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メインウェーブ日記

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天正十四年、豊後の国に主のいない城があった

老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である

その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった

彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた

妙林尼がいかにして島津軍を打ち破ったのか、その痛快な逆襲劇を紹介したい


この女、タダモノではない

吉岡妙林尼は、大友氏の家臣・吉岡鑑興(あきおき)の妻である

妙林尼の本名や生年、出自については詳らかではなく、わずかに『大友興廃記』や『両豊記』、ルイス・フロイスの書簡にその名が見られるのみである

鑑興は、父・吉岡長増(ながます)の跡を継いで鶴崎城の城主となったが、天正六年(1578年)、耳川の戦いで討ち死にしてしまった

その後、家督は息子の統増(むねます/通称・甚橘)に譲られ、彼女は出家して妙林尼と称するようになった

天正十四年、九州制覇を狙う島津軍が、豊後への侵攻を開始
豊後各地が次々と制圧されるなか、当時の鶴崎城は、もはや風前の灯であった

というのも、城主である息子の統増は、主君・大友宗麟(そうりん)の命により、主力の兵を率いて臼杵城に籠っていたのだ

城に残されたのは、わずかな老人兵と、農民、女子供ばかり
戦うどころか、守りすらままならない状態だった

そんななか、城主名代として指揮をとったのが妙林尼だった

彼女は人々を叱咤し、士気を奮い立たせると、破竹の勢いで迫る島津軍に立ち向かう覚悟を固めたのである

老人・農民・女子供でどう戦う!?

戦うといっても、相手は精強を誇る島津の大軍である

尼が率いる頼りない軍勢に、果たして何ができるのかと誰もが思ったことだろう

しかし、ここからが妙林尼の真骨頂であった

彼女は自ら先頭に立ち、農民たちに命じて畳や板をかき集めさせ、城の周囲に即席の柵や砦を築いた

さらに堀には無数の落とし穴を掘り、鉄砲が矢面にずらりと並べられた

こうして迎撃の備えが整ったところで、ついに決戦の日が訪れた

押し寄せてきたのは、三千の兵を率いた島津の猛将、伊集院久宣(ひさのぶ)、野村文綱(ふみつな)、白浜重政(しげまさ)らであった

「尼一人が守る小城」と侮っていた島津軍であったが、その足元はすでに妙林尼の仕掛けた罠に満ちていた

敵兵が落とし穴にはまったその瞬間、妙林尼の合図とともに、一斉に鉄砲が放たれた

鉄砲を扱っていたのは、妙林尼から使い方を教わったばかりの素人の農民たちであった

しかし至近距離からの射撃であったため、弾は面白いほど命中したという

不意を突かれた島津軍は、たちまち混乱に陥った
妙林尼の知略は冴えわたり、攻防は実に十六度に及んだ

とはいえ、小さな城である
やがて矢弾も尽き、兵糧も底をついた頃、島津側から和睦の申し出が届く

妙林尼は「これ以上戦って、人々を無為に死なせるわけにはいかぬ」と判断し、全員の命の保証を条件に城を明け渡した

だが、この和睦には続きがあったのだ

和睦から始まる逆襲の計略

妙林尼は敗軍の将でありながら、島津軍が城下に用意した屋敷で、囚人とは思えぬ穏やかな生活を送っていた

折に触れて伊集院らを屋敷に招いては、自ら酒食をもてなし、侍女たちに酌をさせて歓談の場を設けたという

その席では、酒に酔いながら歌い、踊り、笑い合う光景さえあったと伝えられている

やがて妙林尼と島津の諸将との間には、奇妙な信頼関係のようなものが生まれていった

それは友情であったのか、あるいは親子にも似た情であったのか、真意は定かではない

そして、落城から一年が経った天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が自ら大軍を率いて島津討伐に乗り出すとの報が届く

これを受け、伊集院ら島津軍には薩摩への撤退命令が下された

このとき妙林尼は、「もはや主君に顔向けできぬ。いっそ自分も薩摩へ連れて行ってほしい」と申し出た
島津側もこれを受け入れ、彼女は同行することとなった

出立の日、妙林尼は祝賀を名目に島津兵へふんだんに酒を振る舞い、兵たちをたっぷりと酔わせた
そして、彼らが千鳥足で道を進むその隙を突き、家臣たちに命じて奇襲を仕掛けたのである※寺司浜(てらしはま)の戦い

完全に油断していた島津軍は抗う術もなく、多くの兵が討たれた

伊集院久宣と白浜重政はこの戦いで討死し、野村文綱も流れ矢に倒れ、深手を負って日向国まで逃れたものの、間もなくその傷がもとで没したと伝えられている

秀吉をも唸らせた女傑

妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた

宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている

この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した

主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将

その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない

その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない

参考文献:『大友興廃記』『戦国驍将・知将・奇将伝』他
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

天正十四年、豊後の国に主のいない城があった

老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である

その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった

彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた


島津軍を翻弄し、秀吉をも唸らせた女傑・妙林尼・・・



妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた

宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている

この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した

主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将

その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない

その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない


 

 


勝つ者もいればまた敗れ去る者もいる
信長に挑み、秀吉に抗い、家康に屈することなく突き進んだ猛者は、しかし敗れてなお、乱世に一瞬の光跡を残して去っていった
戦国乱世に咲いたあだ花ともいうべき彼ら驍将・智将・女傑たちの生き様を鮮やかに描く

「丹波太郎・山城次郎」と呼ばれる激しい夕立

京都に滞在していると、「本格的な夏がやってきたなぁ」と感じる瞬間がある

そのひとつが、「夕立」ではないだろうか

近年の京都は、インバウンドの影響もあり、多くの人で大変な賑わいだ

しかし、ひと昔前の夏は人影もまばらで、街をゆったりと散策したり、寺社を訪ねたりすることができたものだった
それは、夏の京都が余りにも暑すぎて、訪れる人が少なかったからに他ならない

京都の猛暑を表す言葉としては、昔から「京の油照り」が使われてきた
盆地特有の蒸し暑さと、じりじりと照り付ける日差しの強さを表現するのには、これほど的確なものはないだろう

その暑さは午後になると、京都全体で頻繁に激しいにわか雨「夕立」を引き起こす

京都の人々は、「夕立」を「丹波太郎」や「山城次郎」と呼んでいるのだ

京都の夕立が美味しい副産物を生み出す

夕立には「馬の背を選ぶ」という言い方もあるそうだ

これは、局地的な豪雨を表すことわざで、“馬の背の片側だけを濡らして通り過ぎる雨”のことをいう

京都に限った話ではないかもしれないが、年配の都人(みやこびと)は、「そこにだけ縦に降る」と、京の夕立を例えてきた

つまり、急激にどっと襲ってきて逃げようがない、それが京都の夕立である
「馬の背を選ぶ」ということわざは、まさにそれにぴったりと当てはまる

「見るがうちに 近江のかたに かかりけり 北山出でし 夕立の雲」

江戸後期の歌人・木下幸文が詠んだ短歌である

京都北方の北山から湧き上がった入道雲が、急激にその先の近江の空を暗くし始めた
そして見る間に、比叡山の向こうから夕立が凄まじい速さで京の町へと走り込んでくる

「油照り」のような酷暑に苛まれた昼間、雲一つない真っ青な空が、午後になると急変する
幸文の短歌は、京都の夏の天気の特徴を、見事にとらえている

こうなってしまったら、もう屋内に逃げ込むしかない
もし、暑さを凌ごうと鴨川や桂川などで水遊びをしていたら、すぐに川から離れてほしい

京都市内を流れる河川は、あっという間に水量が増し、濁流となって人も物も流し去ってしまうからだ

ただし、京都の激しい夕立は、京都ならではの“ある副産物”を生み出す源でもあるのだ

住蓮山安楽寺の「鹿ヶ谷かぼちゃ供養」

京都の夕立「丹波太郎」「山城次郎」が重なる夏らしい夏は、京の夏野菜が美味しく育つという恩恵をもたらす

その代表的な野菜は、京都で“おかぼ”と呼ぶ、南瓜(かぼちゃ)だ

そのなかで、珍しいのは哲学の道がある鹿ヶ谷(左京区)で採れた南瓜で、瓢箪(ひょうたん)型をしている

毎年「夏の土用」の7月25日には、その鹿ヶ谷の住蓮山安楽寺で、「中風まじない鹿ヶ谷かぼちゃ供養」が行われる

同寺は、鎌倉時代初期に起きた“松虫・鈴虫”の悲劇で知られる浄土宗の寺院

当日は、二人の女人像に南瓜が供えられ、美味しく炊いた“おかぼさん”が一般の参詣客に振舞われる

五智山蓮華寺・神光院の「きゅうり封じ」

さて、夏野菜といえば、胡瓜(きゅうり)も外せないだろう

伝統的な京野菜とは認定されていないが、京都の夏に美味しくなるのがこの胡瓜だ

形よく、大きく、緻密でシャキシャキとした食感は抜群の旨味を持つ

この胡瓜にまつわる行事が、毎年7月19日に、御室(右京区)の五智山蓮華寺で「きゅうり封じ」という名で行われる

これは、弘法大師がその昔、疫病を胡瓜に封じ込めたという伝説による

参詣者は、胡瓜に自分の名前と年齢を書き、ご祈祷を受けた後に、これを身体の悪い部分にあてると直ると伝えられている

同様に、7月19日と21日に西賀茂(北区)の神光院でも、「きゅうり封じ」が行われる

こちらは、同寺境内の“きゅうり塚”の前に、白い布に包んだ胡瓜が積まれ、疫病除けの祈祷が行われる

名前と数え年を記した紙にその胡瓜を包んで家に持ち帰り、身体の悪いところを撫でた後、土の中に埋めると、病気を封じ込めると伝わっている

茄子など美味しい京野菜はまだまだたくさん

夏に美味しさを増す京野菜は、まだまだ多く存在する

賀茂なす、伏見とうがらし、万願寺とうがらしも忘れてはならない存在だ

なかでも丸い賀茂なすは、夏の京野菜として古くから親しまれてきた

現在では「幻」ともいわれているが、かつては山科方面で採れた「山科なす」という品種もあり、艶やかな見た目と、しっかりとした肉質が特徴だった

賀茂なすもまた、250g〜300gほどもある大型の茄子で、緻密な肉質は、煮ても揚げても形が崩れないのが魅力
その丸い形を活かした田楽は、特に人気の高い調理法である

