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メインウェーブ日記

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「この世」の終わりである三途の川を渡ろうとしたら、「あの世」にいる人から「まだ早いよ」と言われて引き返した・・・
死に瀕したのちに、生還した人たちがこのようなことを語るのを聞いたことがないだろうか
こういった体験は、くだらないオカルトだろうか
医学の解明が進んだ現在、臨死体験はまったく信憑性がないともいえなくなった
もっとも、まだ全貌が解明されたわけではなく、死の直前の脳の異常活動によるものだと、臨死体験研究じたいを否定する人たちもいる
しかし、この臨死研究は、意外な「人間の意識についての哲学的な議論」につながっている

理解を進めるために、韓国でトリプルミリオンセラーとなった『全人類の教養大全』シリーズ著者のチェ・ソンホ氏の解説を見ていこう

■増加している臨死体験の経験者数

臨死体験は「Near Deathh Experience」の頭文字をとって「NDE」ともいう

医学的な定義は、死に瀕した人が特別な体験をして生還する現象のことをいう
中世の資料にも臨死体験に関する資料が残っているけれど、議論がはじまったのは最近だ

その背景にあるのは、医学の進歩だ
技術発展のおかげで、一度止まった心臓や呼吸をふたたび動かすことが可能になって、臨死体験をしたという人が増えたのだ

具体的な例として、自分の身体を外から眺める体外離脱、光のトンネルを通過する体験、穏やかな気持ち、知覚能力の拡大、耳鳴り、死んだ知人との遭遇、人生の記憶が一気によみがえる現象、「あの世」と「この世」の境界線での回帰などがある

このような体験の特徴は、おおむね文化圏・地域・人種・宗教には関係なく普遍的な構造を持つということだ
とくに、文化的な体験が少ない幼少時の臨死体験も、大人と同じパターンを示すのはとても興味深い

■なぜまったく違う人生を歩んできた人たちが

不思議なのは、ほとんどの臨死体験者が、彼らがもともと持っていた宗教的な信念と臨死体験を結びつけて考えないという点だ
もともと信仰していた宗教から離れて、より普遍的な考察に興味を持つようになったと報告されている

また、体験者たちは日常生活での変化を感じることもある
まわりの環境や人びとを配慮するようになったり、知識を増やしたいという欲求が強くなったりするといったことで、死に対する恐怖がなくなったケースもあるという

臨死体験の比較的詳細な記録としてあげられるのが、1991年のパム・レイノルズのケースだ

歌手兼作曲家だった彼女は、34歳のときに脳の病気を患った
彼女の主治医は、体温を15℃に下げて脳内の血液を抜いた状態で手術を行った

この手術は、当時の医療関係者や科学者たちの注目を集めた
脳の血液を抜いた状態で手術が行われるので、もし彼女が臨死体験をするなら、臨死体験は脳が機能を失ったあとに経験するものだという証拠になるからだ

手術中、彼女の脳波は1時間ほど止まっていたことが確認された
目をさましたパム・レイノルズは、自分が臨死体験をしたと主張し、隣で手術を見守っていたと言った
その根拠として彼女は、手術の過程と医者らの会話、手術用機器の形を正確に描写した

■脳波が停止した女性の手術の正確な記憶

このケースについては、現在も議論がつづいている
手術記録によると彼女の目には乾燥を防ぐためのテープが貼られていたし、聴覚保護のために耳には特殊な効果音が流れるイヤホンをつけていた
だから術中覚醒をしていたとしても、場面や会話を覚えることは不可能だろうといわれている

臨死体験に関する議論は、2つの哲学的な考え方にもとづいている
それは、精神や魂というものが物質とは別の独立的な存在なのかを認めるか、認めないかだ

精神を独立した存在として認める「物心二元論」では、臨死体験は身体の死後の精神的な経験だとみなす
記憶と認知活動は、脳という物だけでなく、それとは別の存在である精神によって行われることも可能だと考えるからだ

一方で、精神を物に還元して物の存在だけですべてを説明する「物心一元論」の観点から見ると、臨死体験は脳の異常そのものであって、脳の能力を超える記憶や認知活動は不可能なことだ

研究がはじまったのは比較的最近だから、これからさらに深い議論がされるのではないだろうか

また、臨死体験が実在するものだと考える側もそうでない側も、死の直前に脳が特殊な経験をするということは事実として認めている

臨死体験をした人は、第三者には理解できない主観的な経験をしているのだ

(この記事は東洋経済オンラインの記事で作りました)

臨死体験はおおむね文化圏・地域・人種・宗教には関係なく普遍的な構造を持つということだ
とくに、文化的な体験が少ない幼少時の臨死体験も、大人と同じパターンを示すのはとても興味深い

私は臨死体験が是か非かはわからないが、現在の科学を超えた「なにか」があるのかもしれない



 

 


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長い歴史のなかで見ても、とても“特殊”な状況だ
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低い身分から天下人にまで成り上がり、戦国時代を終わらせた男・豊臣秀吉

日本人なら誰でも知っているほどの有名人である秀吉だが、実はその正確な出自はいまだに明らかではない

秀吉に仕えた竹中半兵衛の息子・竹中重門(しげかど)が書いた『豊鑑』によると、秀吉は「郷のあやしの民の子(身元もよく分からない村の下層民の子)」であり、父母の名前も一族も定かではないとしている

だが、幼い頃の秀吉は本当にそこまで卑しい身分であったのだろうか

秀吉の両親や一族についての代表的な説を紹介し、その出自を考察する


秀吉の父について

現在、『豊臣秀吉の父』とされる人物はふたりいる

ひとりは実の父である木下弥右衛門(きのした やえもん)
もうひとりは、弥右衛門の死後に継父となった竹阿弥(ちくあみ)

秀吉の姉と秀吉は弥右衛門の子であり、弟の秀長と妹の旭は竹阿弥の子、というのが小説やドラマなどにおける定番の構図となっている

しかし、弥右衛門や竹阿弥がどのような人物であったかは、同時代の史料で確認することはできない
そのため、秀吉の父の経歴については江戸時代以降に編纂された史料を参照するしかない

秀吉の父についての代表的な説は、以下の3つである

・『甫庵太閤記』秀吉の父は、織田大和守家の織田達勝に仕えた尾張中村の住人・築阿弥入道
代々武士の末席に加えられていたが、築阿弥の代になって家は没落した

・『祖父物語』秀吉の父は尾州ハザマ村生まれの築アミで、織田信長の同朋衆
清須に在住し、そこで秀吉が産まれた

・『太閤素性記』秀吉の父は木下弥右衛門
尾張中中村の人で、織田信秀の鉄砲足軽であり、秀吉が8歳のとき、天文12(1543)年に死んだ
その後、織田信秀の同朋衆である築阿弥が秀吉の母に婿入りし、秀長と旭をもうけた

ざっと眺めてみると、秀吉の実父が木下弥右衛門なのか築阿弥(竹阿弥)なのか、という点からして見解がバラバラである

また、秀吉の父が現役であった頃、織田家には信長の同朋衆も、鉄砲足軽隊も存在していなかったと考えられている
この時点で『祖父物語』『太閤素性記』の記述をそのまま信用するわけにはいかなくなる

『甫庵太閤記』の記述についても、史料というより小説としての側面が強く、創作が多々混ざっているという指摘があるため、鵜呑みにすることはできない

しかし、上記の説には共通点がある
それは「秀吉の父は織田家に仕えていた」ということだ

秀吉が信長に仕えて立身出世した背景には、かつて武士であった父の存在があったとは考えられないだろうか

秀吉の母について

同時代の史料によると「秀吉の母は尾張愛知郡御器所村で、永正14(1517)年に生まれた」とされている

通説では『なか』とされるが、この名前を確認できる史料はない

秀吉のいとこである青木一矩の子孫が所有する家系図によると、秀吉の母は、尾張愛知郡の住人・関弥五郎兼員の娘であったとされる

『関』という苗字の記録からみて、秀吉の母は農村部にあって一定水準以上の経済力や地位を有していたとみていいだろう
当時の農村部で苗字を公称することは、有力な百姓でなければできなかったからである

