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現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」から一転、 来年度の大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました

豊臣兄弟とは、兄の豊臣秀吉(演:池松壮亮)と、異父弟の秀長(演:仲野太賀)を指しますが、どうも主人公は弟の秀長のようです

秀長は、歴史の教科書にはほとんど登場しない人物ですが、秀吉を側面からサポートし、その天下統一に欠かせなかった人物と、高い評価が与えられています

とはいえ、やはり歴史上のインパクトでは兄・秀吉に軍配が上がるでしょう

少々気が早いですが、『豊臣兄弟!』に思いを馳せ、京都東山に赴き、太閤秀吉が眠る豊国廟と彼を祀る豊国神社界隈の史跡をめぐってきました


謎に満ちた秀吉の墳墓「豊国廟」

太閤ゆかりの史跡めぐりのスタートは、600段近い急な階段を上った頂上にある豊臣秀吉の墓所(五輪塔)である「豊国廟」から

1598(慶長3)年、63歳の生涯を閉じた秀吉は、この阿弥陀ヶ嶽の山頂に葬られ、中腹には豊国神社が建立されました
しかし豊臣家が滅亡すると、徳川家康の命により豊国神社の社殿は徹底的に破壊されます

家康は、秀吉の廟も破壊しようと企てますが、それは秀吉正室・北政所(ねね)の懇願で許され、明治まで朽ちるにまかせたのです

このような非情ともいえる家康の仕打ちには、それなりの事情がありました

1600(慶長5)年、関ケ原の戦いで西軍を破った家康は、その3年後に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます

しかし、その時点においては、大坂城に秀吉の子・秀頼が健在で、朝廷や公家は秀頼を武家の代表として認めていたのです

この状況に家康は、豊臣家を滅ぼさなければ江戸幕府には安泰が訪れないと考え、1614(慶長19)年の大阪冬の陣、翌年の大坂夏の陣で秀頼とその母・淀殿を自害に追い込み、ついに豊臣家を葬り去ります

そうした中、家康が次に狙ったのが、すでに亡くなっている秀吉でした
なぜ家康は亡くなった秀吉に狙いを定めたのか
その理由は死してなお、彼の人気が衰えていなかったからです

秀吉は死後、豊国大明神として神格化され、京都阿弥陀峰の山頂に葬られ、山腹には彼を祀る豊国神社が創建されました

毎年8月18日の秀吉の年忌には盛大な豊国祭が行われ、彼を慕って公家・大名はもとより、庶民までが押し寄せたといわれています

このような状況を家康が見逃すはずがなく、豊国神社の破却と豊国廟の破壊を企てたと伝えられています

しかし、江戸幕府が終わり明治維新を迎えると、明治天皇の勅で秀吉の人権も復活します

そして、1897(明治30)年に豊国廟の整備が行われました
その時、秀吉の遺骸が異常な形で発見されたのです
遺骸は柩ではなく、粗末な瓶に押し込められるように葬られていました

朽ちるに任せられた状態で260年ほど放置されたので、それが盗掘によるものなのか、はたまた幕府など何者かの手によるものなのか判然としていません

さらに、発見後なぜか遺骸と瓶が紛失してしまい、今ではその行方さえも不明となっております

秀吉側なのか敵なのか判然としない「新日吉神宮」

続いては、「豊国廟」の参道を西にまっすぐ進み、「新日吉神宮(いまひえじんぐう)」に向かいましょう

同社は、平安時代末期に後白河法皇が創建し、朝廷からも大いに崇敬されていたとされます

しかし大坂の陣で豊臣家が滅び、豊国廟と豊国神社が破壊されると、江戸幕の命でその参道上に遷座させられました
これは、一説によると豊国廟への道を塞ぐためといわれています

しかし、それとは全く逆な考え方、すなわち「豊国廟」を守護、もしくは来るべき復活の日のために、わざわざ参道上に鎮座したとの説もあり、その真意は判然としません

1897(明治30年)、豊国廟の再興時に参道上から南西の現在地に移転しました

ちなみに本殿脇には、狛猿が金網で囲まれていますが、これは「猿」が夜中に動き回るのを防ぐためだと伝わります

「猿」といえば秀吉
何か関係があるのでしょうか

豊国廟を取り巻く謎を秘める「智積院」

さて、「新日吉神宮」かた、女坂を北へ下ると「智積院」の総門があります

「智積院」は、秀吉が愛児・棄丸(1591年没)を弔った祥雲寺跡に建つ、真言宗智山派の総本山です

同寺は、家康により再興されましたが、池泉観賞式庭園は祥雲寺当時の面影を残し、さらに長谷川等伯一門による絢爛たる障壁画も祥雲寺の遺構として知られています

秀吉ゆかりの寺院跡に家康が伽藍を再建したのは、新日吉神宮同様の狙いがあったのか、これも豊国廟を取り巻く謎として興味がつきません

淀殿の父浅井長政を追善する「養源院」

「智積院」からは、右手に妙法寺門跡をみながら七条通を北に、「養源院」へ向かいましょう

妙法寺門跡は、青蓮院・三千院とともに天台宗三門跡と称される格式のある寺院で、豊臣秀頼が江戸幕府に滅ぼされた後には、方広寺・蓮華王院(三十三間堂)、新日吉神宮を兼帯する大寺院となりました

秀吉と関係の深い寺院でありながら、幕府が実行した豊国神社・豊国廟破却に積極的に協力したという、豊臣側から見る何やら納得のいかない行いをしています
そこまでしなければならないほど、徳川幕府の圧力があったのかもしれません

それはさておき「養源院」に話を戻しましょう

同寺は、秀吉側室で秀頼の母・淀殿ゆかりの寺院です
彼女の願いを受けて、秀吉が浅井長政(淀殿の父)の追善のために、1594(文禄3)年に建立しました

本堂廊下の天井には、秀吉が築城した伏見城の血天井が供養のために貼られていますが、これは同城が関ケ原の戦いで落城した際に、城将で家康重臣の鳥居元忠らが自尽した痕跡とされます

秀吉を神格化した豊国之大明神を祀る「豊国神社」

「養源院」からは「耳塚」を経由して、「豊国神社」「方広寺」へ向かいます

その途中、蓮華王院(三十三間堂)を回り込むようにして歩くと、「三十三間堂太閤塀」が現れます

この土塀は、方広寺創建の際に秀吉が蓮華王院に寄進したもので「太閤塀」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています

軒丸瓦には、秀吉家紋の五七ノ桐があしらわれているので見逃さないようにしましょう

そのまま大和大路通を北へ進み、七条通を渡ると京都国立博物館があります

その大和大路通沿いに残る巨大な石を積み重ねた石垣が、「方広寺石垣」です

この石垣は、秀吉が諸将に命じて築かせたもので、博物館の敷地も方広寺の一部でした

さて、博物館の北端に見える鳥居が「豊国神社」の大鳥居です

その向かいにある円墳を思わせる塚が「耳塚」で、1592(文禄2)年の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、首替わりに持ち帰った敵方の耳や鼻を埋葬した塚と伝わり、2万もの耳や鼻が埋められているとされます

「耳塚」を見学したら、いよいよ「豊国神社」「方広寺」エリアに入ります

「豊国神社」は、豊臣秀吉を祀る神社です

1599(慶長4)年4月、朝廷は秀吉に「豊国之大明神」の神号を与え、吉田神道の吉田家により秀吉が眠る阿弥陀ヶ峰の中腹に遷宮が行われました

毎年8月18日の秀吉忌には「豊国祭」が盛大に催され、特に秀吉七回忌に行われた豊国祭には、公家や武家にあわせ多くの町衆も参加したといわれ、秀吉の京都での人気の高さを証明しました

しかし、豊臣家が滅亡すると、家康の命により豊国大明神の神号は剥奪され、神社は破壊されてしまいます

その後、江戸時代を通じて再興されることはなく、明治維新を迎え、明治天皇の沙汰により再興されたのです

現在の社殿は1875(明治8)年に方広寺大仏殿跡地に建てられたもので、国宝の唐門は南禅寺塔頭の金地院から移された伏見城の遺構と伝わります

歴史散策のフィニッシュは大仏を安置した「方広寺」

さて、秀吉ゆかりの東山の史跡をめぐる歴史散策は「方広寺」で締めくくりましょう

同寺は、東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願した秀吉が、1588(天正16)年から7年の歳月を費やして建立した寺院です
その敷地は、妙法院・三十三間堂・豊国神社・京都国立博物館を含む広大なものでした

この時に造立された大仏は、東大寺大仏を凌ぐ高さ19mという巨大なものでしたが、1596(文禄5)年の大地震により倒壊してしまいます

大仏は秀頼の代に再興されますが、その開眼供養にあわされて造られた「梵鐘の銘文」が、豊臣滅亡のきっかけとなったことは余りにも有名です※方広寺鐘銘事件

その大仏を安置した「大仏殿跡」は、豊国神社裏手に残っています

発掘調査の後、遺構は地下に埋め戻されていますが、説明版の他、礎石などが置かれていますので、豊臣家の権威の象徴であった在りし日の「巨大な大仏」に思いを馳せてみるのもよいでしょう

