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メインウェーブ日記

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平安時代の豪族・平将門は、死後に多くの祟りをもたらしたとされ、日本三大怨霊の一人として恐れられてきた

その将門に深く関わったと伝わる「桔梗姫(ききょうひめ : 桔梗の前、桔梗御前とも)」もまた、各地に数多くの伝説を残す謎多き存在である

将門が実在した歴史上の人物であることは確かだが、その妻や妾についての確かな記録は残されておらず、桔梗姫が実在したかどうかも、明確な証拠は存在しない

しかし、関東各地には今もなお、桔梗姫にまつわる伝説が数多く伝えられている

桔梗姫は、将門討伐のきっかけを作った人物ともされており、将門に関わったとされる女性たちの中でも、とりわけ多くの逸話が語り継がれている

平将門に最も愛された寵姫でありながら、将門を裏切ったと伝わる桔梗姫の伝説や史跡に触れていこう


桔梗姫の出自

前述のとおり、将門の妻たちに関する記録は少なく、桔梗姫(ききょうひめ)の出自についても詳しいことは不明であり、いくつかの伝説が存在している

たとえば、江戸時代末期の地誌『利根川図志』によれば、桔梗姫は佐原(現・千葉県香取市佐原)に隣接する牧野村の庄司の娘であり、将門がその家に逗留した際に見初められ、妾になったとされている
ただしこの伝承は、小宰相と呼ばれる別の妾の出自とも重なっており、人物像が混同されている可能性もある

また、茨城県取手市の竜禅寺に伝わる説では、桔梗姫はもともと京都の白拍子で、上洛中の将門に見初められて妾となったが、実は将門の仇敵・藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)に遣わされた間者であったとも伝わっている

さらに一説には、将門と対立していた源護(みなもとのまもる)の長男・扶に嫁ぐ予定だった女性が桔梗姫であり、将門が奪ったとも伝えられている

多くの伝承において、桔梗姫は将門に深く寵愛された妾でありながら、藤原秀郷に内通して将門の秘密を伝えており、それが原因となって将門は討伐されて、後に桔梗姫も悲劇的な死を迎えたとされている

また、地域によって桔梗姫の立場も異なる

福島県伊達市では将門の妾ではなく娘説、茨城県守谷市では秀郷の娘であった説、千葉県市川市では秀郷の妹で兄に遣わされて間者となった説、千葉県東金市では将門の母説など、様々な伝承が言い伝えられている

桔梗姫にまつわる史跡

桔梗姫の伝説にまつわる史跡は関東各地に多数あるが、彼女が将門の妾となってから住んでいたと伝わる茨城県取手市周辺が特に多い

取手市の岡台地にある大日山古墳脇の広場には、桔梗姫が暮らした朝日御殿があったといわれている

桔梗姫は、毎朝この地で朝日を拝んで将門の武運を祈っていたが、将門敗死の報せを受けて、台地の下の沼に入水し、最期を遂げたと伝わっている

桔梗姫が入水した沼はやがて干上がり、明治時代には水田として開発され、地元では「桔梗田」と呼ばれるようになった

しかし、この桔梗田を個人が所有すると、どういうわけかその家の若い娘に不幸が続いた

これは「桔梗姫の祟りではないか」と恐れられたため、村人たちは桔梗田を岡神社が所有する共同水田として管理するようになったという

一方で、取手市の稲戸井駅近く、国道294号線沿いにひっそり佇む「桔梗塚」は、別の伝承に基づくものである

こちらでは、将門の敗死後も桔梗姫は沼に入水せず、将門との間に生まれた子を連れてこの地まで逃れてきたとされる
しかしこの桔梗塚の付近で追手に捕らえられ、無残な最期を遂げたという

ただし「桔梗姫の最期の地」と呼ばれる場所は多数あり、桔梗塚も1つではなく各地に建立されている

また、福島県に伝わる「大蛇伝説」では、人々を脅し生贄を所望する菅沼の大蛇の正体こそが、秀郷に恨みを抱いてこの地にたどり着いた桔梗姫だと伝わっている

「七人将門」の秘密と「咲かずの桔梗」

桔梗姫は「七人将門伝説」や「鉄身伝説」との関りも深い

七人将門とは、将門が戦に同行させたと伝わる7人の影武者のことで、この将門にそっくりの影武者たちのかく乱により秀郷たちは惑わされ、将門本人を見つけることができず難儀していたという

また鉄身伝説とは、将門は矢も刀も通らない鉄の身体を持っていたが、こめかみだけが肉身で唯一の弱点であったとされる伝説である

将門に深く寵愛された桔梗姫は、将門の秘密を知る数少ない人物であった

その桔梗姫が藤原秀郷に内通して、将門の影武者7人のうち6人には影がないこと、そして本物の将門のこめかみだけが動くこと、さらにはこめかみが唯一の弱点であることを秀郷に教えてしまったために、将門は本人と見抜かれてこめかみに矢を射られ、絶命したのだという

弱点を知られて秀郷に追い詰められた将門が、桔梗姫の内通を知り「桔梗咲くな」と呪いの言葉を吐いた結果、桔梗姫は死に、桔梗姫の最期の地となった場所では桔梗の花が咲かなくなったとも伝わっている

ただし、『北相馬郡志』によれば、取手市米ノ井の桔梗塚周辺で桔梗の花が咲かないのは、呪いや祟りによるものではなく、かつてこの地で桔梗が薬用植物として栽培されていたためだという

桔梗を薬として使う時は花ではなく根を使うが、花を咲かせてしまうと根は細くなってしまう

できるだけ太い根を採取するために、桔梗のつぼみを咲く前に摘み取っていたことが「咲かずの桔梗」の理由とも考えられている

桔梗忌避の伝統

万葉集の秋の七草にも詠まれるように、「桔梗(ききょう)」は古くから親しまれてきた花だが、将門ゆかりの地では様相が異なる

将門や桔梗姫の祟りを恐れ、桔梗を忌み嫌う風習が現代まで伝えられているという

桔梗忌避の伝承が残る地域では、庭先や田畑に桔梗を植えることが禁忌とされるばかりか、桔梗紋の入った衣服や道具すら避けられてきた

さらに、他所から嫁いできた者や婿入りする者が桔梗紋を用いていた場合、離縁になるとも伝えられている

桔梗姫が実在したかどうかは定かでない

しかし、彼女の名とともに残された怨念の物語は、首塚の祟りで知られる将門伝説と結びつき、千年を超えてなお、人々の間で語り継がれているのだ

参考 :
川尻秋生(編)『将門記を読む』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

平安時代の豪族・平将門は、死後に多くの祟りをもたらしたとされ、日本三大怨霊の一人として恐れられてきた

その将門に深く関わったと伝わる「桔梗姫(ききょうひめ : 桔梗の前、桔梗御前とも)」もまた、各地に数多くの伝説を残す謎多き存在である

将門が実在した歴史上の人物であることは確かだが、その妻や妾についての確かな記録は残されておらず、桔梗姫が実在したかどうかも、明確な証拠は存在しない

しかし、関東各地には今もなお、桔梗姫にまつわる伝説が数多く伝えられている

桔梗姫は、将門討伐のきっかけを作った人物ともされており、将門に関わったとされる女性たちの中でも、とりわけ多くの逸話が語り継がれている


平将門を愛した美女は“裏切り者”だったのか!?

