言で「アメリカ人は民間人を殺さないよ」と避難者を諭し、自ら先にガマの外に出て、アメリカ兵と直接対話した

彼らが英語で投降の意志を伝えたことで、アメリカ側も敵意がないことを理解し、ガマの中の住民たちは無事に保護された

その結果、シムクガマに逃げ込んでいた住民は、全員がアメリカ軍に捕虜として救出され、後に読谷村に帰ることができたのである

戦後、しばらく黙されたチビチリガマの惨劇

沖縄戦では、チビチリガマでの犠牲を含め、兵士と民間人あわせて1000名以上が「集団自決」に追い込まれたとされる
しかし戦後、読谷村の住民たちは、このガマで起きた悲劇について語ることを避けるようになった

終戦後、読谷村一帯はアメリカ軍の管理下に置かれ、チビチリガマの存在も次第に人々の記憶から遠のいていった
ガマの内部には遺骨や遺品が放置されたままとなり、一時は地域のゴミ捨て場として扱われていたとも言われている

その沈黙を破ったのが、1983年にノンフィクション作家・下嶋哲朗氏によって行われた現地調査である
この調査を機に、チビチリガマでの集団死の実態が公に知られるようになった

1987年には、遺族らの手によってガマの入り口に「チビチリガマ 世代を結ぶ平和の像」が建立され、慰霊と記憶の継承を目的とした供養の場が整えられた
しかし、この像は設置された同年、政治的な動機によって一度破壊されるという事件に見舞われた

さらに2017年9月には、当時の出来事をよく知らなかった若者4人が、肝試し目的でガマを訪れ、「平和の像」を囲む石垣を壊し、内部の瓶や壺、千羽鶴を荒らすなどの行為に及んだ

現在チビチリガマは、遺族会の意向により内部への立ち入りは原則として禁止されている
ただし、入り口付近までは訪れることができ、「平和の像」や慰霊碑などを静かに見守ることが可能である

この地を訪れる際には、ここが多くの命が失われた場所であることを心に留め、節度を持って慰霊の気持ちをもって接することが求められる

受け継がれる平和を願う心

現在の読谷村は、美しい自然と貴重な文化財、読谷山焼(ゆんたんじゃやき)や、読谷山花織(ゆんたんざはなうい)などの伝統産業とともに、沖縄上陸戦の入り口となった場所として、平和と命の大切さを語り継ぐ地となっている

村内でも、実際に戦争を体験した世代は年々少なくなりつつあるが、平和を願う心を祖父母から父母、父母から孫へと、次の世代に伝える努力が絶えず続けられている

チビチリガマの平和の像を壊した少年たちは、過去の出来事を学んで自分たちの無知を反省し、犠牲者の鎮魂のための野仏を制作するなどして、心を改めたという

多くの犠牲者を出したチビチリガマと、全員が助かったシムクガマの明暗を分けたのは、より正確な情報と意思の伝達手段を知っている人物が、その場にいたかどうかだった

80年前とは異なり、今は様々な情報や意見を簡単に知れる時代だが、自らの意思で選択して得ようとしなければ、どんな知識や情報も自分のものにはならないだろう

「戦争はよくない」という言葉にとどまらず、なぜ戦争が良くないのか、平和な日常を守るためにはどうすればよいのかを考えていくことが、今を生きる私たち一人ひとりにとって大切なのではないだろうか

参考 :
下嶋 哲朗 (著)『沖縄・チビチリガマの集団自決』
読谷村観光協会公式HP
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

沖縄はある意味、第2次世界大戦の大きな被害者ですね


沖縄本島中部に位置する読谷村(よみたんそん)は、座喜味城跡などの歴史遺産や美しいビーチに恵まれ、観光地や移住先としても人気のある地域である

この地は、17世紀初頭に薩摩の琉球侵攻の上陸地とされた歴史を持ち、1993年の大河ドラマ『琉球の風』の舞台にもなった

一方で、太平洋戦争末期には南西部の渡具知(とぐち)の浜からアメリカ軍が上陸し、沖縄戦において激しい戦闘が展開された場所でもある

沖縄戦では、軍人のみならず多数の住民が巻き込まれ、民間人だけでも約9万4千人が命を落としたとされる
この数は、当時の沖縄県の総人口の約4分の1にあたる

こうした民間人戦没者の中には、銃撃や爆撃によってではなく、アメリカ軍に捕まることを極度に恐れ、自ら命を絶った人々や、家族同士で命を奪い合うという悲劇に巻き込まれた者も少なくなかった

その数は約1000人にのぼるとされている

なぜ人々は投降して捕虜となることを拒み、自ら死ぬ道を、さらには大切な家族の命を奪う道を選んでしまったのだろうか

戦時下の情報や教育がいかに人々の判断に影響を与えたのかを見つめ直すとともに、読谷村・チビチリガマで起きた集団死の記録から、戦争の残酷さと平和の大切さについて考えていきたい