さて、今回の歴史散策の所要時間は、史跡見学を含めて約2時間30分ほどです

歩き疲れたら、蓮華王院近くに店を構える京菓子司 七條甘春堂 甘味処「且坐喫茶」での休憩をおすすめします

ここは、創業150年の老舗和菓子店併設の甘味処です

真心こめて作られた和菓子と抹茶のセットで、ほっこり寛ぎましょう

※参考文献
京都歴史文化研究会著 『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」から一転、 来年度の大河ドラマは、2年ぶりに戦国時代をテーマとした『豊臣兄弟!』に決定しました

豊臣兄弟とは、兄の豊臣秀吉(演:池松壮亮)と、異父弟の秀長(演:仲野太賀)を指しますが、どうも主人公は弟の秀長のようです

秀長は、歴史の教科書にはほとんど登場しない人物ですが、秀吉を側面からサポートし、その天下統一に欠かせなかった人物と、高い評価が与えられています


個人的には前田利家、豊臣秀長がもう少し長生きしたら、豊臣家の延命や歴史が変わっていたかも・・・

秀長の早世が惜しまれます


 

 


脆弱な豊臣政権を支えた豊臣秀長
彼は秀吉の弟であり日本史史上屈指のNO.2
秀吉の天下統一も彼なしでは難しかったとも
彼は1591年に亡くなるが彼の死も秀吉の良き補佐役を失い豊臣家滅亡へつながったのかも

春画は、江戸時代以前から描かれていた

一般に「性」という概念に対しておおらかであったといわれる江戸時代

その風潮は、当時発達した色彩豊かな風俗画「浮世絵」にも表れています

「浮世絵」には、美人画、役者画、相撲画、風景画といったジャンルがありますが、もう一つの人気ジャンルに「春画」がありました

実は、この「春画」の歴史は古く、その起源は平安時代にまでさかのぼるという説があり、中国からもたらされたともいわれています

日本最古の春画とされるものは、絵巻物の『小柴垣草紙(こしばがきそうし)』とされています

現存するのは17世紀に、江戸前期を代表する大和絵師の一人・住吉具慶(すみよしぐけい)によって模写された写本であるという説が有力です

なお、『小柴垣草紙』は、『十訓抄』巻第五に基づいた秘戯図で、10世紀後半に実際にあったとされる話をもとにしています

その内容は、花山天皇の御代、斎宮(さいぐう)であった済子女王(さいしにょおう)が、伊勢神宮に奉仕するため洛西・嵯峨野の野宮(ののみや)で潔斎していた際に、滝口武者・平致光(たいらのむねみつ)に誘惑され密通したという噂が流れたため、野宮を退下し、伊勢下向が中止となったという逸話です

このように、『小柴垣草紙』は官能的な物語を題材とし、流麗な筆致による詞書と、濃密な描写の挿絵によって構成された、古春画の最高傑作とされています

しかし、その描写のあまりの過激さから、公にされることはきわめて稀でした

その後も春画は描き続けられ、戦国時代になると「勝絵(かちえ)」と呼ばれるようになり、出陣する武士たちは鎧を収める具足櫃(ぐそくびつ)に、厄除けのお守りとして忍ばせていたともいわれています

なお、『小柴垣草紙』の最終章では、性行為のありがたさについて宗教的な言説を用いて説かれており、このことから春画が宗教的な縁起物として考えられていたことがうかがえるのです

ほとんどの浮世絵師が春画を描いた

さて、「春画」と聞くと、現代では猥褻な作品というイメージを持たれがちです

しかし江戸時代においては、老若男女を問わず親しまれる、ポピュラーな浮世絵の一ジャンルとして広く認知されていました

そのため、江戸時代を代表する多くの有名絵師たちも、春画を手がけています

菱川師宣をはじめ、葛飾北斎、歌川国芳はもちろん、大河ドラマ『べらぼう』で蔦屋重三郎の良きパートナーとして描かれる喜多川歌麿など、名だたる絵師たちが春画を描き、その作品には堂々と自らの名前を記していました

とはいえ、“題材が題材”だけに、さすがに幕府も黙ってはいません

享保の改革以降、幕府の取り締まりにより春画は通常の形では出版できなくなり、本屋仲間による検閲を受けない「地下出版物」へと姿を変えていきます

さらに、出版物や浮世絵に対して厳しい姿勢を示した寛政の改革、天保の改革以降は、作品に絵師や作者名、刊行年などの情報が記されることもなくなりました
しかしその代わりに、絵師たちは自らの正体を隠すため、「隠号(いんごう)」と呼ばれる仮の名を用いて作者を暗示するようになります

こうして春画は、絵師や版元が特定されないような形で出版されるようになり、本来記されるべき奥付(おくづけ)も設けられなくなりました

幕府としては、誰が描いたか特定できないため取り締まりが難しく、絵師や作者たちは、むしろ自由な感覚で自身の芸術を世に発表することができたのです

さまざまな説があるものの、一説には「春画こそが浮世絵の最高技術を凝縮したもの」とも言われています

そのためか、有名絵師を含め、ほとんどの浮世絵師が春画を手がけました

では、以下に代表的な絵師の隠号をご紹介しましょう

●葛飾北斎(かつしか ほくさい)/隠号:鉄棒ぬらぬら・紫色雁高(ししき がんこう)
●渓斎英泉(けいさい えいせん)/隠号:淫斎白水
●歌川国芳(うたがわ くによし)/隠号:一妙開程芳(いちみょう かいほどよし)・三返亭猫好・五猫亭程よし・自猫斎由古野
●歌川国貞(うたがわ くにさだ)/隠号:婦喜用又平(ぶきよう またへえ)
●勝川春章(かつかわ しゅんしょう)/隠号:腎沢山人(じんたく さんじん)
●柳川重信(やながわ しげのぶ)/隠号:艶川好信(えんせん こうしん)
●歌川広重(うたがわ ひろしげ)/隠号:色重(いろしげ)

「鉄棒ぬらぬら」「淫斎白水」「婦喜用又平」など、春画の作者として実に言い得て妙な隠号ばかりです

これらの中には、江戸の町人文化の華とも言える「粋」や「洒落」といった美意識、さらには時の権力者をおちょくるようなニュアンスさえ感じられます

人々が春画を購入した目的とは

では、ここからは江戸時代、春画を買うお客の目的についてお話ししましょう

もちろん、“モノがモノ”ですので、自分の快楽のために購入する者もいましたが、それ以外の目的で求める人がほとんどだったと言われます

春画は、もともとは宗教的な縁起物であったと述べましたが、江戸時代には「火避図(ひよけず)」とも称され、「持つことにより火事に合わない」と信じられていました

この他にも、「箪笥に入れておくと虫がつかない」など、人々の間ではさまざまなご利益が囁かれていたのです

もちろん、性教育のため、親が嫁入り前の娘のために購入することもありました

しかし、春画が別名「笑い絵」と呼ばれたように、購入した者たちが酒席などの集いの場において、笑いや遊びのために使ったとも考えられるのです

ここにも、江戸らしい「粋」や「洒落」が感じられるではありませんか
田沼意次の政治が終わり、寛政の改革、天保の改革を経て幕末に向かう過程で、江戸庶民の多くが貧困に見舞われます

しかし、そんな時代に生きながら江戸の人々は、街中で大食い大会を催すなど、明るく懸命に生き抜いていたのです

そのような文化・文政時代に最盛期を迎えた春画。そこに描かれた男女を見ると、この浮世絵が「笑い絵」と称された理由が一目瞭然です

一見して常識を超えるようなデフォルメで描かれた男女の身体表現は、古代において子孫繁栄や農業の豊作などを願うために造られた「陰陽石」を思わせます

春画に登場する人物のこうしたデフォルメは、宗教的な縁起ものであるとともに、観る者を笑わせるためのユーモアにあふれた画法だったといっても差し支えないでしょう

※参考 :
『見てきたようによくわかる蔦屋重三郎と江戸の風俗』 青春出版社刊
樋口清之著 『もう一つの歴史をつくった女たち』ごま書房新社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

春画は、江戸時代以前から描かれていた

一般に「性」という概念に対しておおらかであったといわれる江戸時代

その風潮は、当時発達した色彩豊かな風俗画「浮世絵」にも表れています

「浮世絵」には、美人画、役者画、相撲画、風景画といったジャンルがありますが、もう一つの人気ジャンルに「春画」がありました

実は、この「春画」の歴史は古く、その起源は平安時代にまでさかのぼるという説があり、中国からもたらされたともいわれています

日本最古の春画とされるものは、絵巻物の『小柴垣草紙(こしばがきそうし)』とされています

現存するのは17世紀に、江戸前期を代表する大和絵師の一人・住吉具慶(すみよしぐけい)によって模写された写本であるという説が有力です

なお、『小柴垣草紙』は、『十訓抄』巻第五に基づいた秘戯図で、10世紀後半に実際にあったとされる話をもとにしています

その内容は、花山天皇の御代、斎宮(さいぐう)であった済子女王(さいしにょおう)が、伊勢神宮に奉仕するため洛西・嵯峨野の野宮(ののみや)で潔斎していた際に、滝口武者・平致光(たいらのむねみつ)に誘惑され密通したという噂が流れたため、野宮を退下し、伊勢下向が中止となったという逸話です