そうすると秀吉の父は「有力な百姓の娘と結婚できる身分であった」ということになる

この推測は、上記の「秀吉の父は織田家に仕える武士であった」という説を補強する材料にはならないだろうか

実は裕福だった?秀吉の実家

秀吉は低い身分から成り上がった、という伝説は間違いではない

しかし、その『低い身分』というのは、あくまで貴族や大名からみた話であり、一般庶民の感覚でいえば、秀吉の実家は中流以上の家庭であったのだろう

これは、秀吉が織田家に仕えて順調に出世し、地位を築いていったことからも推測できる

もしも秀吉が本当に最底辺の身分に生まれたのであれば、軍役や文書の発給など、武将としての業務をこなせるほどの学力や教養も身につかなかっただろう

また、秀吉子飼いの武将であった福島正則は、その出自について「秀吉の父方のいとこである」という説が伝わっている
その系譜についてもさまざまな説があるが、本当に秀吉の父が名もないような身分であれば、こうした血縁関係を示す伝承自体が残ることは考えにくい

秀吉は「自分は幼少期に孤児であった」と北条氏直への手紙でつづっているが、これは父の死後のことであったと考えられる
父が亡くなったあと家は没落し、経済的に困窮した秀吉は奉公へ出ざるを得なくなったのではないだろうか

若い頃の秀吉は農業や商業など、土地を転々としながらさまざまな職業を経験した

このことが後に「秀吉は低い身分の出」であるというイメージにつながったのだろう

存在を抹消された理由

それでは、秀吉の父が、秀吉によって官位を追号された形跡もなく、墓所が築かれたかどうかも明らかでないのはなぜだろうか

その理由として考えられるのは、秀吉が天下人となった後、自らの出自を意図的に曖昧にし、あるいは改ざんしようとした可能性である

秀吉は、天正13(1585)年の関白就任前後に、自分は天皇の子であるとほのめかす「皇胤説」を広め始めたという

「自分の父親は帝である」と自称しはじめた以上、秀吉はおおっぴらに実の父親の存在を認めるわけにはいかず、あたかも最初からいなかったかのように扱ったのではないだろうか

そのため、実父に官位を追贈せず、墓所の所在も定かでないのは、むしろ意図的な抹消の結果とも考えられる

「郷のあやしの民の子」とされた男の出自をめぐる謎は、今も完全には解かれていない

だが、その出自に目を凝らすことでこそ、我々は「人たらし」としての秀吉の原点に触れることができるのかもしれない

参考資料 :
『羽柴秀吉とその一族』 黒田基樹著 角川選書
『秀吉研究の最前線』 日本史史料研究会編 洋泉社歴史新書
『福島正則』 福尾猛市郎・藤本篤著 中公新書
『図説豊臣秀吉』 柴裕之編著 戎光祥出版
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

低い身分から天下人にまで成り上がり、戦国時代を終わらせた男・豊臣秀吉

日本人なら誰でも知っているほどの有名人である秀吉だが、実はその正確な出自はいまだに明らかではない

秀吉に仕えた竹中半兵衛の息子・竹中重門(しげかど)が書いた『豊鑑』によると、秀吉は「郷のあやしの民の子(身元もよく分からない村の下層民の子)」であり、父母の名前も一族も定かではないとしている

だが、幼い頃の秀吉は本当にそこまで卑しい身分であったのだろうか


秀吉の出自、一族についてはいろいろといわれている
だが、その出自に目を凝らすことでこそ、我々は「人たらし」としての秀吉の原点に触れることができるのかもしれない


 

 


戦国武将のなかでもトップクラスの人気を誇る羽柴(豊臣)秀吉
著名な人物であるにもかかわらず、父母やきょうだい、親類の実態についてはいまだ謎に包まれたままである
秀吉の父親はどのような職に就いていたのか
弟・秀長の妻子はどのような人物なのか
「秀吉政権」の構造と性格を把握するうえで不可欠な一族・親族の情報を徹底検証
史料の発掘により通説が大きく書き改められるいま、秀吉の親族研究の到達点を示す

アフリカ大陸にはライオンやワニ、サソリ、毒蛇といった、人間にとって危険な生物が多数生息している

中でもカバは、そのユーモラスな外見とは裏腹に凶暴な性質を持ち、現地では最も恐れられる生物の一つである
実際、年間に数百人がカバに襲われ命を落としており、ときに三千人に達するという推計も存在する

その巨体と攻撃性から、カバはしばしば自然を超えた存在として扱われ、畏敬の対象となってきた

そうしたカバにまつわる神話や伝承を紹介していきたい


地中海沿岸のカバ伝説

古代エジプト文明においては、害を及ぼす動物を神格化することで、その力を御し、災いを避けようとする信仰が存在した

害獣を司る神に祈ることで、それらの動物が人間に危害を加えないようにと願ったのである

カバもまた例外ではなく、猛獣として恐れられる一方で、神聖な存在として崇拝の対象となっていた
なお、現在ではナイル川に野生のカバは見られないが、古代には同地に生息していたことが記録や動物遺骸から確認されている

カバを司る神といえば、タウエレト(Taweret)が特に有名である

その名は「大いなる母」といった意味であり、安産や家内安全などの加護があると信じられ、民間で広く信仰されていた女神の一柱として名高い

エジプト文明の崩壊と共に、古代の神々への信仰は廃れていったが、タウエレトへの信仰は根強く残り続けた
1965年頃まで、この女神への信仰の痕跡が残っていたと伝えられる

ナイル川は、エジプト文明発展の礎となった、アフリカ最大の河川である
しかし度々氾濫を起こしては人や家屋を洗い流す、恐怖の象徴でもあった

そこで人々は川が荒れぬように、タウエレトや他の水を司る神々に祈りを捧げ、供物を投げ入れていたとされている
だがこの伝統は、アスワン・ハイ・ダムの工事が始まると、完全に廃れてしまったという

※アスワン・ハイ・ダム
ナイル川氾濫を防止するために作られたダム
しかし川の生態系は著しく崩れ、多くの古代遺跡が水没することとなった

カバとそれを司る女神タウエレトにまつわる信仰は、エジプト周辺地域にも影響を与えたと考えられている

地中海のクレタ島におけるミノア文明の美術作品には、馬ともカエルともつかない奇妙な姿の霊的存在がしばしば描かれており、「ミノアのゲニウス(Monoan Genis)」と呼ばれている

その原型がタウエレトに由来するのではないか、という説が一部の研究者により提唱されている

当時のクレタ島の住民は、カバの実物を見たことがなかったため、伝聞や想像に基づいてその姿を描いた結果、このような異形の怪物が生み出されたのではないかと考えられている

また、古代ギリシャの王アレクサンドロス3世(紀元前356~紀元前323年)が、哲学者アリストテレスに宛てて記したとされる書簡『Epistola Alexandri ad Aristotelem』には、恐るべき人食いカバの逸話が記されている

アレクサンドロス王がインドへと遠征した際、川に浮かぶ島の上に城を見つけ、斥候として兵士を向かわせた
ところがその川から、突如として巨大なカバが現れ、兵士たちをすべて食い殺してしまったという
さらに王は、地元の案内人たちを試しに泳がせたが、やはり全員がカバに食べられてしまったとされている

もっとも、この書簡はかつては本物として広く信じられていたが、現在では中世ヨーロッパの頃に成立した創作とされている
カバは本来草食性であり、インドに生息していたという記録も存在しない

この逸話は、アレクサンドロスの遠征を彩る幻想的な挿話のひとつとして受け止めるべきだろう

西アフリカの未確認カバ

アフリカ西部には、体長2メートルにも満たない小型のカバ、いわゆるコビトカバ(Choeropsis liberiensis)が生息している

その存在は長らく確認されておらず、20世紀初頭までは未確認動物、いわゆるUMAとして扱われていた

リベリアなどの地域には、「ニベクヴェ(Nigbwe)」と呼ばれる黒い豚のような怪物の伝承が伝えられている
森に潜み、人間を襲う獰猛な存在として恐れられてきたが、この伝承の正体こそがコビトカバであると考えたのが、ドイツの動物商カール・ハーゲンベック(1844~1913年)である