また、初夏から出回る伏見とうがらしや万願寺とうがらしは、辛味が少なく甘みのある野菜で、焼く・煮る・揚げるなど、さまざまな調理法に適している

中でも、さっと焼いて削り節をのせた一品は、うだるような暑さの中で、ビールや冷酒と相性抜群のつまみとなるだろう

京都人は、「夕立」のことを「よだち」という

「よだちの雲が出ているさかい、とい(遠い)とこへ行くこと、ならんェー。」

酷暑が続くと子どもたちに諭す声が、路地のあちこちから聞こえてきそうだ
でも、そんな「夕立」が、美味しい夏の京野菜を育ててくれる

そして、雲間に秋が忍び寄る頃、八百屋の店先には山の幸が並び始める
栗、きのこ、枝豆・・・
四季の歯車がまた一つ、かたりと動き出す

参考 :
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』 メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

京都に滞在していると、「本格的な夏がやってきたなぁ」と感じる瞬間がある

そのひとつが、「夕立」ではないだろうか

近年の京都は、インバウンドの影響もあり、多くの人で大変な賑わいだ

しかし、ひと昔前の夏は人影もまばらで、街をゆったりと散策したり、寺社を訪ねたりすることができたものだった
それは、夏の京都が余りにも暑すぎて、訪れる人が少なかったからに他ならない

京都の猛暑を表す言葉としては、昔から「京の油照り」が使われてきた
盆地特有の蒸し暑さと、じりじりと照り付ける日差しの強さを表現するのには、これほど的確なものはないだろう

その暑さは午後になると、京都全体で頻繁に激しいにわか雨「夕立」を引き起こす

京都の人々は、「夕立」を「丹波太郎」や「山城次郎」と呼んでいるのだ


京都人は、「夕立」のことを「よだち」という

「よだちの雲が出ているさかい、とい(遠い)とこへ行くこと、ならんェー。」

酷暑が続くと子どもたちに諭す声が、路地のあちこちから聞こえてきそうだ
でも、そんな「夕立」が、美味しい夏の京野菜を育ててくれる

そして、雲間に秋が忍び寄る頃、八百屋の店先には山の幸が並び始める
栗、きのこ、枝豆・・・
四季の歯車がまた一つ、かたりと動き出す

京野菜が美味しい理由は“夕立”かも・・・


 

 


〈京大農学部卒、八百屋一筋。京都・錦の老舗「かね松」の主人が語る京野菜の魅力〉
〈京野菜が美味しい理由がわかります〉

創業明治15年(1882)の錦かね松は、錦でも最古参の八百屋です
本書では、錦かね松3代目主人である著者が、代表的な34種類の京野菜について、その歴史から美味しい食べ方までそれぞれの魅力を存分に語ります
京野菜のユニークな形や鮮やかな色合いなど、四季折々の姿を目でも楽しめる一冊です
また、家庭で簡単に作れる京野菜を使ったレシピや、野菜にまつわる京の年中行事、野菜の買い方・扱い方のコツなど、豆知識も満載
本書を読めば、京野菜が美味しい理由がきっとわかります

奈良・興福寺の南に広がる「猿沢池」は、多くの方に知られた名所です

その池の北西の隅に、ひっそりと佇む小さな神社があることをご存じでしょうか

この神社の由来や特徴、そして少し変わった点についてご紹介します


この神社の不思議ポイント

興福寺の階段を南に下りると、すぐ目の前に「猿沢池」が現れます

天気の良い日には、外国人観光客をはじめ多くの人が池のほとりで、景色を楽しみながらひと休みしています
池越しに望む興福寺の五重塔や南円堂の風景は格別で、人気の撮影スポットにもなっています

ただ現在は、五重塔が令和の大修理中のため覆屋に包まれており、この景観がしばらく見られないのは残念です

猿沢の池の北西隅、現在スターバックスがあるあたりのすぐ近くに、今回ご紹介する神社があります

その名は、采女(うねめ)神社といいます

多くの神社では、参拝者が自由に鳥居をくぐり、お社にお参りすることができますが、この采女神社は少し様子が異なります

入り口には施錠された扉があり、普段は中へ入ることができません

筆者は猿沢池の周辺を歩く際にたびたびこの神社の前を通っており、ずっと不思議に思っていました

神社の名称は、塀と白壁の建物に掲げられた「えんむすび 采女神社」という看板で、ようやく知ることができました

普段は扉が閉じられているため、塀の隙間から中を覗いてみると、ある不思議な点に気づきました

朱塗りの鳥居と奥に建つお社をよく見ると、一般的な神社とは異なる配置になっていたのです

通常、鳥居をくぐると正面にお社が見えるのが一般的ですが、采女神社ではお社が鳥居に背を向けて建てられていました

この変わった向きにはどんな理由があるのでしょうか

采女神社のお社が、鳥居に背を向けて建てられている理由

平安時代に成立した歌物語『大和物語』には、采女神社の由来に関する伝承が記されています

奈良時代、天皇の寵愛を受けていた采女(うねめ : 後宮で天皇の給仕をする女官)が、やがてその寵愛を失い、悲しみのあまり猿沢池のほとりの柳の木に衣を掛け、池に身を投じたといいます

この采女の霊を慰めるために建立されたのが、現在の采女神社です

そしてお社が鳥居に背を向けて建てられているのは「采女が入水した猿沢池を、あの世から見続けることがないように」との配慮からだとされています

また一説では、最初は通常通り池を正面に向けて建てられていたものの、采女の霊がその向きを嫌がり、一夜のうちにお社の向きが変わったという伝承も残っています

小さな神社ながらも、このような物語が語り継がれていることに、奈良という土地の奥深さをあらためて感じさせられます

一方で、悲恋の物語が縁起の采女神社が、なぜ「縁結びの神社」として信仰を集めるようになったのかは、少々疑問が残ります

采女神社の祭礼などについて

現在、采女神社は春日大社の境外末社として管理されています

塀の中をのぞくと、縁結びの絵馬が数多く奉納されており、「縁結び守り」と呼ばれる授与品も用意されています

ただし先に述べた通り、通常は扉が閉ざされており、参拝や授与品を受けることができるのは祭礼など限られた機会に限られています

そのため「縁結び守り」は、観光客にとってはなかなか手に入らない“幻のお守り”といえるかもしれません

この神社で最も知られている祭礼が、毎年中秋の名月に行われる「采女祭」です

采女の霊を慰め、人々の幸福を祈るこの行事は、幻想的な雰囲気に包まれた奈良の秋の風物詩です

夕刻からは「花扇奉納行列」が始まり、2メートルほどの花扇を中心に、稚児たちや、御所車に乗った十二単姿の花扇使らが市内を練り歩きます

18時からは春日大社の神職による神事が執り行われ、花扇が采女神社に奉納されます

続く19時からは、祭りのクライマックス「管絃船の儀」が猿沢池で行われます

雅楽の調べが流れるなか、花扇や花扇使を乗せた2隻の龍頭船・鷁首船が、流し灯籠の間を静かに巡り、最後に花扇を池に投じます

幽玄な光と音に包まれた、奈良らしい雅なひととき

機会があれば、ぜひ一度は目にしてみたい行事です

もう一つの采女伝説

実は、采女神社は福島県郡山市にも存在し、当地にも采女伝説が伝えられています

奈良の物語と共通点を持ちながら、独自の展開を見せており、その内容は以下の通りです

今からおよそ1300年前、奈良の都から郡山に派遣された葛城王(かつらぎおう : 後の左大臣・橘諸兄)は、巡察使として地方の実情を視察していました

当時、郡山の地では凶作が続き、朝廷への貢納すらままならない状況にありました
困窮する里人たちは、王に窮状を訴えましたが、その願いは聞き入れられませんでした

そんな折に接待の場で、王は里長の娘・春姫を見初めます

そして春姫を帝の采女として差し出すことを条件に、三年間の課税免除が認められたのです

春姫には愛する許婚がいましたが、郷土のため、涙を呑んで奈良の都へと旅立ちました

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

奈良・興福寺の南に広がる「猿沢池」は、多くの方に知られた名所です

その池の北西の隅に、ひっそりと佇む小さな神社があることをご存じでしょうか


『奈良の不思議な神社』采女神社が背を向いている理由とは?