このように、『小柴垣草紙』は官能的な物語を題材とし、流麗な筆致による詞書と、濃密な描写の挿絵によって構成された、古春画の最高傑作とされています

しかし、その描写のあまりの過激さから、公にされることはきわめて稀でした

その後も春画は描き続けられ、戦国時代になると「勝絵(かちえ)」と呼ばれるようになり、出陣する武士たちは鎧を収める具足櫃(ぐそくびつ)に、厄除けのお守りとして忍ばせていたともいわれています

なお、『小柴垣草紙』の最終章では、性行為のありがたさについて宗教的な言説を用いて説かれており、このことから春画が宗教的な縁起物として考えられていたことがうかがえるのです

ほとんどの浮世絵師が春画を描いた

さて、「春画」と聞くと、現代では猥褻な作品というイメージを持たれがちです

しかし江戸時代においては、老若男女を問わず親しまれる、ポピュラーな浮世絵の一ジャンルとして広く認知されていました

そのため、江戸時代を代表する多くの有名絵師たちも、春画を手がけています



人々が春画を購入した目的とは

“モノがモノ”ですので、自分の快楽のために購入する者もいましたが、それ以外の目的で求める人がほとんどだったと言われます

春画は、もともとは宗教的な縁起物であったと述べましたが、江戸時代には「火避図(ひよけず)」とも称され、「持つことにより火事に合わない」と信じられていました

この他にも、「箪笥に入れておくと虫がつかない」など、人々の間ではさまざまなご利益が囁かれていたのです

もちろん、性教育のため、親が嫁入り前の娘のために購入することもありました

しかし、春画が別名「笑い絵」と呼ばれたように、購入した者たちが酒席などの集いの場において、笑いや遊びのために使ったとも考えられるのです

ここにも、江戸らしい「粋」や「洒落」が感じられるではありませんか
田沼意次の政治が終わり、寛政の改革、天保の改革を経て幕末に向かう過程で、江戸庶民の多くが貧困に見舞われます

しかし、そんな時代に生きながら江戸の人々は、街中で大食い大会を催すなど、明るく懸命に生き抜いていたのです

そのような文化・文政時代に最盛期を迎えた春画。そこに描かれた男女を見ると、この浮世絵が「笑い絵」と称された理由が一目瞭然です

一見して常識を超えるようなデフォルメで描かれた男女の身体表現は、古代において子孫繁栄や農業の豊作などを願うために造られた「陰陽石」を思わせます

春画に登場する人物のこうしたデフォルメは、宗教的な縁起ものであるとともに、観る者を笑わせるためのユーモアにあふれた画法だったといっても差し支えないでしょう


 

 


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【世界史ミステリー】満洲と清の「意外な共通点」、王朝の命運を決めた漢字の話
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある

● 満洲や清に込められた思いとは?

17世紀初頭に、中国東北部に割拠した女真人が再び台頭を始めます
女真人といえば、12世紀に金という国を建国し、北宋から華北を奪った民族です

その女真人がヌルハチ(在位1616〜1626)という首長によって統一され、金(後金)という国が建国されます
ヌルハチはまた自身の国を「満洲(マンジュ)」と呼び、これ以降に女真人は現在まで満洲人と呼ばれるようになります

ところで、この「満洲」という表記ですが、「満州」のほうが見慣れているという方も少なくないと思います
実際は、「洲」という州に「さんずい」が付いたほうが正式な名称なのですが、これにはある理由があります

 ●「満洲」が2文字とも「さんずい」が付いている理由は何か?

この問いについては、解答の前にまずは思想的な背景から
中国では古代より、五行説(五行思想)と呼ばれる自然哲学が信じられてきました
五行説とは、万物が木、火、土、金、水の5つの元素からなるというもので、中国では戦国時代に陰陽五行説として大成されます(日本ではこれに道教の要素が取り入れられ陰陽道や陰陽師に派生します)

この5つの元素は、互いに相生(相手の元素を生み出す作用)や相克(相手の元素を滅ぼす作用)の関係にあり、満洲(後金ないし清)が戦った明は、名前から推測できるように「火徳」の王朝名であり、これと相克の関係にある「水徳」を強調するため、「満洲」や「清」といったように「さんずい」のついた名称が目立つというわけです

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDIAMOND onlineの記事で作りました)

満洲や清が五行説と関係があるとは・・・

 

中国では古代より、五行説(五行思想)と呼ばれる自然哲学が信じられてきました
五行説とは、万物が木、火、土、金、水の5つの元素からなるというもので、中国では戦国時代に陰陽五行説として大成されます(日本ではこれに道教の要素が取り入れられ陰陽道や陰陽師に派生します)

この5つの元素は、互いに相生(相手の元素を生み出す作用)や相克(相手の元素を滅ぼす作用)の関係にあり、満洲(後金ないし清)が戦った明は、名前から推測できるように「火徳」の王朝名であり、これと相克の関係にある「水徳」を強調するため、「満洲」や「清」といったように「さんずい」のついた名称が目立つというわけです


 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

「犬鳴村」と聞けば、福岡県の犬鳴峠周辺にまつわる心霊スポットや、都市伝説を思い浮かべる人が多いかもしれない

犬鳴村に繋がっていると伝わる「旧犬鳴トンネル」は、かつて実際に殺人事件が起きた場所としても知られており、犬鳴村はもし足を踏み入れれば二度と帰ってはこれないという、全国でも指折りの恐怖スポットと噂されている

ただし、こうした「犬鳴村」の話はあくまで創作された都市伝説であり、実在の地名や村としての記録は存在しない

しかし、かつて福岡県宮若市の犬鳴地方には、「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」と呼ばれる実在の集落が存在していた

今では集落のほとんどが犬鳴ダムの底に沈んでしまったが、「犬鳴御別館跡地」や「日原神社」など、かつての歴史を感じさせるいくつかの痕跡も残されている

17世紀末に福岡藩の要所として成立し、20世紀末にダム底に沈んだ「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」の歴史を紐解いていこう


犬鳴谷村、成立以前の歴史

『筑前国続風土記』によれば、犬鳴山と呼ばれるようになる前は、この地域は「火平(ひのひら)」または「大河内」と呼ばれていたという

織田信長や豊臣秀吉に重用された黒田官兵衛の嫡男で、福岡藩の初代藩主となった黒田長政が、1601年に筑前国に入府した際に、この辺りを視察したといわれている

大坂夏の陣が起こった1615年には、藩主として産業振興に力を入れていた黒田長政の命により、犬鳴山での植林が始まり、以後1623年に長政が没するまでの間に、犬鳴峠(旧称・久原越)の道も開かれたとされている

第2代藩主の黒田忠之の時代には、年間植林面積が5万坪に及ぶようになり、福岡藩の林業の要所として、勘場という役所が建てられ管理されるようになった

第4代藩主の黒田綱政の時代、1691年には、福岡藩は藩有林の維持管理のために御譜代組足軽の篠﨑、藤嶌、三浦など数家に移住を命じ、足軽の集落が形成されたことにより「犬鳴谷村」が成立したとされる

犬鳴谷村の足軽たちは、公的に帯刀を許された士分扱いの上級足軽として扱われ、組頭には篠﨑家当主の篠崎文内が任命された

「犬鳴」という地名が使われるようになったのも犬鳴谷村が成立してからのことで、その由来は「犬でも越えられない深い山で犬が悲しく鳴いたため」、「峠道の途中に滝があり、犬が上に登れず鳴いていたため」「律令時代に稲置(いなぎ)の境界線に位置していたため、いなぎが訛っていんなきと呼ばれた」など諸説ある

江戸時代の犬鳴谷村

筑前国に生まれた学者の貝原益軒(かいばら えきけん)は、『筑前国続風土記』の編纂事業のために、1696年に犬鳴山を訪れている

1703年には、日吉山王宮より大国主命・市杵島姫命・大山祇命が勧請され、犬鳴字下谷の割谷に沿った高台に、村の鎮守社として「日原神社(ひのわらじんじゃ)」が創建された

日原神社の「ひのわら」は、犬鳴のかつての地名「ひのひら」に由来する社名とされている

1732年の享保の大飢饉では福岡藩内でも多数の餓死者が出たが、犬鳴谷村は困難を乗り越えて存続した

その後、1748年には幕府から黒田家にオタネニンジン(高麗人参)の種子が下賜され、犬鳴山での栽培に成功
1762年には、その成果が幕府に献上されたと伝えられている

