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メインウェーブ日記

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今年の夏も祇園祭が始まった

今年も7月1日から1ヵ月にわたる、「祇園祭(ぎおんまつり)」が始まった

江戸の「神田祭」、浪花の「天神祭」と並ぶ、日本三大祭りの一つである

「ヨーイ、ヨーイ、エンヤラ、ヤー」

これは、蒸し暑い、炎天下の下、山鉾が町を練り歩く巡行(前祭:17日、後祭:24日)の際に、鉾の車頭に陣取った音頭取りが発する掛け声だ

巨大な山鉾は、大勢の引き手たちが力を合わせて前へと進めていく

扇をかざして引き手を励ます掛け声は、お囃子の「コンコンチキチン、コンチキチン」というリズムとともに、祇園祭の雰囲気を彩る重要な音曲である

鱧を夏の味覚に仕立てた骨切り

「祇園祭」は、俗に「鱧(はも)祭り」とも呼ばれることがある

鱧とは主に関西でお馴染みの、あの胴の長い魚である

地図を見れば一目瞭然だが、京都の中心地は海に面していない
ただ、京都府の北端には若狭の海(日本海)があるので、昔はそこで揚がった鯖(さば)、甘鯛(あまだい・別名:若狭ぐじ)などに塩をした“一塩もの” が一晩かけて運ばれ「若狭もの」として重宝された

そのような中で、生命力の強い鱧は、生きたまま京都に運ぶことができる貴重な魚として親しまれてきた

しかしこの魚、硬い小骨がやたら多く、そのままではとても口に入らない
そのため京阪神以外では、多くがかまぼこの材料とされてきた

ところが京都では、鱧を夏の味覚の王者に仕立てた

それが職人による“骨切り”である

鱧の骨切りは、「一寸を二十四に包丁する」という

その名も“鱧切り包丁”という専用の重い包丁で、身を皮一枚残して、「シャッ、シャッ、シャッ」と小気味よく刻んでいく

その切れ目の理想の間隔は1.2ミリといわれ、これでさしもの小骨も微塵になり、口に入れても当たらなくなるのだ

京の夏に欠かせない鱧料理

鱧は「梅雨の水を飲んで美味しくなる」といわれるように、6月頃から食べ頃を迎える

7月には身が引き締まり、さっぱりとした味わいに
秋を迎える頃には脂がのって、濃厚な旨味へと変化する

「照り焼き」にしてもよし、「椀だね」にしてもよし
しかし、鱧本来の淡泊な味わいをダイレクトに楽しみたいのであれば、「落とし」が一番だろう

骨切りを施した鱧の身を一口大に切り分け、熱湯にさっとくぐらせる
すると皮が縮み、細かく入れた切れ目が開いて、真っ白な花が咲いたような姿になる

これを氷水にとって、涼しげな器に盛りつける
わさび醤油、梅肉、酢味噌などいずれで食べても美味しい

今は、関西以外の地域でも食べられるようになった「鱧の落とし」だが、京の職人の手による鱧の味は格別だ

また、「照り焼き」は「鱧寿司」に仕立てられることが多い

かつては祇園祭が始まると、京都洛中の商家ではお中元として鱧寿司を贈り合う習慣があったという

このように、祇園祭を中心とした京都の夏において、鱧は欠かせない存在なのである

京の秋の入り口、五山の送り火

その鱧に名残を惜しむのが、「大文字」の頃だ

この“送り火”がいつの時代から始められたのかは定かではないが、今では京都の夏になくてはならない行事になっている

8月16日の夜、銀閣寺の奥の如意ヶ嶽に「大」の文字の中心がチカっと光る
見る間に火は、縦横に走り、煙が鎮まるにつれ鮮やかな大文字がくっきりと浮かび上がる

やがて、北の松ヶ崎に「妙」「法」の二字、続いて西賀茂に「船型」、金閣寺の奥の大北山に「左大文字」、最後に上嵯峨水尾山に「鳥居形」が灯る

これが、五山の送り火である

この送り火、赤々と燃え盛る姿より、消えかける風情がよい

火勢がおさまり、衰えながら、それぞれの文字が点々と欠けていく

その情景に「ああ、今年も夏が行く」と都人はしみじみ思うそうだ
火の消えかけた五山から、京の秋はゆっくりと降りてくる

名残の鱧と松茸の出会い

五山の送り火が終わり、9月に入ると、“秋の味覚の王様”と称される「松茸」が登場する

中でも、京都郊外・丹波で採れるものは香り高く、上質な高級品として珍重されている

初秋のわずかなひととき、京の夏を彩った「鱧」と、秋の訪れを告げる「松茸」が出合う
この時期、京都の料理店では、しゃぶしゃぶや土瓶蒸しなどで、「鱧」と「松茸」の絶妙なハーモニーが楽しめる

やがて、京の町から名残の鱧が姿を消し、松茸の香りが漂う頃、足早に秋が深まっていく
京の季節の移ろいは、遅いようで、早い

※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』 メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

京都は中学の修学旅行でしか行ったことがないが、どこか懐かしさを感じる・・・

京都のお祭といえば祇園祭だ・・・

鱧も食べたことがないが、食べてみたいし、五山の送り火も京都を感じる



 

 


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【面白すぎる世界史】中華皇帝とモンゴルのハーン・・・清の支配者が“2つの顔”を持った理由
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある

● 清――満洲人による多民族支配

17世紀初頭に、中国東北部に割拠した女真人が再び台頭を始めます
女真人といえば、12世紀に金という国を建国し、北宋から華北を奪った民族です

その女真人がヌルハチ(在位1616〜1626)という首長によって統一され、金(後金)という国が建国されます
ヌルハチはまた自身の国を「満洲(マンジュ)」と呼び、これ以降に女真人は現在まで満洲人と呼ばれるようになります

ヌルハチの後継者ホンタイジ(在位1626〜1643)は、国号を後金から「清(大清)」に改めます
そして朝鮮半島や内モンゴルを制圧し、いよいよ中国への進出を本格化させます
そうしたなかで1644年に北京で李自成の乱が起き、これにより明は滅亡します

明の滅亡を受け、万里の長城の東端に近い城塞・山海関の守将であった呉三桂は、仕えるべき主君を失ったことで清に降伏し、清の順治帝(在位164〜1661)は長城を突破して北京を占拠します
こうして清は中国の支配を固めます
この順治帝ののち、清では康熙帝(在位166〜1722)、雍正帝(在位1722〜1735)、乾隆帝(在位1735〜1795)と3代の皇帝の治世に全盛期を迎え、後世に「三世の春」と呼ばれました

一方、清は中国だけでなく、モンゴル諸族との抗争にも明け暮れます
なかでも東トルキスタンに割拠したジューンガルという遊牧国家は、清に頑強に抵抗しましたが、康熙帝の攻勢を受け屈服したのを機に、雍正・乾隆の2代をかけて清の支配下に入ります

このように、清は現在の中華人民共和国を中心に、モンゴルなどを併せた広大な領域を支配し、その結果として多民族統治を余儀なくされます

● 清の支配領域から読み解く「現代中国」

清の支配領域は大きく2つに区分できます
一つは東部の直轄領、もう一つは西部の藩部です
この2つの地域は政治・社会体制が大きく異なっており、清ではこれに応じた柔軟な支配で臨みます

まず、直轄領は漢民族を中心とした農耕民が多く、これには中国の伝統に倣った地方統治体制(具体的には県→府→省の3単位からなる行政区分)を敷きます
また儒教や科挙といった漢民族の伝統も保護し、いわば清の君主は「中華皇帝」としてこの地では振る舞います

一方、藩部はモンゴル諸部族が割拠し、ここでは「モンゴルのハーン(大カン)」として権威付けを試みます
ここで重要な地域となるのがチベットです
チベットはチベット仏教の発祥地であり、これはモンゴル帝国(元)が保護したことにより、モンゴルの民族宗教としても普及します
現在でも、モンゴル国と内モンゴル自治区のモンゴル人の多数派を占めるのが、このチベット仏教徒なのです