多くの伝説のある将門・・・
「七人将門」「鉄身伝説」「咲かずの桔梗」も気になります・・・


桔梗忌避の伝統

万葉集の秋の七草にも詠まれるように、「桔梗(ききょう)」は古くから親しまれてきた花だが、将門ゆかりの地では様相が異なる

将門や桔梗姫の祟りを恐れ、桔梗を忌み嫌う風習が現代まで伝えられているという

桔梗忌避の伝承が残る地域では、庭先や田畑に桔梗を植えることが禁忌とされるばかりか、桔梗紋の入った衣服や道具すら避けられてきた

さらに、他所から嫁いできた者や婿入りする者が桔梗紋を用いていた場合、離縁になるとも伝えられている

桔梗姫が実在したかどうかは定かでない

しかし、彼女の名とともに残された怨念の物語は、首塚の祟りで知られる将門伝説と結びつき、千年を超えてなお、人々の間で語り継がれているのだ



 

 


「新皇」を名乗り東国独立を目指したとされる平将門・・・
謎、伝説、怨霊なども多いミステリアスで魅力的でもある平将門に迫る

「薄いもの」と聞いて、まず思い浮かぶのは紙や布であろう

紙は文字を記す媒体として、あるいは物を包む包装材として、古来あらゆる場面で用いられてきた
一方の布もまた、衣服の材料にとどまらず、帳(とばり)や包帯など多様な用途に活かされ、人間の生活に深く根を下ろしてきた存在である

だが、こうした「薄く柔らかいもの」が、神話や怪異の世界ではしばしば異なる意味を持つ
時にそれは、人間社会に災いをもたらす妖しのものとして語られてきた

紙や布という「薄さ」を武器に変え、人々を惑わせてきた怪異たちの伝承をいくつか紹介したい


1.一反木綿

一反木綿(いったんもめん)は、鹿児島県高山町に伝わる妖怪である

方言学者である野村伝四(1880~1948年)が著した『大隅肝属郡方言集』にて、その存在が言及されている

その姿は名前そのままに一反(長さ約10.6m・幅約30cm)の木綿のようであり、夜になるとヒラヒラと漂い現れて、人間に襲い掛かるのだという

10mとはかなりの長さである
そんなものが夜遅くにフワーッと襲い掛かってくるのだから、想像するとなかなかに恐ろしい
顔面を覆われたら、窒息死は免れないだろう

このように、一反木綿は鹿児島のごく一部で語り継がれていた非常にローカルな妖怪であったが、かの妖怪漫画家・水木しげる(1922~2015年)が独特のタッチで描き、さらに『ゲゲゲの鬼太郎』に登場したことで、一躍人気妖怪へと躍り出た

今日では、鹿児島訛りの気さくでユーモラスな妖怪として知られる一反木綿であるが、それはゲゲゲの鬼太郎という作品内の設定に過ぎず、本来は危険な妖怪であることを忘れてはならない

もし夜間に、ヒラヒラと舞い飛ぶ物体を見かけても、近づかない方が良いだろう

2.紙舞

紙舞(かみまい)は、その名の通り、紙を舞い飛ばす妖怪である

民俗学者である藤沢衛彦(1885~1967年)の著作『妖怪画談全集 日本篇 上』によると、この妖怪は神無月(10月)に現れ、紙を一枚ずつ飛び散らかすのだという

一見、風で紙が飛んだだけにも見えるが、神無月限定で出没するというところがミソであろう

神無月には、日本中の神々が出雲(現在の島根県東部)に集まるとされているので、妖怪たちは神罰を恐れずに好き放題できるというわけだ

3.機尋

機尋(はたひろ)は、妖怪絵師・鳥山石燕(1712~1788年)の著した妖怪図鑑『今昔百鬼拾遺』にて言及されている

石燕による解説を意訳すると、以下となる

(意訳・要約)

とある夫婦の妻が、家に帰ってこない夫に激怒しながら織物をしていた。
その怒り・憎しみの感情が、やがて織っていた布に変化を与えた。
布は恐ろしい姿の蛇と化し、夫の行方を追い続けた。
まるで「自君之出矣不復理残機」という詩のようではないか。

「自君之出矣不復理残機」とは、唐代の中国の詩人、張九齢(678~740年)が詠んだ詩からの引用であり、「あなたがいなくなってから、残った織物を織る気にもなれない」という、女の切ない心情が描かれている

「機」とは織物を作る道具のことである
「尋」は長さを表す言葉であり、一尋は両手を広げたくらいの長さ、すなわち約1.8mだとされている

この妖怪は、織物道具の機と、伝統芸能において大蛇の大きさを表す「二十尋(はたひろ)」という言葉を掛け合わせて、石燕が創作した妖怪だと考えられている

4.蛇帯

蛇帯(じゃたい)もまた『今昔百鬼拾遺』にて語られる、先述した機尋とよく似た妖怪である
着物の帯が、蛇のごとくクネクネしている姿で描かれている

石燕の解説は以下の通りだ

(意訳・要約)

晋代中国の張華(232~300年)が著した『博物志』には「帯を敷いて眠ると蛇の夢を見る」とある。
嫉妬に狂った女が三重に巻いた帯ともなれば、最終的には七重にも巻きつく、凶悪な毒蛇に変化してもおかしくはない。
女と男の間には垣根のようなものがあって、恋心は得てして伝わらないものである。
そりゃあ女も、情念で蛇のように体をクネクネさせるだろう。

この妖怪は、「邪心」と「蛇身」の語呂合わせにより創作された妖怪だと考えられている

また、蛇は古来より、女の嫉妬や憎しみのモチーフとされるものである

かの「安珍・清姫伝説」も、僧侶にフラれた女が怒りで蛇と化し、追いかけて焼き殺すという話として名高い

5. 吸血毯

吸血毯(きゅうけつたん) は、中国に伝わる怪異である

雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州の湖に、この怪物は生息しているとされる
その名が示すように、絨毯のように平べったい形をしており、さらには体中に口が生えているという、身の毛もよだつ姿であると伝えられている

普段は水面にプカプカと浮いており、一見すると水草やアオコ(植物プランクトンの塊)にしか見えないという
不用意に水辺に近づいた獲物を水中に引きずり込み、全身の口で噛り付いて、血を吸い尽くし殺すとされる

一説によると、その正体は東南アジアの河川に生息する、「プラークラベーン」という超巨大なエイではないかといわれている

また、南米にはクエーロという、吸血毯とよく似た怪物の伝承が語り継がれており、その関連性を指摘する声も一部では存在する

参考 : 『大隅肝属郡方言集』『今昔百鬼拾遺』『妖怪画談全集 日本篇 上』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「薄いもの」と聞いて、まず思い浮かぶのは紙や布であろう

紙は文字を記す媒体として、あるいは物を包む包装材として、古来あらゆる場面で用いられてきた
一方の布もまた、衣服の材料にとどまらず、帳(とばり)や包帯など多様な用途に活かされ、人間の生活に深く根を下ろしてきた存在である

だが、こうした「薄く柔らかいもの」が、神話や怪異の世界ではしばしば異なる意味を持つ
時にそれは、人間社会に災いをもたらす妖しのものとして語られてきた



一反木綿は「ゲゲゲの鬼太郎」に登場しよく知られるように・・・
「ゲゲゲの鬼太郎」ではユーモアに描かれていますが本来は怖い妖怪のようです


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

世界で最も有名な絵と称される《神奈川沖浪(なみ)裏》を描いた葛飾北斎
役者の似顔絵、美人画、小説の挿絵と活躍の場を広げ、風景画で独自の境地を開いてもなお、「もっとうまくなりたい」と狂ったように描き続けた「画鉄人」の生涯を紹介する