江戸時代中期以降の犬鳴谷村は、豊富な木材を利用した木炭や和紙の製造、銅鉱山の開発、タタラ製鉄事業など、数多くの産業に特化した地域となった

福岡藩の要所であったことから幕末の1864年7月には、福岡藩内の勤王攘夷派の中心人物だった加藤司書(ししょ)の推進により、非常時の藩主の逃げ城として「犬鳴御別館」の建設が開始された

しかしこの「犬鳴御別館」をきっかけに、福岡藩内を揺るがす大事件が勃発してしまったのだ

140名以上が処罰された、乙丑の獄(いっちゅうのごく)

幕末の動乱期、福岡藩は非常時に藩主が退避するための逃げ城として、山深い犬鳴の地に「犬鳴御別館」を建設し始めた

ところが、藩内の佐幕派はこの建設が、勤王攘夷派によって藩主・黒田長溥(ながひろ)を幽閉し、養嗣子の長知(ながとも)を擁立して実権を掌握するための拠点ではないかと疑い、長溥に報告した

この報告は、藩内で高まっていた勤王派への不信をさらに強める一因となり、最終的に「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」と呼ばれる藩内弾圧へとつながっていった

黒田長溥は、もともと勤王寄りの立場をとっており、藩内で勢力を強めていた勤王攘夷派の動きを黙認していた

しかし、彼らの行動は次第に過激化し、ついには長州藩の急進派を擁護する姿勢を取っているとして、幕府から福岡藩は厳しく叱責を受けることになる

こうした中、藩内の勤王攘夷派を主導していた加藤司書は、大老・黒田溥整(ふせい)と連名で、「藩内の心を一つにするためにも、佐幕的の立場を見直してほしい」とする建白書を長溥に提出した

だがこの行動は、藩主に対する反抗と受け取られ、長溥の逆鱗に触れてしまう

結果として立場を無くし、追い詰められた加藤ら勤王攘夷派は、内部対立の挙句に同士討ちを始めてしまい、まもなく佐幕派が復権して勤王攘夷派弾圧が始まった

そして1865年、福岡藩の藩士と関係者140名以上が逮捕され、加藤司書や建部武彦など7名が切腹、藩士の月形洗蔵など14名が斬首、女流歌人の野村望東尼など15名が流罪となった

福岡藩内で起きたこの大規模な弾圧事件は、乙丑年に起きたことから、「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」と呼ばれる

結局、犬鳴御別館は当初の目的である藩主の避難所として使われることはなく、1869年に福岡藩知事となった黒田長知が現地を視察した際、一時的に宿泊所として利用されたのみであった

以後は放置されて1884年に倒壊し、今では跡地を残すのみとなっている

明治維新後の犬鳴谷村

明治維新後、黒田長溥の養子で世子だった黒田長知は、福岡藩の知藩事に任命されたが、藩政下で発覚した贋金製造事件(太政官札贋造事件)の監督責任を問われ、1871年にその職を罷免された

後任の知事として、有栖川宮熾仁親王が福岡に赴任
同年の廃藩置県により筑前国は福岡県に再編され、翌年には明治政府によって教育制度の基本方針となる「学制」が発布された

それに伴い、犬鳴谷村にも学校が設けられたとされている

1877年に西南戦争が起きた際には、もともと足軽の子孫が多く暮らしていた犬鳴谷村から多くの壮年男性が徴兵され、小倉歩兵第十四連隊に配属された

彼らは各地を転戦し、中には戦死した者もいたが、戦功を挙げて乃木希典から表彰されたという伝承も残っている

また、犬鳴谷村で代々組頭を務めていた篠崎家の一人、篠崎豊彦は、日露戦争に従軍して満州に渡り、戦後は大連に留まって実業を興し成功を収めたと伝えられる

帰国後は政界にも関与し、1934年に死去
その遺骨は犬鳴ダムの奥にある篠崎家の墓地に埋葬されたという

犬鳴谷村は、1889年に周辺の4つの村と合併して吉川村の一部となり、「吉川村犬鳴」として集落は存続していたが、犬鳴ダムの建設が進められることとなり、1986年までに全住民が脇田地区へ集団移転した

鎮守であった日原神社も、水没を避けるために脇田に遷座され、1994年に犬鳴ダムが完成すると、かつての犬鳴集落跡地はダム湖の水底に沈んだのである

都市伝説とは異なる犬鳴谷村の実態

実在した犬鳴谷村の歴史は、都市伝説として語られる「犬鳴村」とは全く無関係である

「犬鳴村伝説」は、岡山県で発生した津山事件をもとに創作されたフィクションだとする説もあるが、信頼できる根拠には乏しく、あくまで噂の域を出ない

実際、旧犬鳴トンネルでは1988年に殺人事件が、犬鳴ダムでは2000年に死体遺棄事件が発生している
しかし、人目につきにくい山間部で事件が起こることは、犬鳴に限った現象ではない

一方で、心霊スポットとして知られるようになった旧犬鳴トンネル(犬鳴隧道)は、不法投棄や暴走族の溜まり場となったことで問題視され、現在は封鎖されている

周辺の道路は狭く、崖崩れや荒廃も進んでおり、立ち入りには現実的な危険が伴う

たとえ都市伝説が事実無根であったとしても、安易に足を運ぶべき場所ではないことに変わりはないだろう

参考 :
吉田悠軌 (著) 『禁足地巡礼【電子特別版】』
歴史群像編集部 (著)『全国版 幕末維新人物事典』
文 / 北森志乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「犬鳴村」と聞けば、福岡県の犬鳴峠周辺にまつわる心霊スポットや、都市伝説を思い浮かべる人が多いかもしれない

犬鳴村に繋がっていると伝わる「旧犬鳴トンネル」は、かつて実際に殺人事件が起きた場所としても知られており、犬鳴村はもし足を踏み入れれば二度と帰ってはこれないという、全国でも指折りの恐怖スポットと噂されている

ただし、こうした「犬鳴村」の話はあくまで創作された都市伝説であり、実在の地名や村としての記録は存在しない

しかし、かつて福岡県宮若市の犬鳴地方には、「犬鳴谷村(いぬなきだにむら)」と呼ばれる実在の集落が存在していた

今では集落のほとんどが犬鳴ダムの底に沈んでしまったが、「犬鳴御別館跡地」や「日原神社」など、かつての歴史を感じさせるいくつかの痕跡も残されている


都市伝説などが出た「犬鳴村」・・・


都市伝説とは異なる犬鳴谷村の実態

実在した犬鳴谷村の歴史は、都市伝説として語られる「犬鳴村」とは全く無関係である

「犬鳴村伝説」は、岡山県で発生した津山事件をもとに創作されたフィクションだとする説もあるが、信頼できる根拠には乏しく、あくまで噂の域を出ない

実際、旧犬鳴トンネルでは1988年に殺人事件が、犬鳴ダムでは2000年に死体遺棄事件が発生している
しかし、人目につきにくい山間部で事件が起こることは、犬鳴に限った現象ではない

一方で、心霊スポットとして知られるようになった旧犬鳴トンネル(犬鳴隧道)は、不法投棄や暴走族の溜まり場となったことで問題視され、現在は封鎖されている

周辺の道路は狭く、崖崩れや荒廃も進んでおり、立ち入りには現実的な危険が伴う

たとえ都市伝説が事実無根であったとしても、安易に足を運ぶべき場所ではないことに変わりはないだろう


 

 


大島半島ニソの杜、氣比神宮の社叢、沖縄の御嶽、八幡の藪知らず、将門の首塚、対馬のオソロシドコロなど・・・
人が足を踏み入れてはならない場所が、日本各地には点在している
本書であげられたスポットすべてに足を運んだ著者が、誰も体系的に論じたことのない「日本の禁足地」が持つ「恐れ」と「怖れ」と「畏れ」について考察する

古代中国の皇帝の埋葬方法

中国は悠久の歴史の中で、幾多の王朝が興亡を繰り返してきた

各時代の皇帝たちは「天命」を受けて天下を治め、その死は国の命運に大きな影響を及ぼしてきた

彼らの埋葬は単なる葬儀ではなく、政治的・宗教的・文化的儀礼の集大成であり、国家の威信をかけた一大事業であった

秦の始皇帝陵に代表されるように、巨大な陵墓には地下宮殿や副葬品が備えられ、死後の世界でも皇帝としての地位を保てるよう設計されていた

そうした壮麗な埋葬儀礼の根幹をなすのが「土葬」である

中国の歴代皇帝の大多数は、土中に遺体を埋葬される伝統に従った

これは単なる風習ではなく、古代中国に深く根ざした宗教的・倫理的観念によるもので極めて厳格に制度化されていた

なぜ土葬だったのか

なぜ、これほどまでに土葬が重視されたのか
そこには、儒教が深く関わっている

儒家は、

身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也

意訳(身体は父母から授かったものであり、これを損なうことは孝に反する)