清の君主は、チベット仏教の最高僧であるダライ・ラマを保護し、その宗教的な権威も利用してモンゴル諸族に支配を及ぼしたのです
実際の藩部の支配には、理藩院という機関を設置して統治に当たりましたが、諸族がその支配に服したのも、内陸アジア伝統の政治・宗教的な権威を利用したものだったからです

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDiamond onlineの記事で作りました)

中華皇帝とモンゴルのハーン・・・清の支配者が“2つの顔”を持った理由

● 清――満洲人による多民族支配

17世紀初頭に、中国東北部に割拠した女真人が再び台頭を始めます
女真人といえば、12世紀に金という国を建国し、北宋から華北を奪った民族です

その女真人がヌルハチ(在位1616〜1626)という首長によって統一され、金(後金)という国が建国されます
ヌルハチはまた自身の国を「満洲(マンジュ)」と呼び、これ以降に女真人は現在まで満洲人と呼ばれるようになります

ヌルハチの後継者ホンタイジ(在位1626〜1643)は、国号を後金から「清(大清)」に改めます
そして朝鮮半島や内モンゴルを制圧し、いよいよ中国への進出を本格化させます
そうしたなかで1644年に北京で李自成の乱が起き、これにより明は滅亡します

明の滅亡を受け、万里の長城の東端に近い城塞・山海関の守将であった呉三桂は、仕えるべき主君を失ったことで清に降伏し、清の順治帝(在位164〜1661)は長城を突破して北京を占拠します
こうして清は中国の支配を固めます
この順治帝ののち、清では康熙帝(在位166〜1722)、雍正帝(在位1722〜1735)、乾隆帝(在位1735〜1795)と3代の皇帝の治世に全盛期を迎え、後世に「三世の春」と呼ばれました

一方、清は中国だけでなく、モンゴル諸族との抗争にも明け暮れます
なかでも東トルキスタンに割拠したジューンガルという遊牧国家は、清に頑強に抵抗しましたが、康熙帝の攻勢を受け屈服したのを機に、雍正・乾隆の2代をかけて清の支配下に入ります

このように、清は現在の中華人民共和国を中心に、モンゴルなどを併せた広大な領域を支配し、その結果として多民族統治を余儀なくされます

● 清の支配領域から読み解く「現代中国」

清の支配領域は大きく2つに区分できます
一つは東部の直轄領、もう一つは西部の藩部です
この2つの地域は政治・社会体制が大きく異なっており、清ではこれに応じた柔軟な支配で臨みます

まず、直轄領は漢民族を中心とした農耕民が多く、これには中国の伝統に倣った地方統治体制(具体的には県→府→省の3単位からなる行政区分)を敷きます
また儒教や科挙といった漢民族の伝統も保護し、いわば清の君主は「中華皇帝」としてこの地では振る舞います

一方、藩部はモンゴル諸部族が割拠し、ここでは「モンゴルのハーン(大カン)」として権威付けを試みます
ここで重要な地域となるのがチベットです
チベットはチベット仏教の発祥地であり、これはモンゴル帝国(元)が保護したことにより、モンゴルの民族宗教としても普及します
現在でも、モンゴル国と内モンゴル自治区のモンゴル人の多数派を占めるのが、このチベット仏教徒なのです

清の君主は、チベット仏教の最高僧であるダライ・ラマを保護し、その宗教的な権威も利用してモンゴル諸族に支配を及ぼしたのです
実際の藩部の支配には、理藩院という機関を設置して統治に当たりましたが、諸族がその支配に服したのも、内陸アジア伝統の政治・宗教的な権威を利用したものだったからです


 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

中国の史書に倭国の情報が途絶える3世紀後半から5世紀初頭までのおよそ150年間を「空白の4世紀」と呼びます
ただ、この150年間は日本列島で政治体制や文化力が劇的に変化した期間ですから、謎のままにしてはおけない重要な世紀なのです

■記録が失われる150年間に何が起きていたのか?

『魏志倭人伝』に記載される邪馬台国の女王台与(壱与)の時代から、5世紀初頭の倭の五王の時代まで、およそ150年間の日本列島の状況がさっぱりわかりません
頼りの中国大陸も戦乱が続いて倭国どころではなかったらしく記録が絶えることと、わが国にはリアルタイムで記された記録が一切ないことがその理由です

しかしながらこの空白の期間には前方後円墳が四方に広がり、大和王権が広がっていく状況証拠がはっきり残っています
つまり、この間の物的証拠は数多くの古墳としてしっかり残されているのです

それなのになぜわからないことだらけなのかというと、まず第一に古墳のほとんどが過去に盗掘されていて、埋納された貴重な副葬品や人骨が失われていること
第二に研究のための発掘や出土した遺物の保護管理や調査のための費用が明らかに足りていないこと
第三に宮内庁管理の大古墳の調査が一切許されていないこと、が大きな理由かと思います
ですからこの重要な空白の期間に埋納された遺物が発見されると、非常に大きな謎解きへの貢献になるのです

例えば日本最大の円墳、奈良県の富雄丸山(とみおまるやま)古墳から出土した、長大で奇妙にうねった形の蛇行剣(だこうけん)と盾型銅鏡は、最重要な出土品だといえます

奈良市西部の富雄丸山古墳は4世紀後半の築造だと考えられています
現在の奈良盆地から河内平野に大古墳が進出する頃の古墳です
世界に例を見ないほど長大な蛇行剣という立派な鞘に納められた鉄剣が、その頃の日本列島内で造られているのです
また同時に出土した、これまでに見たことも無い鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡の素晴らしく精緻な出来栄えはどうでしょう!

この大円墳が大和への出入り口を守るように築かれたころに、大阪府の古市古墳群北端に津堂城山(つどうしろやま)古墳という大型前方後円墳が築造されます
その後、誉田御廟山(こんだごびょうやま 応神天皇陵)古墳などが大阪府藤井寺市と羽曳野市に
同時に堺市に大仙古墳などの百舌鳥古墳群が築かれるのです
まさに大和王権が爆発的に強大化し、日本列島に広く影響力を伸ばしていく姿が残されているのです

とはいうものの、学術調査ができない古墳が多いのは残念ですが、調査された3世紀から5世紀の古墳から出土する副葬品をザっと見てみると、銅鏡主流時代と武具馬具主流時代に分かれるように見えます

4世紀のうちに日本列島にはいなかった馬が登場したのはなぜでしょうか?
朝鮮半島に攻め込んだ歩兵倭軍が敵の騎馬軍団に大敗したことが馬の導入のきっかけではないかという説がありますが、たしかに空白の期間に馬具が一気に多くなります

そして出土品で貴重なのが、埼玉(さきたま)古墳群の5世紀後半の築造と推定される稲荷山古墳から出土した金錯銘文(きんさくめいぶん)鉄剣でしょう
さまざまな説がありますが、115文字に記された銘文から21代雄略天皇の実在を証明するものとして注目されています

鉄剣には大和の大王の近衛隊長のような杖刀人首(じょうとうじんのおびと)を拝命したことを誇らしげに書いています
雄略天皇の時には今の埼玉県の武人が奈良県で近衛兵を務めていたという事でしょうか!