采女神社のお社が、鳥居に背を向けて建てられている理由

平安時代に成立した歌物語『大和物語』には、采女神社の由来に関する伝承が記されています

奈良時代、天皇の寵愛を受けていた采女(うねめ : 後宮で天皇の給仕をする女官)が、やがてその寵愛を失い、悲しみのあまり猿沢池のほとりの柳の木に衣を掛け、池に身を投じたといいます

この采女の霊を慰めるために建立されたのが、現在の采女神社です

そしてお社が鳥居に背を向けて建てられているのは「采女が入水した猿沢池を、あの世から見続けることがないように」との配慮からだとされています

また一説では、最初は通常通り池を正面に向けて建てられていたものの、采女の霊がその向きを嫌がり、一夜のうちにお社の向きが変わったという伝承も残っています

小さな神社ながらも、このような物語が語り継がれていることに、奈良という土地の奥深さをあらためて感じさせられます


 

 


神社は多くの日本人の生活・心に根づいていると思います
初詣、七五三など・・・
そんなある意味「身近な」神社についてわかりやすく解説・分析・魅力など

古今東西、海賊に身を落とす者は枚挙に暇がなく、その前歴は様々です

中国、清の時代に大暴れした女海賊・鄭一嫂(てい いっそう)をご紹介

果たして彼女は、どんな生涯をたどったのでしょうか


遊女から海賊団の女将に

鄭一嫂(てい いっそう)は1775年、現代の広東省で生まれました

本名は石陽(せき よう)、幼名を香姑(こうこ)と言います
日本風に言えば「かおり(かおる)」と言ったところでしょうか

※以下「鄭一嫂」で統一します

鄭一嫂の実家は貧しかったようで、年頃に成長した彼女は広州市の遊郭に売られてしまいます

しばらく遊女として働いていたところ、鄭一(てい いつ)率いる海賊団「紅旗幫(こうきほう。赤旗団)」の襲撃を受けてしまいました

鄭一嫂は拉致されてしまい、1801年に鄭一と結婚させられてしまいます

恐らく他の遊女たちも拉致されており、ひときわ心惹かれる美女だったのでしょう

結婚を機に、彼女は鄭一嫂と呼ばれるようになりました
これは「鄭一の妻」あるいは「鄭さんの第一夫人」という意味です

かくして、心ならずも結婚させられてしまった鄭一嫂。しかしここで泣いてばかりいても始まりません

「こうなった以上、私は夫の事業に全身全霊を奉げましょう!」

何とも切り替えの早いことで、彼女は海賊団の女将として、追手の海賊稼業を全力サポート
何とも肝の据わった女性でした

内助の功か、あるいは夫と一緒に暴れ回ったのかは分かりませんが、1804年には紅旗幫を中華最強の海賊団に育て上げたのです

夫の死で苦境に立たされる

しかし1807年11月16日、夫の鄭一が越南(ベトナム)で亡くなってしまいます

戦死したのか、それとも病死したのかも知れません
どのみちロクな死に方はしなかったでしょう

鄭一というカリスマを喪ったことにより、紅旗幫は空中分解
それまで従っていた有力な海賊たちが「我こそは後継者なり!」と勝手に暴れ始めてしまいました

「冗談じゃない!夫が率いてきた海賊団は、妻である私が受け継ぐんだ!」

鄭一嫂は権力を奪還し、亡き夫に代わる権威を確立するために奮闘します

しかし周囲の者たちは、女性の首領をなかなか認めようとはしません

「お前なんか、夫の威を借る狐じゃないか!」

「娼婦上がりなら娼婦らしく、男に媚びでも売ってろ!」

・・・そこまで言われたかはともかく、なかなか一筋縄では従ってくれず、改めて夫の遺徳を痛感したことでしょう

なんて感心していても事態は打開できません
そこで鄭一嫂は、力づくで従える方針から一転、各勢力との関係強化に努めました

亡き夫のように集権的な存在ではなく、海賊連合の中で盟主的存在としてリーダーシップをとろうとしたのかも知れません

現実的な対応ではありましたが、それでも彼女に対する周囲の目は厳しかったようです

張保との再婚、その後

どこまで行っても、自分が女性である限り海賊団の首領として認められることはない・・・

そう悟った鄭一嫂は、亡き夫の甥に支持を求めると共に、有能な手下であった張保(ちょう ほう。張保仔)と結婚しました

この張保はもともと漁師の子で、15歳の時に紅旗幫の襲撃を受けて拉致され、以来海賊として活動していたのです
鄭一嫂も拉致されて海賊の妻となった身ですから、通じ合うところがあったのかも知れません

かくして鄭一・鄭一嫂の後継者となった張保は、紅旗幫を率いて大暴れ
その実力が認められ、かつて離反していた者たちも、次第に戻ってきました

張保は自身が貧しかった経験から、奪いとったものを貧しい者たちに気前よく分け与え、そのため義賊として人気があったようです

しかしその活躍は長く続かず、1810年に紅旗幫は官軍の「招安」を受けて解散します
招安とは恩赦の一種で、手に負えない賊徒を官軍に迎え入れるものでした

この時に官軍に編入された海賊は、女子供を合わせて17318名
ほか船舶226隻・大砲1315門・武器2798点を保有していたと言います
まるで都市一つぶんの大船団が、海上を駆け回っていたようなものでしょう

以後は武官として取り立てられた張保と鄭一嫂
しかし、後夫の張保は1822年に37歳の若さで世を去ってしまいます

一方の鄭一嫂は、アヘン戦争(1840~1842年)で参謀を務めるなど奮戦しました

敗戦後は武官を辞してポルトガル領マカオに移住、賭博場の経営や塩商いで財産を築いたとされています

そして1844年にマカオで亡くなりました
享年70

鄭一嫂の子供たち

遊女から海賊となり、武官そして事業家として活躍した女傑・鄭一嫂の生涯をたどってきました
なかなか波乱万丈の人生だったのではないでしょうか

そんな彼女は、先夫の鄭一と後夫の張保それぞれとの間に子供をもうけていました

【鄭一との子供】鄭英石(えいせき)、鄭雄石(ゆうせき)

【張保との子供】張玉麟(ぎょくりん)、娘(実名不詳)

また一説には、鄭一が張保の才覚を見込んで養子にしたとも言われています
その場合、張保は鄭一嫂の夫でありながら養子でもあるという、実に複雑な関係だったとも言えるでしょう

二人の子供たちがどのような人物に成長し、どのような生涯を送ったのかについても興味深いところです

改めて紹介できたらと思います

参考 : 袁永綸『靖海氛記』他
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

古今東西、海賊に身を落とす者は枚挙に暇がなく、その前歴は様々です

中国、清の時代に大暴れした女海賊・鄭一嫂(てい いっそう)・・・


遊女から海賊となり、武官そして事業家として活躍した女傑・鄭一嫂・・・
なかなか波乱万丈の人生だったようです


 

 


海賊は物語のなかの存在ではない
16世紀後半に始まるイギリスとスペインの抗争で、ヨーロッパやカリブ海では交戦相手国の船を略奪してもよいという国王の私掠免許が出され、両国の制海権争奪戦に海賊は大きな役割を果たした
また古くはオデュッセウスやアキレウスなど古代伝説にも登場する
8世紀に始まるヴァイキングの遠征、倭寇やイスラム海賊など、海あるところ、時代を問わず存在する海賊の歴史を美しい図版とともに紹介!

老若男女を問わず、恐竜に心惹かれる方は少なくないはず
その理由は簡単にいえば「かっこいいし、強そうだから」ということになるのでしょうが、そういった好奇心に引きずられながら『恐竜大絶滅 陸・海・空で何が起きていたのか』(土屋健 著、中公新書)のページを開いてみたとしたら、恐竜にまつわる世界が予想以上の“沼”だったということに気づくかもしれません

なにしろ恐竜たちが生きていたのは「昔」と呼ぶことすらはばかられるほど昔のことですし、恐竜にまつわる諸々の話も奥深すぎるからです

それは、今から約6600万年前の話だ

一つの巨大隕石が、メキシコのユカタン半島の先端付近に落下した
この巨大隕石の衝突をトリガーとして、「衝突の冬」と呼ばれる大規模な寒冷化が発生
地球の平均気温は、約6℃も下がったといわれている

気候の変化についていくことができず、「滅びの連鎖」が始まった
生命史に残る大量絶滅事件の勃発だ(「はじめに」より)

隕石落下前の地上で、恐竜類が闊歩し、空には翼竜類が舞っていたことは有名な話
私たちがイメージする「恐竜の世界」がそこにあったわけですが、恐竜類も翼竜類も、爬虫類を構成するグループのひとつだったのです

爬虫類はアンモナイトが遊泳する海にも進出し、サメ類と覇権を争っていたのだそう
そんな話を聞くだけでワクワクしてきますが、ともあれその時代を「中世代」と呼ぶわけです

はたしてこの時代にどんなことがあったのか、第1章「隕石落下というはじまり──謎多き大事件」のなかから、いくつかのトピックスを抜き出してみましょう

「中世代」とは?
2024年12月に国際層序委員会が発表したチャートによると、中世代は約2億5200万年前に始まったという
その後、約1億8600万年間にわたって爬虫類の王朝は続き、そして、約6600万年前に勃発した大量絶滅事件によって終わりを告げた
(4ページより)