という理念を重視した

つまり、火葬は肉体を焼き尽くす行為であり、それは先祖と身体への冒涜とされたのだ
よって、土葬こそが「孝」の実践であり、道徳的に正しい死後のあり方だった

また、中国古代では「死後の世界」こそが真の存在とされ、生前よりも重要視される傾向があった

人間の寿命は短く儚いが、死後は「永遠」である
だからこそ、生前の威光をそのまま死後にも維持できるよう、実体のある遺体を残すことが重んじられた
土葬は、来世における存在を物質的に支える手段とされたのだ

さらに、祖先崇拝の観念もこの文化を支えた

肉体を損なわずに葬ることで、祖霊への礼を尽くし、子孫が定期的に祭祀を行い、供物を捧げる「祀り」の場を維持することができる

この思想は民間にも浸透しており、「墳墓に魂が宿る」という信仰と結びついていった

「火葬」された、ただ一人の皇帝

たが、例外的に「火葬」された皇帝がいる

清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい 在位1643〜1661)である

順治帝は、中国の歴代皇帝たちの中で、正史において火葬されたと確認できる唯一の人物である

清朝の皇帝として北京紫禁城で育った順治帝は、わずか6歳で即位し、8歳から親政を開始した
その在位中、満漢融合政策の推進、反乱鎮圧、仏教振興など、多方面に渡る政策を打ち出したが、わずか24歳で天然痘により急逝してしまった

順治帝は、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝、いわゆる「康雍乾盛世」の黄金時代を導いた聡明な皇帝であったが、なぜ「火葬」されてしまったのだろうか

まず、その大きな要因とされているのは、順治帝の仏教への傾倒である

彼は特に禅宗に深く帰依し、僧侶を紫禁城内に招くなど、皇帝としては異例の行動を取っていた
側近の宦官・呉良輔(ご りょうほ)を出家させたこともその一例であり、晩年には自らも出家を望んでいたとも伝えられている
こうした仏教的信仰が、遺体の火葬という選択に直結した可能性は高い

加えて、当時の北京では天然痘の流行が深刻であり、満族(女真族)にとっては免疫のない致命的な疫病だった

順治帝の感染に際して、宮廷は感染拡大を防ぐため、衛生・封鎖措置として火葬を選択したとも考えられている
実際、清初には痘瘡流行に備えて南苑に「避痘所」が設けられていたが、それでも皇帝を守ることはできなかった

順治帝の遺体は紫禁城内で火葬された後、骨灰が清東陵の孝陵に埋葬されたとされている

また、他にも火葬された可能性のある皇帝はわずかに存在する

たとえば、遼の第2代皇帝・耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)には「塩漬けの後に焼いた」という逸話があり、モンゴル帝国のクビライらにも「秘葬」や「火葬」を示唆する記録がわずかに存在する

だが、これらは伝聞や後代の解釈に過ぎず、順治帝のように正史や複数史料で確認できる明確な火葬記録は現存していない

異例尽くしの死の「準備」

順治帝は、自身の遺体が火葬されるよう手配していたと伝えられる

当時の記録によれば、火葬を実行するための「火化師」が手配されており、最愛の妃である董鄂(ドンゴ)氏の火葬も、同一人物の手によって行われたとされている

その遺詔もまた異例であった

病床の順治帝は、自身の側近であった文官・王熙(おうき)と麻勒吉(マラジ)を呼び、遺言を口述させたが、その内容はまるで懺悔録のようであり、自らの政治的失敗を細かく述べている

太祖・太宗の遺志を十分に継げなかったこと、漢人官僚を過度に重用したこと、宦官を使いすぎたこと、そして満洲の貴族層と距離を置いたことなど、多くの「失策」を自らの言葉で告白しているのだ

この遺詔は後に改ざんされた可能性も指摘されているが、原本とされる写本の記述には、皇帝の苦悩と自己省察が色濃くにじんでいる

順治帝の死は、遺詔を出したその年の正月初七(1661年2月5日)に訪れた

遺体は火葬され、その骨灰は北京郊外の清東陵・孝陵に納められた
葬儀では数名の側近が殉死し、数百点に及ぶ副葬品が焼かれたという

宮廷は当初、火葬の事実を詳細には公表しなかったため、後年には「順治帝は死なずに出家して姿を消した」という逸話も生まれた

だが複数の記録と実際の葬送の痕跡を重ねるかぎり、順治帝の火葬は事実と見なされている

順治帝の死は、ただの早世ではない

伝統的な皇帝像を超えて、宗教的信仰に殉じ、また感染症の拡大という現実に向き合った結果としての火葬は、中国皇帝史上きわめて異例であり、今も特異な輝きを放っている

参考 : 『清史稿』卷五、卷二百十四『清實錄‧清世祖章皇帝實錄』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

中国の歴代皇帝は「土葬」だった

これは儒教、当時の中国の死生観が関係してるようだ


たが、例外的に「火葬」された皇帝がいる

清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい 在位1643〜1661)である


順治帝は、中国の歴代皇帝たちの中で、正史において火葬されたと確認できる唯一の人物である

彼が仏教に傾倒していた、(伝染の)天然痘で亡くなったことも「土葬」に・・・

ラストエンペラーも火葬されているが、彼は「平民」となった「元皇帝」で記録に残る「現役皇帝での土葬」は順治帝のみ


ちなみに中国で皇帝はあの始皇帝からだとされる




 

 


始皇帝は、史上初めて中国を統一した
中国で皇帝を最初に名乗った
あの精巧で緻密な兵馬俑を作り、歴代王朝へ引き継がれた万里の長城を作り始め、不老不死の仙薬を求めた興味深い人物の実像に迫る

11月5日の夜、イギリス各地の町では、夜空に花火が打ち上がり、巨大な焚火が人々を照らします

これは「ガイ・フォークス・ナイト」あるいは「ボンファイヤー・ナイト」と呼ばれる、イギリス特有の伝統行事です

初めてその光景を目にする人にとっては、秋の夜を彩る華やかな祭りのように映るかもしれません

しかしその中心では、やや不穏な儀式が静かに始まります

人の形をした「ガイ人形」が焚火の頂へと運ばれ、観衆の視線が集まるなか、火がくべられるのです
炎は勢いよく燃え上がり、やがて人形の布が焦げ、詰め物が破裂しながら黒く崩れていきます

その姿には、単なる見世物を超えた残酷さを感じさせる瞬間もあります

実は、この奇妙な秋の風物詩の背後には、17世紀初頭の宗教対立と政情不安、そして実際にあった恐ろしい陰謀事件が横たわっているのです

この祭りに隠された由来とその歴史を紐解いていきましょう

国王からの弾圧と失望

17世紀初頭のイングランドは、宗教対立によって大きく揺れていました

その発端は1534年、ヘンリー8世がローマ教皇と決別し、イングランド国教会(プロテスタント)を創設したことでした

これ以降、国内のカトリック教徒たちは長年にわたって厳しい迫害を受け続けていたのです

1603年、エリザベス1世が崩御すると、スコットランド王であったジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に即位し、スチュアート朝が始まります

一部のカトリック信者たちは、新たな王が信教に寛容な政策を取ることを期待しました
しかし期待とは裏腹に、ジェームズ1世はむしろ国教会を強化し、カトリック弾圧を継続したのです

こうした状況に失望した一部の過激なカトリック信者たちは、ついに武力による行動に出ます

計画の中心人物は貴族のロバート・ケイツビーで、彼のもとには血縁や信仰で結ばれた13人の共謀者が集まりました
そのうちの一人が、後に祭りの名の由来となるガイ・フォークスでした

フォークスは軍事経験が豊富で火薬の扱いに長けていただけではなく、イングランド国外、特にスペインでの軍務にも就いており、宗教的情熱に加え、戦術的な知識と経験を兼ね備えた人物でした

陰謀の計画と露呈

彼らの計画は、国会開会式が行われる1605年11月5日に、ロンドンのウェストミンスター宮殿の地下に大量の火薬を仕掛け、国王ジェームズ1世と議会議員を一挙に爆殺しようというものでした

用意された火薬の量は36樽にも及び、当時の建物を吹き飛ばすには十分すぎる量でした

しかし、この計画は実行直前に内部告発により露見してしまいます

カトリック系の貴族に宛てた匿名の警告状が政府に渡り、警戒した当局が議事堂を捜索した結果、地下室で火薬と共に発見されたのがガイ・フォークスでした

フォークスは尋問の末に拷問を受け、仲間の名を明かしました
これにより共犯者たちも次々と逮捕され、計画は完全に頓挫してしまったのです

そして翌1606年1月31日、ロンドン塔から引き出されたフォークスらは、セントポール大聖堂近くで公開処刑に処されました

ただし、ガイ・フォークス自身は処刑の最中に首の骨を折り、即死したとも伝えられています

こうして陰謀は未遂に終わりましたが、その衝撃は大きく、イングランド全土を揺るがす大事件として歴史に刻まれたのです

反乱者から象徴へ

この事件は、結果的に国王と議会の命を救った出来事として、国家的な奇跡とみなされ、大きく称賛されました

事件の翌年である1606年、イングランド議会は「11月5日の遵守法(Observance of 5th November Act)」、通称「感謝祭条例」を可決し、毎年この日を国家的な記念日として定めました