銘文鉄剣といえば奈良県桜井市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝わる国宝七支刀(しちしとう)があります
この七支刀も年代にはさまざまな説があったのですが、最新の調査で判明した有力な説は、西暦369年に百済で製作されて、372年に日本列島にもたらされたという説です

2025年の国立奈良博物館「超国宝」に展示されたのをきっかけに、CTなどを使って詳細な調査がなされました
その結果、年号は「泰和」であることがほぼ確実になったそうですから、もろに空白の4世紀ど真ん中に百済から大和に届けられていることになります

この不思議な形をしてマジカルパワーを秘めた七支刀の銘文からは、当時の百済と大和王権の関係性が推測されるのです

ほかに朝鮮半島の付け根にあった高句麗の好太王碑文(こうたいおうひぶん)も重要な記録です
倭国と呼ばれたわが国の祖先が海を渡って朝鮮半島国家とどんな関係にあったのかが見えるようです

このように誠に断片的に極めてわずかな史料を頼りに歴史学界は研究と推理、仮説と証明を続けているのですが、やはりせっかく残されている古墳群の真摯な学術調査ができればなあ・・・、と思ってしまいますね

つい先日、全国1位の大きさを誇る大仙古墳(仁徳天皇両古墳)の前方部で、明治初期に露出した石棺の調査時に出土した鎧の破片と刀子(とうす)の実物が市中で発見されました
前方部の石棺ですから大仙古墳の主人公ではありませんが、男性の埋葬であろうと思われますし、私が注目するのは「豪華な鞘入り刀子」です常識的には木棺に字の書ける人物である可能性を伺わせます

わが国の国家創造にもっとも重要な期間である150年間をこのまま空白にしておいて良いわけがありません
予算が欲しいですね
そして宮内庁にも協力して欲しいですね

(この記事は歴史人の記事で作りました)

中国の史書に倭国の情報が途絶える3世紀後半から5世紀初頭までのおよそ150年間を「空白の4世紀」と呼びます
ただ、この150年間は日本列島で政治体制や文化力が劇的に変化した期間ですから、謎のままにしてはおけない重要な世紀なのです

それなのになぜわからないことだらけなのかというと、まず第一に古墳のほとんどが過去に盗掘されていて、埋納された貴重な副葬品や人骨が失われていること
第二に研究のための発掘や出土した遺物の保護管理や調査のための費用が明らかに足りていないこと
第三に宮内庁管理の大古墳の調査が一切許されていないこと、が大きな理由かと思います
ですからこの重要な空白の期間に埋納された遺物が発見されると、非常に大きな謎解きへの貢献になるのです


わが国の国家創造にもっとも重要な期間である150年間をこのまま空白にしておいて良いわけがありません
予算が欲しいですね
そして宮内庁にも協力して欲しいですね


 

 


歴史の教科書で最初に出てくる、旧石器・縄文・弥生・古墳時代 いわゆる「先史時代」である
明治から戦後にかけ定着していったこれらの時代区分だが、考古学の発展や新資料の発掘にともない、今も定説を覆す新発表が相次ぐ
本書では、その最前線を紹介
(先史時代は文献もなく、従来がより分析が難しかった)
日本、日本人のルーツなどにも迫る

「天下分け目の戦い」として知られる関ヶ原の戦い

その舞台となった現在の岐阜県不破郡関ケ原町に、かつて城が存在していたことが、近年の研究で注目されている

これまで関ヶ原の戦いは、平野とその周囲の山々を使った野戦として語られ、城は登場しないとされてきた

ところが、最新の調査によって山中に「玉城(たまじょう)」という城跡が確認され、戦いとの関係があらためて注目を集めている

この玉城とは、いったいどのような城だったのか
そして、関ヶ原の戦いの中で、どのような位置づけにあったのか検証していきたい

関ヶ原以前の玉城

玉城はもともと、南北朝時代に築かれたとされる山城である

元弘2年(1332年)ごろ、足利尊氏に対抗するため、佐竹義春が築いたと伝えられている

その後も戦国時代にかけて使用されており、関ヶ原の戦いよりもはるか以前から知られていた城であった

しかし、天正元年(1573年)、織田信長が近江の浅井氏を滅ぼしたのち、玉城も役目を終えて廃城になったとされている

最新技術によって明かされる玉城の正体

このように、廃城となったはずの玉城だったが、関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)に関与していた可能性があるとして、近年あらためて注目を集めている

そのきっかけとなったのが、最新技術による地形調査である

関ヶ原周辺の山林に対して航空レーザー測量が実施され、地表の微細な起伏が高精度に計測された
そのデータをもとに作成された赤色立体地図によって、これまで樹木に覆われて見えなかった地形が浮かび上がった

その結果、関ヶ原西方の山頂に、大規模な城郭構造があったことが明らかとなったのである

しかも、それは通常の山城をはるかに上回る規模だった

玉城の規模と残された痕跡

関ヶ原古戦場の西方、約2kmに位置する山頂では、人工的に削られたと見られる広大な平坦地が確認されている

長辺はおよそ256メートルに達し、通常の山城の主郭と比べても極めて大規模である

この規模は、一般的な本丸が一辺100メートル程度であることを考えると、倍以上の長さを持つ異例の広さといえる
そのため、一部では「数万の兵を収容可能な陣城であった」とする見方もある

さらに、この山頂部には人工的な急斜面「切岸(きりぎし)」がめぐらされ、場所によっては高さ20メートル近くに達している

切岸の外側には「竪堀(たてぼり)」と呼ばれる縦方向の深い溝がいくつも掘られており、これらが防御施設として機能していたとみられる

そのほかにも、土塁や「外枡形」と呼ばれる防御構造が見られ、一定の戦闘を想定した築造であったことをうかがわせる

こうした遺構の存在は、玉城が単なる山城ではなく、戦略的な防御拠点として整備されていた可能性を示している

西軍の拠点だったのか?

玉城があるのは、関ヶ原の西側に位置する山中で、旧街道の東山道(中山道)や北国街道を見下ろす地にあたる

この一帯は西軍の勢力圏内とされており、大谷吉継の布陣地に近い位置にあることから、後方支援や退路の確保を意図した拠点であった可能性もある

番組などでは「石田三成の背後に位置していた」とも言われるが、実際の三成本陣(笹尾山)からは距離があり、直接的な連携が可能な位置とは言い難い

むしろ、当時の構想としては、玉城を含む山々を拠点に、東軍を迎え撃つ持久戦を想定していたとも考えられている

また、玉城からは関ヶ原盆地を直接見下ろすことはできないが、西側の山々や濃尾平野方面への視界はある程度開けており、大坂方面との連絡・合流を視野に入れた戦略拠点であったという見方もある

西軍の総大将・毛利輝元は戦場に姿を現さず、豊臣秀頼も大坂に留まっていたが、玉城はこうした大将格の人物を迎え入れる構想のもとで整備された可能性もある

関ヶ原の戦いを再検討?

玉城の存在を前提とすると、これまでの関ヶ原合戦の定説に再検討を迫る可能性がある

まず、西軍の動きについてである

従来は家康の上杉征伐中に三成が挙兵し、大垣城を拠点とした急な戦いとされてきたが、仮に玉城の整備が事前に進められていたとすれば、西軍はかなり早い段階から関ヶ原周辺を決戦の地と想定していたことになる

東軍はその構想に巻き込まれる形で、関ヶ原へ進軍したとも考えられる
特に玉城は、単なる陣城を超えた規模を持ち、明らかに何らかの“特別な存在”を迎えることを前提に整備されたように見える

その人物とは誰か
おそらく、豊臣政権の象徴である豊臣秀頼にほかならない

当時まだ7歳の秀頼を玉城に迎え、名実ともに西軍の正統性を内外に示す狙いがあったとすれば、玉城の鉄壁の守りもその役割にふさわしいものだったと言えるだろう

なぜ玉城は活用されなかったのか

史実として、西軍は関ヶ原の戦いで敗北し、玉城が実際に戦いに用いられた痕跡は残っていない
では、なぜ玉城は活かされなかったのだろうか

前述したように、西軍は関ヶ原での決戦に備え、玉城を整備しながら豊臣秀頼の到着を待ち、数日間におよぶ消耗戦を想定した拠点だった可能性がある

しかし実際には、戦闘は想定外の速さで進展し、わずか半日で東軍の勝利に終わった
戦局の急変により、玉城を本格的に運用する時間的余裕は失われ、戦略として活用されることもなかった