葛飾北斎(1760〜1849)が75歳の時に出版された絵本『富嶽(ふがく)百景』の跋文(ばつぶん=あとがき)は、彼の画人魂を語るものとして有名である

「自分は6歳から物の形を写す癖があり、50歳の頃から数々の絵を世に出してきたが、70歳以前に描いたものは取るに足りない。73歳になってやや鳥・獣・虫・魚などの骨格や草木の生態を知ることができた。だから、86歳になればまずます画技が進み、90歳では奥義を究め、100歳では神業の域に達し、110歳では描いた一つひとつの点や線が生きているよう見えるだろう。」

この言葉に示されているように、彼はひとつ所に安住せず、絵画において常に高みを目指す求道者であった

人気の浮世絵師に弟子入り

浮世絵師としての北斎のキャリアは、1779(安永8)年、20歳頃に始まる
歌舞伎役者の似顔絵を描いて人気のあった勝川春章の弟子となり、「春朗」と号して、主に役者絵の描き手として活動する
今日に残る役者絵の作品数も多く、1791(寛政3)年に市川蝦蔵(えびぞう)と坂田半五郎の舞台姿を描いた作品など、役者絵としての高い完成度を見せており、浮世絵師としてかなり順調なスタートを切ったと思われる

後に完成度を高めるジャンルで頭角を現す

師の春章が没した1792(寛政4)年以降、勝川派での立場が危うくなったようだ
春章の一番弟子である春好との不仲が原因だとする説が有力で、1794(寛政6)年には別流派の絵師「俵屋宗理」を襲名した
そして浮世絵師の主要活動ジャンルである市販される多色刷版画「錦絵」ではなく、年頭に知人に配る略暦や催事案内などの絵を精力的に描き出す
こうした非売品の一枚刷り版画は摺物(すりもの)と呼ばれるが、同じ木版画でありながら、錦絵とは異なる淡く繊細な色彩が好まれ、北斎の描く摺物はその要請によく応えるものだった
彼は「宗理」を号している頃から狂歌絵本の挿絵も手がけるようになる
狂歌絵本は狂歌集に挿絵を添えたものだが、やはり繊細優美な画風を特色としている
北斎は18世紀の終わり頃から絵画的に高い完成度を見せるようになったこの2つのジャンルの主要な描き手として活躍したのである

優美な美人画で江戸っ子を魅了

1798(寛政10)年、「宗理」の画号を弟子に譲り、「北斎」を主たる画号に用いるようになる
宗理号を名乗っていた時期の終盤から北斎と改号してからの10年ほどの間、細身で長身、しなやかで優美な美人画のスタイルをつくりあげて大人気を得た
美人画の巨匠である喜多川歌麿がまだ活躍中の1800(寛政12)年に出版された洒落本『大通契語(たいとうけいご)』の中で、美人表現の名手として時の人気作家・山東京伝と並び称されているほどである
この時代の北斎が描く優美な美人画は、現在「宗理風美人」と通称されているが、そのスタイルで描かれた肉筆美人画は今日、非常に高い評価を得ている

辛口の馬琴も絶賛

曲亭馬琴らの書き手を得て当時流行していたのが読本(よみほん)である
読本は小説の一種で物語性の強い文学ジャンルだが、売り上げを高めるには挿絵の果たす役割が大きかった
北斎は、漢語混じりの硬質な文体に似合った緊密な構図や、今日の劇画の表現に通じるようなダイナミックな筆致、深い闇を効果的に用いた怪奇描写などで、このジャンルを代表する挿絵画家となった
馬琴は他人に対して辛口で知られるが、北斎に関しては原作者の指示に素直に従わない天邪鬼(あまのじゃく)ぶりを指摘しつつも、その画技を極めて高く評価している
両者の協業による長編読本『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(1807~1811年)は、このジャンルの最高傑作の1つとなっている

西洋画にもチャレンジ

読本挿絵を多作していたほぼ同じ頃、北斎は新たな領域に踏み出している
それは、西洋の銅版画や油彩画の質感や描写密度を木版画で再現する「洋風版画」制作の試みである
司馬江漢や亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん)らによって試みられていた当時最先端の表現に対して旺盛な好奇心を示したもので、陰影や銅版画風のハッチング、油彩画風の色彩など、従来の錦絵とは異質な画風で江戸や諸国の風景を何種類ものシリーズ物版画に仕立て上げている
ひらがなで欧文をまねた横書きの落款(らっかん)さえ伴うその斬新な表現は、必ずしも商品としての成功をもたらすものではなかったが、自らの弟子も含め同時期の浮世絵師の風景表現に少なからぬ影響を与えた。同時に、《富嶽三十六景》などの風景版画を生み出す母胎ともなった

西洋の芸術家にも衝撃を与えた造形感覚

北斎は「北斎」号を1815(文化12)年に弟子に譲り、自らは「戴斗(たいと)」と号する
その前年、今日彼の名を世界的に知らしめた『北斎漫画』の初編が刊行された
人物や獣、虫、魚、草花などありとあらゆる事物のデッサンを収め、絵を学ぶ者に向けた手本集として編集されたものである
すでに大家としての名声を確立していた北斎が手がけた絵手本であったため需要も高く、続編が次々と刊行され、最終の15編が出たのは北斎が没してから約30年後の1878(明治11)年である
内容も、純粋の絵手本というよりは、鑑賞性の高い戯画集の体裁をとるものも含まれる
人物の姿態や鳥、魚、虫などの形態は、癖のある北斎の個性が強く打ち出されており、その造形的なインパクトが日本の絵師だけでなく、後述する西洋の芸術家をも引きつけるものとなった

70歳を過ぎて挑んだ風景画

現代においても創作にたずさわる世界中の人々を魅了するグレートウエーブこと《神奈川沖浪裏》を含む風景画シリーズ《富嶽三十六景》が生み出されるのが1830(天保元年)年前後である
江戸の人々にとって特別な存在である富士山を見る場所や天候、構図などを違えて描き分けたこのシリーズは、その鮮烈な色合いから当時普及しつつあった舶来の合成顔料「プルシアンブルー」をふんだんに用いたことも相まって、大ブレークする
これ以前、錦絵において風景画は役者絵や美人画に比べてマイナーなジャンルであり、数十枚もの規模の風景画シリーズの制作には多大なリスクが伴ったはずである
この10年ほど前に「為一(いいつ)」と画号を改め、すでに70歳の老人になっていた北斎が、果敢に新しいジャンルに挑戦したことは驚きであり、名声に安住しない画人魂を感じさせる

北斎自身、《富嶽三十六景》の成功に気をよくして、滝をテーマとした《諸国瀧廻(めぐ)り》や《諸国名橋奇覧》といった風景画シリーズを制作、歌川国芳や歌川広重といった歌川派の絵師らも相次いでこのジャンルに参入してくる
《富嶽三十六景》の成功が錦絵において風景画のジャンルを確立させる立役者となったのである

90歳まで描き続けた「画鉄人」

1830年代に北斎は花や鳥を主題とした錦絵シリーズも制作し、やはりこのジャンルの成立に大きな役割を果たしている
1834(天保5)年、北斎は画号を改め、「卍(まんじ)」と称するようになった
改号間もない頃に出版されたのが、冒頭に跋文を引用した『富嶽百景』である
富士山の風景だけでなく、この霊峰にまつわる神話や文学などさまざまな角度から描くこの絵本は、近景のモチーフを極端に拡大し、その向こうに富士山を配置する「近」と「遠」を対比する大胆な構図が特徴である