国王を襲った陰謀を神が打ち砕いたとして、「神の導きに感謝する日」と位置づけられたのです

この法律のもと、人々は11月5日に教会で特別礼拝を行い、夜には焚火を囲んで集い、事件の首謀者を象徴する人形を焼くようになりました

初期にはローマ教皇を模した人形が用いられることも多く、次第にガイ・フォークスの名を冠した「ガイ人形」へと移り変わっていきます

この風習はイングランド各地に広がり、恒例の年中行事として定着していきました

当初は宗教的意味合いが強く、カトリックに対する非難の色も濃かったのですが、時を経てそうした側面は次第に薄れ、焚火と花火を楽しむ庶民的な行事へと変化していきました

18世紀以降には、子どもたちが手作りのガイ人形を担いで町を練り歩き、「A penny for the Guy!(ガイに1ペニーを!)」と声をかけて小銭をもらう風習も生まれました

こうしてガイ・フォークスは、「失敗した反逆者」から「毎年燃やされる象徴」へと変貌を遂げていったのです

現代にも残る影響

現代のガイ・フォークス・ナイトは、もはや宗教や政治とはほとんど関係ないエンターテインメントとして定着しています

イングランド各地では、11月5日前後に大規模な花火大会やボンファイヤー(焚火)イベントが開催され、多くの人々が集まる「秋の祭り」として親しまれています

「ガイ人形」以外にも、時事ネタに登場する政治家や有名人を模した人形が燃やされることもあり、風刺や皮肉の効いた演出も見どころの一つとなっています

2005年に公開された映画『Vフォー・ヴェンデッタ』では、ガイ・フォークスの名前と象徴性が再び脚光を浴びました

作中では、近未来の独裁政権に抗う主人公「V」が、ガイ・フォークスの顔を模したマスクを常に身に着け、政府の施設を爆破することで民衆に覚醒を促します

この「ガイ・フォークス・マスク」は、映画の枠を超えて現実の社会運動にも影響を与えました

国際的なハッカー集団「アノニマス」は、このマスクを象徴的に使用し、世界各地で政府や企業に対する抗議行動を展開しています

2011年の「オキュパイ・ウォールストリート」運動をはじめ、香港のデモや中東の春など、抵抗の場にガイ・フォークスの仮面が登場するたびに、彼の存在は単なる歴史上の人物を超えて「自由への象徴」へと昇華されていることが分かります

火薬による革命を試みたガイ・フォークスらの計画は失敗に終わりましたが、その記憶はイギリス社会に深く根付き、今日に至るまで花火や焚火の光を通して、自由と抗議の精神を照らし続けていると言えるでしょう

参考:
『The Observance of 5th November Act 1605』
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』/まりんぬ(著) 佐藤 幸夫(監修) 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

11月5日の夜、イギリス各地の町では、夜空に花火が打ち上がり、巨大な焚火が人々を照らします

これは「ガイ・フォークス・ナイト」あるいは「ボンファイヤー・ナイト」と呼ばれる、イギリス特有の伝統行事です

初めてその光景を目にする人にとっては、秋の夜を彩る華やかな祭りのように映るかもしれません

しかしその中心では、やや不穏な儀式が静かに始まります

人の形をした「ガイ人形」が焚火の頂へと運ばれ、観衆の視線が集まるなか、火がくべられるのです
炎は勢いよく燃え上がり、やがて人形の布が焦げ、詰め物が破裂しながら黒く崩れていきます

その姿には、単なる見世物を超えた残酷さを感じさせる瞬間もあります

実は、この奇妙な秋の風物詩の背後には、17世紀初頭の宗教対立と政情不安、そして実際にあった恐ろしい陰謀事件が横たわっているのです


しかし、「ガイ・フォークス・ナイト」は時代を経て変化・・・
ガイ・フォークスは、「失敗した反逆者」から「毎年燃やされる象徴」へと変貌を遂げていったのです

現代にも残る影響

現代のガイ・フォークス・ナイトは、もはや宗教や政治とはほとんど関係ないエンターテインメントとして定着しています

イングランド各地では、11月5日前後に大規模な花火大会やボンファイヤー(焚火)イベントが開催され、多くの人々が集まる「秋の祭り」として親しまれています

「ガイ人形」以外にも、時事ネタに登場する政治家や有名人を模した人形が燃やされることもあり、風刺や皮肉の効いた演出も見どころの一つとなっています

2005年に公開された映画『Vフォー・ヴェンデッタ』では、ガイ・フォークスの名前と象徴性が再び脚光を浴びました

作中では、近未来の独裁政権に抗う主人公「V」が、ガイ・フォークスの顔を模したマスクを常に身に着け、政府の施設を爆破することで民衆に覚醒を促します

この「ガイ・フォークス・マスク」は、映画の枠を超えて現実の社会運動にも影響を与えました

国際的なハッカー集団「アノニマス」は、このマスクを象徴的に使用し、世界各地で政府や企業に対する抗議行動を展開しています

2011年の「オキュパイ・ウォールストリート」運動をはじめ、香港のデモや中東の春など、抵抗の場にガイ・フォークスの仮面が登場するたびに、彼の存在は単なる歴史上の人物を超えて「自由への象徴」へと昇華されていることが分かります

火薬による革命を試みたガイ・フォークスらの計画は失敗に終わりましたが、その記憶はイギリス社会に深く根付き、今日に至るまで花火や焚火の光を通して、自由と抗議の精神を照らし続けていると言えるでしょう


 

 


とんでもなかった! あなたが知らない西洋がここにある
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知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
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いわば見て直観的にわかる英語学習本です

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日本三大怨霊と呼ばれる三人が、「菅原道真」「崇徳天皇」「平将門」である

なかでも、平将門(たいらのまさかど)は、現代においてもなお、祟りを成す存在として人々から恐れられている

だが、怨霊となってまで晴らしたいほどの無念とは、私的なものではなかった

京では「逆賊」、関東では「英雄」

評価を真っ二つにわけた平将門について調べてみた


出世できないまま相続争いへ

出生についての正確な資料はない

下総国(しもふさのくに)佐倉(現・千葉県佐倉市)を治めていた「平良将(たいらのよしまさ)」の子として生まれるが、これも確証はない。900年前後の生まれとされており、桓武天皇から数えて5世の血筋を持つ

しかし、後に下総国でも豊田や猿島といった茨城地方を本拠にしたため、そちらが故郷であったとも考えられている
15の頃に平安京に上がった将門は、当時の藤原氏を束ねる藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えることとなった

桓武天皇の血筋であり、祖父の「平高望(たいらのたかもち)」は、上総国(かずさのくに)を治める役人であり、父も武士の最高職ともいえる「鎮守府将軍」を務めるなど、武家としては地位の高い家柄に生まれた将門であったが、彼自身は京で出世することはなかった
年代は不明だが、低い官位のまま京を後にした将門は、故郷の東国を目指す

しかし、その途中の上野国花園村(現・群馬県高崎市)付近で、叔父の「平国香(たいらのくにか)」の襲撃を受ける
その危機を救ったのは国香の弟、「平良文(たいら のよしふみ)」であった

このときから将門は、平氏一族の相続争いに巻き込まれたのである

平氏の力が高まる

なぜ将門が相続争いのキーパーソンになったのかは、当時の武士の立場を見ればわかってくる

朝廷は各地に国司(行政官)を送ってはいたが、国司は朝廷に税を納める以外は監督されることはなかった
つまり、実質的にその国の君主的立場となっていたのだ
言ってみれば好き放題である
国内の税率を変えて残りを自らの懐に入れたり、任期後もその地を離れずに財力を蓄え、武力を整えたりと地方で力を付けていった

行政がそのような状態だったため、治安は乱れて自ら武士を名乗るものも増える
そうした武士たちをまとめ上げ、朝廷の目の届かぬ地で、勢力を拡大する武士が現れるようになった


将門の祖父である平高望も、上総国の国司だったが、任期後も当地を離れずに勢力を拡大しており、将門の父・平良将が死去すると、その権力を巡って相続争いが起きたというわけである

相続争いに勝ち残る

その後、将門を狙ったのは、平国香の妻の父である「源護(みなもとのまもる)」であった
935年、源護は子の「源扶(みなもとのたすく)」らに命じ、常陸国真壁郡(現・茨城県西部)で将門を襲撃させた
しかし、これを返り討ちにした将門は、真壁郡にある護の本拠を焼き払い、叔父の国香を焼死させたのである

しかし、これで終わったわけではない

源護に協力する軍勢が次々と将門を襲ってきては、これを退けることが続いた
叔父の「平良兼(たいらのよしかね)」も敵となって将門の前に立ちふさがるが、ことごとくこれらの障害を破り、将門は関東における武士のリーダー的存在にまでなったのである
もっとも、そこに至るまでは、叔父や将門の親戚ばかりとの戦いであり、巻き込まれた形になりながらも将門は相続争いに勝利したのだ