沖縄戦では、チビチリガマでの犠牲を含め、兵士と民間人あわせて1000名以上が「集団自決」に追い込まれたとされる
しかし戦後、読谷村の住民たちは、このガマで起きた悲劇について語ることを避けるようになった

終戦後、読谷村一帯はアメリカ軍の管理下に置かれ、チビチリガマの存在も次第に人々の記憶から遠のいていった
ガマの内部には遺骨や遺品が放置されたままとなり、一時は地域のゴミ捨て場として扱われていたとも言われている

その沈黙を破ったのが、1983年にノンフィクション作家・下嶋哲朗氏によって行われた現地調査である
この調査を機に、チビチリガマでの集団死の実態が公に知られるようになった

1987年には、遺族らの手によってガマの入り口に「チビチリガマ 世代を結ぶ平和の像」が建立され、慰霊と記憶の継承を目的とした供養の場が整えられた
しかし、この像は設置された同年、政治的な動機によって一度破壊されるという事件に見舞われた

さらに2017年9月には、当時の出来事をよく知らなかった若者4人が、肝試し目的でガマを訪れ、「平和の像」を囲む石垣を壊し、内部の瓶や壺、千羽鶴を荒らすなどの行為に及んだ

現在チビチリガマは、遺族会の意向により内部への立ち入りは原則として禁止されている
ただし、入り口付近までは訪れることができ、「平和の像」や慰霊碑などを静かに見守ることが可能である

この地を訪れる際には、ここが多くの命が失われた場所であることを心に留め、節度を持って慰霊の気持ちをもって接することが求められる

受け継がれる平和を願う心

現在の読谷村は、美しい自然と貴重な文化財、読谷山焼(ゆんたんじゃやき)や、読谷山花織(ゆんたんざはなうい)などの伝統産業とともに、沖縄上陸戦の入り口となった場所として、平和と命の大切さを語り継ぐ地となっている

村内でも、実際に戦争を体験した世代は年々少なくなりつつあるが、平和を願う心を祖父母から父母、父母から孫へと、次の世代に伝える努力が絶えず続けられている

チビチリガマの平和の像を壊した少年たちは、過去の出来事を学んで自分たちの無知を反省し、犠牲者の鎮魂のための野仏を制作するなどして、心を改めたという

多くの犠牲者を出したチビチリガマと、全員が助かったシムクガマの明暗を分けたのは、より正確な情報と意思の伝達手段を知っている人物が、その場にいたかどうかだった

80年前とは異なり、今は様々な情報や意見を簡単に知れる時代だが、自らの意思で選択して得ようとしなければ、どんな知識や情報も自分のものにはならないだろう

「戦争はよくない」という言葉にとどまらず、なぜ戦争が良くないのか、平和な日常を守るためにはどうすればよいのかを考えていくことが、今を生きる私たち一人ひとりにとって大切なのではないだろうか


 

 


沖縄の村人たちの憩いの場であった鍾乳洞=ガマ.太平洋戦争はこの平和なガマを一転して地獄に変えた.1945年4月,多数の村人たちがチビチリガマで“集団自決”した.この悲惨な戦争体験の真相から何を学びとるか

哲学とは、理性を通じて真理を追求する学問である

その探究の中で、哲学者たちが用いる方法のひとつが、「思考実験」と呼ばれるものである
これは、現実には起こりえないような極端な状況や仮定を設定し、それを通して物事の本質に迫ろうとする試みである

こうした思考実験には、しばしば我々の日常感覚から大きく逸脱した存在が登場する
それらは現実世界には存在しないが、哲学的問いを際立たせるために不可欠な「異系の存在」とも言える

そうした哲学的思索の中に現れる「異系の存在」たちをいくつか紹介したい

1.スワンプマン

スワンプマン(Swampman)は、アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソン(1917~2003年)が提唱した思考実験にて登場する存在である

デイヴィッドソンは、次のような仮定を提示した

(意訳・要約)

たとえば、この私デイヴィッドソンが、沼地に生えた枯れ木の横にいたとする。
その枯れ木に雷が落ち、近くに立っていた私は感電し、分子分解されて死んでしまう。

ところがここで凄まじい偶然が起こり、なんと枯れ木が、私とまったく同じ姿形に変化してしまったではないか。

このスワンプマンとも呼称できる私のコピーは、生前の私とまったく同じ生活パターンを送る。
私の友人や家族は、私がスワンプマンに置き換わっていることに、全く気づくことはないだろう。