彼は1910年から調査を開始し、1912年頃には生きた個体の捕獲に成功したとされている

なお、伝承とは裏腹に、コビトカバの気性は一般に穏やかであり、通常のカバと比べて人間に対する攻撃性は低いとされている

ただし、野生個体による襲撃例も報告されており、もし出会ったとしても無闇に近づくべきではない

マダカスカルの未確認カバ

アフリカ南東に位置するマダガスカル島は、独自の進化を遂げた多種多様な生物が暮らす、特異な自然環境を持つ島である

かつてこの地には三種のカバが生息していたが、およそ一千年前には絶滅したと推定されている

しかし16世紀から19世紀にかけて、ラロメナ(Làlomèna)やキロピロピトソフィ(Kilopilopitsofy)と呼ばれる未知の怪物の目撃談や伝承が相次いで記録された

その姿は牛に似ており、毛のない灰色の皮膚に、赤い二本の角を備えていたと伝えられている

「この怪物の正体は、絶滅したはずのカバだったのではないか」と考えた研究者たちは、マダガスカルにおけるカバの近世的残存の可能性を探ってきた
だが現在に至るまで、その正体は明らかになっていない

このようにカバという動物は、その現実の姿とともに、神話や伝説、さらには未確認生物としても語られてきた

水辺に潜む巨体は、古今東西の人々に畏れと想像を抱かせ続けてきたのである

参考 : 『The Transformation of Egyptian Taweret into the Minoan Genius』『エジプト神話 神々名簿』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

カバは水辺の最強生物ともいわれる

動物でカバ最強という人も・・・


アフリカ大陸にはライオンやワニ、サソリ、毒蛇といった、人間にとって危険な生物が多数生息している

中でもカバは、そのユーモラスな外見とは裏腹に凶暴な性質を持ち、現地では最も恐れられる生物の一つである
実際、年間に数百人がカバに襲われ命を落としており、ときに三千人に達するという推計も存在する

その巨体と攻撃性から、カバはしばしば自然を超えた存在として扱われ、畏敬の対象となってきた

カバは神話などにもたびたび登場・・・

 

 


キャラクターモチーフとしてもおなじみの太陽神ラー、破壊神セト、愛の女神ハトホル、冥界神アヌビス、猫の女神バステト、そしてオシリス、イシス、ホルスが登場する王位をめぐる伝説など、主要な神々にまつわるエピソードを収録
また、巨大ピラミッドを遺したファラオ、プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ、ヒエログリフなど、神話を信仰していた古代エジプトのトピックスもあわせて紹介
魅惑の古代エジプト世界へようこそ
エジプトの死生観がわかる

20年以上コンサルティング業界で培った経営戦略を人生に応用した『人生の経営戦略』の著者・山口周氏と『君は戦略を立てることができるか』の著者・音部大輔氏
初対面ながら意気投合した両氏が、「戦略論」について熱く語り合った(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

● ゲームで学んだ「戦略思考」

 ――山口さんは、音部さんの『君は戦略を立てることができるか』を、どう読まれましたか?

山口周(以下、山口) 音部さんといえば外資畑のクールなイメージなのに、この本では織田信長の「桶狭間の戦い」を事例に出してくるなど、歴史マニアっぽい記述が多い。
その意外性が面白かったですね。

音部大輔(以下、音部) 歴史は昔から好きなのですが、中学生のころ「パンツァーブリッツ」(第二次世界大戦の東部戦線を舞台にした戦術級シミュレーションゲーム。
六角形に区切られた盤上で、勝利条件を満たすべく戦車・歩兵・砲兵などの駒を動かす)というボードゲームにハマったのが大きいですね。

このゲームを通じて、ずっと戦略について考えていました。いわゆる「1万時間ルール」でいうと、大人になるまでにはそれくらいやり込んでいたので、キャリアスタートの時点ですでに戦略の専門家だったと言えなくもない(笑)。

山口 「パンツァーブリッツ」、懐かしいなあ。
パッケージのデザインもいいんですよね。
実はメルカリで買おうかと思っていました。

これね、資源を分散させると必ず負けるんですよ。
だから、兵力のトータルの量で比べるのではなく、局面で投じる量がやっぱり重要なんです。
桶狭間の戦いもそうですよね。
数万人の今川軍に対して織田軍はせいぜい3000人ですから、トータルでは勝ち目がない。
そこで、大将である今川義元の首を取るという一点突破に賭けて成功した。
「ある局面において優勢な状態を作る」ということをやらないと、絶対に戦いには勝てないんです。

音部 同じ盤面ゲームでも、パンツァーブリッツが将棋などと根本的に違うのは、敵と自分の条件が同じではないということです。
つまり、手持ちの資源が違う。

ここから学んだ戦略の重要なエッセンスの一つが「強み」に対する考え方です。
お互い条件が異なるなかで「違いが強みになる状況」を探せれば勝てるんですよ。

山口 こと戦いに及んで、一から強みを探している場合ではない、と。

音部 そうです。発想が逆なんです。

もうひとつ重要なのは、シミュレーションゲームには「勝利条件」という概念があって、何をもって勝ちとするかがルールで決められていることです。
ところが、ビジネスではそれがないことが多いんですよね。

勝利条件を決めたうえで目的を設定しましょうというのは、私にとっては必然なのですが、なぜかそう言うとビジネスの現場では嫌われたりするんですよ。

山口 以前、チームがサンプリングをやりたいというので、「目的は何ですか?」と聞いたところ「お客様との出会いを増やすこと」と言われるくだりがありますね。
堂々と答えられると、はたして突っ込んでいいものか迷いそうです。
これでは達成できたかできなかったかがメジャラブル(測定可能)でないので、目的の体を成していない。

音部 さらに言うと、サンプルを配る会社なら「3ヶ月で10万人に配りましょう」でいいのですが、施策としてサンプリングを行う場合、試用を増やしたいのか、認知を上げしたいのか、購買意向を上げたいのか――というところまで記述しておかないと、ただサンプルを配るだけで終わってしまう。

つまり、手段が目的化してしまい、単なる行動の記述が目的っぽく見えてしまう。
そういうケースが非常に多いのです。

でも、目的を「勝利条件」と言い換えると枠組みがハッキリする。
これまた、あまり勝利、勝利というと嫌がる人がいるんですけどね。

● 名将はみんな「目的の再解釈」がうまい

山口 音部さんの戦略論では、前回も話題に出た「目的の再解釈」という考え方がきわめて重要になってきます。
つまり、手持ちの資源が目的を達成するのに不足している場合は、目的そのものを捉えなおすということですね。

歴史上、戦略の天才というのはみんな目的の再解釈がすごく上手なんです。
織田信長もそうですし、ナポレオンもそうでした。
ナポレオンが大出世するきっかけになった「トゥーロンの戦い」(1793年)も、目的の再解釈の良い事例だと思います。

当時トゥーロンの港はイギリスに占拠されていたのですが、フランスにとっては要の港だったので、どうしても取り返したい。
そこで港を海から包囲して何度も突撃するのですが、一向に勝てなかった。

そのとき、当時20歳そこそこだったナポレオンが、「近くに山があるじゃないか。この山の上に大砲を持っていって、そこから港を撃てばいい」と提案するんです。
山は比較的手薄だったので、占領に成功し、そこに砲台を築いて撃ちまくった
そうなると港にいるイギリス軍はたまりません。
結局、港から撤退せざるを得なくなって、フランスは港を取り返すことができたのです。

つまり、港そのものを攻めるのではなく、近くの丘を取るというふうに目的の再解釈をすることで勝てたという、僕の大好きなエピソードです。


山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ
独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。ライプニッツ代表。
慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科修了
電通、ボストン コンサルティング グループ等で戦略策定、文化政策、組織開発などに従事
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社新書)でビジネス書大賞2018準大賞、HRアワード2018最優秀賞(書籍部門)を受賞
その他の著書に、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『知的戦闘力を高める 独学の技法』(日経ビジネス人文庫)など
 
音部大輔(おとべ・だいすけ)
17年間の日米P&Gを経て、ダノンやユニリーバ、資生堂などでマーケティング担当副社長やCOMとしてブランド回復を主導
2018年より独立、現職
家電、化粧品、輸送機器、放送局、電力、広告会社、D2C、ネットサービス、BtoBなど国内外の多様なクライアントのマーケティング組織強化やブランド戦略立案を支援
博士(経営学 神戸大学)
著書に『なぜ「戦略」で差がつくのか。』(宣伝会議)、『マーケティングプロフェッショナルの視点』(日経BP)、『The Art of Marketing マーケティングの技法-パーセプションフロー・モデル全解説』(宣伝会議、日本マーケティング学会「日本マーケティング本大賞」で2022年の大賞受賞)などがある
最新刊『君は戦略を立てることができるか』

(この記事はDIAMOND onlineの記事で作りました)

私は織田信長が桶狭間の戦いで勝ったのは、兵力で圧倒的に不利でも局面で勝った(大将・今川義元を狙う一点集中)にあったと思います

 

 


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老いた母を背負って山へと捨てに行く息子
そんな哀しい物語が繰り広げられた姥捨伝説
口減らしせざるを得なかったというほど貧しかった
庶民の暮らしぶりを示すものであった
実はこのお話、『更級日記』や『枕草子』にも記されているのをご存知だろうか
その作者である菅原孝標女や清少納言は、果たして、どんな思いでこの哀しい物語を記したのだろうか?