中世代は、約2億100万年前と約1億4300万年前を境に、「三畳紀」「ジュラ紀」「白亜紀」という3つの「紀」に細分されています
そして約6600万年前の大量絶滅は、中世代に終焉を告げる事件であると同時に、白亜紀の閉幕でもあったのだといいます

大量絶滅事件のあとに始まった「新生代」もまた3つの「紀」に分割され、まず幕を開けたのは「古第三紀」
つまり約6600万年前の大量絶滅事件は、白亜紀と古第三紀の境界にあたるのです

そのため、白亜紀を意味するドイツ語である「Kreide」と、古第三紀を意味する英語の「Paleogene」にちなんで、「K/Pg境界大量絶滅事件」と呼ばれている
ちなみに、白亜紀を英語の「Cretaceous」ではなく、ドイツ語で表記している理由は、地質時代に「C」で始まる時代が他にも複数存在するからだ(5ページより)

そののち、ひとつの巨大隕石が王朝崩壊の引き金となったわけですが、驚くべきはその大きさです
直径は約10キロメートルで、これは東京でいえば池袋駅から田町駅までの直線距離相当
山手線の内側と同等か、もしくはそれ以上に大きな隕石が落ちてきたということです(4ページより)

起きた地震のエネルギーは東日本大震災の約1000倍

衝突速度は秒速約20キロメートルに達したといい・・・といわれてもイメージしづらいかもしれませんが、これは2分もあれば現在の札幌上空から那覇上空に達するスピード
衝突のエネルギーは広島型原爆の約10億倍に相当し、マグニチュードは11以上に達したといいます

2011年の東北地方太平洋沖地震のマグニチュードが9.0だ
マグニチュードは、数字が1上がると、エネルギーは約32倍になる
すなわち、K/Pg境界大量絶滅事件の隕石衝突は、東北地方太平洋沖地震の約1000倍のエネルギーの地震を引き起こしたことになる(6ページより)

「大昔に隕石が地球に衝突したから恐竜が絶滅したらしい」というような認識は、おそらく多くの方が持っておられることでしょう
しかし、その大きさは想像をはるかに超えているようです

いずれにしてもこの衝突によって、地殻の表層は粉砕されることになります
そして地殻の微小な破片が大気中に舞い上がり、長期間にわたって太陽光を遮ることになったのです

つまり、その結果として気温が低下し、一般的に「衝突の冬」と呼ばれている寒冷期が訪れることになったわけです

当然ながら突然の気候変化は、植物にも動物にも大きな打撃を与えることになります
多くの植物が枯れ、その植物を食べる動物たちも飢えていくことに
食物連鎖が崩壊し、それにともなって絶滅が連鎖し、大量絶滅へとつながったのです

なお生命史には、その転換点となる大きな絶滅事件が5回あったとされているのだそうです
恐竜類をはじめとする多くの分類群を滅びに追いやったK/Pg境界大量絶滅事件は、5回目にあたるものだといいます

隕石衝突に始まるK/Pg境界大量絶滅事件の物語は、一般に「隕石衝突説」と呼ばれている
この仮説は、1980年にカリフォルニア大学(アメリカ)のルイス・W・アルヴァレズたちが発表した論文で提唱された
地球史や生命史の研究を行う研究者たちの専門分野の多くは、地質学や古生物学など・・・いわゆる「地球科学」である
その意味では、アルヴァレズは異色である(6〜7ページより)

専門は核物理学で、広島に落とされた原爆を研究していた人物のひとり
1968年には素粒子物理学への貢献が認められ、ノーベル物理学賞を受賞してもいるというのですから、隕石衝突の研究者としてはたしかに異色なのかもしれません

そんなこともあってか、「諸説あり」とされた時代もあったようですが、結果的には隕石衝突を支持する証拠が次々と発表されていくことになったといいます
いずれにしても隕石衝突を発端とする「K/Pg境界大量絶滅事件」が、本書でもたびたび登場する重要なポイントであることは間違いなさそうです(6ページより)

以後の章では、恐竜類や翼竜類、アンモノイド類の歴史から絶滅までの経緯など、さまざまなことがらが明らかにされていきます
最大の注目点は、専門的でありながらも読みやすいこと
そのため、好奇心を刺激されながらあっという間に読み終えてしまえるはず
週末などを利用して、約6600万年前のストーリーに思いをはせてみてはいかがでしょうか

(この記事はライフハッカー・ジャパンの記事で作りました)

恐竜絶滅については、「巨大隕石衝突」説が有力のようです

『恐竜大絶滅 陸・海・空で何が起きていたのか』はとにかく読みやすい・・・

そのため、好奇心を刺激されながらあっという間に読み終えてしまえるはず
週末などを利用して、約6600万年前のストーリーに思いをはせてみてはいかがでしょうか



 

 


6600万年前、生態系の頂点を極めた恐竜類が地球上から姿を消した
大量絶滅事件の原因は、隕石だとするのが現在の定説である
ただ、その影響は一様ではなかった
突然のインパクトを前に、生存と滅亡の明暗は、いかに分かれたのか?
本書は、恐竜、翼竜、アンモノイド、サメ、鳥、哺乳類などの存亡を幅広く解説
大量絶滅事件の前後のドラマを豊富な図版とともに描き出し、個性豊かな古生物たちの歩みを伝える

現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」から一転、 来年度の大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました

豊臣兄弟とは、兄の豊臣秀吉(演:池松壮亮)と、異父弟の秀長(演:仲野太賀)を指しますが、どうも主人公は弟の秀長のようです

秀長は、歴史の教科書にはほとんど登場しない人物ですが、秀吉を側面からサポートし、その天下統一に欠かせなかった人物と、高い評価が与えられています

とはいえ、やはり歴史上のインパクトでは兄・秀吉に軍配が上がるでしょう

少々気が早いですが、『豊臣兄弟!』に思いを馳せ、京都東山に赴き、太閤秀吉が眠る豊国廟と彼を祀る豊国神社界隈の史跡をめぐってきました


謎に満ちた秀吉の墳墓「豊国廟」

太閤ゆかりの史跡めぐりのスタートは、600段近い急な階段を上った頂上にある豊臣秀吉の墓所(五輪塔)である「豊国廟」から

1598(慶長3)年、63歳の生涯を閉じた秀吉は、この阿弥陀ヶ嶽の山頂に葬られ、中腹には豊国神社が建立されました
しかし豊臣家が滅亡すると、徳川家康の命により豊国神社の社殿は徹底的に破壊されます

家康は、秀吉の廟も破壊しようと企てますが、それは秀吉正室・北政所(ねね)の懇願で許され、明治まで朽ちるにまかせたのです

このような非情ともいえる家康の仕打ちには、それなりの事情がありました

1600(慶長5)年、関ケ原の戦いで西軍を破った家康は、その3年後に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます

しかし、その時点においては、大坂城に秀吉の子・秀頼が健在で、朝廷や公家は秀頼を武家の代表として認めていたのです

この状況に家康は、豊臣家を滅ぼさなければ江戸幕府には安泰が訪れないと考え、1614(慶長19)年の大阪冬の陣、翌年の大坂夏の陣で秀頼とその母・淀殿を自害に追い込み、ついに豊臣家を葬り去ります

そうした中、家康が次に狙ったのが、すでに亡くなっている秀吉でした
なぜ家康は亡くなった秀吉に狙いを定めたのか
その理由は死してなお、彼の人気が衰えていなかったからです

秀吉は死後、豊国大明神として神格化され、京都阿弥陀峰の山頂に葬られ、山腹には彼を祀る豊国神社が創建されました

毎年8月18日の秀吉の年忌には盛大な豊国祭が行われ、彼を慕って公家・大名はもとより、庶民までが押し寄せたといわれています

このような状況を家康が見逃すはずがなく、豊国神社の破却と豊国廟の破壊を企てたと伝えられています

しかし、江戸幕府が終わり明治維新を迎えると、明治天皇の勅で秀吉の人権も復活します

そして、1897(明治30)年に豊国廟の整備が行われました
その時、秀吉の遺骸が異常な形で発見されたのです
遺骸は柩ではなく、粗末な瓶に押し込められるように葬られていました

朽ちるに任せられた状態で260年ほど放置されたので、それが盗掘によるものなのか、はたまた幕府など何者かの手によるものなのか判然としていません

さらに、発見後なぜか遺骸と瓶が紛失してしまい、今ではその行方さえも不明となっております

秀吉側なのか敵なのか判然としない「新日吉神宮」

続いては、「豊国廟」の参道を西にまっすぐ進み、「新日吉神宮(いまひえじんぐう)」に向かいましょう

同社は、平安時代末期に後白河法皇が創建し、朝廷からも大いに崇敬されていたとされます

しかし大坂の陣で豊臣家が滅び、豊国廟と豊国神社が破壊されると、江戸幕の命でその参道上に遷座させられました
これは、一説によると豊国廟への道を塞ぐためといわれています