《アンリ・リヴィエール エッフェル塔三十六景》パリ万博のために建設されていたエッフェル塔をさまざまな地点や構図でとらえた版画集
北斎の《富嶽三十六景》に感化されたもので、クローズアップした近景越しに塔を望む大胆な構図には『富嶽百景』の影響も認められる

こうした風景画は歌川派の浮世絵師だけでなく、アンリ・リヴィエールの版画やエミール・ガレのガラス工芸など、ヨーロッパの造形家にも大きなインスピレーションを与えた

同書の跋文で110歳の命を願った北斎も、1849(嘉永2)年、数え90歳で世を去ることとなる
ただ、死の3年前、87歳でも健脚であったことが記録されており、創作意欲と画力は最後まで衰えなかったようで、亡くなる年に描かれた肉筆画の傑作も複数伝わっている
北斎はしばしば自らを「画狂人」と称しているが、むしろ「画鉄人」と呼ぶ方がふさわしいのではないだろうか

【Profile】
大久保 純一 
美術史家
すみだ北斎美術館および町田市立国際版画美術館館長
1959年、徳島県生まれ
東京大学大学院修了
博士(文学)
東京国立博物館、跡見学園女子大学、国立歴史民俗博物館などを経て現職
主な著書に『広重と浮世絵風景画』(東京大学出版会、2007年)、『カラー版画 北斎』(岩波新書,2012年)、『浮世絵出版論 大量生産・消費される〈美術〉』(吉川弘文館、2013年)、『ジャパノロジー・コレクション 歌麿』(KADOKAWA、2024年)など

(この記事はnippon.comの記事で作りました)

北斎は常に前向きに前進・・・

大胆な構図・色彩、模写力などで世界的に高く評価


 

 


絵を描くことに情熱を傾けたある意味「変人」の天才画家・葛飾北斎・・・
森羅万象あらゆるものを描いた彼の作品と数奇で興味深い生涯を紹介・解説

江戸時代の面影が色濃く残る風情ある「下町」は、近年、国内外の観光客に人気のエリアとなっています

NHK大河ドラマ『べらぼう』の影響で“大河ドラマ館”も設けられ、蔦屋重三郎ゆかりの地を訪れる人の姿も見られます

ただし、「下町」という言葉には明確な定義があるわけではありません

一般的には足立区・葛飾区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・江戸川区の7区、あるいは秋葉原・上野・浅草・柴又など、隅田川沿いの地域を指すことが多いようです

こうした「江戸時代の町人や職人が暮らしていた地域」には、昔から語り継がれてきた怪談や奇談が今も残っています

その代表格が「本所七不思議」です

いわば江戸時代の「都市伝説」とも言えるこれらの怪談は、落語や映画の題材としても取り上げられ、今なお人々の想像力を刺激し続けています

本所七不思議とは、名のとおり本所(現在の東京都墨田区)界隈に伝わる怪異の数々を指します

ここでは代表的な話をいくつかご紹介します


① 釣った魚を置いていけ〜「置行堀」

「置行堀(おいてけぼり/おいてきぼり)」は、落語の題材にもなっている有名な話です

江戸時代、本所界隈は水路の多い場所だったので、町人たちはよく魚釣りを楽しんでいました

ある夕暮れ時、釣り人がたくさんの魚が釣れてホクホクしながら家に帰ろうとしたところ、「おいてけ・・・おいてけ・・・」と、どこからともなく、不気味な声が聞こえてきたそう

辺りを見回しても、まったく人の気配はなし
釣り人は、ぞっとして背筋が寒くなり一目散に家へと逃げ帰りました

そして、魚籠(ビク)を開けてみると、あれほど釣れたはずの魚が一匹も残っていなかったのです

この話にはさまざまなバリエーションがあり、「魚籠を持ち帰ろうとした者が、水中から伸びた手に引きずり込まれて命を落とした」「声を無視して帰ったら、その夜、金縛りに遭った」などの展開も語られています

怪異の正体についても諸説あり、「ムジナ(タヌキ)」「カッパ」「魚を狙った人間の仕業だったのでは」など、多くの憶測が残されています

※推定地:錦糸堀(現在の北斎通りのうち、錦糸一丁目から三丁目)や、御竹蔵周辺の堀(横網一丁目及び二丁目)など

② 絶対に追いつくことはできない「送提灯」

「送り提灯(おくりちょうちん)」は、夜、提灯を持たずに暗い夜道を歩いていると、提灯のように揺れる灯がまるで送ってくれるかのように、目の前に現れるという怪異です

「いったい、何者だろう?」と、正体を突き止めようと灯を追いかけていくと、ふっと灯りは消えてしまいます

不思議に思っていると、また灯りが現れ、また追いかけると消えてしまう・・・この繰り返しで、いつまでも提灯には追いつけないという話です

※推定地:大横川近く、法恩寺出村(太平一丁目)

また、向島(現・東京都墨田区向島)でも「送り提灯火」と呼ばれる怪異の伝承があります

ある人物が提灯を持たずに夜道を歩いていると、どこからともなく灯火が現れ、足元を照らしてくれたものの、周囲に人影はなく、灯りだけがともっていたといいます

この不思議な灯火を牛嶋神社(現・墨田区)の加護と感じたその人物は、感謝の気持ちとして提灯を奉納したと伝えられています

また、提灯ではなく「送り拍子木(おくりひょうしぎ)」という話もあります

拍子木を打ちながら「火の用心」と唱えていると、すでに打ち終えたはずなのに、同じ調子の拍子木の音が背後から聞こえてくる

振り返っても、そこには誰の姿も見えない。そんな話が伝えられています

※推定地:南割下水(現在の北斎通りのうち、亀沢一丁目から四丁目)と入江町(緑四丁目)

③ 誰もいない蕎麦や「燈なし蕎麦」

「燈なし蕎麦(あかりなしそば)」は、いつ行っても誰もいない蕎麦屋の話です

本所南割下水付近では、夜になると二八蕎麦の屋台が並びました

しかしその中の一軒だけは、いくら待っても店主が姿を見せず、屋台の行灯も消えたまま
おせっかいでその行灯に火をつけると、家に戻ってから必ず不幸なことが起こるという逸話です

また、誰も油を注いでいないのに一晩中消えない「消えずの行灯」の屋台があり、立ち寄った者に災いが降りかかるという話も残っています

※推定地:南割下水(現在の北斎通りのうち、亀沢一丁目から二丁目)

④ 天井から突然大きな足が出てくる「足洗邸」

江戸時代の本所三笠町(現・墨田区亀沢)に所在した、味野岌之助という旗本の上屋敷でのこと

屋敷では毎晩、天井裏からものすごい音と共に、「足を洗え」という声が響き、同時に天井をバリバリと突き破って剛毛に覆われた巨大な足が降りてきたとか

仕方なく、家人がその足を洗ってやると、足は静かに天井へと戻っていきますが、無視すると怒って屋敷中の天井を踏み抜いて暴れまわったそうです

困り果てた味野が同僚に相談したところ、その屋敷に興味を持った同僚が住まいを交換してくれました
ところが、屋敷を移った途端、足はぱったりと姿を見せなくなったと伝えられています