だがこのスワンプマンは、そもそも意識や自我と呼べるものは持っておらず、私の行動を機械的になぞるだけの存在にすぎない。

現在、一般的に知られるスワンプマンは、デイヴィッドソンの提唱したものと多少異なり、

「ある男が沼で雷に打たれ死ぬ → それと同時に沼に雷が落ちる → 男の複製体が沼から這い出してくる」

というアレンジが加えられている

スワンプマンとそのコピー元である人間は、はたして同一人物なのかどうか、というのがこの思考実験のテーマである

・雷に打たれた時点で男の意識は消えているので、スワンプマンは別人である
・他者から見れば違いはないので、同一人物である

など、様々な見解がある

しかしデイヴィッドソン自身は、意識とはその人自身の「経験の積み重ね」であるとの考えから、枯れ木以前の過去がないスワンプマンを同一人物とは認めていない

2.欺く神/悪しき霊

欺く神(Dieu trompeur)と悪しき霊(Genius malignus)は、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596
~1650年)が著した哲学書『省察』に登場する、思考実験上の仮想的存在である

デカルトは敬虔なキリスト教徒でありながら、理性を用いて神の存在や真理を証明しようとした哲学的探究者でもあった

彼は「方法的懐疑」と呼ばれる手法を用い、あらゆるものを徹底的に疑うことによって、確実な真理へと至ろうとした

この懐疑の過程において、デカルトは「欺く神」という想定を導入する

すなわち「この世界に存在するすべては、神のような絶対的な存在によって意図的に作られた幻想かもしれない
我々が見聞きしているもの、数学的な真理さえも、錯覚として与えられている可能性はないだろうか」という仮定である

のちにこの仮定は、より精密な形で「悪しき霊(Genius malignus)」という存在に置き換えられる
これは、我々を常に欺こうとする強力な知性体が存在し、あらゆる認識を誤らせているかもしれないという想定である

このような極限まで疑う姿勢を経た末に、デカルトはたったひとつ、疑いえないものを見出す

それが「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum)という命題である

たとえすべてを欺かれていたとしても、「疑っている私の意識だけは確かに存在している」という結論に達したのだ

その後デカルトは、理性に基づいて神の存在を証明し、真の神は欺くことのない善なる存在であると結論づける

ゆえに、悪しき霊のような存在は神のもとで排除され、我々の知覚する世界もまた、信頼に足るものであると見なされたのである

3.哲学的ゾンビ

哲学的ゾンビ(P-zombie)は、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズ(1966年〜)が提唱した思考実験に登場する存在である

一般に「ゾンビ」といえば、人間を襲う腐乱死体のような怪物を想像するが、哲学的ゾンビはまったく異なる
外見も行動も、我々と区別がつかないほど“普通の人間”であり、社会生活を支障なく送っている

しかしこのゾンビには、意識や感情といった内面的な要素、いわゆる「クオリア」が一切存在しない

嬉しいときには笑い、悲しいときには涙を見せるが、それらはすべて外的刺激に対する反応であり、内面に何かを「感じている」わけではない

言い換えれば、哲学的ゾンビは、人間の行動を完璧に模倣するプログラムにすぎない
頭の中には、喜びも苦しみも、主観的な世界もない。ただ機械的に振る舞うだけの存在である

この思考実験は、「心とは脳の電気信号による物理現象にすぎない」とする立場への反論として考案された

もし心が物理現象だけで説明できるなら、外見も行動も人間と同じで、なおかつ意識だけを持たない存在など、成立するはずがない
ところが哲学的ゾンビが理屈の上では成立する以上「心には、物理法則だけでは捉えきれない側面がある」と、チャーマーズは考えたのである

チャーマーズはこのようにして、「意識のハードプロブレム」と呼ばれる問題を提起した

現在、哲学者の多くは実際に哲学的ゾンビが存在すると考えているわけではない
だが、「心とは何か」という問いに明確な答えが出ない限り、その可能性を完全に退けることもできない

あるいは私たちの身近にも、何かを「感じている」ように見えて、実は何も感じていない存在が混じっているのかもしれない

参考 : 『Knowing One’s Own Mind』『省察』『The Conscious Mind』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

哲学とは、理性を通じて真理を追求する学問である

その探究の中で、哲学者たちが用いる方法のひとつが、「思考実験」と呼ばれるものである
これは、現実には起こりえないような極端な状況や仮定を設定し、それを通して物事の本質に迫ろうとする試みである

こうした思考実験には、しばしば我々の日常感覚から大きく逸脱した存在が登場する
それらは現実世界には存在しないが、哲学的問いを際立たせるために不可欠な「異系の存在」とも言える


哲学とは不思議で深遠だ


 

 


デカルトの「省察 」を理解する手引きにも

かつてアメリカに、7度も雷に打たれながら生き延びて、「人間避雷針」と呼ばれた男がいたことをご存じだろうか

彼の名は、ロイ・サリヴァン(Roy Cleveland Sullivan)

統計上、アメリカ国内で80年の人生を送った人が一度でも雷に打たれる確率は、およそ1万〜1.5万分の1とされるが、それが7回ともなれば、1億分の1をはるかに下回る非常に稀な事例となる