しかし、それとは全く逆な考え方、すなわち「豊国廟」を守護、もしくは来るべき復活の日のために、わざわざ参道上に鎮座したとの説もあり、その真意は判然としません

1897(明治30年)、豊国廟の再興時に参道上から南西の現在地に移転しました

ちなみに本殿脇には、狛猿が金網で囲まれていますが、これは「猿」が夜中に動き回るのを防ぐためだと伝わります

「猿」といえば秀吉
何か関係があるのでしょうか

豊国廟を取り巻く謎を秘める「智積院」

さて、「新日吉神宮」かた、女坂を北へ下ると「智積院」の総門があります

「智積院」は、秀吉が愛児・棄丸(1591年没)を弔った祥雲寺跡に建つ、真言宗智山派の総本山です

同寺は、家康により再興されましたが、池泉観賞式庭園は祥雲寺当時の面影を残し、さらに長谷川等伯一門による絢爛たる障壁画も祥雲寺の遺構として知られています

秀吉ゆかりの寺院跡に家康が伽藍を再建したのは、新日吉神宮同様の狙いがあったのか、これも豊国廟を取り巻く謎として興味がつきません

淀殿の父浅井長政を追善する「養源院」

「智積院」からは、右手に妙法寺門跡をみながら七条通を北に、「養源院」へ向かいましょう

妙法寺門跡は、青蓮院・三千院とともに天台宗三門跡と称される格式のある寺院で、豊臣秀頼が江戸幕府に滅ぼされた後には、方広寺・蓮華王院(三十三間堂)、新日吉神宮を兼帯する大寺院となりました

秀吉と関係の深い寺院でありながら、幕府が実行した豊国神社・豊国廟破却に積極的に協力したという、豊臣側から見る何やら納得のいかない行いをしています
そこまでしなければならないほど、徳川幕府の圧力があったのかもしれません

それはさておき「養源院」に話を戻しましょう

同寺は、秀吉側室で秀頼の母・淀殿ゆかりの寺院です
彼女の願いを受けて、秀吉が浅井長政(淀殿の父)の追善のために、1594(文禄3)年に建立しました

本堂廊下の天井には、秀吉が築城した伏見城の血天井が供養のために貼られていますが、これは同城が関ケ原の戦いで落城した際に、城将で家康重臣の鳥居元忠らが自尽した痕跡とされます

秀吉を神格化した豊国之大明神を祀る「豊国神社」

「養源院」からは「耳塚」を経由して、「豊国神社」「方広寺」へ向かいます

その途中、蓮華王院(三十三間堂)を回り込むようにして歩くと、「三十三間堂太閤塀」が現れます

この土塀は、方広寺創建の際に秀吉が蓮華王院に寄進したもので「太閤塀」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています

軒丸瓦には、秀吉家紋の五七ノ桐があしらわれているので見逃さないようにしましょう

そのまま大和大路通を北へ進み、七条通を渡ると京都国立博物館があります

その大和大路通沿いに残る巨大な石を積み重ねた石垣が、「方広寺石垣」です

この石垣は、秀吉が諸将に命じて築かせたもので、博物館の敷地も方広寺の一部でした

さて、博物館の北端に見える鳥居が「豊国神社」の大鳥居です

その向かいにある円墳を思わせる塚が「耳塚」で、1592(文禄2)年の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、首替わりに持ち帰った敵方の耳や鼻を埋葬した塚と伝わり、2万もの耳や鼻が埋められているとされます

「耳塚」を見学したら、いよいよ「豊国神社」「方広寺」エリアに入ります

「豊国神社」は、豊臣秀吉を祀る神社です

1599(慶長4)年4月、朝廷は秀吉に「豊国之大明神」の神号を与え、吉田神道の吉田家により秀吉が眠る阿弥陀ヶ峰の中腹に遷宮が行われました

毎年8月18日の秀吉忌には「豊国祭」が盛大に催され、特に秀吉七回忌に行われた豊国祭には、公家や武家にあわせ多くの町衆も参加したといわれ、秀吉の京都での人気の高さを証明しました

しかし、豊臣家が滅亡すると、家康の命により豊国大明神の神号は剥奪され、神社は破壊されてしまいます

その後、江戸時代を通じて再興されることはなく、明治維新を迎え、明治天皇の沙汰により再興されたのです

現在の社殿は1875(明治8)年に方広寺大仏殿跡地に建てられたもので、国宝の唐門は南禅寺塔頭の金地院から移された伏見城の遺構と伝わります

歴史散策のフィニッシュは大仏を安置した「方広寺」

さて、秀吉ゆかりの東山の史跡をめぐる歴史散策は「方広寺」で締めくくりましょう

同寺は、東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願した秀吉が、1588(天正16)年から7年の歳月を費やして建立した寺院です
その敷地は、妙法院・三十三間堂・豊国神社・京都国立博物館を含む広大なものでした

この時に造立された大仏は、東大寺大仏を凌ぐ高さ19mという巨大なものでしたが、1596(文禄5)年の大地震により倒壊してしまいます

大仏は秀頼の代に再興されますが、その開眼供養にあわされて造られた「梵鐘の銘文」が、豊臣滅亡のきっかけとなったことは余りにも有名です※方広寺鐘銘事件

その大仏を安置した「大仏殿跡」は、豊国神社裏手に残っています

発掘調査の後、遺構は地下に埋め戻されていますが、説明版の他、礎石などが置かれていますので、豊臣家の権威の象徴であった在りし日の「巨大な大仏」に思いを馳せてみるのもよいでしょう

さて、今回の歴史散策の所要時間は、史跡見学を含めて約2時間30分ほどです

歩き疲れたら、蓮華王院近くに店を構える京菓子司 七條甘春堂 甘味処「且坐喫茶」での休憩をおすすめします

ここは、創業150年の老舗和菓子店併設の甘味処です

真心こめて作られた和菓子と抹茶のセットで、ほっこり寛ぎましょう

※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」から一転、 来年度の大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました

豊臣兄弟とは、兄の豊臣秀吉(演:池松壮亮)と、異父弟の秀長(演:仲野太賀)を指しますが、どうも主人公は弟の秀長のようです

秀長は、歴史の教科書にはほとんど登場しない人物ですが、秀吉を側面からサポートし、その天下統一に欠かせなかった人物と、高い評価が与えられています


個人的には前田利家、豊臣秀長がもう少し長生きしたら、豊臣家の延命や歴史が変わっていたかも・・・

秀長の早世が惜しまれます


 

 


脆弱な豊臣政権を支えた豊臣秀長
彼は秀吉の弟であり日本史史上屈指のNO.2
秀吉の天下統一も彼なしでは難しかったとも
彼は1591年に亡くなるが彼の死も秀吉の良き補佐役を失い豊臣家滅亡へつながったのかも

春画は、江戸時代以前から描かれていた

一般に「性」という概念に対しておおらかであったといわれる江戸時代

その風潮は、当時発達した色彩豊かな風俗画「浮世絵」にも表れています

「浮世絵」には、美人画、役者画、相撲画、風景画といったジャンルがありますが、もう一つの人気ジャンルに「春画」がありました

実は、この「春画」の歴史は古く、その起源は平安時代にまでさかのぼるという説があり、中国からもたらされたともいわれています

日本最古の春画とされるものは、絵巻物の『小柴垣草紙(こしばがきそうし)』とされています

現存するのは17世紀に、江戸前期を代表する大和絵師の一人・住吉具慶(すみよしぐけい)によって模写された写本であるという説が有力です

なお、『小柴垣草紙』は、『十訓抄』巻第五に基づいた秘戯図で、10世紀後半に実際にあったとされる話をもとにしています

その内容は、花山天皇の御代、斎宮(さいぐう)であった済子女王(さいしにょおう)が、伊勢神宮に奉仕するため洛西・嵯峨野の野宮(ののみや)で潔斎していた際に、滝口武者・平致光(たいらのむねみつ)に誘惑され密通したという噂が流れたため、野宮を退下し、伊勢下向が中止となったという逸話です

このように、『小柴垣草紙』は官能的な物語を題材とし、流麗な筆致による詞書と、濃密な描写の挿絵によって構成された、古春画の最高傑作とされています

しかし、その描写のあまりの過激さから、公にされることはきわめて稀でした

その後も春画は描き続けられ、戦国時代になると「勝絵(かちえ)」と呼ばれるようになり、出陣する武士たちは鎧を収める具足櫃(ぐそくびつ)に、厄除けのお守りとして忍ばせていたともいわれています

なお、『小柴垣草紙』の最終章では、性行為のありがたさについて宗教的な言説を用いて説かれており、このことから春画が宗教的な縁起物として考えられていたことがうかがえるのです

ほとんどの浮世絵師が春画を描いた

さて、「春画」と聞くと、現代では猥褻な作品というイメージを持たれがちです

しかし江戸時代においては、老若男女を問わず親しまれる、ポピュラーな浮世絵の一ジャンルとして広く認知されていました

そのため、江戸時代を代表する多くの有名絵師たちも、春画を手がけています

菱川師宣をはじめ、葛飾北斎、歌川国芳はもちろん、大河ドラマ『べらぼう』で蔦屋重三郎の良きパートナーとして描かれる喜多川歌麿など、名だたる絵師たちが春画を描き、その作品には堂々と自らの名前を記していました

とはいえ、“題材が題材”だけに、さすがに幕府も黙ってはいません

享保の改革以降、幕府の取り締まりにより春画は通常の形では出版できなくなり、本屋仲間による検閲を受けない「地下出版物」へと姿を変えていきます

さらに、出版物や浮世絵に対して厳しい姿勢を示した寛政の改革、天保の改革以降は、作品に絵師や作者名、刊行年などの情報が記されることもなくなりました
しかしその代わりに、絵師たちは自らの正体を隠すため、「隠号(いんごう)」と呼ばれる仮の名を用いて作者を暗示するようになります