幻となった「東の朝廷」

939年、現在の霞ヶ浦沿岸を拠点として領地を経営していた「藤原玄明(ふじわら のはるあき)」は、国府へ税を納めないばかりか、横領の罪で逮捕されそうになる
そこで玄明が助けを求めて逃げ込んだのが、将門のもとだった
これに対し、常陸国府は玄明の引渡しを要求するが、将門はそれを拒否
さらには兵を集めると、玄明の逮捕を撤回させるために常陸府中まで軍を進めるが、結果的に戦闘となり、これに勝利してしまう

国府を制圧するということは朝廷に反旗を翻したも同然の行為である

将門は、関東の国府をすべて攻撃しては国司を追放して、みずから「新皇」を名乗るようになった
現在の茨城県坂東市を本拠として、関東8国を治める国作りを始めたのだが、朝廷とて黙っているわけがない
征夷大将軍に任ぜられた「藤原忠文(ふじわらのただふみ)」が将門討伐のために派遣されたのだ

しかし、皮肉にも将門を討ち取ったのは、下総国で警察的立場を担っていた「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」と、将門の従兄弟であり、将門とは対立し続けていた「平貞盛(たいらのさだもり)」だった
討伐軍が到着する前のことであり、将門の首は京に運ばれ、恐らくは日本史上初の晒し首とされたのである

平将門 の怨霊

晒し首となった将門の首は怨霊となり、いつまでも朽ちることなく己の肉体を求め続けたという

最後に東へ向けて飛び去ったとあり、それが各地に残る「首塚」伝説となった
しかし、平安京で怨霊と恐れられたということは、朝廷にも恨まれる心当たりがあったということである

それが、関東の治安の乱れであり、民衆の苦しみ、役人の腐敗を見過ごしてきたことではないか
苦しむ人々の思いを背負い、最後は東国独立の夢を見ながらも将門は散ったのである

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

日本三大怨霊と呼ばれる三人が、「菅原道真」「崇徳天皇」「平将門」である

なかでも、平将門(たいらのまさかど)は、現代においてもなお、祟りを成す存在として人々から恐れられている。だが、怨霊となってまで晴らしたいほどの無念とは、私的なものではなかった

京では「逆賊」、関東では「英雄」


「親皇」を名乗り東国独立を目指したようだ・・・

だが、夢敗れ、戦死、晒し首となった平将門・・・

平将門 の怨霊

晒し首となった将門の首は怨霊となり、いつまでも朽ちることなく己の肉体を求め続けたという

最後に東へ向けて飛び去ったとあり、それが各地に残る「首塚」伝説となった
しかし、平安京で怨霊と恐れられたということは、朝廷にも恨まれる心当たりがあったということである

それが、関東の治安の乱れであり、民衆の苦しみ、役人の腐敗を見過ごしてきたことではないか
苦しむ人々の思いを背負い、最後は東国独立の夢を見ながらも将門は散ったのである


 

 


「新皇」を名乗り東国独立を目指したとされる平将門・・・
謎、伝説、怨霊なども多いミステリアスで魅力的でもある平将門に迫る

平安時代の豪族・平将門は、死後に多くの祟りをもたらしたとされ、日本三大怨霊の一人として恐れられてきた

その将門に深く関わったと伝わる「桔梗姫(ききょうひめ : 桔梗の前、桔梗御前とも)」もまた、各地に数多くの伝説を残す謎多き存在である

将門が実在した歴史上の人物であることは確かだが、その妻や妾についての確かな記録は残されておらず、桔梗姫が実在したかどうかも、明確な証拠は存在しない

しかし、関東各地には今もなお、桔梗姫にまつわる伝説が数多く伝えられている

桔梗姫は、将門討伐のきっかけを作った人物ともされており、将門に関わったとされる女性たちの中でも、とりわけ多くの逸話が語り継がれている

平将門に最も愛された寵姫でありながら、将門を裏切ったと伝わる桔梗姫の伝説や史跡に触れていこう


桔梗姫の出自

前述のとおり、将門の妻たちに関する記録は少なく、桔梗姫(ききょうひめ)の出自についても詳しいことは不明であり、いくつかの伝説が存在している

たとえば、江戸時代末期の地誌『利根川図志』によれば、桔梗姫は佐原(現・千葉県香取市佐原)に隣接する牧野村の庄司の娘であり、将門がその家に逗留した際に見初められ、妾になったとされている
ただしこの伝承は、小宰相と呼ばれる別の妾の出自とも重なっており、人物像が混同されている可能性もある

また、茨城県取手市の竜禅寺に伝わる説では、桔梗姫はもともと京都の白拍子で、上洛中の将門に見初められて妾となったが、実は将門の仇敵・藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)に遣わされた間者であったとも伝わっている

さらに一説には、将門と対立していた源護(みなもとのまもる)の長男・扶に嫁ぐ予定だった女性が桔梗姫であり、将門が奪ったとも伝えられている

多くの伝承において、桔梗姫は将門に深く寵愛された妾でありながら、藤原秀郷に内通して将門の秘密を伝えており、それが原因となって将門は討伐されて、後に桔梗姫も悲劇的な死を迎えたとされている

また、地域によって桔梗姫の立場も異なる

福島県伊達市では将門の妾ではなく娘説、茨城県守谷市では秀郷の娘であった説、千葉県市川市では秀郷の妹で兄に遣わされて間者となった説、千葉県東金市では将門の母説など、様々な伝承が言い伝えられている

桔梗姫にまつわる史跡

桔梗姫の伝説にまつわる史跡は関東各地に多数あるが、彼女が将門の妾となってから住んでいたと伝わる茨城県取手市周辺が特に多い

取手市の岡台地にある大日山古墳脇の広場には、桔梗姫が暮らした朝日御殿があったといわれている

桔梗姫は、毎朝この地で朝日を拝んで将門の武運を祈っていたが、将門敗死の報せを受けて、台地の下の沼に入水し、最期を遂げたと伝わっている

桔梗姫が入水した沼はやがて干上がり、明治時代には水田として開発され、地元では「桔梗田」と呼ばれるようになった

しかし、この桔梗田を個人が所有すると、どういうわけかその家の若い娘に不幸が続いた

これは「桔梗姫の祟りではないか」と恐れられたため、村人たちは桔梗田を岡神社が所有する共同水田として管理するようになったという

一方で、取手市の稲戸井駅近く、国道294号線沿いにひっそり佇む「桔梗塚」は、別の伝承に基づくものである

こちらでは、将門の敗死後も桔梗姫は沼に入水せず、将門との間に生まれた子を連れてこの地まで逃れてきたとされる
しかしこの桔梗塚の付近で追手に捕らえられ、無残な最期を遂げたという

ただし「桔梗姫の最期の地」と呼ばれる場所は多数あり、桔梗塚も1つではなく各地に建立されている

また、福島県に伝わる「大蛇伝説」では、人々を脅し生贄を所望する菅沼の大蛇の正体こそが、秀郷に恨みを抱いてこの地にたどり着いた桔梗姫だと伝わっている

「七人将門」の秘密と「咲かずの桔梗」

桔梗姫は「七人将門伝説」や「鉄身伝説」との関りも深い

七人将門とは、将門が戦に同行させたと伝わる7人の影武者のことで、この将門にそっくりの影武者たちのかく乱により秀郷たちは惑わされ、将門本人を見つけることができず難儀していたという

また鉄身伝説とは、将門は矢も刀も通らない鉄の身体を持っていたが、こめかみだけが肉身で唯一の弱点であったとされる伝説である

将門に深く寵愛された桔梗姫は、将門の秘密を知る数少ない人物であった

その桔梗姫が藤原秀郷に内通して、将門の影武者7人のうち6人には影がないこと、そして本物の将門のこめかみだけが動くこと、さらにはこめかみが唯一の弱点であることを秀郷に教えてしまったために、将門は本人と見抜かれてこめかみに矢を射られ、絶命したのだという

弱点を知られて秀郷に追い詰められた将門が、桔梗姫の内通を知り「桔梗咲くな」と呪いの言葉を吐いた結果、桔梗姫は死に、桔梗姫の最期の地となった場所では桔梗の花が咲かなくなったとも伝わっている

ただし、『北相馬郡志』によれば、取手市米ノ井の桔梗塚周辺で桔梗の花が咲かないのは、呪いや祟りによるものではなく、かつてこの地で桔梗が薬用植物として栽培されていたためだという