サリヴァンは初めて被雷してから約35年のあいだに、計7回の落雷を受けたという
しかも、いずれの落雷でも大きな後遺症を残さず、生還している

だが、その最期は雷によるものではなかった

「雷が最も多く当たった人」というギネス記録を持つ男、ロイ・サリヴァンの数奇な人生に触れていきたい


1度目の被雷

記録上、ロイ・サリヴァンが初めて雷に打たれたのは、1942年4月のこととされている

彼は1912年、バージニア州グリーン郡に生まれ、30歳の当時は、同州のシェナンドー国立公園で公園監視員として勤務していた

もともとバージニア州はアメリカ国内でも特に雷が多い地域で、年間で平均35日から45日ほど雷雨が発生するという

その日、サリヴァンは仕事中に雷雨に見舞われ、雨宿りするために国立公園内に建つ、火の見櫓(みやぐら)に避難した

しかし、その火の見櫓は当時建設されたばかりで、避雷針が設置されていなかった

周囲より高くそびえる構造だったために何度も雷が直撃し、サリヴァンによれば「櫓の内部には火花が飛び交っていた」という

やがて火の見櫓は出火し、サリヴァンはあわてて外へ逃げ出した

だがその直後、彼自身に雷が落ち、右足と靴が焼け焦げた
この時の被雷で、彼は右足の親指の爪を失っている

実はサリヴァンは後に、「実際にはそれ以前にも雷に打たれたことがある」と語っている
幼い頃、父親の農作業を手伝っていた際、小麦刈り用の鎌の刃に、雷が落ちたというのだ

幸いその時は怪我を負わなかったものの、記録として残す術がなかったため、公的には1942年の被雷が“最初”として扱われている

2度目と3度目の被雷

最初の被雷から27年後の1969年7月、サリヴァンは再び雷に打たれた

57歳になっても公園監視員として勤務を続けていた彼は、その日トラックで山道を走行中だった

通常、雷に対して車の中は安全地帯とされている
仮に車に雷が落ちたとしても、その電流は金属製の車体表面を伝っていくため、金属製の部分に触れてさえいなければ車内にいる人間が感電する可能性は低いという

しかしこのときは、まるで隙間を狙ったかのように、雷は近くの木に落ちた後、開いた窓から車内へ入り込み、サリヴァンの頭部を直撃した

彼はその場で意識を失い、髪は焼け、眉とまつ毛も失われた
トラックは制御不能になって走り続けたが、奇跡的に崖際で停車したため、九死に一生を得た

さらに1年後の1970年7月、サリヴァンは3度目の被雷に遭う

このときは休暇中で、自宅の前庭にいたところ、近くの変圧器に落ちた雷が左肩に伝わり、火傷を負ったという

4、5、6度目の被雷

自宅での被雷から約2年後の1972年春、国立公園内のレンジャーステーションで作業中だったサリヴァンに、4度目の雷が落ちた

落雷の影響で髪に火が点いてしまったため、サリヴァンは上着で消火を試みたが、消えなかった

そこで今度はトイレに駆け込んで水をかけようとしたが、水道の蛇口の下に頭が入らず、タオルを濡らして頭に被ってようやく火を消した
これ以降、彼は水差しを持ち歩くようになった