これに似た話として、「瀕死の重症を負ったたぬきを助けたら、そのたぬきがお礼に、家に凶事が起こる前触れとして巨大な足を天井から突き出して知らせた」、「足を洗ってあげたら倉庫に忍び込んだ泥棒を踏みつけてくれた」などもあります

この怪異は明治時代の前期まで語り継がれ、「やまと新聞」の記事にもなったそうです

※推定地:本所三笠町(亀沢四丁目)

⑤ 身勝手な男の残虐な犯行「片葉の葦」

「片葉の葦(かたはのあし)」は、現代のストーカー殺人のような身勝手な男の話です

江戸時代、本所に住んでいたお駒という娘に執拗に言い寄っていた男・留蔵は、何度拒まれても諦めず、ついには逆上してしまいます

ある日、お駒の外出先を追いかけ、隅田川からの入り堀にかかる駒止橋付近(現在の両国橋付近の脇堀にあった橋)で彼女を襲い、片手片足を切り落としたうえで堀に投げ込むという凶行に及んでしまったのです

それ以来、駒止橋の周辺に生える葦は、なぜか片方だけの葉しか付けなくなった、という話です

あまりに理不尽な結末に、果たして留蔵には何らかの報いがあったのかどうか、気になるところです

※推定地:片葉堀・駒留橋(両国一丁目あたり)

⑥ なぜか葉が一枚も落ちない「落ち葉なき椎」

本所にあった平戸新田藩松浦家の上屋敷には、見事な椎の木が一本立っていました

ところがこの木は、「一枚も葉を落としたことがない」とされ、不気味に思った松浦家はついに屋敷を手放してしまったといわれています

現在、その屋敷跡とされる墨田区横網の一角には、この伝承を紹介する案内板が設置されています

⑦ どこからもなく聞こえてくる「たぬき囃子」

本所の町では、夜道を歩いていると、どこからともなく囃子(はやし)の音が聞こえてくることがありました

その音を辿ろうとしても、近づくほどに遠ざかってしまい、音の主に出会えることはありません
夢中で追い続けた末、気がつくと夜が明けており、見知らぬ橋の上に立っているのです

この怪異に遭遇したとされる平戸藩主・松浦清は、家臣に命じて音の出どころを調べさせました
しかし、音は割下水付近で途絶え、結局その正体はつかめなかったそうです

この話は本所だけではなく各地にあります

近隣の農村地帯で「秋祭りの囃子の稽古などをしている音が重なって聞こえてきた」「柳橋付近の三味線や太鼓の音が風に乗って聞こえてきた」などの逸話もあります

⑧ なぜか太鼓だった「津軽の太鼓」

本所にあった弘前藩津軽越中守の屋敷には、火の見櫓が設けられていました

通常であれば火災を知らせるために「板木(ばんぎ)」が打たれるはずですが、この櫓ではなぜか太鼓だったとか

なぜ太鼓だったのかは、誰にもわかっていません
また一説には、板木を打ってもなぜか太鼓の音が響くと語られており、明確な理由は伝わっていないようです

特に怪異めいた描写があるわけではないため、この話は七不思議に数えられないこともありますが、静かな違和感が今も語り継がれています

※推定地:津軽家上屋敷(亀沢二丁目及び緑二丁目)

最後に・・・

ここまで、「本所七不思議」と呼ばれる話の数々をご紹介してきました

これ以外にもさまざまなバリエーションがあり、本所だけでなく全国各地に似たような話が伝わっていることもあります

いずれも由来は定かではありませんが、不気味なものから理不尽なもの、どこか滑稽さを感じさせるものまで、長い年月を経て今も語り継がれているのは、地域の記憶として人々の心に残り続けているからかもしれません

事の真偽や実態はともかく、こうした伝承は、たとえ街の姿が変わっても、大切に残していきたい風景のひとつです

ちなみに、墨田区の「大横川親水公園」には本所七不思議を題材とした壁画パネルが設置されています

機会があれば、現地を訪ねてみるのも一興かもしれません

参考:
『本所深川ふしぎ草紙』宮部みゆき 著
『墨田区HP 本所七不思議について知りたい』
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

江戸時代の面影が色濃く残る風情ある「下町」は、近年、国内外の観光客に人気のエリアとなっています

NHK大河ドラマ『べらぼう』の影響で“大河ドラマ館”も設けられ、蔦屋重三郎ゆかりの地を訪れる人の姿も見られます

ただし、「下町」という言葉には明確な定義があるわけではありません

一般的には足立区・葛飾区・荒川区・台東区・墨田区・江東区・江戸川区の7区、あるいは秋葉原・上野・浅草・柴又など、隅田川沿いの地域を指すことが多いようです

こうした「江戸時代の町人や職人が暮らしていた地域」には、昔から語り継がれてきた怪談や奇談が今も残っています

その代表格が「本所七不思議」です

いわば江戸時代の「都市伝説」とも言えるこれらの怪談は、落語や映画の題材としても取り上げられ、今なお人々の想像力を刺激し続けています

本所七不思議とは、名のとおり本所(現在の東京都墨田区)界隈に伝わる怪異の数々を指します



本所に限らず江戸やその後の東京や多くの怪異や不思議があります

これ以外にもさまざまなバリエーションがあり、本所だけでなく全国各地に似たような話が伝わっていることもあります

いずれも由来は定かではありませんが、不気味なものから理不尽なもの、どこか滑稽さを感じさせるものまで、長い年月を経て今も語り継がれているのは、地域の記憶として人々の心に残り続けているからかもしれません。

事の真偽や実態はともかく、こうした伝承は、たとえ街の姿が変わっても、大切に残していきたい風景のひとつです

ちなみに、墨田区の「大横川親水公園」には本所七不思議を題材とした壁画パネルが設置されています

機会があれば、現地を訪ねてみるのも一興かもしれません



 

 


近江屋藤兵衛が殺された
下手人は藤兵衛と折り合いの悪かった娘のお美津だという噂が流れたが・・・
幼い頃お美津に受けた恩義を忘れず、ほのかな思いを抱き続けた職人がことの真相を探る「片葉の芦」
お嬢さんの恋愛成就の願掛けに丑三つ参りを命ぜられた奉公人の娘おりんの出会った怪異の顛末「送り提灯」など深川七不思議を題材に下町人情の世界を描く7編
宮部ワールド時代小説篇

「佳麗三千(3千人の美女がいる)」と称された古代中国の後宮

華やかな衣装、贅を尽くした宮殿、そして皇帝の寵愛を受けた妃たちの姿は、しばしば絢爛なイメージとともに語られてきた

だが皇帝の死後、後宮の女性たちの運命は大きく分かれた

中には、皇子の母として太后に迎えられ、政治の実権を握る者もいれば、特別な寵愛や立場を生かして新たな地位を築いた妃嬪もいた

一方では冷遇され、過酷な末路をたどる女性たちも少なくなかった

古代中国の後宮において、皇帝の崩御後に妃嬪たちが辿った「八つの運命」を紹介したい


① 「出宮」〜外の世界へ放り出される

皇帝の崩御をきっかけに、最も多くの妃たちが迎えるのが「出宮」だった

といっても、それは晴れて自由の身になるという意味ではない
後ろ盾であった皇帝を失ったことで、彼女たちは“必要のない存在”となり、宮廷から追い出されるようにして外の世界へ放り出された