■『楢山節考』に描かれた姥捨伝説の悲惨さ

「おっかあ。ふんとに雪が降ったなァ」

とある小説に登場する息子のひと言である

雪が降ってきて良かったという
何が良かったのか?
それは、雪の中に閉ざされた方がかえって寒さも和らぎ、眠るように死ぬことができるからである
息子が年老いた母を背板に乗せて山へ捨てに行くという姥捨伝説、それを小説化した深沢七郎『楢山節考』に描かれた一コマである

舞台は、信州の山あいのとある村
そこでは、70歳を過ぎたら、誰もが「楢山まいり」と呼ばれる「捨老」の掟に従わなければならなかった
69歳になる主人公「おりん」も、今度は自分の番だと、すでに覚悟を決めていた
むしろ、渋るのは息子・辰平の方
老いた母に急かされるように、母を背負って出立していったのである

山頂に母を置き去りにして、涙ながらに駆け下りる辰平
そこに雪が舞い始めたから喜んだ
母の苦しみを少しでも和らげられるとあって、安堵のあまり思わず口ずさんでしまったのだ。それが、冒頭のひと言であった。

 ひ孫の顔を見ること、つまり長生きすることさえ罪であったとも
それほどまでに貧しかったというべきか
今では考えられないことであるが、歴史を振り返ってみれば、実は庶民の多くは、生き残ることにさえ汲々とせざるを得ない苦しい時代の方が長かったのである
これは、そんな庶民の悲運を物語る小説であった
そこに記されたように、本当に村の掟として制度化されていたところがあったかどうか定かではないとしても、「誰かが死ななければ生き残れない」状況は、長い歴史の中では、史実としても恐らくは何度もあったはず
ひっそりと涙ながらに「捨老」されたことも、少なくなかったに違いない

■本当に信州の冠着山が舞台なのか?

冒頭から悲惨な話で始まってしまったが、同様の逸話は、この小説ばかりか、日本各地で、多少様相を変えながらも言い伝えられている
中でもその舞台としてよく知られるのが、長野県千曲市と筑北村にまたがる冠着山だろう
俗称は姨捨山
ここでも、貧しさゆえ、口減らしとして老人を捨てなければならなかったとの設定は変わらない

ただし、話の展開は小説とは多少異なる
息子に背負われた母が、息子が帰路、道に迷わぬようにと、枝をポキポキ折っていくというシーンが挿入されているのだ
息子を思いやる母の気使いが心残りで結局捨てきれず、母を家に連れ帰って床下に隠したのだとか
そんなある日、殿様から「灰で縄を編め」と厳命されたことがあった
その難題に頭をかかえる息子に、母がそっと「塩水に浸した藁で縄を編んで焼くといい」と教えた
言われた通りにしてみれば、本当に「灰で編んだ縄」が出来上がった
殿様がこれを褒め、それ以降、おふれを出して老人を捨てることを禁じたという

ただし、この姨捨伝説に登場する姨捨山が本当に実在の冠着山に該当するのかどうかは、実のところ定かではない
この山の元の名が小長谷山(小長谷部氏という部民が住んでいたからとも)で、そのオハツセが姨捨(オバステ)に転化したからとの説が有力視されているからである

それでも、ここ信州辺りの山が姨捨伝説の舞台だったというのは、古くから信じられていたようで、平安時代の歌物語『大和物語』や説話集『今昔物語集』、歌集『古今和歌集』でも、あたかもその舞台が信濃(信州)であるかのように記している
そこに記されたストーリーもまた、よく知られるところだろう

■『更科日記』や『枕草子』に記された姥捨伝説とは?

興味深いのは、この姥捨伝説が、かの菅原孝標女が著した『更科日記』や清少納言の『枕草子』にまで記されていることである
『更級日記』では、著者である菅原孝標女が夫亡き後、ひとり寂しく暮らしているところに、甥がひょっこりと訪ねてきてくるシーンに登場する
甥の来訪を喜んだ彼女が、「月も出て闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」と、喜びを姨捨に託して詠んだのだ
まるで姥捨山に住むかのような私のような老婆のもとに、どうして訪ねてきてくれたの?とでも語りかけているかのような面持ちである
彼女が実際に姨捨山に住んでいたわけではないものの、自らの寂しい境地を悲しい伝説に彩られた姥捨山になぞらえたのだろう

ちなみに菅原孝標女といえば、かの菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の娘である
30代で橘俊通と結婚(1040年)。1057年には夫が信濃守として単身赴任するも、翌年に卒去
以降、寂しさを紛らわすかのように書き始めたのが『更級日記』だったと言われる
まるで山に一人置き去りにされたかのような寂しさをそう言い表したのだろうが、実のところ、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた庶民の感覚とは、大きく異なるというべきだろう
庶民は、そんな感傷に浸っている余裕さえなかったに違いないからだ

また、『枕草子』に姥捨山の名が記されていることにも目を向けておこう
ここでは、中宮定子の弁として、「姥捨山の月は 如何なる人の見るにか(姨捨山の月は、いったいどんな人が見たのかしら)」と、女房たちとの戯言として登場する
発言者である定子に罪はないとはいえ、冒頭の『楢山節考』に描かれた悲惨さを思い出してしまうと、どうしてもその軽薄さが気になってしまうのだ
談笑として気安く語って欲しくないと、つい愚痴りたくなってしまうのは、筆者だけだろうか

(この記事は歴史人の記事で作りました)

老いた母親を口減らしのために山に捨てる・・・「姥捨伝説」は本当にあったかも・・・

今の感覚では考えられない(それほど当時の庶民は貧しかったようだ)

「姥捨伝説」はあってはならない


 

 


残酷な棄老伝説を通して人間の矜持と生と死の尊厳を極限まで問う名作

「お姥(んば)捨てるか裏山へ裏じゃ蟹でも這って来る」
雪の楢山へ欣然と死に赴く老母おりんを、孝行息子辰平は胸のはりさける思いで背板に乗せて捨てにゆく
残酷であってもそれは貧しい部落の掟なのだ――因習に閉ざされた棄老伝説を、近代的な小説にまで昇華させた「楢山節考」
ほかに「月のアペニン山」「東京のプリンスたち」「白鳥の死」の3編を収める

天正十四年、豊後の国に主のいない城があった

老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である

その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった

彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた

妙林尼がいかにして島津軍を打ち破ったのか、その痛快な逆襲劇を紹介したい


この女、タダモノではない

吉岡妙林尼は、大友氏の家臣・吉岡鑑興(あきおき)の妻である

妙林尼の本名や生年、出自については詳らかではなく、わずかに『大友興廃記』や『両豊記』、ルイス・フロイスの書簡にその名が見られるのみである

鑑興は、父・吉岡長増(ながます)の跡を継いで鶴崎城の城主となったが、天正六年(1578年)、耳川の戦いで討ち死にしてしまった

その後、家督は息子の統増(むねます/通称・甚橘)に譲られ、彼女は出家して妙林尼と称するようになった

天正十四年、九州制覇を狙う島津軍が、豊後への侵攻を開始
豊後各地が次々と制圧されるなか、当時の鶴崎城は、もはや風前の灯であった

というのも、城主である息子の統増は、主君・大友宗麟(そうりん)の命により、主力の兵を率いて臼杵城に籠っていたのだ

城に残されたのは、わずかな老人兵と、農民、女子供ばかり
戦うどころか、守りすらままならない状態だった

そんななか、城主名代として指揮をとったのが妙林尼だった

彼女は人々を叱咤し、士気を奮い立たせると、破竹の勢いで迫る島津軍に立ち向かう覚悟を固めたのである

老人・農民・女子供でどう戦う!?