4度目の落雷は、サリヴァンの肉体だけでなく精神にもダメージを与えた

彼は次第に、「何か目に見えない力が自分を狙っているのではないか」という不安にとらわれるようになり、雷の被害が他人に及ぶことを恐れて、人混みを避けるようになった

雷雲に遭遇したときは車を止め、助手席に身を横たえて、嵐が過ぎるのをじっと待ったという

元来、屈強な体と自然を愛する心を持ち、誇りを持って公園監視員を務めていたサリヴァンだったが、幾度も雷に打たれれば不安になるのも当然のことである

しかし雷は、彼を見逃してくれることはなかった

4度目の被雷から1年半以上が経過した1973年の8月7日、なんと5度目の落雷がサリヴァンを襲った

その日、国立公園内をパトロール中だったサリヴァンは、不穏な雲が空を覆っているのを見つけて、すぐさま逃げるように車を走らせた

しばらく走った後、ようやく嵐の雲から逃げ切ったと思い、車から降りた直後に、雷がサリヴァンの左半身を直撃したのである

電流は左腕と左足を伝い、靴を吹き飛ばし、さらに右足の膝下まで走った
サリヴァンはその一部始終を、自らの目で見ていたという

幸い意識を失うことはなかったため、彼はトラックまで這って戻り、常備していた水差しの水を頭からかぶって燃える髪を消火し、命をつないだ

6度目の落雷は、それから約3年後の1976年6月5日に起きた

その日もサリヴァンは、まるで自分を追ってくるかのような雲から逃げようとしたが、結局逃げきれず、落雷によって足首を負傷し、髪の毛もまた燃え上がったという

7度目の被雷
サリヴァンにとって最後となった7度目の落雷は、彼が釣りをしていた最中に起きた

1977年6月25日
65歳になったサリヴァンは、1年前に公園監視員を退職しており、その日は淡水の池にボートを浮かべて、マス釣りを楽しんでいた

だが穏やかな余暇は、突如として断ち切られる
彼の頭上に、またもや雷が落ちたのである

落雷の衝撃でボートから吹き飛ばされたサリヴァンは、髪に火がつき、胸と腹に火傷を負った
それでも何とか岸まで泳ぎ、自分の車にたどり着いた

だが、さらなる予期せぬ出来事が、彼を待ち受けていた

なんと、釣り糸にかかったマスを狙って一頭のクマが接近してきたのである

雷に焼かれ、満身創痍の状態だったサリヴァンにとっては、あまりにも理不尽な追い打ちだった

しかし、幾度も雷に打たれながら、定年まで公園監視員の仕事を務め上げたサリヴァンにとっては、クマなど恐るるに足りない存在だったのだろう

サリヴァンはその場に落ちていた木の枝でクマを追い払い、見事に生還したという

雷に打たれたのは記録上7度目、経験上では8度目のことだったが、棒切れでクマに立ち向かったのは通算22度目だったと、後のインタビューで語っている

雷に愛された男の悲劇的な最期

幾度となく死の危機をくぐり抜け、「人間避雷針」と呼ばれて知られるようになったロイ・サリヴァン

しかし、7度の落雷という前代未聞の体験は、彼に名声とともに深い孤独をもたらした

友人や家族は天候が悪化し始めると、落雷を恐れてサリヴァンから物理的に距離を取るようになっていった

実際、彼の妻もかつて一度、裏庭で洗濯物を干していた際に落雷を受けたことがある
幸い命に別状はなかったが、そのときサリヴァンはすぐに対応し、事なきを得たと伝えられている

奇跡的な確率で生き続けていたサリヴァンだったが、1983年9月28日、71歳の時に、自宅で自ら頭部を拳銃で撃ち抜き、息絶えているところを発見された

その動機については諸説あり、「報われぬ恋に苦しんでいた」との証言のほか、「家庭不和による心労」とする見方もあるが、真相は明らかになっていない

彼は現在、バージニア州オーガスタ郡のエッジウッド墓地に埋葬されており、墓碑にはこう刻まれている

WE LOVED YOU, BUT GOD LOVED YOU MORE
(私たちはあなたを愛していましたが、神はあなたをもっと愛していました)

サリヴァンが雷に打たれた際にかぶっていた、焦げ跡の残る2つのレンジャー帽は、現在もニューヨーク市とサウスカロライナ州のギネス世界記録展示ホールに所蔵されている

参考 :
David Queirolo (著)『Sugarpine Chronicles』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

かつてアメリカに、7度も雷に打たれながら生き延びて、「人間避雷針」と呼ばれた男がいたことをご存じだろうか

彼の名は、ロイ・サリヴァン(Roy Cleveland Sullivan)

統計上、アメリカ国内で80年の人生を送った人が一度でも雷に打たれる確率は、およそ1万〜1.5万分の1とされるが、それが7回ともなれば、1億分の1をはるかに下回る非常に稀な事例となる

サリヴァンは初めて被雷してから約35年のあいだに、計7回の落雷を受けたという
しかも、いずれの落雷でも大きな後遺症を残さず、生還している

だが、その最期は雷によるものではなかった


雷に打たれたのは記録上7度目、経験上では8度目のことだったが、棒切れでクマに立ち向かったのは通算22度目だったと、後のインタビューで語っている

雷に打たれた数も凄いが、棒切れでクマに立ち向かったのは通算22度目も凄い


ある意味、雷に「愛された男」・・・
しかし、その最期はまさかだった・・・


雷に愛された男の悲劇的な最期

幾度となく死の危機をくぐり抜け、「人間避雷針」と呼ばれて知られるようになったロイ・サリヴァン

しかし、7度の落雷という前代未聞の体験は、彼に名声とともに深い孤独をもたらした

友人や家族は天候が悪化し始めると、落雷を恐れてサリヴァンから物理的に距離を取るようになっていった

実際、彼の妻もかつて一度、裏庭で洗濯物を干していた際に落雷を受けたことがある
幸い命に別状はなかったが、そのときサリヴァンはすぐに対応し、事なきを得たと伝えられている

奇跡的な確率で生き続けていたサリヴァンだったが、1983年9月28日、71歳の時に、自宅で自ら頭部を拳銃で撃ち抜き、息絶えているところを発見された

その動機については諸説あり、「報われぬ恋に苦しんでいた」との証言のほか、「家庭不和による心労」とする見方もあるが、真相は明らかになっていない

彼は現在、バージニア州オーガスタ郡のエッジウッド墓地に埋葬されており、墓碑にはこう刻まれている

WE LOVED YOU, BUT GOD LOVED YOU MORE
(私たちはあなたを愛していましたが、神はあなたをもっと愛していました)

サリヴァンが雷に打たれた際にかぶっていた、焦げ跡の残る2つのレンジャー帽は、現在もニューヨーク市とサウスカロライナ州のギネス世界記録展示ホールに所蔵されている



 

 