こうして春画は、絵師や版元が特定されないような形で出版されるようになり、本来記されるべき奥付(おくづけ)も設けられなくなりました

幕府としては、誰が描いたか特定できないため取り締まりが難しく、絵師や作者たちは、むしろ自由な感覚で自身の芸術を世に発表することができたのです

さまざまな説があるものの、一説には「春画こそが浮世絵の最高技術を凝縮したもの」とも言われています

そのためか、有名絵師を含め、ほとんどの浮世絵師が春画を手がけました

では、以下に代表的な絵師の隠号をご紹介しましょう

●葛飾北斎(かつしか ほくさい)/隠号:鉄棒ぬらぬら・紫色雁高(ししき がんこう)
●渓斎英泉(けいさい えいせん)/隠号:淫斎白水
●歌川国芳(うたがわ くによし)/隠号:一妙開程芳(いちみょう かいほどよし)・三返亭猫好・五猫亭程よし・自猫斎由古野
●歌川国貞(うたがわ くにさだ)/隠号:婦喜用又平(ぶきよう またへえ)
●勝川春章(かつかわ しゅんしょう)/隠号:腎沢山人(じんたく さんじん)
●柳川重信(やながわ しげのぶ)/隠号:艶川好信(えんせん こうしん)
●歌川広重(うたがわ ひろしげ)/隠号:色重(いろしげ)

「鉄棒ぬらぬら」「淫斎白水」「婦喜用又平」など、春画の作者として実に言い得て妙な隠号ばかりです

これらの中には、江戸の町人文化の華とも言える「粋」や「洒落」といった美意識、さらには時の権力者をおちょくるようなニュアンスさえ感じられます

人々が春画を購入した目的とは

では、ここからは江戸時代、春画を買うお客の目的についてお話ししましょう

もちろん、“モノがモノ”ですので、自分の快楽のために購入する者もいましたが、それ以外の目的で求める人がほとんどだったと言われます

春画は、もともとは宗教的な縁起物であったと述べましたが、江戸時代には「火避図(ひよけず)」とも称され、「持つことにより火事に合わない」と信じられていました

この他にも、「箪笥に入れておくと虫がつかない」など、人々の間ではさまざまなご利益が囁かれていたのです

もちろん、性教育のため、親が嫁入り前の娘のために購入することもありました

しかし、春画が別名「笑い絵」と呼ばれたように、購入した者たちが酒席などの集いの場において、笑いや遊びのために使ったとも考えられるのです

ここにも、江戸らしい「粋」や「洒落」が感じられるではありませんか
田沼意次の政治が終わり、寛政の改革、天保の改革を経て幕末に向かう過程で、江戸庶民の多くが貧困に見舞われます

しかし、そんな時代に生きながら江戸の人々は、街中で大食い大会を催すなど、明るく懸命に生き抜いていたのです

そのような文化・文政時代に最盛期を迎えた春画。そこに描かれた男女を見ると、この浮世絵が「笑い絵」と称された理由が一目瞭然です

一見して常識を超えるようなデフォルメで描かれた男女の身体表現は、古代において子孫繁栄や農業の豊作などを願うために造られた「陰陽石」を思わせます

春画に登場する人物のこうしたデフォルメは、宗教的な縁起ものであるとともに、観る者を笑わせるためのユーモアにあふれた画法だったといっても差し支えないでしょう

※参考 :
『見てきたようによくわかる蔦屋重三郎と江戸の風俗』 青春出版社刊
樋口清之著 『もう一つの歴史をつくった女たち』ごま書房新社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

春画は、江戸時代以前から描かれていた

一般に「性」という概念に対しておおらかであったといわれる江戸時代

その風潮は、当時発達した色彩豊かな風俗画「浮世絵」にも表れています

「浮世絵」には、美人画、役者画、相撲画、風景画といったジャンルがありますが、もう一つの人気ジャンルに「春画」がありました

実は、この「春画」の歴史は古く、その起源は平安時代にまでさかのぼるという説があり、中国からもたらされたともいわれています

日本最古の春画とされるものは、絵巻物の『小柴垣草紙(こしばがきそうし)』とされています

現存するのは17世紀に、江戸前期を代表する大和絵師の一人・住吉具慶(すみよしぐけい)によって模写された写本であるという説が有力です

なお、『小柴垣草紙』は、『十訓抄』巻第五に基づいた秘戯図で、10世紀後半に実際にあったとされる話をもとにしています

その内容は、花山天皇の御代、斎宮(さいぐう)であった済子女王(さいしにょおう)が、伊勢神宮に奉仕するため洛西・嵯峨野の野宮(ののみや)で潔斎していた際に、滝口武者・平致光(たいらのむねみつ)に誘惑され密通したという噂が流れたため、野宮を退下し、伊勢下向が中止となったという逸話です

このように、『小柴垣草紙』は官能的な物語を題材とし、流麗な筆致による詞書と、濃密な描写の挿絵によって構成された、古春画の最高傑作とされています

しかし、その描写のあまりの過激さから、公にされることはきわめて稀でした

その後も春画は描き続けられ、戦国時代になると「勝絵(かちえ)」と呼ばれるようになり、出陣する武士たちは鎧を収める具足櫃(ぐそくびつ)に、厄除けのお守りとして忍ばせていたともいわれています

なお、『小柴垣草紙』の最終章では、性行為のありがたさについて宗教的な言説を用いて説かれており、このことから春画が宗教的な縁起物として考えられていたことがうかがえるのです

ほとんどの浮世絵師が春画を描いた

さて、「春画」と聞くと、現代では猥褻な作品というイメージを持たれがちです

しかし江戸時代においては、老若男女を問わず親しまれる、ポピュラーな浮世絵の一ジャンルとして広く認知されていました

そのため、江戸時代を代表する多くの有名絵師たちも、春画を手がけています



人々が春画を購入した目的とは

“モノがモノ”ですので、自分の快楽のために購入する者もいましたが、それ以外の目的で求める人がほとんどだったと言われます

春画は、もともとは宗教的な縁起物であったと述べましたが、江戸時代には「火避図(ひよけず)」とも称され、「持つことにより火事に合わない」と信じられていました

この他にも、「箪笥に入れておくと虫がつかない」など、人々の間ではさまざまなご利益が囁かれていたのです

もちろん、性教育のため、親が嫁入り前の娘のために購入することもありました

しかし、春画が別名「笑い絵」と呼ばれたように、購入した者たちが酒席などの集いの場において、笑いや遊びのために使ったとも考えられるのです

ここにも、江戸らしい「粋」や「洒落」が感じられるではありませんか
田沼意次の政治が終わり、寛政の改革、天保の改革を経て幕末に向かう過程で、江戸庶民の多くが貧困に見舞われます

しかし、そんな時代に生きながら江戸の人々は、街中で大食い大会を催すなど、明るく懸命に生き抜いていたのです

そのような文化・文政時代に最盛期を迎えた春画。そこに描かれた男女を見ると、この浮世絵が「笑い絵」と称された理由が一目瞭然です

一見して常識を超えるようなデフォルメで描かれた男女の身体表現は、古代において子孫繁栄や農業の豊作などを願うために造られた「陰陽石」を思わせます

春画に登場する人物のこうしたデフォルメは、宗教的な縁起ものであるとともに、観る者を笑わせるためのユーモアにあふれた画法だったといっても差し支えないでしょう


 

 


歴史は、舞台裏がおもしろい!
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ほか、浮世絵、出版事情、吉原から、芝居、グルメ、ファッションまで・・・“江戸のメディア王”が躍動した時代の本当の楽しみ方がわかる本

【世界史ミステリー】満洲と清の「意外な共通点」、王朝の命運を決めた漢字の話
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある

● 満洲や清に込められた思いとは?

17世紀初頭に、中国東北部に割拠した女真人が再び台頭を始めます
女真人といえば、12世紀に金という国を建国し、北宋から華北を奪った民族です

その女真人がヌルハチ(在位1616〜1626)という首長によって統一され、金(後金)という国が建国されます
ヌルハチはまた自身の国を「満洲(マンジュ)」と呼び、これ以降に女真人は現在まで満洲人と呼ばれるようになります

ところで、この「満洲」という表記ですが、「満州」のほうが見慣れているという方も少なくないと思います
実際は、「洲」という州に「さんずい」が付いたほうが正式な名称なのですが、これにはある理由があります

 ●「満洲」が2文字とも「さんずい」が付いている理由は何か?