新皇帝にとっては、父の後宮はあくまで前代の遺物であり、政治的・礼法的にも整理が求められたのだ

出宮を命じられた妃嬪の行き先はさまざまだが、多くの場合は実家か、郊外の屋敷に移された
中には僧院に入れられる者もいれば、地方の官吏に引き取られる例もあった

ただし、出宮にあたって一応の補償金が与えられることもあり、身分によっては衣食住には困らない待遇もあったようだ

しかし、宮中という閉ざされた空間しか知らずに生きてきた女性たちにとって、突然の「社会復帰」は決してやさしいものではない
ましてや子もおらず、実家の力も弱ければ、ひっそりと暮らすしか道は残されていなかった

特に、明代以降は「皇帝に仕えた女性は、他者に再び嫁すべきではない」という貞節観念が強まり、妃嬪たちの行き先はますます限られていった

後宮から出るという決定は、表向きは穏やかな処分に見える

だが、その実態は、人生の静かな幕引きに等しかった

② 「守陵」〜死者とともに生きる孤独

皇帝の死後、一部の妃嬪たちには「守陵(しゅりょう)」という任務が与えられた

陵墓の番を任されるという名目で、妃嬪たちは宮中を離れ、人里離れた寂しい地へと送られていったのだ

表向きは“皇帝の霊を守る役目”を与えられたように見えるが、実態としては宮廷からの穏便な追放、あるいは生涯にわたる懲罰に近かった

守陵は名誉ある任務とされつつも、選ばれるのはたいてい、子を持たず、政治的後ろ盾もない妃嬪たちだった
後宮における存在意義を失った彼女たちは、新皇帝にとっては不要な存在であり、しかもむやみに殺すこともできない

そうした“中途半端な存在”が、陵墓に幽閉されるというかたちで処理されたのだった

記録によれば、漢の成帝の皇后・趙飛燕(ちょうひえん)は、失脚後に守陵を命じられたともされ、その知らせを受けた夜のうちに自ら命を絶ったという

後宮で絶大な寵愛を受け、一時は権勢を振るった彼女にとって、ひっそりと陵墓に暮らす老後は、何よりも耐え難い屈辱だったのだろう

一方で、守陵を進んで受け入れた者もいる

成帝の妃であった班婕妤(はん しょうよ)は、晩年、自らの意思で皇帝の陵墓に仕える道を選んだと伝えられている
これは、自己犠牲という儒教的美徳の実践であると同時に、後宮内の権力闘争から身を引くための穏やかな逃避でもあった

守陵とは、表向きは敬意に満ちた務めであっても、実際には世間から隔絶された長い孤独の始まりでもあったのだ

③ 「出家」〜尼僧として生きる

出宮もできず、守陵にも回されない妃嬪たちにとって、もう一つの「穏当な処遇」として選ばれたのが「出家」である

出家は、表向きこそ“仏門への帰依”とされたが、実際には王朝の新たな秩序の中で、妃嬪たちの影響力を排除するための制度として機能していた

とくに南北朝以降、仏教が国家と強く結びつくようになると、いわば「後宮の余生施設」としての尼寺が整備され始める

妃嬪たちは皇室の名義で出家し、一定の身分と暮らしを保障される代わりに、俗世から隔絶された人生を送ることを求められた

有名な例が、武則天である

彼女はもともと唐の太宗・李世民の妃の一人であったが、太宗の死後に感業寺へ送られ、尼となった

しかし彼女はその後、唐の高宗・李治の後宮に戻り、最終的には自ら皇帝の座にまで上りつめることになる
武則天のような例は極めて稀ではあるが、「出家=一生の終わり」とは限らず、体制が変われば、再び表舞台に立つ道も残されていた、
また『宋史』には、哲宗の皇后だった孟氏が後宮の粛清に巻き込まれて廃され、出家したものの、後の政変によって「元祐太后」として復権し、実際に垂簾政治をおこなったことが記されている
※垂簾政治(すいれんせいじ)とは、皇帝に代わり、皇后や太后が簾の奥から政治を行う形態

とはいえ、彼女たちのように実際に復権できた例はごくわずかであり、大半の女性たちは寺院の静寂な暮らしの中でその生涯を終えている

表向きは安穏で清らかな出家という道も、実際には後宮から静かに排除するための装置にほかならなかったのだ

④ 「殉葬」〜皇帝とともに墓へ

皇帝の死とともに命を奪われる「殉葬」は、最も過酷な仕打ちであった

そもそも殉葬は、王や貴族の死に際し、生者をあの世への供え物とする習わしとして始まったとされる
やがて制度化されると、その対象は妃嬪や側女にとどまらず、宦官や侍女にまで広がっていった

こうした風習に対し、儒家の祖・孔子は早くから否定的な立場を取っていた
しかし、その考えが社会や国家に広く受け入れられるには、まだ多くの時間を要した

実際、秦の始皇帝が没した際には、多くの妃嬪が生きたまま殉葬させられたと伝えられている

『史記』によれば、子のない後宮の女性たちはすべて墓に陪葬され、地中深くに閉じ込められて命を奪われたという

「二世曰:『先帝後宮非有子者,出焉不宜』皆令從死,死者甚眾」

意訳: 二世皇帝は言った。「先帝の後宮に仕えていた者で、子を持たぬ女は外に出すべきではない。」そうして彼女たちをすべて殉死させ、多くの命が奪われた。

引用:『史記』巻六「秦始皇本紀」より

また、明の開祖・朱元璋は、いったん廃れていた殉葬制度を復活させた数少ない君主である

晩年の彼は、後宮の秩序維持と忠誠の証を重視し、制度として妃嬪らの殉死を命じた
法令にもこれが明文化され、彼の死後には実際に数十人の女性が陵墓に殉葬されたと伝えられる

しかし、その苛烈さに対する批判も強く、ついに明英宗の代で制度は公式に廃止された

以後、生者が皇帝とともに命を絶たれることはなくなったものの、形式的な「自死の強要」や「儀礼的殉葬」といった形で、なお名残が続いたともされる

妃嬪にとっての殉葬とは、抗うすべもない一方的な命令であり、寵愛の深さがむしろ死を呼び込む皮肉な制度でもあった

名を残すことも許されず、ただ静かに墓中に消えていった彼女たちの最期は、栄華の陰に潜むもっとも痛ましい終焉の一つと言えるだろう

⑤ 「賜死」〜新たな権力者による粛清

皇帝の死によって終わるのは一つの時代だけではない
後宮における力の均衡もまた、大きく変化する

ときに新たな皇后や太后、あるいは皇帝自身の親族・側近の手によって、先帝の愛妃たちは“処分”の対象とされることがあった

それが「賜死(しし)」という形での粛清である

これは刑罰ではなく、あくまで「恩寵」による死、つまり自害を命じる儀礼的措置とされた
しかし、実際には権力闘争や私怨の結果であることが多く、その実態は暗殺に近かった

最もよく知られているのが、前漢初期の戚夫人(せきふじん)の例である

彼女は漢の祖・劉邦の寵妾であり、劉邦の子である趙王・如意を皇太子に立てようとした
だが、正妻である呂雉(りょち)はこれを激しく憎み、劉邦の死後、戚夫人を捕らえて凄惨な拷問の末に殺害した