戦うといっても、相手は精強を誇る島津の大軍である

尼が率いる頼りない軍勢に、果たして何ができるのかと誰もが思ったことだろう

しかし、ここからが妙林尼の真骨頂であった

彼女は自ら先頭に立ち、農民たちに命じて畳や板をかき集めさせ、城の周囲に即席の柵や砦を築いた

さらに堀には無数の落とし穴を掘り、鉄砲が矢面にずらりと並べられた

こうして迎撃の備えが整ったところで、ついに決戦の日が訪れた

押し寄せてきたのは、三千の兵を率いた島津の猛将、伊集院久宣(ひさのぶ)、野村文綱(ふみつな)、白浜重政(しげまさ)らであった

「尼一人が守る小城」と侮っていた島津軍であったが、その足元はすでに妙林尼の仕掛けた罠に満ちていた

敵兵が落とし穴にはまったその瞬間、妙林尼の合図とともに、一斉に鉄砲が放たれた

鉄砲を扱っていたのは、妙林尼から使い方を教わったばかりの素人の農民たちであった

しかし至近距離からの射撃であったため、弾は面白いほど命中したという

不意を突かれた島津軍は、たちまち混乱に陥った
妙林尼の知略は冴えわたり、攻防は実に十六度に及んだ

とはいえ、小さな城である
やがて矢弾も尽き、兵糧も底をついた頃、島津側から和睦の申し出が届く

妙林尼は「これ以上戦って、人々を無為に死なせるわけにはいかぬ」と判断し、全員の命の保証を条件に城を明け渡した

だが、この和睦には続きがあったのだ

和睦から始まる逆襲の計略

妙林尼は敗軍の将でありながら、島津軍が城下に用意した屋敷で、囚人とは思えぬ穏やかな生活を送っていた

折に触れて伊集院らを屋敷に招いては、自ら酒食をもてなし、侍女たちに酌をさせて歓談の場を設けたという

その席では、酒に酔いながら歌い、踊り、笑い合う光景さえあったと伝えられている

やがて妙林尼と島津の諸将との間には、奇妙な信頼関係のようなものが生まれていった

それは友情であったのか、あるいは親子にも似た情であったのか、真意は定かではない

そして、落城から一年が経った天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が自ら大軍を率いて島津討伐に乗り出すとの報が届く

これを受け、伊集院ら島津軍には薩摩への撤退命令が下された

このとき妙林尼は、「もはや主君に顔向けできぬ。いっそ自分も薩摩へ連れて行ってほしい」と申し出た
島津側もこれを受け入れ、彼女は同行することとなった

出立の日、妙林尼は祝賀を名目に島津兵へふんだんに酒を振る舞い、兵たちをたっぷりと酔わせた
そして、彼らが千鳥足で道を進むその隙を突き、家臣たちに命じて奇襲を仕掛けたのである※寺司浜(てらしはま)の戦い

完全に油断していた島津軍は抗う術もなく、多くの兵が討たれた

伊集院久宣と白浜重政はこの戦いで討死し、野村文綱も流れ矢に倒れ、深手を負って日向国まで逃れたものの、間もなくその傷がもとで没したと伝えられている

秀吉をも唸らせた女傑

妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた

宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている

この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した

主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将

その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない

その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない

参考文献:『大友興廃記』『戦国驍将・知将・奇将伝』他
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

天正十四年、豊後の国に主のいない城があった

老人、農民、そして女子供ばかりが守る鶴崎城である

その指揮を執っていたのは、出家した一人の女、吉岡 妙林尼(みょうりんに)であった

彼女は尼でありながら、豊後侵攻を開始した島津軍に知略と度胸で立ち向かい、即席の素人軍をまとめあげて城を守り抜いた


島津軍を翻弄し、秀吉をも唸らせた女傑・妙林尼・・・



妙林尼は、寺司浜の戦いにおいて討ち取った六十三の首級を、臼杵城の大友宗麟のもとへ届けた

宗麟はこの戦果に深く感銘を受け、「尼の身として希代の忠節、古今の絶類なり」と賞賛したと伝えられている

この武勲は豊臣秀吉の耳にも届き、「ぜひ一度会って、恩賞を与えたい」との申し出があったという
しかし、妙林尼はこの申し出を静かに辞退した

主君に尽くし、敵とも心を通わせたひとりの尼将

その胸中にあったのは、勝者としての栄誉ではなく、戦いのなかで命を落とした者たちへの鎮魂の想いであったのかもしれない

その後、彼女がどこへ姿を消したのか、記録には残されていない


 

 


勝つ者もいればまた敗れ去る者もいる
信長に挑み、秀吉に抗い、家康に屈することなく突き進んだ猛者は、しかし敗れてなお、乱世に一瞬の光跡を残して去っていった
戦国乱世に咲いたあだ花ともいうべき彼ら驍将・智将・女傑たちの生き様を鮮やかに描く

「丹波太郎・山城次郎」と呼ばれる激しい夕立

京都に滞在していると、「本格的な夏がやってきたなぁ」と感じる瞬間がある

そのひとつが、「夕立」ではないだろうか

近年の京都は、インバウンドの影響もあり、多くの人で大変な賑わいだ

しかし、ひと昔前の夏は人影もまばらで、街をゆったりと散策したり、寺社を訪ねたりすることができたものだった
それは、夏の京都が余りにも暑すぎて、訪れる人が少なかったからに他ならない

京都の猛暑を表す言葉としては、昔から「京の油照り」が使われてきた
盆地特有の蒸し暑さと、じりじりと照り付ける日差しの強さを表現するのには、これほど的確なものはないだろう