この問いについては、解答の前にまずは思想的な背景から
中国では古代より、五行説(五行思想)と呼ばれる自然哲学が信じられてきました
五行説とは、万物が木、火、土、金、水の5つの元素からなるというもので、中国では戦国時代に陰陽五行説として大成されます(日本ではこれに道教の要素が取り入れられ陰陽道や陰陽師に派生します)

この5つの元素は、互いに相生(相手の元素を生み出す作用)や相克(相手の元素を滅ぼす作用)の関係にあり、満洲(後金ないし清)が戦った明は、名前から推測できるように「火徳」の王朝名であり、これと相克の関係にある「水徳」を強調するため、「満洲」や「清」といったように「さんずい」のついた名称が目立つというわけです

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDIAMOND onlineの記事で作りました)

満洲や清が五行説と関係があるとは・・・

 

中国では古代より、五行説(五行思想)と呼ばれる自然哲学が信じられてきました
五行説とは、万物が木、火、土、金、水の5つの元素からなるというもので、中国では戦国時代に陰陽五行説として大成されます(日本ではこれに道教の要素が取り入れられ陰陽道や陰陽師に派生します)

この5つの元素は、互いに相生(相手の元素を生み出す作用)や相克(相手の元素を滅ぼす作用)の関係にあり、満洲(後金ないし清)が戦った明は、名前から推測できるように「火徳」の王朝名であり、これと相克の関係にある「水徳」を強調するため、「満洲」や「清」といったように「さんずい」のついた名称が目立つというわけです


 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

「犬鳴村」と聞けば、福岡県の犬鳴峠周辺にまつわる心霊スポットや、都市伝説を思い浮かべる人が多いかもしれない

犬鳴村に繋がっていると伝わる「旧犬鳴トンネル」は、かつて実際に殺人事件が起きた場所としても知られており、犬鳴村はもし足を踏み入れれば二度と帰ってはこれないという、全国でも指折りの恐怖スポットと噂されている

ただし、こうした「犬鳴村」の話はあくまで創作された都市伝説であり、実在の地名や村としての記録は存在しない

しかし、かつて福岡県宮若市の犬鳴地方には、「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」と呼ばれる実在の集落が存在していた

今では集落のほとんどが犬鳴ダムの底に沈んでしまったが、「犬鳴御別館跡地」や「日原神社」など、かつての歴史を感じさせるいくつかの痕跡も残されている

17世紀末に福岡藩の要所として成立し、20世紀末にダム底に沈んだ「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」の歴史を紐解いていこう


犬鳴谷村、成立以前の歴史

『筑前国続風土記』によれば、犬鳴山と呼ばれるようになる前は、この地域は「火平(ひのひら)」または「大河内」と呼ばれていたという

織田信長や豊臣秀吉に重用された黒田官兵衛の嫡男で、福岡藩の初代藩主となった黒田長政が、1601年に筑前国に入府した際に、この辺りを視察したといわれている

大坂夏の陣が起こった1615年には、藩主として産業振興に力を入れていた黒田長政の命により、犬鳴山での植林が始まり、以後1623年に長政が没するまでの間に、犬鳴峠(旧称・久原越)の道も開かれたとされている

第2代藩主の黒田忠之の時代には、年間植林面積が5万坪に及ぶようになり、福岡藩の林業の要所として、勘場という役所が建てられ管理されるようになった

第4代藩主の黒田綱政の時代、1691年には、福岡藩は藩有林の維持管理のために御譜代組足軽の篠﨑、藤嶌、三浦など数家に移住を命じ、足軽の集落が形成されたことにより「犬鳴谷村」が成立したとされる

犬鳴谷村の足軽たちは、公的に帯刀を許された士分扱いの上級足軽として扱われ、組頭には篠﨑家当主の篠崎文内が任命された

「犬鳴」という地名が使われるようになったのも犬鳴谷村が成立してからのことで、その由来は「犬でも越えられない深い山で犬が悲しく鳴いたため」、「峠道の途中に滝があり、犬が上に登れず鳴いていたため」「律令時代に稲置(いなぎ)の境界線に位置していたため、いなぎが訛っていんなきと呼ばれた」など諸説ある

江戸時代の犬鳴谷村

筑前国に生まれた学者の貝原益軒(かいばら えきけん)は、『筑前国続風土記』の編纂事業のために、1696年に犬鳴山を訪れている

1703年には、日吉山王宮より大国主命・市杵島姫命・大山祇命が勧請され、犬鳴字下谷の割谷に沿った高台に、村の鎮守社として「日原神社(ひのわらじんじゃ)」が創建された

日原神社の「ひのわら」は、犬鳴のかつての地名「ひのひら」に由来する社名とされている

1732年の享保の大飢饉では福岡藩内でも多数の餓死者が出たが、犬鳴谷村は困難を乗り越えて存続した

その後、1748年には幕府から黒田家にオタネニンジン(高麗人参)の種子が下賜され、犬鳴山での栽培に成功
1762年には、その成果が幕府に献上されたと伝えられている

江戸時代中期以降の犬鳴谷村は、豊富な木材を利用した木炭や和紙の製造、銅鉱山の開発、タタラ製鉄事業など、数多くの産業に特化した地域となった

福岡藩の要所であったことから幕末の1864年7月には、福岡藩内の勤王攘夷派の中心人物だった加藤司書(ししょ)の推進により、非常時の藩主の逃げ城として「犬鳴御別館」の建設が開始された

しかしこの「犬鳴御別館」をきっかけに、福岡藩内を揺るがす大事件が勃発してしまったのだ

140名以上が処罰された、乙丑の獄(いっちゅうのごく)

幕末の動乱期、福岡藩は非常時に藩主が退避するための逃げ城として、山深い犬鳴の地に「犬鳴御別館」を建設し始めた

ところが、藩内の佐幕派はこの建設が、勤王攘夷派によって藩主・黒田長溥(ながひろ)を幽閉し、養嗣子の長知(ながとも)を擁立して実権を掌握するための拠点ではないかと疑い、長溥に報告した

この報告は、藩内で高まっていた勤王派への不信をさらに強める一因となり、最終的に「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」と呼ばれる藩内弾圧へとつながっていった

黒田長溥は、もともと勤王寄りの立場をとっており、藩内で勢力を強めていた勤王攘夷派の動きを黙認していた

しかし、彼らの行動は次第に過激化し、ついには長州藩の急進派を擁護する姿勢を取っているとして、幕府から福岡藩は厳しく叱責を受けることになる

こうした中、藩内の勤王攘夷派を主導していた加藤司書は、大老・黒田溥整(ふせい)と連名で、「藩内の心を一つにするためにも、佐幕的の立場を見直してほしい」とする建白書を長溥に提出した

だがこの行動は、藩主に対する反抗と受け取られ、長溥の逆鱗に触れてしまう

結果として立場を無くし、追い詰められた加藤ら勤王攘夷派は、内部対立の挙句に同士討ちを始めてしまい、まもなく佐幕派が復権して勤王攘夷派弾圧が始まった

そして1865年、福岡藩の藩士と関係者140名以上が逮捕され、加藤司書や建部武彦など7名が切腹、藩士の月形洗蔵など14名が斬首、女流歌人の野村望東尼など15名が流罪となった

福岡藩内で起きたこの大規模な弾圧事件は、乙丑年に起きたことから、「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」と呼ばれる

結局、犬鳴御別館は当初の目的である藩主の避難所として使われることはなく、1869年に福岡藩知事となった黒田長知が現地を視察した際、一時的に宿泊所として利用されたのみであった

以後は放置されて1884年に倒壊し、今では跡地を残すのみとなっている

明治維新後の犬鳴谷村

明治維新後、黒田長溥の養子で世子だった黒田長知は、福岡藩の知藩事に任命されたが、藩政下で発覚した贋金製造事件(太政官札贋造事件)の監督責任を問われ、1871年にその職を罷免された

後任の知事として、有栖川宮熾仁親王が福岡に赴任
同年の廃藩置県により筑前国は福岡県に再編され、翌年には明治政府によって教育制度の基本方針となる「学制」が発布された

それに伴い、犬鳴谷村にも学校が設けられたとされている

1877年に西南戦争が起きた際には、もともと足軽の子孫が多く暮らしていた犬鳴谷村から多くの壮年男性が徴兵され、小倉歩兵第十四連隊に配属された

彼らは各地を転戦し、中には戦死した者もいたが、戦功を挙げて乃木希典から表彰されたという伝承も残っている

また、犬鳴谷村で代々組頭を務めていた篠崎家の一人、篠崎豊彦は、日露戦争に従軍して満州に渡り、戦後は大連に留まって実業を興し成功を収めたと伝えられる

帰国後は政界にも関与し、1934年に死去
その遺骨は犬鳴ダムの奥にある篠崎家の墓地に埋葬されたという

犬鳴谷村は、1889年に周辺の4つの村と合併して吉川村の一部となり、「吉川村犬鳴」として集落は存続していたが、犬鳴ダムの建設が進められることとなり、1986年までに全住民が脇田地区へ集団移転した

鎮守であった日原神社も、水没を避けるために脇田に遷座され、1994年に犬鳴ダムが完成すると、かつての犬鳴集落跡地はダム湖の水底に沈んだのである

都市伝説とは異なる犬鳴谷村の実態

実在した犬鳴谷村の歴史は、都市伝説として語られる「犬鳴村」とは全く無関係である

「犬鳴村伝説」は、岡山県で発生した津山事件をもとに創作されたフィクションだとする説もあるが、信頼できる根拠には乏しく、あくまで噂の域を出ない

実際、旧犬鳴トンネルでは1988年に殺人事件が、犬鳴ダムでは2000年に死体遺棄事件が発生している
しかし、人目につきにくい山間部で事件が起こることは、犬鳴に限った現象ではない