桔梗を薬として使う時は花ではなく根を使うが、花を咲かせてしまうと根は細くなってしまう

できるだけ太い根を採取するために、桔梗のつぼみを咲く前に摘み取っていたことが「咲かずの桔梗」の理由とも考えられている

桔梗忌避の伝統

万葉集の秋の七草にも詠まれるように、「桔梗(ききょう)」は古くから親しまれてきた花だが、将門ゆかりの地では様相が異なる

将門や桔梗姫の祟りを恐れ、桔梗を忌み嫌う風習が現代まで伝えられているという

桔梗忌避の伝承が残る地域では、庭先や田畑に桔梗を植えることが禁忌とされるばかりか、桔梗紋の入った衣服や道具すら避けられてきた

さらに、他所から嫁いできた者や婿入りする者が桔梗紋を用いていた場合、離縁になるとも伝えられている

桔梗姫が実在したかどうかは定かでない

しかし、彼女の名とともに残された怨念の物語は、首塚の祟りで知られる将門伝説と結びつき、千年を超えてなお、人々の間で語り継がれているのだ

参考 :
川尻秋生(編)『将門記を読む』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

平安時代の豪族・平将門は、死後に多くの祟りをもたらしたとされ、日本三大怨霊の一人として恐れられてきた

その将門に深く関わったと伝わる「桔梗姫(ききょうひめ : 桔梗の前、桔梗御前とも)」もまた、各地に数多くの伝説を残す謎多き存在である

将門が実在した歴史上の人物であることは確かだが、その妻や妾についての確かな記録は残されておらず、桔梗姫が実在したかどうかも、明確な証拠は存在しない

しかし、関東各地には今もなお、桔梗姫にまつわる伝説が数多く伝えられている

桔梗姫は、将門討伐のきっかけを作った人物ともされており、将門に関わったとされる女性たちの中でも、とりわけ多くの逸話が語り継がれている


平将門を愛した美女は“裏切り者”だったのか!?

多くの伝説のある将門・・・
「七人将門」「鉄身伝説」「咲かずの桔梗」も気になります・・・


桔梗忌避の伝統

万葉集の秋の七草にも詠まれるように、「桔梗(ききょう)」は古くから親しまれてきた花だが、将門ゆかりの地では様相が異なる

将門や桔梗姫の祟りを恐れ、桔梗を忌み嫌う風習が現代まで伝えられているという

桔梗忌避の伝承が残る地域では、庭先や田畑に桔梗を植えることが禁忌とされるばかりか、桔梗紋の入った衣服や道具すら避けられてきた

さらに、他所から嫁いできた者や婿入りする者が桔梗紋を用いていた場合、離縁になるとも伝えられている

桔梗姫が実在したかどうかは定かでない

しかし、彼女の名とともに残された怨念の物語は、首塚の祟りで知られる将門伝説と結びつき、千年を超えてなお、人々の間で語り継がれているのだ



 

 


「新皇」を名乗り東国独立を目指したとされる平将門・・・
謎、伝説、怨霊なども多いミステリアスで魅力的でもある平将門に迫る

「薄いもの」と聞いて、まず思い浮かぶのは紙や布であろう

紙は文字を記す媒体として、あるいは物を包む包装材として、古来あらゆる場面で用いられてきた
一方の布もまた、衣服の材料にとどまらず、帳(とばり)や包帯など多様な用途に活かされ、人間の生活に深く根を下ろしてきた存在である

だが、こうした「薄く柔らかいもの」が、神話や怪異の世界ではしばしば異なる意味を持つ
時にそれは、人間社会に災いをもたらす妖しのものとして語られてきた

紙や布という「薄さ」を武器に変え、人々を惑わせてきた怪異たちの伝承をいくつか紹介したい


1.一反木綿

一反木綿(いったんもめん)は、鹿児島県高山町に伝わる妖怪である

方言学者である野村伝四(1880~1948年)が著した『大隅肝属郡方言集』にて、その存在が言及されている

その姿は名前そのままに一反(長さ約10.6m・幅約30cm)の木綿のようであり、夜になるとヒラヒラと漂い現れて、人間に襲い掛かるのだという

10mとはかなりの長さである
そんなものが夜遅くにフワーッと襲い掛かってくるのだから、想像するとなかなかに恐ろしい
顔面を覆われたら、窒息死は免れないだろう

このように、一反木綿は鹿児島のごく一部で語り継がれていた非常にローカルな妖怪であったが、かの妖怪漫画家・水木しげる(1922~2015年)が独特のタッチで描き、さらに『ゲゲゲの鬼太郎』に登場したことで、一躍人気妖怪へと躍り出た

今日では、鹿児島訛りの気さくでユーモラスな妖怪として知られる一反木綿であるが、それはゲゲゲの鬼太郎という作品内の設定に過ぎず、本来は危険な妖怪であることを忘れてはならない

もし夜間に、ヒラヒラと舞い飛ぶ物体を見かけても、近づかない方が良いだろう

2.紙舞

紙舞(かみまい)は、その名の通り、紙を舞い飛ばす妖怪である

民俗学者である藤沢衛彦(1885~1967年)の著作『妖怪画談全集 日本篇 上』によると、この妖怪は神無月(10月)に現れ、紙を一枚ずつ飛び散らかすのだという

一見、風で紙が飛んだだけにも見えるが、神無月限定で出没するというところがミソであろう

神無月には、日本中の神々が出雲(現在の島根県東部)に集まるとされているので、妖怪たちは神罰を恐れずに好き放題できるというわけだ

3.機尋

機尋(はたひろ)は、妖怪絵師・鳥山石燕(1712~1788年)の著した妖怪図鑑『今昔百鬼拾遺』にて言及されている

石燕による解説を意訳すると、以下となる

(意訳・要約)

とある夫婦の妻が、家に帰ってこない夫に激怒しながら織物をしていた。
その怒り・憎しみの感情が、やがて織っていた布に変化を与えた。
布は恐ろしい姿の蛇と化し、夫の行方を追い続けた。
まるで「自君之出矣不復理残機」という詩のようではないか。

「自君之出矣不復理残機」とは、唐代の中国の詩人、張九齢(678~740年)が詠んだ詩からの引用であり、「あなたがいなくなってから、残った織物を織る気にもなれない」という、女の切ない心情が描かれている

「機」とは織物を作る道具のことである
「尋」は長さを表す言葉であり、一尋は両手を広げたくらいの長さ、すなわち約1.8mだとされている

この妖怪は、織物道具の機と、伝統芸能において大蛇の大きさを表す「二十尋(はたひろ)」という言葉を掛け合わせて、石燕が創作した妖怪だと考えられている

4.蛇帯

蛇帯(じゃたい)もまた『今昔百鬼拾遺』にて語られる、先述した機尋とよく似た妖怪である
着物の帯が、蛇のごとくクネクネしている姿で描かれている

石燕の解説は以下の通りだ

(意訳・要約)

晋代中国の張華(232~300年)が著した『博物志』には「帯を敷いて眠ると蛇の夢を見る」とある。
嫉妬に狂った女が三重に巻いた帯ともなれば、最終的には七重にも巻きつく、凶悪な毒蛇に変化してもおかしくはない。
女と男の間には垣根のようなものがあって、恋心は得てして伝わらないものである。
そりゃあ女も、情念で蛇のように体をクネクネさせるだろう。

この妖怪は、「邪心」と「蛇身」の語呂合わせにより創作された妖怪だと考えられている

また、蛇は古来より、女の嫉妬や憎しみのモチーフとされるものである

かの「安珍・清姫伝説」も、僧侶にフラれた女が怒りで蛇と化し、追いかけて焼き殺すという話として名高い

5. 吸血毯

吸血毯(きゅうけつたん) は、中国に伝わる怪異である

雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州の湖に、この怪物は生息しているとされる
その名が示すように、絨毯のように平べったい形をしており、さらには体中に口が生えているという、身の毛もよだつ姿であると伝えられている

普段は水面にプカプカと浮いており、一見すると水草やアオコ(植物プランクトンの塊)にしか見えないという
不用意に水辺に近づいた獲物を水中に引きずり込み、全身の口で噛り付いて、血を吸い尽くし殺すとされる

一説によると、その正体は東南アジアの河川に生息する、「プラークラベーン」という超巨大なエイではないかといわれている

また、南米にはクエーロという、吸血毯とよく似た怪物の伝承が語り継がれており、その関連性を指摘する声も一部では存在する

参考 : 『大隅肝属郡方言集』『今昔百鬼拾遺』『妖怪画談全集 日本篇 上』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「薄いもの」と聞いて、まず思い浮かぶのは紙や布であろう

紙は文字を記す媒体として、あるいは物を包む包装材として、古来あらゆる場面で用いられてきた
一方の布もまた、衣服の材料にとどまらず、帳(とばり)や包帯など多様な用途に活かされ、人間の生活に深く根を下ろしてきた存在である

だが、こうした「薄く柔らかいもの」が、神話や怪異の世界ではしばしば異なる意味を持つ
時にそれは、人間社会に災いをもたらす妖しのものとして語られてきた



一反木綿は「ゲゲゲの鬼太郎」に登場しよく知られるように・・・
「ゲゲゲの鬼太郎」ではユーモアに描かれていますが本来は怖い妖怪のようです


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編