さらに、西軍の主だった武将たちは戦後に処刑され、敗者側の証言が残されることは少なかった

そのため、玉城にまつわる構想や役割も語られることなく、やがて歴史の表舞台から姿を消していったとも考えられる

終わりに

「関ヶ原合戦屏風」には、西軍・大谷吉継の陣の背後に、ひっそりと小さな砦のようなものが描かれている

これが、玉城だという指摘もある
屏風の制作は1620年、つまり関ヶ原の戦いからおよそ20年後のことであり、当時まだ玉城の存在が記憶として残っていたとも考えられる

今後の歴史研究はもちろん、物語や映像作品の中でも、この幻の城が描かれる機会が増えるかもしれない

航空レーザー測量のような手法が広がれば、ほかの地域でも知られざる城跡が明らかになる可能性は十分にあり、今後の展開が期待される

参考資料:『関ケ原町歴史民俗資料館/関ケ原町観光協会 パンフレット』『関ヶ原合戦屏風、歴史道』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「天下分け目の戦い」として知られる関ヶ原の戦い

その舞台となった現在の岐阜県不破郡関ケ原町に、かつて城が存在していたことが、近年の研究で注目されている

これまで関ヶ原の戦いは、平野とその周囲の山々を使った野戦として語られ、城は登場しないとされてきた

ところが、最新の調査によって山中に「玉城(たまじょう)」という城跡が確認され、戦いとの関係があらためて注目を集めている


「関ヶ原合戦屏風」には、西軍・大谷吉継の陣の背後に、ひっそりと小さな砦のようなものが描かれている

これが、玉城だという指摘もある
屏風の制作は1620年、つまり関ヶ原の戦いからおよそ20年後のことであり、当時まだ玉城の存在が記憶として残っていたとも考えられる

今後の歴史研究はもちろん、物語や映像作品の中でも、この幻の城が描かれる機会が増えるかもしれない

航空レーザー測量のような手法が広がれば、ほかの地域でも知られざる城跡が明らかになる可能性は十分にあり、今後の展開が期待される


合戦は、半日で(徳川側の)東軍の勝利・・・

玉城もほとんど活用されなかった



 

 


敵か、味方か?
全国各地で繰り広げられた「関ケ原の戦い」人物事典登場!
人気ゲーム「戦国無双」シリーズのコーエーテクモゲームス全面協力による
「天下分け目の一大決戦」に挑んだ武将人物大百科!
岐阜関ケ原古戦場記念館館長にして数々の大河ドラマの時代考証を手掛ける
戦国史研究の第一人者・小和田哲男静岡大学名誉教授、監修!
関ヶ原の戦いを人物に注目して迫る!

「この世」の終わりである三途の川を渡ろうとしたら、「あの世」にいる人から「まだ早いよ」と言われて引き返した・・・
死に瀕したのちに、生還した人たちがこのようなことを語るのを聞いたことがないだろうか
こういった体験は、くだらないオカルトだろうか
医学の解明が進んだ現在、臨死体験はまったく信憑性がないともいえなくなった
もっとも、まだ全貌が解明されたわけではなく、死の直前の脳の異常活動によるものだと、臨死体験研究じたいを否定する人たちもいる
しかし、この臨死研究は、意外な「人間の意識についての哲学的な議論」につながっている

理解を進めるために、韓国でトリプルミリオンセラーとなった『全人類の教養大全』シリーズ著者のチェ・ソンホ氏の解説を見ていこう

■増加している臨死体験の経験者数

臨死体験は「Near Deathh Experience」の頭文字をとって「NDE」ともいう

医学的な定義は、死に瀕した人が特別な体験をして生還する現象のことをいう
中世の資料にも臨死体験に関する資料が残っているけれど、議論がはじまったのは最近だ

その背景にあるのは、医学の進歩だ
技術発展のおかげで、一度止まった心臓や呼吸をふたたび動かすことが可能になって、臨死体験をしたという人が増えたのだ

具体的な例として、自分の身体を外から眺める体外離脱、光のトンネルを通過する体験、穏やかな気持ち、知覚能力の拡大、耳鳴り、死んだ知人との遭遇、人生の記憶が一気によみがえる現象、「あの世」と「この世」の境界線での回帰などがある

このような体験の特徴は、おおむね文化圏・地域・人種・宗教には関係なく普遍的な構造を持つということだ
とくに、文化的な体験が少ない幼少時の臨死体験も、大人と同じパターンを示すのはとても興味深い

■なぜまったく違う人生を歩んできた人たちが

不思議なのは、ほとんどの臨死体験者が、彼らがもともと持っていた宗教的な信念と臨死体験を結びつけて考えないという点だ
もともと信仰していた宗教から離れて、より普遍的な考察に興味を持つようになったと報告されている

また、体験者たちは日常生活での変化を感じることもある
まわりの環境や人びとを配慮するようになったり、知識を増やしたいという欲求が強くなったりするといったことで、死に対する恐怖がなくなったケースもあるという

臨死体験の比較的詳細な記録としてあげられるのが、1991年のパム・レイノルズのケースだ

歌手兼作曲家だった彼女は、34歳のときに脳の病気を患った
彼女の主治医は、体温を15℃に下げて脳内の血液を抜いた状態で手術を行った

この手術は、当時の医療関係者や科学者たちの注目を集めた
脳の血液を抜いた状態で手術が行われるので、もし彼女が臨死体験をするなら、臨死体験は脳が機能を失ったあとに経験するものだという証拠になるからだ

手術中、彼女の脳波は1時間ほど止まっていたことが確認された
目をさましたパム・レイノルズは、自分が臨死体験をしたと主張し、隣で手術を見守っていたと言った
その根拠として彼女は、手術の過程と医者らの会話、手術用機器の形を正確に描写した

■脳波が停止した女性の手術の正確な記憶

このケースについては、現在も議論がつづいている
手術記録によると彼女の目には乾燥を防ぐためのテープが貼られていたし、聴覚保護のために耳には特殊な効果音が流れるイヤホンをつけていた
だから術中覚醒をしていたとしても、場面や会話を覚えることは不可能だろうといわれている

臨死体験に関する議論は、2つの哲学的な考え方にもとづいている
それは、精神や魂というものが物質とは別の独立的な存在なのかを認めるか、認めないかだ

精神を独立した存在として認める「物心二元論」では、臨死体験は身体の死後の精神的な経験だとみなす
記憶と認知活動は、脳という物だけでなく、それとは別の存在である精神によって行われることも可能だと考えるからだ

一方で、精神を物に還元して物の存在だけですべてを説明する「物心一元論」の観点から見ると、臨死体験は脳の異常そのものであって、脳の能力を超える記憶や認知活動は不可能なことだ

研究がはじまったのは比較的最近だから、これからさらに深い議論がされるのではないだろうか

また、臨死体験が実在するものだと考える側もそうでない側も、死の直前に脳が特殊な経験をするということは事実として認めている

臨死体験をした人は、第三者には理解できない主観的な経験をしているのだ

(この記事は東洋経済オンラインの記事で作りました)

臨死体験はおおむね文化圏・地域・人種・宗教には関係なく普遍的な構造を持つということだ
とくに、文化的な体験が少ない幼少時の臨死体験も、大人と同じパターンを示すのはとても興味深い

私は臨死体験が是か非かはわからないが、現在の科学を超えた「なにか」があるのかもしれない



 

 


韓国で300万部売れのモンスター書上陸!
歴史も経済もこの社会も――「この世のしくみ」がわかれば退屈な話がおもしろくなりすぎる!
今さら勉強したくない人が眠れないほど熱狂する知的アップデートの書!
僕たちが生きているこのセカイを歩いていくために絶対に知っておきたい「現実社会のルール」
これを知らない人はバカを見るが、知っているだけで圧倒的に生きやすくなる
いま、僕たちが生きている社会は
長い歴史のなかで見ても、とても“特殊”な状況だ
これからの自分のために、あなたはどんな社会を、どんな人生を選ぶんだろう?
「人類の夜明け」から「現代」までこの世界でしたたかに生きる方法!