「ゴロゴロ」と雷鳴轟き、「ピカッ」と稲光でお馴染みの雷に関する56のクエスチョンに、雷研究の最前線にいる3名がわかりやすく回答します
雷の性質や特徴、その多様さから、体・モノを守る手段や利用する技術、文化的なアプローチまで、雷のすべてがわかります

吉原の火事を消すのはバカのやることだ

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の、初回放送を覚えていますか

第1回「ありがた山の寒がらす」では、1772年(明和9年)に起きた「明和の大火」の場面から物語が始まりました

明和の大火は、江戸三大大火の一つに数えられる大災害で、目黒の大円寺から出火し、3日間にわたって江戸市中の大半を焼き尽くしました

焼失した町は934町に及び、大名屋敷は169カ所、寺院は382カ所が被害を受けました
江戸の名所とされた由緒ある寺社、山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺も焼失しています

死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えるなど、甚大な人的被害をもたらした大火でした

この火災は、もちろん吉原遊郭にも及び、遊郭全体がほぼ全焼するという憂き目にあいました

実は吉原遊郭は、江戸時代を通じて何度も火災で全焼しています

日本橋にあった時代を含め、約200年の間に20回前後の火災に見舞われたという記録が残っているのです

明和の大火のような類焼による被害も多かったのですが、遊女による放火も多発していたと言われています

ただし吉原に限っては、「火事と喧嘩は江戸の花」とうたわれた江戸の町にあっても、火消したちは真剣に消火活動にあたることはありませんでした

むしろ火消したちは、「吉原の火事を消すのはバカのやることだ」とまで言っていたのです

吉原が燃え尽きることで利益を得た人々

火消しが吉原の消火活動に本気で取り組まなかったのは、江戸時代特有の社会的システムによるものと考えられます

このシステムには、言うまでもなく金銭が絡んでいました

つまり、吉原が焼けるたびに、その関係者たちが大きな利益を得ていたのです

利益を得たのは、妓楼を経営する主人、材木商をはじめとする商人たち、さらには、火を消す役目である火消しや、彼らを管轄する町奉行所の役人たちにまで及びました

吉原全焼の裏には汚らしい金が存在した

幕府公認の遊郭である吉原は、全体の揚げ代の約1割という莫大な冥加金を幕府に納めていました

この上納金は幕府にとって重要な財源であったため、吉原の衰退は幕府にとっても不都合なものだったのです

そのため、吉原が全焼すると、幕府は代替地を与え、そこでの仮営業を許可しました
この仮営業の期間中、吉原側は幕府への上納金が免除されます

浮いた経費を使って、妓楼は仮の家屋を建てて営業を行いましたが、その多くは一時しのぎのバラック小屋に過ぎませんでした
それにもかかわらず、やってくる客には通常どおりの代金を徴収していたのです

つまり、代替地での営業は、妓楼の主人にとって非常に「おいしい」商売でした

また、東京ドーム2個分の広さにぎっしりと妓楼建築が立ち並ぶ吉原を復興するには、大量の木材を必要とします
木材を扱う深川木場の材木商たちにとっても、吉原の全焼は大きな儲けのチャンスだったのです

そのため、ふだんから妓楼の主人や材木商たちは、火消しに金品を渡し、火事の際に真剣な消火活動を行わないよう依頼していたといいます

しかし、火消しの本分は火を消し類焼を防ぎ、江戸の町を守ることにありました
もしこのような事実が奉行所に知られれば、命取りにもなりかねません

それを防ぐために、妓楼の主人や商人たちは奉行所の役人にも日ごろから賄賂を渡していました
つまり、妓楼・商人・火消し・役人がグルになって火災の消火を妨げたのです

このように、吉原炎上の背後には、欲にまみれた汚らしい金のやりとり存在していました
結局、火事で泣くのは遊女たちと、逃げ遅れた客くらいでした

こうした実情を知っていた江戸の庶民たちは、吉原の火事を皮肉を込めて「悪火(あくび)」と呼んでいたのです

※参考文献
日本史深堀り講座編 『蔦屋重三郎と江戸の風俗』青春出版社
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「吉原が燃えても誰も消さなかった」火消しが動かなかった衝撃の理由とは

吉原が燃え尽きることで利益を得た人々

火消しが吉原の消火活動に本気で取り組まなかったのは、江戸時代特有の社会的システムによるものと考えられます

このシステムには、言うまでもなく金銭が絡んでいました

つまり、吉原が焼けるたびに、その関係者たちが大きな利益を得ていたのです

利益を得たのは、妓楼を経営する主人、材木商をはじめとする商人たち、さらには、火を消す役目である火消しや、彼らを管轄する町奉行所の役人たちにまで及びました

吉原全焼の裏には汚らしい金が存在した

幕府公認の遊郭である吉原は、全体の揚げ代の約1割という莫大な冥加金を幕府に納めていました

この上納金は幕府にとって重要な財源であったため、吉原の衰退は幕府にとっても不都合なものだったのです

そのため、吉原が全焼すると、幕府は代替地を与え、そこでの仮営業を許可しました
この仮営業の期間中、吉原側は幕府への上納金が免除されます

浮いた経費を使って、妓楼は仮の家屋を建てて営業を行いましたが、その多くは一時しのぎのバラック小屋に過ぎませんでした
それにもかかわらず、やってくる客には通常どおりの代金を徴収していたのです