その暑さは午後になると、京都全体で頻繁に激しいにわか雨「夕立」を引き起こす

京都の人々は、「夕立」を「丹波太郎」や「山城次郎」と呼んでいるのだ

京都の夕立が美味しい副産物を生み出す

夕立には「馬の背を選ぶ」という言い方もあるそうだ

これは、局地的な豪雨を表すことわざで、“馬の背の片側だけを濡らして通り過ぎる雨”のことをいう

京都に限った話ではないかもしれないが、年配の都人(みやこびと)は、「そこにだけ縦に降る」と、京の夕立を例えてきた

つまり、急激にどっと襲ってきて逃げようがない、それが京都の夕立である
「馬の背を選ぶ」ということわざは、まさにそれにぴったりと当てはまる

「見るがうちに 近江のかたに かかりけり 北山出でし 夕立の雲」

江戸後期の歌人・木下幸文が詠んだ短歌である

京都北方の北山から湧き上がった入道雲が、急激にその先の近江の空を暗くし始めた
そして見る間に、比叡山の向こうから夕立が凄まじい速さで京の町へと走り込んでくる

「油照り」のような酷暑に苛まれた昼間、雲一つない真っ青な空が、午後になると急変する
幸文の短歌は、京都の夏の天気の特徴を、見事にとらえている

こうなってしまったら、もう屋内に逃げ込むしかない
もし、暑さを凌ごうと鴨川や桂川などで水遊びをしていたら、すぐに川から離れてほしい

京都市内を流れる河川は、あっという間に水量が増し、濁流となって人も物も流し去ってしまうからだ

ただし、京都の激しい夕立は、京都ならではの“ある副産物”を生み出す源でもあるのだ

住蓮山安楽寺の「鹿ヶ谷かぼちゃ供養」

京都の夕立「丹波太郎」「山城次郎」が重なる夏らしい夏は、京の夏野菜が美味しく育つという恩恵をもたらす

その代表的な野菜は、京都で“おかぼ”と呼ぶ、南瓜(かぼちゃ)だ

そのなかで、珍しいのは哲学の道がある鹿ヶ谷(左京区)で採れた南瓜で、瓢箪(ひょうたん)型をしている

毎年「夏の土用」の7月25日には、その鹿ヶ谷の住蓮山安楽寺で、「中風まじない鹿ヶ谷かぼちゃ供養」が行われる

同寺は、鎌倉時代初期に起きた“松虫・鈴虫”の悲劇で知られる浄土宗の寺院

当日は、二人の女人像に南瓜が供えられ、美味しく炊いた“おかぼさん”が一般の参詣客に振舞われる

五智山蓮華寺・神光院の「きゅうり封じ」

さて、夏野菜といえば、胡瓜(きゅうり)も外せないだろう

伝統的な京野菜とは認定されていないが、京都の夏に美味しくなるのがこの胡瓜だ

形よく、大きく、緻密でシャキシャキとした食感は抜群の旨味を持つ

この胡瓜にまつわる行事が、毎年7月19日に、御室(右京区)の五智山蓮華寺で「きゅうり封じ」という名で行われる

これは、弘法大師がその昔、疫病を胡瓜に封じ込めたという伝説による

参詣者は、胡瓜に自分の名前と年齢を書き、ご祈祷を受けた後に、これを身体の悪い部分にあてると直ると伝えられている

同様に、7月19日と21日に西賀茂(北区)の神光院でも、「きゅうり封じ」が行われる

こちらは、同寺境内の“きゅうり塚”の前に、白い布に包んだ胡瓜が積まれ、疫病除けの祈祷が行われる

名前と数え年を記した紙にその胡瓜を包んで家に持ち帰り、身体の悪いところを撫でた後、土の中に埋めると、病気を封じ込めると伝わっている

茄子など美味しい京野菜はまだまだたくさん

夏に美味しさを増す京野菜は、まだまだ多く存在する

賀茂なす、伏見とうがらし、万願寺とうがらしも忘れてはならない存在だ

なかでも丸い賀茂なすは、夏の京野菜として古くから親しまれてきた

現在では「幻」ともいわれているが、かつては山科方面で採れた「山科なす」という品種もあり、艶やかな見た目と、しっかりとした肉質が特徴だった

賀茂なすもまた、250g〜300gほどもある大型の茄子で、緻密な肉質は、煮ても揚げても形が崩れないのが魅力
その丸い形を活かした田楽は、特に人気の高い調理法である

また、初夏から出回る伏見とうがらしや万願寺とうがらしは、辛味が少なく甘みのある野菜で、焼く・煮る・揚げるなど、さまざまな調理法に適している

中でも、さっと焼いて削り節をのせた一品は、うだるような暑さの中で、ビールや冷酒と相性抜群のつまみとなるだろう

京都人は、「夕立」のことを「よだち」という

「よだちの雲が出ているさかい、とい(遠い)とこへ行くこと、ならんェー。」

酷暑が続くと子どもたちに諭す声が、路地のあちこちから聞こえてきそうだ
でも、そんな「夕立」が、美味しい夏の京野菜を育ててくれる

そして、雲間に秋が忍び寄る頃、八百屋の店先には山の幸が並び始める
栗、きのこ、枝豆・・・
四季の歯車がまた一つ、かたりと動き出す

参考 :
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』 メイツユニバーサルコンテンツ刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

京都に滞在していると、「本格的な夏がやってきたなぁ」と感じる瞬間がある

そのひとつが、「夕立」ではないだろうか

近年の京都は、インバウンドの影響もあり、多くの人で大変な賑わいだ

しかし、ひと昔前の夏は人影もまばらで、街をゆったりと散策したり、寺社を訪ねたりすることができたものだった
それは、夏の京都が余りにも暑すぎて、訪れる人が少なかったからに他ならない

京都の猛暑を表す言葉としては、昔から「京の油照り」が使われてきた
盆地特有の蒸し暑さと、じりじりと照り付ける日差しの強さを表現するのには、これほど的確なものはないだろう

その暑さは午後になると、京都全体で頻繁に激しいにわか雨「夕立」を引き起こす

京都の人々は、「夕立」を「丹波太郎」や「山城次郎」と呼んでいるのだ


京都人は、「夕立」のことを「よだち」という

「よだちの雲が出ているさかい、とい(遠い)とこへ行くこと、ならんェー。」

酷暑が続くと子どもたちに諭す声が、路地のあちこちから聞こえてきそうだ
でも、そんな「夕立」が、美味しい夏の京野菜を育ててくれる

そして、雲間に秋が忍び寄る頃、八百屋の店先には山の幸が並び始める
栗、きのこ、枝豆・・・
四季の歯車がまた一つ、かたりと動き出す

京野菜が美味しい理由は“夕立”かも・・・


 

 


〈京大農学部卒、八百屋一筋。京都・錦の老舗「かね松」の主人が語る京野菜の魅力〉
〈京野菜が美味しい理由がわかります〉

創業明治15年(1882)の錦かね松は、錦でも最古参の八百屋です
本書では、錦かね松3代目主人である著者が、代表的な34種類の京野菜について、その歴史から美味しい食べ方までそれぞれの魅力を存分に語ります
京野菜のユニークな形や鮮やかな色合いなど、四季折々の姿を目でも楽しめる一冊です
また、家庭で簡単に作れる京野菜を使ったレシピや、野菜にまつわる京の年中行事、野菜の買い方・扱い方のコツなど、豆知識も満載
本書を読めば、京野菜が美味しい理由がきっとわかります

奈良・興福寺の南に広がる「猿沢池」は、多くの方に知られた名所です

その池の北西の隅に、ひっそりと佇む小さな神社があることをご存じでしょうか

この神社の由来や特徴、そして少し変わった点についてご紹介します


この神社の不思議ポイント

興福寺の階段を南に下りると、すぐ目の前に「猿沢池」が現れます

天気の良い日には、外国人観光客をはじめ多くの人が池のほとりで、景色を楽しみながらひと休みしています
池越しに望む興福寺の五重塔や南円堂の風景は格別で、人気の撮影スポットにもなっています

ただ現在は、五重塔が令和の大修理中のため覆屋に包まれており、この景観がしばらく見られないのは残念です

猿沢の池の北西隅、現在スターバックスがあるあたりのすぐ近くに、今回ご紹介する神社があります

その名は、采女(うねめ)神社といいます

多くの神社では、参拝者が自由に鳥居をくぐり、お社にお参りすることができますが、この采女神社は少し様子が異なります

入り口には施錠された扉があり、普段は中へ入ることができません

筆者は猿沢池の周辺を歩く際にたびたびこの神社の前を通っており、ずっと不思議に思っていました

神社の名称は、塀と白壁の建物に掲げられた「えんむすび 采女神社」という看板で、ようやく知ることができました

普段は扉が閉じられているため、塀の隙間から中を覗いてみると、ある不思議な点に気づきました

朱塗りの鳥居と奥に建つお社をよく見ると、一般的な神社とは異なる配置になっていたのです

通常、鳥居をくぐると正面にお社が見えるのが一般的ですが、采女神社ではお社が鳥居に背を向けて建てられていました

この変わった向きにはどんな理由があるのでしょうか

采女神社のお社が、鳥居に背を向けて建てられている理由

平安時代に成立した歌物語『大和物語』には、采女神社の由来に関する伝承が記されています

奈良時代、天皇の寵愛を受けていた采女(うねめ : 後宮で天皇の給仕をする女官)が、やがてその寵愛を失い、悲しみのあまり猿沢池のほとりの柳の木に衣を掛け、池に身を投じたといいます