低い身分から天下人にまで成り上がり、戦国時代を終わらせた男・豊臣秀吉

日本人なら誰でも知っているほどの有名人である秀吉だが、実はその正確な出自はいまだに明らかではない

秀吉に仕えた竹中半兵衛の息子・竹中重門(しげかど)が書いた『豊鑑』によると、秀吉は「郷のあやしの民の子(身元もよく分からない村の下層民の子)」であり、父母の名前も一族も定かではないとしている

だが、幼い頃の秀吉は本当にそこまで卑しい身分であったのだろうか

秀吉の両親や一族についての代表的な説を紹介し、その出自を考察する


秀吉の父について

現在、『豊臣秀吉の父』とされる人物はふたりいる

ひとりは実の父である木下弥右衛門(きのした やえもん)
もうひとりは、弥右衛門の死後に継父となった竹阿弥(ちくあみ)

秀吉の姉と秀吉は弥右衛門の子であり、弟の秀長と妹の旭は竹阿弥の子、というのが小説やドラマなどにおける定番の構図となっている

しかし、弥右衛門や竹阿弥がどのような人物であったかは、同時代の史料で確認することはできない
そのため、秀吉の父の経歴については江戸時代以降に編纂された史料を参照するしかない

秀吉の父についての代表的な説は、以下の3つである

・『甫庵太閤記』秀吉の父は、織田大和守家の織田達勝に仕えた尾張中村の住人・築阿弥入道
代々武士の末席に加えられていたが、築阿弥の代になって家は没落した

・『祖父物語』秀吉の父は尾州ハザマ村生まれの築アミで、織田信長の同朋衆
清須に在住し、そこで秀吉が産まれた

・『太閤素性記』秀吉の父は木下弥右衛門
尾張中中村の人で、織田信秀の鉄砲足軽であり、秀吉が8歳のとき、天文12(1543)年に死んだ
その後、織田信秀の同朋衆である築阿弥が秀吉の母に婿入りし、秀長と旭をもうけた

ざっと眺めてみると、秀吉の実父が木下弥右衛門なのか築阿弥(竹阿弥)なのか、という点からして見解がバラバラである

また、秀吉の父が現役であった頃、織田家には信長の同朋衆も、鉄砲足軽隊も存在していなかったと考えられている
この時点で『祖父物語』『太閤素性記』の記述をそのまま信用するわけにはいかなくなる

『甫庵太閤記』の記述についても、史料というより小説としての側面が強く、創作が多々混ざっているという指摘があるため、鵜呑みにすることはできない

しかし、上記の説には共通点がある
それは「秀吉の父は織田家に仕えていた」ということだ

秀吉が信長に仕えて立身出世した背景には、かつて武士であった父の存在があったとは考えられないだろうか

秀吉の母について

同時代の史料によると「秀吉の母は尾張愛知郡御器所村で、永正14(1517)年に生まれた」とされている

通説では『なか』とされるが、この名前を確認できる史料はない

秀吉のいとこである青木一矩の子孫が所有する家系図によると、秀吉の母は、尾張愛知郡の住人・関弥五郎兼員の娘であったとされる

『関』という苗字の記録からみて、秀吉の母は農村部にあって一定水準以上の経済力や地位を有していたとみていいだろう
当時の農村部で苗字を公称することは、有力な百姓でなければできなかったからである

そうすると秀吉の父は「有力な百姓の娘と結婚できる身分であった」ということになる

この推測は、上記の「秀吉の父は織田家に仕える武士であった」という説を補強する材料にはならないだろうか

実は裕福だった?秀吉の実家

秀吉は低い身分から成り上がった、という伝説は間違いではない

しかし、その『低い身分』というのは、あくまで貴族や大名からみた話であり、一般庶民の感覚でいえば、秀吉の実家は中流以上の家庭であったのだろう

これは、秀吉が織田家に仕えて順調に出世し、地位を築いていったことからも推測できる

もしも秀吉が本当に最底辺の身分に生まれたのであれば、軍役や文書の発給など、武将としての業務をこなせるほどの学力や教養も身につかなかっただろう

また、秀吉子飼いの武将であった福島正則は、その出自について「秀吉の父方のいとこである」という説が伝わっている
その系譜についてもさまざまな説があるが、本当に秀吉の父が名もないような身分であれば、こうした血縁関係を示す伝承自体が残ることは考えにくい

秀吉は「自分は幼少期に孤児であった」と北条氏直への手紙でつづっているが、これは父の死後のことであったと考えられる
父が亡くなったあと家は没落し、経済的に困窮した秀吉は奉公へ出ざるを得なくなったのではないだろうか

若い頃の秀吉は農業や商業など、土地を転々としながらさまざまな職業を経験した

このことが後に「秀吉は低い身分の出」であるというイメージにつながったのだろう

存在を抹消された理由

それでは、秀吉の父が、秀吉によって官位を追号された形跡もなく、墓所が築かれたかどうかも明らかでないのはなぜだろうか

その理由として考えられるのは、秀吉が天下人となった後、自らの出自を意図的に曖昧にし、あるいは改ざんしようとした可能性である

秀吉は、天正13(1585)年の関白就任前後に、自分は天皇の子であるとほのめかす「皇胤説」を広め始めたという

「自分の父親は帝である」と自称しはじめた以上、秀吉はおおっぴらに実の父親の存在を認めるわけにはいかず、あたかも最初からいなかったかのように扱ったのではないだろうか

そのため、実父に官位を追贈せず、墓所の所在も定かでないのは、むしろ意図的な抹消の結果とも考えられる

「郷のあやしの民の子」とされた男の出自をめぐる謎は、今も完全には解かれていない

だが、その出自に目を凝らすことでこそ、我々は「人たらし」としての秀吉の原点に触れることができるのかもしれない

参考資料 :
『羽柴秀吉とその一族』 黒田基樹著 角川選書
『秀吉研究の最前線』 日本史史料研究会編 洋泉社歴史新書
『福島正則』 福尾猛市郎・藤本篤著 中公新書
『図説豊臣秀吉』 柴裕之編著 戎光祥出版
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

低い身分から天下人にまで成り上がり、戦国時代を終わらせた男・豊臣秀吉

日本人なら誰でも知っているほどの有名人である秀吉だが、実はその正確な出自はいまだに明らかではない

秀吉に仕えた竹中半兵衛の息子・竹中重門(しげかど)が書いた『豊鑑』によると、秀吉は「郷のあやしの民の子(身元もよく分からない村の下層民の子)」であり、父母の名前も一族も定かではないとしている

だが、幼い頃の秀吉は本当にそこまで卑しい身分であったのだろうか


秀吉の出自、一族についてはいろいろといわれている
だが、その出自に目を凝らすことでこそ、我々は「人たらし」としての秀吉の原点に触れることができるのかもしれない


 

 


戦国武将のなかでもトップクラスの人気を誇る羽柴(豊臣)秀吉
著名な人物であるにもかかわらず、父母やきょうだい、親類の実態についてはいまだ謎に包まれたままである
秀吉の父親はどのような職に就いていたのか
弟・秀長の妻子はどのような人物なのか
「秀吉政権」の構造と性格を把握するうえで不可欠な一族・親族の情報を徹底検証
史料の発掘により通説が大きく書き改められるいま、秀吉の親族研究の到達点を示す

アフリカ大陸にはライオンやワニ、サソリ、毒蛇といった、人間にとって危険な生物が多数生息している

中でもカバは、そのユーモラスな外見とは裏腹に凶暴な性質を持ち、現地では最も恐れられる生物の一つである
実際、年間に数百人がカバに襲われ命を落としており、ときに三千人に達するという推計も存在する

その巨体と攻撃性から、カバはしばしば自然を超えた存在として扱われ、畏敬の対象となってきた

そうしたカバにまつわる神話や伝承を紹介していきたい


地中海沿岸のカバ伝説

古代エジプト文明においては、害を及ぼす動物を神格化することで、その力を御し、災いを避けようとする信仰が存在した

害獣を司る神に祈ることで、それらの動物が人間に危害を加えないようにと願ったのである

カバもまた例外ではなく、猛獣として恐れられる一方で、神聖な存在として崇拝の対象となっていた
なお、現在ではナイル川に野生のカバは見られないが、古代には同地に生息していたことが記録や動物遺骸から確認されている