つまり、代替地での営業は、妓楼の主人にとって非常に「おいしい」商売でした

また、東京ドーム2個分の広さにぎっしりと妓楼建築が立ち並ぶ吉原を復興するには、大量の木材を必要とします
木材を扱う深川木場の材木商たちにとっても、吉原の全焼は大きな儲けのチャンスだったのです

そのため、ふだんから妓楼の主人や材木商たちは、火消しに金品を渡し、火事の際に真剣な消火活動を行わないよう依頼していたといいます

しかし、火消しの本分は火を消し類焼を防ぎ、江戸の町を守ることにありました
もしこのような事実が奉行所に知られれば、命取りにもなりかねません

それを防ぐために、妓楼の主人や商人たちは奉行所の役人にも日ごろから賄賂を渡していました
つまり、妓楼・商人・火消し・役人がグルになって火災の消火を妨げたのです

このように、吉原炎上の背後には、欲にまみれた汚らしい金のやりとり存在していました
結局、火事で泣くのは遊女たちと、逃げ遅れた客くらいでした

こうした実情を知っていた江戸の庶民たちは、吉原の火事を皮肉を込めて「悪火(あくび)」と呼んでいたのです


 

 


歴史は、舞台裏がおもしろい!
弾圧された蔦屋重三郎が仕掛けた「大勝負」の結末は?
蔦重が見出し、育て、稼がせた喜多川歌麿の謎とは?
幕府公認の廓町・吉原って、そもそもどんなところ?
ほか、浮世絵、出版事情、吉原から、芝居、グルメ、ファッションまで・・・“江戸のメディア王”が躍動した時代の本当の楽しみ方がわかる本

恐竜界の大ニュース

2025年6月12日、英科学誌『ネイチャー(Nature)』に掲載された1本の論文が、世界中の恐竜研究者や愛好家の注目を集めた

モンゴル南東部で「カンクウルウ(Khankhuuluu mongoliensis)」という名の新種恐竜が発表されたのである

SNSで話題となり、ニュース速報でも報じられたその名は瞬く間に広がり、「新種の恐竜発見」「ティラノサウルスの仲間か」といった見出しが各メディアをにぎわせた

一見すると、珍しいニュースのようだが、実は恐竜の新種発見そのものはそう珍しいことではない

だが今回の発見は、単なる新種の追加にとどまらない

恐竜ファンの筆者も、当初は冷静にニュースを受け止めていたが、公開された研究内容に目を通すうちに、その重要性に驚かされた

今回の記事では、このカンクウルウがなぜ「とんでもない大発見」なのかを、進化の視点から解説していく


記事の違和感とそれ以上の重要性

この発見を世に知らしめたのは、北海道大学の小林快次教授とカルガリー大学のダーラ・ゼレニツキー准教授らによる、国際研究チームの論文発表だった

2025年6月12日、英科学誌『ネイチャー(Nature)』に掲載されたその研究は、モンゴル南東部で発見された獣脚類の化石について、新属新種「カンクウルウ・モンゴリエンシス(Khankhuuluu mongoliensis)」として記載する内容だった

発見された恐竜は全長約4メートル
体重500キログラム未満とされ、ティラノサウルス類としては中型に分類される
その外見は小型で華奢だが、系統上の位置づけは極めて重要だ

研究によれば、カンクウルウはティラノサウルス・レックスやタルボサウルスといった、“超大型ティラノサウルス類”が登場する直前の段階に位置づけられ、これまで謎とされてきた「進化の空白」を埋める存在だという

発表内容を読んだ当初、筆者が感じたのは「どこか控えめに書かれているが、実は恐ろしく重要な発見ではないか?」という違和感だった

後に分かったのは、まさにそれが正しかったということだ

大発見である理由

筆者は以前、ティラノサウルス・レックス(T-REX)のアジア起源説に関連して、タルボサウルスを紹介したことがある

『アジアのティラノサウルス?』タルボサウルスとは ~恐竜界を揺るがせた命名論争
https://kusanomido.com/study/fushigi/dinosaur/104674/

この記事の末尾で、「T-REXのルーツがアジアから見つかる可能性は大いに夢がある」と述べた

つまり、かねてより一部の研究者が提唱してきた「ティラノサウルス類は、アジアから北米にわたって巨大化した」とする仮説を、具体的な化石証拠で裏付けた点でも、今回の発表は画期的だったのだ

いわゆる「ミッシングリンク」がここまで早く発見されるとは思わなかった

カンクウルウは、ティラノサウルス類の進化における「空白地帯」に位置づけられる存在であり、北米のT-REXTや、アジアのタルボサウルスといった巨大肉食恐竜に至るまでの進化過程に、具体的なつながりをもたらすものといえる