また、後漢末の皇后・窦妙(とうみょう)は、皇帝の崩御直後に、夫が寵愛した貴人・田聖をその場で処刑した

これらの事例に共通しているのは、「賜死」が制度としてではなく、個人の感情や政治的打算によって実行されている点である

後宮における“女の戦い”の最も陰惨な帰結であり、妃嬪という身分がいかに不安定な立場であったかを物語っている

⑥ 「宮中での余生」〜老境を迎える静かな日々

皇帝の崩御後も、運よく出宮や出家、殉葬の対象とならなかった妃嬪たちは「宮中にとどまり続ける」という選択肢を与えられることがあった

とくに身分の高い貴妃や寵愛を受けた妃嬪、または高齢の妃嬪たちは、そのまま皇宮内の一角に住まい、慎ましく余生を送った

この処遇は一見すると穏やかで安定した老後のように見えるが、実際には階級や寵遇によって生活の質には大きな格差があった
格式の高い妃には専属の侍女や医師がつき、衣食住に不自由のない環境が整えられた一方、階級の低い者には自給自足を求められることもあった

耕作や裁縫で生計を立てたり、一族からの援助でなんとか暮らしを維持していた者もいたという

また、宋代以降はこうした女性たちのために専用の居所が整えられるようになった

たとえば北宋では「掖庭(えきてい)」がその役割を果たし、明・清の時代には離宮や外苑の一角が後宮の年長者の居住地とされた

とはいえ、後宮においては「現役」から外れた女性たちは、しばしば忘れられた存在となった

儀礼には呼ばれず、日々の決定権も持たず、ただ静かに老いを重ねていく

その暮らしは侘しく、時に孤独であったが、少なくとも命を脅かされることのない、数少ない安定した運命の一つではあった

⑦ 「随子終老」〜皇子に仕えて生きる

皇帝とのあいだに皇子をもうけた妃嬪たちは、他の女性たちとは異なる道を歩むことができた

その最たるものが「随子終老(ずいし しゅうろう)」と呼ばれる生き方である
皇子に付き従い、その封地や邸宅で余生を送るという穏やかな道であった

儒教では「子は母を敬い、養うべし」とされ、妃が皇子を産んだという事実は、後宮における彼女の確かな地位を意味していた
皇子が諸侯に封じられれば、その地で「王太妃」として遇され、やがて皇帝となれば、「皇太后」として後宮の頂点に立つこともできた

また、明代以降には、皇子の昇進にあわせて母の位階も引き上げられる制度が整備されるようになった
「母以子貴(子の位によって母の位も上がる)」という儒教的観念は、実際の官制や封号にまで影響を与え、明文化されたのである

こうした「随子終老」は、妃嬪にとって最も安定し、名誉ある晩年のかたちとされた

裏を返せば、子を産むことができなかった妃嬪たちは、たとえ同じく皇帝に仕えた身であっても、まったく異なる結末を迎えることになったのである

⑧ 「新皇帝の後宮に再編入」〜禁じられた引継ぎ

「先帝の後宮に属した妃嬪が、そのまま新たな皇帝の後宮に再び迎えられる」ーー本来これは、礼法上きわめて不適切とされる行為だった

儒教では、父の妃に手を出すことは「大逆無道」の禁忌とされ、とくに「継母を娶る」ことは、天の秩序を乱す行いとして非難された
とはいえ、王朝のはじまりや政変の混乱期には、先代の皇帝に仕えていた妃が、そのまま新しい皇帝の後宮に入るということもあった

その一例が、隋の煬帝・楊広である

彼は父・隋文帝の崩御後、父の妃だった宣華夫人・陳氏を自分の後宮に迎え入れた

この行動は大きな非難を呼んだが、彼自身はあくまで正当なものとし、父の葬儀が終わらぬうちに関係を持ったとも言われている。

また、先述した唐代の武則天も、この禁忌を越えた存在だった

彼女はもともと太宗・李世民の側室(才人)だったが、皇帝の死後に出家
その後、太宗の子である高宗に見初められて再び宮中へ戻り、やがて正式に皇后となり、最終的には自ら皇帝に即位するという、禁忌を超越した存在となっている

しかし時代が進むにつれ、旧帝の妃が新帝の後宮に入ることは表立って消えていった

このように後宮とは、いつの時代においても栄光と苦悩、愛と権力が交錯する場所であった

そして皇帝の死は、制度の名のもとに、数多の女性たちの運命を翻弄し続けたのである

参考 :『史記』秦始皇本紀『漢書』外戚伝『宋史』『隋書』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「佳麗三千(3千人の美女がいる)」と称された古代中国の後宮

華やかな衣装、贅を尽くした宮殿、そして皇帝の寵愛を受けた妃たちの姿は、しばしば絢爛なイメージとともに語られてきた

だが皇帝の死後、後宮の女性たちの運命は大きく分かれた

中には、皇子の母として太后に迎えられ、政治の実権を握る者もいれば、特別な寵愛や立場を生かして新たな地位を築いた妃嬪もいた

一方では冷遇され、過酷な末路をたどる女性たちも少なくなかった
(多くの女性は過酷な「運命」へ)


彼女たちには8つほどの「運命」が待っていた・・・

後宮とは、いつの時代においても栄光と苦悩、愛と権力が交錯する場所であった

そして皇帝の死は、制度の名のもとに、数多の女性たちの運命を翻弄し続けたのである


 

 


人気作品の元ネタにしばしばなっている中国の宮廷世界の基礎知識(制度、ファッション、建築・・・)をイラスト満載で解説
オールカラー
後宮の「様子」がうかがえる

毛は、私たちの体を守る大切な仕組みのひとつだ

たとえば鼻毛は埃や菌の侵入を防ぎ、腋毛も皮膚の摩擦や汗の拡散に関わっていると考えられている

だが、神話や伝承の世界では、そんな毛が恐ろしい怪物へと姿を変えることがある
人を守るはずの毛が、逆に人の前に立ちはだかる異形の存在となるのだ

そんな「毛」を巡って語り継がれてきた不思議な存在たちを紹介していく


1.毛民

毛民(もうみん)は、古代中国に伝わる民族である

古代中国の地理書『山海経』では、さまざまな妖怪や異民族が挿絵付きで紹介されている

同書には「海外東経」という、東南~東北に存在したとされる異国についての解説項目があり、そこで語られている「毛民国」に住む民族こそが、この毛民である

彼らはその名が示す通り、体中が毛だらけの奇妙な者たちであるという

東北の海の外側について記した「大荒北経」という項目においても、毛民国は登場する
こちらの毛民は名字が皆「依」であり、キビを主食とする民族であるという

かつて中国には禹という、黄河の治水を行った偉大なる王がいたと伝えられている
禹の子供は均国といい、孫は役采、曾孫は修鞈という名であった

このうちの曾孫の修鞈だが、ある時、綽人という人物を殺してしまったという
それを知った禹は大いに悲しみ、綽人の子孫が心豊かに暮らせるよう国を作った

その国こそが、毛民国なのだと語られている

2.毛羽毛現

毛羽毛現(けうけげん)は日本の怪異である

妖怪画家の鳥山石燕(1712~1788年)の画集『今昔百鬼拾遺』に、その姿が描かれている

石燕の解説によると、この妖怪は全身が毛にまみれており、その姿はまるで中国に伝わる「毛女」のようだと説かれている
この毛女とは、古代中国の仙人辞典『列仙伝』に記載されている、超常的な人物のことを指す

毛女はかつて、秦の始皇帝(紀元前259~紀元前210年)に仕える宮女だった
始皇帝が死去したのちに秦が滅亡すると、毛女は山の中に逃げ隠れ、松の葉を食べて飢えをしのいだとされる