カバを司る神といえば、タウエレト(Taweret)が特に有名である

その名は「大いなる母」といった意味であり、安産や家内安全などの加護があると信じられ、民間で広く信仰されていた女神の一柱として名高い

エジプト文明の崩壊と共に、古代の神々への信仰は廃れていったが、タウエレトへの信仰は根強く残り続けた
1965年頃まで、この女神への信仰の痕跡が残っていたと伝えられる

ナイル川は、エジプト文明発展の礎となった、アフリカ最大の河川である
しかし度々氾濫を起こしては人や家屋を洗い流す、恐怖の象徴でもあった

そこで人々は川が荒れぬように、タウエレトや他の水を司る神々に祈りを捧げ、供物を投げ入れていたとされている
だがこの伝統は、アスワン・ハイ・ダムの工事が始まると、完全に廃れてしまったという

※アスワン・ハイ・ダム
ナイル川氾濫を防止するために作られたダム
しかし川の生態系は著しく崩れ、多くの古代遺跡が水没することとなった

カバとそれを司る女神タウエレトにまつわる信仰は、エジプト周辺地域にも影響を与えたと考えられている

地中海のクレタ島におけるミノア文明の美術作品には、馬ともカエルともつかない奇妙な姿の霊的存在がしばしば描かれており、「ミノアのゲニウス(Monoan Genis)」と呼ばれている

その原型がタウエレトに由来するのではないか、という説が一部の研究者により提唱されている

当時のクレタ島の住民は、カバの実物を見たことがなかったため、伝聞や想像に基づいてその姿を描いた結果、このような異形の怪物が生み出されたのではないかと考えられている

また、古代ギリシャの王アレクサンドロス3世(紀元前356~紀元前323年)が、哲学者アリストテレスに宛てて記したとされる書簡『Epistola Alexandri ad Aristotelem』には、恐るべき人食いカバの逸話が記されている

アレクサンドロス王がインドへと遠征した際、川に浮かぶ島の上に城を見つけ、斥候として兵士を向かわせた
ところがその川から、突如として巨大なカバが現れ、兵士たちをすべて食い殺してしまったという
さらに王は、地元の案内人たちを試しに泳がせたが、やはり全員がカバに食べられてしまったとされている

もっとも、この書簡はかつては本物として広く信じられていたが、現在では中世ヨーロッパの頃に成立した創作とされている
カバは本来草食性であり、インドに生息していたという記録も存在しない

この逸話は、アレクサンドロスの遠征を彩る幻想的な挿話のひとつとして受け止めるべきだろう

西アフリカの未確認カバ

アフリカ西部には、体長2メートルにも満たない小型のカバ、いわゆるコビトカバ(Choeropsis liberiensis)が生息している

その存在は長らく確認されておらず、20世紀初頭までは未確認動物、いわゆるUMAとして扱われていた

リベリアなどの地域には、「ニベクヴェ(Nigbwe)」と呼ばれる黒い豚のような怪物の伝承が伝えられている
森に潜み、人間を襲う獰猛な存在として恐れられてきたが、この伝承の正体こそがコビトカバであると考えたのが、ドイツの動物商カール・ハーゲンベック(1844~1913年)である

彼は1910年から調査を開始し、1912年頃には生きた個体の捕獲に成功したとされている

なお、伝承とは裏腹に、コビトカバの気性は一般に穏やかであり、通常のカバと比べて人間に対する攻撃性は低いとされている

ただし、野生個体による襲撃例も報告されており、もし出会ったとしても無闇に近づくべきではない

マダカスカルの未確認カバ

アフリカ南東に位置するマダガスカル島は、独自の進化を遂げた多種多様な生物が暮らす、特異な自然環境を持つ島である

かつてこの地には三種のカバが生息していたが、およそ一千年前には絶滅したと推定されている

しかし16世紀から19世紀にかけて、ラロメナ(Làlomèna)やキロピロピトソフィ(Kilopilopitsofy)と呼ばれる未知の怪物の目撃談や伝承が相次いで記録された

その姿は牛に似ており、毛のない灰色の皮膚に、赤い二本の角を備えていたと伝えられている

「この怪物の正体は、絶滅したはずのカバだったのではないか」と考えた研究者たちは、マダガスカルにおけるカバの近世的残存の可能性を探ってきた
だが現在に至るまで、その正体は明らかになっていない

このようにカバという動物は、その現実の姿とともに、神話や伝説、さらには未確認生物としても語られてきた

水辺に潜む巨体は、古今東西の人々に畏れと想像を抱かせ続けてきたのである

参考 : 『The Transformation of Egyptian Taweret into the Minoan Genius』『エジプト神話 神々名簿』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

カバは水辺の最強生物ともいわれる

動物でカバ最強という人も・・・


アフリカ大陸にはライオンやワニ、サソリ、毒蛇といった、人間にとって危険な生物が多数生息している

中でもカバは、そのユーモラスな外見とは裏腹に凶暴な性質を持ち、現地では最も恐れられる生物の一つである
実際、年間に数百人がカバに襲われ命を落としており、ときに三千人に達するという推計も存在する

その巨体と攻撃性から、カバはしばしば自然を超えた存在として扱われ、畏敬の対象となってきた

カバは神話などにもたびたび登場・・・

 

 


キャラクターモチーフとしてもおなじみの太陽神ラー、破壊神セト、愛の女神ハトホル、冥界神アヌビス、猫の女神バステト、そしてオシリス、イシス、ホルスが登場する王位をめぐる伝説など、主要な神々にまつわるエピソードを収録
また、巨大ピラミッドを遺したファラオ、プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ、ヒエログリフなど、神話を信仰していた古代エジプトのトピックスもあわせて紹介
魅惑の古代エジプト世界へようこそ
エジプトの死生観がわかる

20年以上コンサルティング業界で培った経営戦略を人生に応用した『人生の経営戦略』の著者・山口周氏と『君は戦略を立てることができるか』の著者・音部大輔氏
初対面ながら意気投合した両氏が、「戦略論」について熱く語り合った(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

● ゲームで学んだ「戦略思考」

 ――山口さんは、音部さんの『君は戦略を立てることができるか』を、どう読まれましたか?

山口周(以下、山口) 音部さんといえば外資畑のクールなイメージなのに、この本では織田信長の「桶狭間の戦い」を事例に出してくるなど、歴史マニアっぽい記述が多い。
その意外性が面白かったですね。

音部大輔(以下、音部) 歴史は昔から好きなのですが、中学生のころ「パンツァーブリッツ」(第二次世界大戦の東部戦線を舞台にした戦術級シミュレーションゲーム。
六角形に区切られた盤上で、勝利条件を満たすべく戦車・歩兵・砲兵などの駒を動かす)というボードゲームにハマったのが大きいですね。

このゲームを通じて、ずっと戦略について考えていました。いわゆる「1万時間ルール」でいうと、大人になるまでにはそれくらいやり込んでいたので、キャリアスタートの時点ですでに戦略の専門家だったと言えなくもない(笑)。

山口 「パンツァーブリッツ」、懐かしいなあ。
パッケージのデザインもいいんですよね。
実はメルカリで買おうかと思っていました。

これね、資源を分散させると必ず負けるんですよ。
だから、兵力のトータルの量で比べるのではなく、局面で投じる量がやっぱり重要なんです。
桶狭間の戦いもそうですよね。
数万人の今川軍に対して織田軍はせいぜい3000人ですから、トータルでは勝ち目がない。
そこで、大将である今川義元の首を取るという一点突破に賭けて成功した。
「ある局面において優勢な状態を作る」ということをやらないと、絶対に戦いには勝てないんです。