この采女の霊を慰めるために建立されたのが、現在の采女神社です

そしてお社が鳥居に背を向けて建てられているのは「采女が入水した猿沢池を、あの世から見続けることがないように」との配慮からだとされています

また一説では、最初は通常通り池を正面に向けて建てられていたものの、采女の霊がその向きを嫌がり、一夜のうちにお社の向きが変わったという伝承も残っています

小さな神社ながらも、このような物語が語り継がれていることに、奈良という土地の奥深さをあらためて感じさせられます

一方で、悲恋の物語が縁起の采女神社が、なぜ「縁結びの神社」として信仰を集めるようになったのかは、少々疑問が残ります

采女神社の祭礼などについて

現在、采女神社は春日大社の境外末社として管理されています

塀の中をのぞくと、縁結びの絵馬が数多く奉納されており、「縁結び守り」と呼ばれる授与品も用意されています

ただし先に述べた通り、通常は扉が閉ざされており、参拝や授与品を受けることができるのは祭礼など限られた機会に限られています

そのため「縁結び守り」は、観光客にとってはなかなか手に入らない“幻のお守り”といえるかもしれません

この神社で最も知られている祭礼が、毎年中秋の名月に行われる「采女祭」です

采女の霊を慰め、人々の幸福を祈るこの行事は、幻想的な雰囲気に包まれた奈良の秋の風物詩です

夕刻からは「花扇奉納行列」が始まり、2メートルほどの花扇を中心に、稚児たちや、御所車に乗った十二単姿の花扇使らが市内を練り歩きます

18時からは春日大社の神職による神事が執り行われ、花扇が采女神社に奉納されます

続く19時からは、祭りのクライマックス「管絃船の儀」が猿沢池で行われます

雅楽の調べが流れるなか、花扇や花扇使を乗せた2隻の龍頭船・鷁首船が、流し灯籠の間を静かに巡り、最後に花扇を池に投じます

幽玄な光と音に包まれた、奈良らしい雅なひととき

機会があれば、ぜひ一度は目にしてみたい行事です

もう一つの采女伝説

実は、采女神社は福島県郡山市にも存在し、当地にも采女伝説が伝えられています

奈良の物語と共通点を持ちながら、独自の展開を見せており、その内容は以下の通りです

今からおよそ1300年前、奈良の都から郡山に派遣された葛城王(かつらぎおう : 後の左大臣・橘諸兄)は、巡察使として地方の実情を視察していました

当時、郡山の地では凶作が続き、朝廷への貢納すらままならない状況にありました
困窮する里人たちは、王に窮状を訴えましたが、その願いは聞き入れられませんでした

そんな折に接待の場で、王は里長の娘・春姫を見初めます

そして春姫を帝の采女として差し出すことを条件に、三年間の課税免除が認められたのです

春姫には愛する許婚がいましたが、郷土のため、涙を呑んで奈良の都へと旅立ちました

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

奈良・興福寺の南に広がる「猿沢池」は、多くの方に知られた名所です

その池の北西の隅に、ひっそりと佇む小さな神社があることをご存じでしょうか


『奈良の不思議な神社』采女神社が背を向いている理由とは?

采女神社のお社が、鳥居に背を向けて建てられている理由

平安時代に成立した歌物語『大和物語』には、采女神社の由来に関する伝承が記されています

奈良時代、天皇の寵愛を受けていた采女(うねめ : 後宮で天皇の給仕をする女官)が、やがてその寵愛を失い、悲しみのあまり猿沢池のほとりの柳の木に衣を掛け、池に身を投じたといいます

この采女の霊を慰めるために建立されたのが、現在の采女神社です

そしてお社が鳥居に背を向けて建てられているのは「采女が入水した猿沢池を、あの世から見続けることがないように」との配慮からだとされています

また一説では、最初は通常通り池を正面に向けて建てられていたものの、采女の霊がその向きを嫌がり、一夜のうちにお社の向きが変わったという伝承も残っています

小さな神社ながらも、このような物語が語り継がれていることに、奈良という土地の奥深さをあらためて感じさせられます


 

 


神社は多くの日本人の生活・心に根づいていると思います
初詣、七五三など・・・
そんなある意味「身近な」神社についてわかりやすく解説・分析・魅力など

古今東西、海賊に身を落とす者は枚挙に暇がなく、その前歴は様々です

中国、清の時代に大暴れした女海賊・鄭一嫂(てい いっそう)をご紹介

果たして彼女は、どんな生涯をたどったのでしょうか


遊女から海賊団の女将に

鄭一嫂(てい いっそう)は1775年、現代の広東省で生まれました

本名は石陽(せき よう)、幼名を香姑(こうこ)と言います
日本風に言えば「かおり(かおる)」と言ったところでしょうか

※以下「鄭一嫂」で統一します

鄭一嫂の実家は貧しかったようで、年頃に成長した彼女は広州市の遊郭に売られてしまいます

しばらく遊女として働いていたところ、鄭一(てい いつ)率いる海賊団「紅旗幫(こうきほう。赤旗団)」の襲撃を受けてしまいました

鄭一嫂は拉致されてしまい、1801年に鄭一と結婚させられてしまいます

恐らく他の遊女たちも拉致されており、ひときわ心惹かれる美女だったのでしょう

結婚を機に、彼女は鄭一嫂と呼ばれるようになりました
これは「鄭一の妻」あるいは「鄭さんの第一夫人」という意味です

かくして、心ならずも結婚させられてしまった鄭一嫂。しかしここで泣いてばかりいても始まりません

「こうなった以上、私は夫の事業に全身全霊を奉げましょう!」

何とも切り替えの早いことで、彼女は海賊団の女将として、追手の海賊稼業を全力サポート
何とも肝の据わった女性でした

内助の功か、あるいは夫と一緒に暴れ回ったのかは分かりませんが、1804年には紅旗幫を中華最強の海賊団に育て上げたのです

夫の死で苦境に立たされる

しかし1807年11月16日、夫の鄭一が越南(ベトナム)で亡くなってしまいます

戦死したのか、それとも病死したのかも知れません
どのみちロクな死に方はしなかったでしょう

鄭一というカリスマを喪ったことにより、紅旗幫は空中分解
それまで従っていた有力な海賊たちが「我こそは後継者なり!」と勝手に暴れ始めてしまいました

「冗談じゃない!夫が率いてきた海賊団は、妻である私が受け継ぐんだ!」

鄭一嫂は権力を奪還し、亡き夫に代わる権威を確立するために奮闘します

しかし周囲の者たちは、女性の首領をなかなか認めようとはしません

「お前なんか、夫の威を借る狐じゃないか!」

「娼婦上がりなら娼婦らしく、男に媚びでも売ってろ!」

・・・そこまで言われたかはともかく、なかなか一筋縄では従ってくれず、改めて夫の遺徳を痛感したことでしょう

なんて感心していても事態は打開できません
そこで鄭一嫂は、力づくで従える方針から一転、各勢力との関係強化に努めました

亡き夫のように集権的な存在ではなく、海賊連合の中で盟主的存在としてリーダーシップをとろうとしたのかも知れません

現実的な対応ではありましたが、それでも彼女に対する周囲の目は厳しかったようです

張保との再婚、その後

どこまで行っても、自分が女性である限り海賊団の首領として認められることはない・・・

そう悟った鄭一嫂は、亡き夫の甥に支持を求めると共に、有能な手下であった張保(ちょう ほう。張保仔)と結婚しました

この張保はもともと漁師の子で、15歳の時に紅旗幫の襲撃を受けて拉致され、以来海賊として活動していたのです
鄭一嫂も拉致されて海賊の妻となった身ですから、通じ合うところがあったのかも知れません

かくして鄭一・鄭一嫂の後継者となった張保は、紅旗幫を率いて大暴れ
その実力が認められ、かつて離反していた者たちも、次第に戻ってきました

張保は自身が貧しかった経験から、奪いとったものを貧しい者たちに気前よく分け与え、そのため義賊として人気があったようです

しかしその活躍は長く続かず、1810年に紅旗幫は官軍の「招安」を受けて解散します
招安とは恩赦の一種で、手に負えない賊徒を官軍に迎え入れるものでした

この時に官軍に編入された海賊は、女子供を合わせて17318名
ほか船舶226隻・大砲1315門・武器2798点を保有していたと言います
まるで都市一つぶんの大船団が、海上を駆け回っていたようなものでしょう

以後は武官として取り立てられた張保と鄭一嫂
しかし、後夫の張保は1822年に37歳の若さで世を去ってしまいます

一方の鄭一嫂は、アヘン戦争(1840~1842年)で参謀を務めるなど奮戦しました

敗戦後は武官を辞してポルトガル領マカオに移住、賭博場の経営や塩商いで財産を築いたとされています

そして1844年にマカオで亡くなりました
享年70

鄭一嫂の子供たち

遊女から海賊となり、武官そして事業家として活躍した女傑・鄭一嫂の生涯をたどってきました
なかなか波乱万丈の人生だったのではないでしょうか

そんな彼女は、先夫の鄭一と後夫の張保それぞれとの間に子供をもうけていました

【鄭一との子供】鄭英石(えいせき)、鄭雄石(ゆうせき)

【張保との子供】張玉麟(ぎょくりん)、娘(実名不詳)

また一説には、鄭一が張保の才覚を見込んで養子にしたとも言われています
その場合、張保は鄭一嫂の夫でありながら養子でもあるという、実に複雑な関係だったとも言えるでしょう

二人の子供たちがどのような人物に成長し、どのような生涯を送ったのかについても興味深いところです

改めて紹介できたらと思います

参考 : 袁永綸『靖海氛記』他
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

古今東西、海賊に身を落とす者は枚挙に暇がなく、その前歴は様々です

中国、清の時代に大暴れした女海賊・鄭一嫂(てい いっそう)・・・


遊女から海賊となり、武官そして事業家として活躍した女傑・鄭一嫂・・・
なかなか波乱万丈の人生だったようです


 

 


海賊は物語のなかの存在ではない
16世紀後半に始まるイギリスとスペインの抗争で、ヨーロッパやカリブ海では交戦相手国の船を略奪してもよいという国王の私掠免許が出され、両国の制海権争奪戦に海賊は大きな役割を果たした
また古くはオデュッセウスやアキレウスなど古代伝説にも登場する
8世紀に始まるヴァイキングの遠征、倭寇やイスラム海賊など、海あるところ、時代を問わず存在する海賊の歴史を美しい図版とともに紹介!