ただし、誤解してはならないのは、カンクウルウは直接のT-REXの祖先というわけではないという点だ

カンクウルウの生息年代は、約8600万年前
一方、タルボサウルスやT-REXが繁栄したのは、それよりおよそ2000万年後の時代であり、両者の間には大きな時間的隔たりがある
また、カンクウルウ自身が北米に渡ったという証拠も、今のところ確認されていない。

とはいえ、カンクウルウのような中間型ティラノサウルス類が、後の大型種につながる“系統の流れ”の中にいたことは確かであり、その発見は、アジアから北米への分散と大型化を伴う進化シナリオを強く補強するものとなった

まだ「進化の空白」がすべて埋まったわけではない

だが、アジア発祥説にとってこれほど説得力のある化石記録が出た意義は大きく、恐竜進化の解明に向けて、確実に一歩が刻まれた瞬間だった

カンクウルウ判明の経緯と特徴

2025年最大級の恐竜発見と称されるカンクウルウだが、実はその存在が明らかになったのは、つい最近のことではない

この恐竜の化石そのものは約50年前、1970年代のモンゴル・ゴビ砂漠の調査で回収されていた

長らく「アレクトロサウルス」と仮に分類されていたが、今回の発見と再検討によって、まったく別の恐竜であることが明らかとなった

そもそもアレクトロサウルスは、1923年に初めて記載されたものの、化石は断片的で、比較できる資料も乏しかった

今回の研究では、既存標本との形態差が精査され、その結果「カンクウルウ・モンゴリエンシス(Khankhuuluu mongoliensis)」という新属新種として正式に命名されたわけだ

名前の由来はモンゴル語で「王子(ханхүү)」と「竜(луу)」を組み合わせたもの
直訳すれば、「モンゴルの王子の竜」となる

つまり、「発見」というより「再評価による再発見」といったほうが正確かもしれない

では、カンクウルウはどのような特徴を持っていたのか

最も注目すべきは、頭部を中心とした骨格に、より進化したティラノサウルス類と共通する特徴が随所に見られる点だ

たとえば、鼻骨には空洞化(含気構造)や縦走する稜(隆起線)が見られ、涙骨や後頭部の形状にも既知の大型種に通じる構造が確認されている

一方で、体格は華奢で比較的小型
成熟個体でありながら“幼さ”が残る構造を備えていた点でも、進化の過程を示す重要な手がかりとなった

そうした中間的な特徴の積み重ねが、まさに「ミッシングリンク」の名にふさわしい存在として、カンクウルウを特別なものにしている

新たなミッシングリンクの判明は案外近い?

一つの恐竜にこれほど多くの進化の要素が詰まっていると、複数の恐竜の化石が合わさった「キメラ恐竜」ではないかと疑う声もあるかもしれない

実際、過去にはティラノサウルス・バタールとして記載されていた標本が、その後の研究で独立した属「タルボサウルス」として再分類された例もあり、カンクウルウについても今後の発見や解析によって覆る可能性はゼロとは言い切れないだろう

とはいえ、T-REXの祖先がアジアで誕生し、地続きだった北アメリカへと渡って巨大化を遂げたという進化の仮説に、カンクウルウという具体的な存在が加わった意義は極めて大きい

これにより、ティラノサウルス類の進化と拡散をめぐるシナリオがより立体的に描けるようになった

カンクウルウが北アメリカに渡ってT-REXの系統へとつながったのか、それともさらに別の派生系統がその後アメリカへと到達したのか、明確な答えが出るには、まだ時間がかかるだろう

それでも、恐竜ファンとして「生きているうちにミッシングリンクが見つかれば御の字」と考えていた筆者にとって、今回の発表はまさに予想外の朗報だった

新たな進化のピースが見つかる日は、意外とすぐそこまで来ているのかもしれない

参考 : 『Voris et al(2025)Nature』『北海道大学 大型ティラノサウルス類の起源と進化の解明』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

2025年6月12日、英科学誌『ネイチャー(Nature)』に掲載された1本の論文が、世界中の恐竜研究者や愛好家の注目を集めた

モンゴル南東部で「カンクウルウ(Khankhuuluu mongoliensis)」という名の新種恐竜が発表されたのである

SNSで話題となり、ニュース速報でも報じられたその名は瞬く間に広がり、「新種の恐竜発見」「ティラノサウルスの仲間か」といった見出しが各メディアをにぎわせた

一見すると、珍しいニュースのようだが、実は恐竜の新種発見そのものはそう珍しいことではない

だが今回の発見は、単なる新種の追加にとどまらない

恐竜ファンの筆者も、当初は冷静にニュースを受け止めていたが、公開された研究内容に目を通すうちに、その重要性に驚かされた


今回、発見されたカンクウルウはT-REXT-の“進化の空白”を埋めるかも・・・

近い将来、上記の空白などが埋まるかもしれない




 

 


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