音部 同じ盤面ゲームでも、パンツァーブリッツが将棋などと根本的に違うのは、敵と自分の条件が同じではないということです。
つまり、手持ちの資源が違う。

ここから学んだ戦略の重要なエッセンスの一つが「強み」に対する考え方です。
お互い条件が異なるなかで「違いが強みになる状況」を探せれば勝てるんですよ。

山口 こと戦いに及んで、一から強みを探している場合ではない、と。

音部 そうです。発想が逆なんです。

もうひとつ重要なのは、シミュレーションゲームには「勝利条件」という概念があって、何をもって勝ちとするかがルールで決められていることです。
ところが、ビジネスではそれがないことが多いんですよね。

勝利条件を決めたうえで目的を設定しましょうというのは、私にとっては必然なのですが、なぜかそう言うとビジネスの現場では嫌われたりするんですよ。

山口 以前、チームがサンプリングをやりたいというので、「目的は何ですか?」と聞いたところ「お客様との出会いを増やすこと」と言われるくだりがありますね。
堂々と答えられると、はたして突っ込んでいいものか迷いそうです。
これでは達成できたかできなかったかがメジャラブル(測定可能)でないので、目的の体を成していない。

音部 さらに言うと、サンプルを配る会社なら「3ヶ月で10万人に配りましょう」でいいのですが、施策としてサンプリングを行う場合、試用を増やしたいのか、認知を上げしたいのか、購買意向を上げたいのか――というところまで記述しておかないと、ただサンプルを配るだけで終わってしまう。

つまり、手段が目的化してしまい、単なる行動の記述が目的っぽく見えてしまう。
そういうケースが非常に多いのです。

でも、目的を「勝利条件」と言い換えると枠組みがハッキリする。
これまた、あまり勝利、勝利というと嫌がる人がいるんですけどね。

● 名将はみんな「目的の再解釈」がうまい

山口 音部さんの戦略論では、前回も話題に出た「目的の再解釈」という考え方がきわめて重要になってきます。
つまり、手持ちの資源が目的を達成するのに不足している場合は、目的そのものを捉えなおすということですね。

歴史上、戦略の天才というのはみんな目的の再解釈がすごく上手なんです。
織田信長もそうですし、ナポレオンもそうでした。
ナポレオンが大出世するきっかけになった「トゥーロンの戦い」(1793年)も、目的の再解釈の良い事例だと思います。

当時トゥーロンの港はイギリスに占拠されていたのですが、フランスにとっては要の港だったので、どうしても取り返したい。
そこで港を海から包囲して何度も突撃するのですが、一向に勝てなかった。

そのとき、当時20歳そこそこだったナポレオンが、「近くに山があるじゃないか。この山の上に大砲を持っていって、そこから港を撃てばいい」と提案するんです。
山は比較的手薄だったので、占領に成功し、そこに砲台を築いて撃ちまくった
そうなると港にいるイギリス軍はたまりません。
結局、港から撤退せざるを得なくなって、フランスは港を取り返すことができたのです。

つまり、港そのものを攻めるのではなく、近くの丘を取るというふうに目的の再解釈をすることで勝てたという、僕の大好きなエピソードです。


山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ
独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。ライプニッツ代表。
慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科修了
電通、ボストン コンサルティング グループ等で戦略策定、文化政策、組織開発などに従事
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社新書)でビジネス書大賞2018準大賞、HRアワード2018最優秀賞(書籍部門)を受賞
その他の著書に、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『知的戦闘力を高める 独学の技法』(日経ビジネス人文庫)など
 
音部大輔(おとべ・だいすけ)
17年間の日米P&Gを経て、ダノンやユニリーバ、資生堂などでマーケティング担当副社長やCOMとしてブランド回復を主導
2018年より独立、現職
家電、化粧品、輸送機器、放送局、電力、広告会社、D2C、ネットサービス、BtoBなど国内外の多様なクライアントのマーケティング組織強化やブランド戦略立案を支援
博士(経営学 神戸大学)
著書に『なぜ「戦略」で差がつくのか。』(宣伝会議)、『マーケティングプロフェッショナルの視点』(日経BP)、『The Art of Marketing マーケティングの技法-パーセプションフロー・モデル全解説』(宣伝会議、日本マーケティング学会「日本マーケティング本大賞」で2022年の大賞受賞)などがある
最新刊『君は戦略を立てることができるか』

(この記事はDIAMOND onlineの記事で作りました)

私は織田信長が桶狭間の戦いで勝ったのは、兵力で圧倒的に不利でも局面で勝った(大将・今川義元を狙う一点集中)にあったと思います

 

 


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老いた母を背負って山へと捨てに行く息子
そんな哀しい物語が繰り広げられた姥捨伝説
口減らしせざるを得なかったというほど貧しかった
庶民の暮らしぶりを示すものであった
実はこのお話、『更級日記』や『枕草子』にも記されているのをご存知だろうか
その作者である菅原孝標女や清少納言は、果たして、どんな思いでこの哀しい物語を記したのだろうか?

■『楢山節考』に描かれた姥捨伝説の悲惨さ

「おっかあ。ふんとに雪が降ったなァ」

とある小説に登場する息子のひと言である

雪が降ってきて良かったという
何が良かったのか?
それは、雪の中に閉ざされた方がかえって寒さも和らぎ、眠るように死ぬことができるからである
息子が年老いた母を背板に乗せて山へ捨てに行くという姥捨伝説、それを小説化した深沢七郎『楢山節考』に描かれた一コマである

舞台は、信州の山あいのとある村
そこでは、70歳を過ぎたら、誰もが「楢山まいり」と呼ばれる「捨老」の掟に従わなければならなかった
69歳になる主人公「おりん」も、今度は自分の番だと、すでに覚悟を決めていた
むしろ、渋るのは息子・辰平の方
老いた母に急かされるように、母を背負って出立していったのである

山頂に母を置き去りにして、涙ながらに駆け下りる辰平
そこに雪が舞い始めたから喜んだ
母の苦しみを少しでも和らげられるとあって、安堵のあまり思わず口ずさんでしまったのだ。それが、冒頭のひと言であった。

 ひ孫の顔を見ること、つまり長生きすることさえ罪であったとも
それほどまでに貧しかったというべきか
今では考えられないことであるが、歴史を振り返ってみれば、実は庶民の多くは、生き残ることにさえ汲々とせざるを得ない苦しい時代の方が長かったのである
これは、そんな庶民の悲運を物語る小説であった
そこに記されたように、本当に村の掟として制度化されていたところがあったかどうか定かではないとしても、「誰かが死ななければ生き残れない」状況は、長い歴史の中では、史実としても恐らくは何度もあったはず
ひっそりと涙ながらに「捨老」されたことも、少なくなかったに違いない

■本当に信州の冠着山が舞台なのか?

冒頭から悲惨な話で始まってしまったが、同様の逸話は、この小説ばかりか、日本各地で、多少様相を変えながらも言い伝えられている
中でもその舞台としてよく知られるのが、長野県千曲市と筑北村にまたがる冠着山だろう
俗称は姨捨山
ここでも、貧しさゆえ、口減らしとして老人を捨てなければならなかったとの設定は変わらない

ただし、話の展開は小説とは多少異なる
息子に背負われた母が、息子が帰路、道に迷わぬようにと、枝をポキポキ折っていくというシーンが挿入されているのだ
息子を思いやる母の気使いが心残りで結局捨てきれず、母を家に連れ帰って床下に隠したのだとか
そんなある日、殿様から「灰で縄を編め」と厳命されたことがあった
その難題に頭をかかえる息子に、母がそっと「塩水に浸した藁で縄を編んで焼くといい」と教えた
言われた通りにしてみれば、本当に「灰で編んだ縄」が出来上がった
殿様がこれを褒め、それ以降、おふれを出して老人を捨てることを禁じたという

ただし、この姨捨伝説に登場する姨捨山が本当に実在の冠着山に該当するのかどうかは、実のところ定かではない
この山の元の名が小長谷山(小長谷部氏という部民が住んでいたからとも)で、そのオハツセが姨捨(オバステ)に転化したからとの説が有力視されているからである

それでも、ここ信州辺りの山が姨捨伝説の舞台だったというのは、古くから信じられていたようで、平安時代の歌物語『大和物語』や説話集『今昔物語集』、歌集『古今和歌集』でも、あたかもその舞台が信濃(信州)であるかのように記している
そこに記されたストーリーもまた、よく知られるところだろう

■『更科日記』や『枕草子』に記された姥捨伝説とは?