一方で、心霊スポットとして知られるようになった旧犬鳴トンネル(犬鳴隧道)は、不法投棄や暴走族の溜まり場となったことで問題視され、現在は封鎖されている

周辺の道路は狭く、崖崩れや荒廃も進んでおり、立ち入りには現実的な危険が伴う

たとえ都市伝説が事実無根であったとしても、安易に足を運ぶべき場所ではないことに変わりはないだろう

参考 :
吉田悠軌 (著) 『禁足地巡礼【電子特別版】』
歴史群像編集部 (著)『全国版 幕末維新人物事典』
文 / 北森志乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「犬鳴村」と聞けば、福岡県の犬鳴峠周辺にまつわる心霊スポットや、都市伝説を思い浮かべる人が多いかもしれない

犬鳴村に繋がっていると伝わる「旧犬鳴トンネル」は、かつて実際に殺人事件が起きた場所としても知られており、犬鳴村はもし足を踏み入れれば二度と帰ってはこれないという、全国でも指折りの恐怖スポットと噂されている

ただし、こうした「犬鳴村」の話はあくまで創作された都市伝説であり、実在の地名や村としての記録は存在しない

しかし、かつて福岡県宮若市の犬鳴地方には、「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」と呼ばれる実在の集落が存在していた

今では集落のほとんどが犬鳴ダムの底に沈んでしまったが、「犬鳴御別館跡地」や「日原神社」など、かつての歴史を感じさせるいくつかの痕跡も残されている


都市伝説などが出た「犬鳴村」・・・


都市伝説とは異なる犬鳴谷村の実態

実在した犬鳴谷村の歴史は、都市伝説として語られる「犬鳴村」とは全く無関係である

「犬鳴村伝説」は、岡山県で発生した津山事件をもとに創作されたフィクションだとする説もあるが、信頼できる根拠には乏しく、あくまで噂の域を出ない

実際、旧犬鳴トンネルでは1988年に殺人事件が、犬鳴ダムでは2000年に死体遺棄事件が発生している
しかし、人目につきにくい山間部で事件が起こることは、犬鳴に限った現象ではない

一方で、心霊スポットとして知られるようになった旧犬鳴トンネル(犬鳴隧道)は、不法投棄や暴走族の溜まり場となったことで問題視され、現在は封鎖されている

周辺の道路は狭く、崖崩れや荒廃も進んでおり、立ち入りには現実的な危険が伴う

たとえ都市伝説が事実無根であったとしても、安易に足を運ぶべき場所ではないことに変わりはないだろう


 

 


大島半島ニソの杜、氣比神宮の社叢、沖縄の御嶽、八幡の藪知らず、将門の首塚、対馬のオソロシドコロなど・・・
人が足を踏み入れてはならない場所が、日本各地には点在している
本書であげられたスポットすべてに足を運んだ著者が、誰も体系的に論じたことのない「日本の禁足地」が持つ「恐れ」と「怖れ」と「畏れ」について考察する

古代中国の皇帝の埋葬方法

中国は悠久の歴史の中で、幾多の王朝が興亡を繰り返してきた

各時代の皇帝たちは「天命」を受けて天下を治め、その死は国の命運に大きな影響を及ぼしてきた

彼らの埋葬は単なる葬儀ではなく、政治的・宗教的・文化的儀礼の集大成であり、国家の威信をかけた一大事業であった

秦の始皇帝陵に代表されるように、巨大な陵墓には地下宮殿や副葬品が備えられ、死後の世界でも皇帝としての地位を保てるよう設計されていた

そうした壮麗な埋葬儀礼の根幹をなすのが「土葬」である

中国の歴代皇帝の大多数は、土中に遺体を埋葬される伝統に従った

これは単なる風習ではなく、古代中国に深く根ざした宗教的・倫理的観念によるもので極めて厳格に制度化されていた

なぜ土葬だったのか

なぜ、これほどまでに土葬が重視されたのか
そこには、儒教が深く関わっている

儒家は、

身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也

意訳(身体は父母から授かったものであり、これを損なうことは孝に反する)

という理念を重視した

つまり、火葬は肉体を焼き尽くす行為であり、それは先祖と身体への冒涜とされたのだ
よって、土葬こそが「孝」の実践であり、道徳的に正しい死後のあり方だった

また、中国古代では「死後の世界」こそが真の存在とされ、生前よりも重要視される傾向があった

人間の寿命は短く儚いが、死後は「永遠」である
だからこそ、生前の威光をそのまま死後にも維持できるよう、実体のある遺体を残すことが重んじられた
土葬は、来世における存在を物質的に支える手段とされたのだ

さらに、祖先崇拝の観念もこの文化を支えた

肉体を損なわずに葬ることで、祖霊への礼を尽くし、子孫が定期的に祭祀を行い、供物を捧げる「祀り」の場を維持することができる

この思想は民間にも浸透しており、「墳墓に魂が宿る」という信仰と結びついていった

「火葬」された、ただ一人の皇帝

たが、例外的に「火葬」された皇帝がいる

清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい 在位1643〜1661)である

順治帝は、中国の歴代皇帝たちの中で、正史において火葬されたと確認できる唯一の人物である

清朝の皇帝として北京紫禁城で育った順治帝は、わずか6歳で即位し、8歳から親政を開始した
その在位中、満漢融合政策の推進、反乱鎮圧、仏教振興など、多方面に渡る政策を打ち出したが、わずか24歳で天然痘により急逝してしまった

順治帝は、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝、いわゆる「康雍乾盛世」の黄金時代を導いた聡明な皇帝であったが、なぜ「火葬」されてしまったのだろうか

まず、その大きな要因とされているのは、順治帝の仏教への傾倒である

彼は特に禅宗に深く帰依し、僧侶を紫禁城内に招くなど、皇帝としては異例の行動を取っていた
側近の宦官・呉良輔(ご りょうほ)を出家させたこともその一例であり、晩年には自らも出家を望んでいたとも伝えられている
こうした仏教的信仰が、遺体の火葬という選択に直結した可能性は高い

加えて、当時の北京では天然痘の流行が深刻であり、満族(女真族)にとっては免疫のない致命的な疫病だった

順治帝の感染に際して、宮廷は感染拡大を防ぐため、衛生・封鎖措置として火葬を選択したとも考えられている
実際、清初には痘瘡流行に備えて南苑に「避痘所」が設けられていたが、それでも皇帝を守ることはできなかった

順治帝の遺体は紫禁城内で火葬された後、骨灰が清東陵の孝陵に埋葬されたとされている

また、他にも火葬された可能性のある皇帝はわずかに存在する

たとえば、遼の第2代皇帝・耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)には「塩漬けの後に焼いた」という逸話があり、モンゴル帝国のクビライらにも「秘葬」や「火葬」を示唆する記録がわずかに存在する

だが、これらは伝聞や後代の解釈に過ぎず、順治帝のように正史や複数史料で確認できる明確な火葬記録は現存していない

異例尽くしの死の「準備」

順治帝は、自身の遺体が火葬されるよう手配していたと伝えられる

当時の記録によれば、火葬を実行するための「火化師」が手配されており、最愛の妃である董鄂(ドンゴ)氏の火葬も、同一人物の手によって行われたとされている

その遺詔もまた異例であった

病床の順治帝は、自身の側近であった文官・王熙(おうき)と麻勒吉(マラジ)を呼び、遺言を口述させたが、その内容はまるで懺悔録のようであり、自らの政治的失敗を細かく述べている

太祖・太宗の遺志を十分に継げなかったこと、漢人官僚を過度に重用したこと、宦官を使いすぎたこと、そして満洲の貴族層と距離を置いたことなど、多くの「失策」を自らの言葉で告白しているのだ

この遺詔は後に改ざんされた可能性も指摘されているが、原本とされる写本の記述には、皇帝の苦悩と自己省察が色濃くにじんでいる

順治帝の死は、遺詔を出したその年の正月初七(1661年2月5日)に訪れた

遺体は火葬され、その骨灰は北京郊外の清東陵・孝陵に納められた
葬儀では数名の側近が殉死し、数百点に及ぶ副葬品が焼かれたという

宮廷は当初、火葬の事実を詳細には公表しなかったため、後年には「順治帝は死なずに出家して姿を消した」という逸話も生まれた

だが複数の記録と実際の葬送の痕跡を重ねるかぎり、順治帝の火葬は事実と見なされている

順治帝の死は、ただの早世ではない

伝統的な皇帝像を超えて、宗教的信仰に殉じ、また感染症の拡大という現実に向き合った結果としての火葬は、中国皇帝史上きわめて異例であり、今も特異な輝きを放っている

参考 : 『清史稿』卷五、卷二百十四『清實錄‧清世祖章皇帝實錄』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

中国の歴代皇帝は「土葬」だった

これは儒教、当時の中国の死生観が関係してるようだ


たが、例外的に「火葬」された皇帝がいる

清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい 在位1643〜1661)である


順治帝は、中国の歴代皇帝たちの中で、正史において火葬されたと確認できる唯一の人物である

彼が仏教に傾倒していた、(伝染の)天然痘で亡くなったことも「土葬」に・・・

ラストエンペラーも火葬されているが、彼は「平民」となった「元皇帝」で記録に残る「現役皇帝での土葬」は順治帝のみ


ちなみに中国で皇帝はあの始皇帝からだとされる




 

 


始皇帝は、史上初めて中国を統一した
中国で皇帝を最初に名乗った
あの精巧で緻密な兵馬俑を作り、歴代王朝へ引き継がれた万里の長城を作り始め、不老不死の仙薬を求めた興味深い人物の実像に迫る