老若男女を問わず、恐竜に心惹かれる方は少なくないはず
その理由は簡単にいえば「かっこいいし、強そうだから」ということになるのでしょうが、そういった好奇心に引きずられながら『恐竜大絶滅 陸・海・空で何が起きていたのか』(土屋健 著、中公新書)のページを開いてみたとしたら、恐竜にまつわる世界が予想以上の“沼”だったということに気づくかもしれません

なにしろ恐竜たちが生きていたのは「昔」と呼ぶことすらはばかられるほど昔のことですし、恐竜にまつわる諸々の話も奥深すぎるからです

それは、今から約6600万年前の話だ

一つの巨大隕石が、メキシコのユカタン半島の先端付近に落下した
この巨大隕石の衝突をトリガーとして、「衝突の冬」と呼ばれる大規模な寒冷化が発生
地球の平均気温は、約6℃も下がったといわれている

気候の変化についていくことができず、「滅びの連鎖」が始まった
生命史に残る大量絶滅事件の勃発だ(「はじめに」より)

隕石落下前の地上で、恐竜類が闊歩し、空には翼竜類が舞っていたことは有名な話
私たちがイメージする「恐竜の世界」がそこにあったわけですが、恐竜類も翼竜類も、爬虫類を構成するグループのひとつだったのです

爬虫類はアンモナイトが遊泳する海にも進出し、サメ類と覇権を争っていたのだそう
そんな話を聞くだけでワクワクしてきますが、ともあれその時代を「中世代」と呼ぶわけです

はたしてこの時代にどんなことがあったのか、第1章「隕石落下というはじまり──謎多き大事件」のなかから、いくつかのトピックスを抜き出してみましょう

「中世代」とは?
2024年12月に国際層序委員会が発表したチャートによると、中世代は約2億5200万年前に始まったという
その後、約1億8600万年間にわたって爬虫類の王朝は続き、そして、約6600万年前に勃発した大量絶滅事件によって終わりを告げた
(4ページより)

中世代は、約2億100万年前と約1億4300万年前を境に、「三畳紀」「ジュラ紀」「白亜紀」という3つの「紀」に細分されています
そして約6600万年前の大量絶滅は、中世代に終焉を告げる事件であると同時に、白亜紀の閉幕でもあったのだといいます

大量絶滅事件のあとに始まった「新生代」もまた3つの「紀」に分割され、まず幕を開けたのは「古第三紀」
つまり約6600万年前の大量絶滅事件は、白亜紀と古第三紀の境界にあたるのです

そのため、白亜紀を意味するドイツ語である「Kreide」と、古第三紀を意味する英語の「Paleogene」にちなんで、「K/Pg境界大量絶滅事件」と呼ばれている
ちなみに、白亜紀を英語の「Cretaceous」ではなく、ドイツ語で表記している理由は、地質時代に「C」で始まる時代が他にも複数存在するからだ(5ページより)

そののち、ひとつの巨大隕石が王朝崩壊の引き金となったわけですが、驚くべきはその大きさです
直径は約10キロメートルで、これは東京でいえば池袋駅から田町駅までの直線距離相当
山手線の内側と同等か、もしくはそれ以上に大きな隕石が落ちてきたということです(4ページより)

起きた地震のエネルギーは東日本大震災の約1000倍

衝突速度は秒速約20キロメートルに達したといい・・・といわれてもイメージしづらいかもしれませんが、これは2分もあれば現在の札幌上空から那覇上空に達するスピード
衝突のエネルギーは広島型原爆の約10億倍に相当し、マグニチュードは11以上に達したといいます

2011年の東北地方太平洋沖地震のマグニチュードが9.0だ
マグニチュードは、数字が1上がると、エネルギーは約32倍になる
すなわち、K/Pg境界大量絶滅事件の隕石衝突は、東北地方太平洋沖地震の約1000倍のエネルギーの地震を引き起こしたことになる(6ページより)

「大昔に隕石が地球に衝突したから恐竜が絶滅したらしい」というような認識は、おそらく多くの方が持っておられることでしょう
しかし、その大きさは想像をはるかに超えているようです

いずれにしてもこの衝突によって、地殻の表層は粉砕されることになります
そして地殻の微小な破片が大気中に舞い上がり、長期間にわたって太陽光を遮ることになったのです

つまり、その結果として気温が低下し、一般的に「衝突の冬」と呼ばれている寒冷期が訪れることになったわけです

当然ながら突然の気候変化は、植物にも動物にも大きな打撃を与えることになります
多くの植物が枯れ、その植物を食べる動物たちも飢えていくことに
食物連鎖が崩壊し、それにともなって絶滅が連鎖し、大量絶滅へとつながったのです

なお生命史には、その転換点となる大きな絶滅事件が5回あったとされているのだそうです
恐竜類をはじめとする多くの分類群を滅びに追いやったK/Pg境界大量絶滅事件は、5回目にあたるものだといいます

隕石衝突に始まるK/Pg境界大量絶滅事件の物語は、一般に「隕石衝突説」と呼ばれている
この仮説は、1980年にカリフォルニア大学(アメリカ)のルイス・W・アルヴァレズたちが発表した論文で提唱された
地球史や生命史の研究を行う研究者たちの専門分野の多くは、地質学や古生物学など・・・いわゆる「地球科学」である
その意味では、アルヴァレズは異色である(6〜7ページより)

専門は核物理学で、広島に落とされた原爆を研究していた人物のひとり
1968年には素粒子物理学への貢献が認められ、ノーベル物理学賞を受賞してもいるというのですから、隕石衝突の研究者としてはたしかに異色なのかもしれません

そんなこともあってか、「諸説あり」とされた時代もあったようですが、結果的には隕石衝突を支持する証拠が次々と発表されていくことになったといいます
いずれにしても隕石衝突を発端とする「K/Pg境界大量絶滅事件」が、本書でもたびたび登場する重要なポイントであることは間違いなさそうです(6ページより)

以後の章では、恐竜類や翼竜類、アンモノイド類の歴史から絶滅までの経緯など、さまざまなことがらが明らかにされていきます
最大の注目点は、専門的でありながらも読みやすいこと
そのため、好奇心を刺激されながらあっという間に読み終えてしまえるはず
週末などを利用して、約6600万年前のストーリーに思いをはせてみてはいかがでしょうか

(この記事はライフハッカー・ジャパンの記事で作りました)

恐竜絶滅については、「巨大隕石衝突」説が有力のようです

『恐竜大絶滅 陸・海・空で何が起きていたのか』はとにかく読みやすい・・・

そのため、好奇心を刺激されながらあっという間に読み終えてしまえるはず
週末などを利用して、約6600万年前のストーリーに思いをはせてみてはいかがでしょうか



 

 


6600万年前、生態系の頂点を極めた恐竜類が地球上から姿を消した
大量絶滅事件の原因は、隕石だとするのが現在の定説である
ただ、その影響は一様ではなかった
突然のインパクトを前に、生存と滅亡の明暗は、いかに分かれたのか?
本書は、恐竜、翼竜、アンモノイド、サメ、鳥、哺乳類などの存亡を幅広く解説
大量絶滅事件の前後のドラマを豊富な図版とともに描き出し、個性豊かな古生物たちの歩みを伝える