興味深いのは、この姥捨伝説が、かの菅原孝標女が著した『更科日記』や清少納言の『枕草子』にまで記されていることである
『更級日記』では、著者である菅原孝標女が夫亡き後、ひとり寂しく暮らしているところに、甥がひょっこりと訪ねてきてくるシーンに登場する
甥の来訪を喜んだ彼女が、「月も出て闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」と、喜びを姨捨に託して詠んだのだ
まるで姥捨山に住むかのような私のような老婆のもとに、どうして訪ねてきてくれたの?とでも語りかけているかのような面持ちである
彼女が実際に姨捨山に住んでいたわけではないものの、自らの寂しい境地を悲しい伝説に彩られた姥捨山になぞらえたのだろう

ちなみに菅原孝標女といえば、かの菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の娘である
30代で橘俊通と結婚(1040年)。1057年には夫が信濃守として単身赴任するも、翌年に卒去
以降、寂しさを紛らわすかのように書き始めたのが『更級日記』だったと言われる
まるで山に一人置き去りにされたかのような寂しさをそう言い表したのだろうが、実のところ、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた庶民の感覚とは、大きく異なるというべきだろう
庶民は、そんな感傷に浸っている余裕さえなかったに違いないからだ

また、『枕草子』に姥捨山の名が記されていることにも目を向けておこう
ここでは、中宮定子の弁として、「姥捨山の月は 如何なる人の見るにか(姨捨山の月は、いったいどんな人が見たのかしら)」と、女房たちとの戯言として登場する
発言者である定子に罪はないとはいえ、冒頭の『楢山節考』に描かれた悲惨さを思い出してしまうと、どうしてもその軽薄さが気になってしまうのだ
談笑として気安く語って欲しくないと、つい愚痴りたくなってしまうのは、筆者だけだろうか

(この記事は歴史人の記事で作りました)

老いた母親を口減らしのために山に捨てる・・・「姥捨伝説」は本当にあったかも・・・

今の感覚では考えられない(それほど当時の庶民は貧しかったようだ)

「姥捨伝説」はあってはならない


 

 


残酷な棄老伝説を通して人間の矜持と生と死の尊厳を極限まで問う名作

「お姥(んば)捨てるか裏山へ裏じゃ蟹でも這って来る」
雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく
残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ――因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた「楢山節考」
ほかに「月のアペニン山」「東京のプリンスたち」「白鳥の死」の3編を収める

天正十四年、豊後の国に主のいない城があった

老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である

その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった

彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた

妙林尼がいかにして島津軍を打ち破ったのか、その痛快な逆襲劇を紹介したい


この女、タダモノではない

吉岡妙林尼は、大友氏の家臣・吉岡鑑興(あきおき)の妻である

妙林尼の本名や生年、出自については詳らかではなく、わずかに『大友興廃記』や『両豊記』、ルイス・フロイスの書簡にその名が見られるのみである

鑑興は、父・吉岡長増(ながます)の跡を継いで鶴崎城の城主となったが、天正六年(1578年)、耳川の戦いで討ち死にしてしまった

その後、家督は息子の統増(むねます/通称・甚橘)に譲られ、彼女は出家して妙林尼と称するようになった

天正十四年、九州制覇を狙う島津軍が、豊後への侵攻を開始
豊後各地が次々と制圧されるなか、当時の鶴崎城は、もはや風前の灯であった

というのも、城主である息子の統増は、主君・大友宗麟(そうりん)の命により、主力の兵を率いて臼杵城に籠っていたのだ

城に残されたのは、わずかな老人兵と、農民、女子供ばかり
戦うどころか、守りすらままならない状態だった

そんななか、城主名代として指揮をとったのが妙林尼だった

彼女は人々を叱咤し、士気を奮い立たせると、破竹の勢いで迫る島津軍に立ち向かう覚悟を固めたのである

老人・農民・女子供でどう戦う!?

戦うといっても、相手は精強を誇る島津の大軍である

尼が率いる頼りない軍勢に、果たして何ができるのかと誰もが思ったことだろう

しかし、ここからが妙林尼の真骨頂であった

彼女は自ら先頭に立ち、農民たちに命じて畳や板をかき集めさせ、城の周囲に即席の柵や砦を築いた

さらに堀には無数の落とし穴を掘り、鉄砲が矢面にずらりと並べられた

こうして迎撃の備えが整ったところで、ついに決戦の日が訪れた

押し寄せてきたのは、三千の兵を率いた島津の猛将、伊集院久宣(ひさのぶ)、野村文綱(ふみつな)、白浜重政(しげまさ)らであった

「尼一人が守る小城」と侮っていた島津軍であったが、その足元はすでに妙林尼の仕掛けた罠に満ちていた

敵兵が落とし穴にはまったその瞬間、妙林尼の合図とともに、一斉に鉄砲が放たれた

鉄砲を扱っていたのは、妙林尼から使い方を教わったばかりの素人の農民たちであった

しかし至近距離からの射撃であったため、弾は面白いほど命中したという

不意を突かれた島津軍は、たちまち混乱に陥った
妙林尼の知略は冴えわたり、攻防は実に十六度に及んだ

とはいえ、小さな城である
やがて矢弾も尽き、兵糧も底をついた頃、島津側から和睦の申し出が届く

妙林尼は「これ以上戦って、人々を無為に死なせるわけにはいかぬ」と判断し、全員の命の保証を条件に城を明け渡した

だが、この和睦には続きがあったのだ

和睦から始まる逆襲の計略

妙林尼は敗軍の将でありながら、島津軍が城下に用意した屋敷で、囚人とは思えぬ穏やかな生活を送っていた

折に触れて伊集院らを屋敷に招いては、自ら酒食をもてなし、侍女たちに酌をさせて歓談の場を設けたという

その席では、酒に酔いながら歌い、踊り、笑い合う光景さえあったと伝えられている

やがて妙林尼と島津の諸将との間には、奇妙な信頼関係のようなものが生まれていった

それは友情であったのか、あるいは親子にも似た情であったのか、真意は定かではない

そして、落城から一年が経った天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が自ら大軍を率いて島津討伐に乗り出すとの報が届く

これを受け、伊集院ら島津軍には薩摩への撤退命令が下された

このとき妙林尼は、「もはや主君に顔向けできぬ。いっそ自分も薩摩へ連れて行ってほしい」と申し出た
島津側もこれを受け入れ、彼女は同行することとなった

出立の日、妙林尼は祝賀を名目に島津兵へふんだんに酒を振る舞い、兵たちをたっぷりと酔わせた
そして、彼らが千鳥足で道を進むその隙を突き、家臣たちに命じて奇襲を仕掛けたのである※寺司浜(てらしはま)の戦い

完全に油断していた島津軍は抗う術もなく、多くの兵が討たれた

伊集院久宣と白浜重政はこの戦いで討死し、野村文綱も流れ矢に倒れ、深手を負って日向国まで逃れたものの、間もなくその傷がもとで没したと伝えられている

秀吉をも唸らせた女傑

妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた

宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている

この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した

主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将

その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない

その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない

参考文献:『大友興廃記』『戦国驍将・知将・奇将伝』他
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

天正十四年、豊後の国に主のいない城があった

老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である

その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった

彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた


島津軍を翻弄し、秀吉をも唸らせた女傑・妙林尼・・・



妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた

宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている

この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した

主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将

その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない

その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない


 

 


勝つ者もいればまた敗れ去る者もいる
信長に挑み、秀吉に抗い、家康に屈することなく突き進んだ猛者は、しかし敗れてなお、乱世に一瞬の光跡を残して去っていった
戦国乱世に咲いたあだ花ともいうべき彼ら驍将・智将・女傑たちの生き様を鮮やかに描く