やがて彼女は全身が毛に覆われた異形と化したが、強大な神通力を身につけ、自在に空を飛び回る仙人になったという

松の葉の先端は鋭利に尖っており、一見食用に向かないと思われがちだが、その栄養価は高く、古来より中国では煎じて茶として用いられてきた
滋養強壮・血流改善・老化の防止などの健康効果があり、毛女以外にも様々な仙人が、こぞって松の葉を常食していたとのことである

ちなみに、毛羽毛現は「希有希現」と書かれることもあり、これはこの妖怪が、滅多にその姿を現さないことに由来するとされている

3. 髪切虫

カミキリムシという昆虫は、その名の通り「噛み切る」ことに特化した大顎を有し、噛まれると大変痛い

その幼虫は「テッポウムシ」と呼ばれ、木に寄生し枯らす害虫ではあるが、味は大変美味とされ、昆虫食を嗜む者たちからはご馳走扱いされている

それとは別に、髪切虫(かみきりむし)という妖怪伝承があるのをご存知だろうか
江戸時代の日本では、人間の髪がいつの間にか切られるという怪事件が、たびたび発生していたと伝えられている
その下手人として想像されたのが、この髪切虫である

俳人の山岡元隣(1631~1672年)の著作『宝蔵』によれば、寛永14~15年(1637~8年)に髪切虫の噂が立ったが、その姿を見た者は誰一人としていなかったという
しかし、実害がないにもかかわらず人々はこの虫を恐れ、自分の髪が無事かどうか異常に気にしていたとのことだ

また、学者の喜多村信節(1783~1856年)が著した『嬉遊笑覧』においても、寛永14年に髪切虫の噂話が流行し、人々は恐怖に慄いていたと記されている

4.キムナイヌ

キムナイヌとは、北海道や樺太のアイヌ民族に伝わる薄毛の妖怪である

その名は「山の住民」を意味し、また、ロンコオヤシ(ハゲお化け)という別名も持つ

樺太アイヌの伝承によれば、キムナイヌは山の守り神のような存在であり、重い荷物を代わりに持ってくれるなど、人間に友好的な存在であるとされている

しかし、その頭の薄毛をバカにすると、キムナイヌはたちまち激怒し、大雨や嵐を呼んだり、大木を次々に倒すなどの超常現象を引き起こすという
他人のコンプレックスを刺激したのだから、こうなることも当然といえば当然である

ルッキズムはよくないと叫ばれるようになった現在においても、薄毛はいまだに笑いものにされがちな外見的特徴の一つだ
だが、薄毛を揶揄する言動に心痛める人も大勢いるということは、留意しておかなければならない

他にも、アイヌ研究家の吉田巖(1882~1963年)が、東京人類学会の機関紙「人類學雜誌」に寄稿した『アイヌの妖怪説話 (續)』には、次のような話が語られている

(意訳・要約)

ある時、二人の老人が石狩の山奥で、キムナイヌに殺された人間の死体を発見した。
キムナイヌが洞窟に隠れていることを確認した二人は、これを抹殺すべく突入しようとした。
その刹那、洞窟の中から矢筒が一つ、放り出されてきたではないか。
二人はこれを、キムナイヌの謝罪の印であると解釈した。
反省した者を殺したとなれば、どんな祟りがあるか分かったものではないと二人は考え、キムナイヌを許し、矢筒を持って山を下りて帰ったという。

こうして見ると、毛というありふれた存在も、時に人の想像力の中で異形の姿となり、不思議な物語を紡いできたのである

参考 : 『山海経』『今昔百鬼拾遺』『列仙伝』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

毛は、私たちの体を守る大切な仕組みのひとつだ

たとえば鼻毛は埃や菌の侵入を防ぎ、腋毛も皮膚の摩擦や汗の拡散に関わっていると考えられている

だが、神話や伝承の世界では、そんな毛が恐ろしい怪物へと姿を変えることがある
人を守るはずの毛が、逆に人の前に立ちはだかる異形の存在となるのだ


毛というありふれた存在も、時に人の想像力の中で異形の姿となり、不思議な物語を紡いできたのである



 

 


中国の妖怪・怪獣・神などについて書かれた書籍
解説や注釈つき

クマコロ『擬恐竜図鑑 新しく発見された、スシニギリス類の分類と生態』(Gakken)が8月1日に発売される

恐竜に擬態する手の平サイズの生物「擬恐竜」
その中でも寿司に擬態し、近年発見が相次いでいる「スシニギリス」について詳解したビジュアル空想図鑑が本書だ

ユニークなビジュアルとともに多数のスシニギリスを掲載。絵本や読み物のように読んだり、画集のように眺めたり・・・
さまざまな角度から楽しめて、想像力が刺激される図鑑となっている


(この記事はリアルサウンドの記事で作りました)

 

擬恐竜図鑑: 新しく発見された、スシニギリス類の分類と生態

 


サーモンニギリス、エビニギリス、グンカンイクラス・・・恐竜に擬態する、手の平サイズの新生物群「スシニギリス」が発見された
その生物群をユニークなビジュアルとともに詳解した、ビジュアル空想図鑑
想像力が喚起される、眺めるだけで楽しめる図鑑

フランス絶対王政の象徴とされる「太陽王」ルイ14世

その宮廷は、華麗な芸術と壮麗なヴェルサイユ宮殿で知られる一方で、野心や陰謀、愛憎が複雑に絡み合う舞台でもありました

ルイ14世には多くの愛妾がいましたが、その中でもひときわ異彩を放った女性がいます

彼女の名はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ

若くして宮廷に現れ、瞬く間に王の寵愛を受ける存在となりました

しかし、その栄光は長くは続きませんでした

彼女は、わずか数年後に謎の死を遂げてしまうのです
しかも当時から「変死」と囁かれ、宮廷内外ではさまざまな噂や陰謀説が飛び交いました

若くしてヴェルサイユの華となり、儚く散っていったフォンタンジュ嬢の生涯と、謎めいた最期についてご紹介いたします

何不自由のない地方貴族の娘

後のフォンタンジュ公爵夫人こと、マリー・アンジェリク・ド・スコライユ・ド・ルシーユは、1661年にフランス南部オーヴェルニュ地方の古い貴族の家に生まれました

父はこの地で国王の副官を務め、母もまた名門の出身であり、彼女は典型的な地方貴族の令嬢として、何不自由なく育てられました

ベネチアンブロンドと呼ばれる華やかな茶色の髪に、ミルクのようになめらかで美しい肌、生き生きとしたブルーグレーの瞳の持ち主で、立ち振る舞いも洗練されており、当時からその魅力は評判だったといいます

家柄も良く、若く容姿に優れ、明るく快活な性格であったため、彼女はやがて父の従妹セザール・ド・グロレの紹介で宮廷に迎えられ、そこで人生を大きく変えていくのでした

夢のような宮廷生活

運命の出会いが訪れたのは、1679年のことでした

当時のフォンタンジュ嬢は、ルイ14世の弟であるオルレアン公フィリップの妃、すなわち王の義妹にあたるエリザベート・シャルロット(通称パラティーヌ姫)に仕える女官のひとりとして、宮廷に出入りしていました

ある晩に開かれた夜会の席で、ルイ14世は、その場にいた若く美しいフォンタンジュ嬢に心を奪われます

そして出会いから半年も経たないうちに、彼女は王の深い寵愛を受けるようになったのです

王は彼女のために八頭立ての豪奢な馬車を用意し、護衛をつけて身の安全を確保したうえで、莫大な金品を贈りました

さらに爵位として「フォンタンジュ公爵夫人(Duchesse de Fontanges)」を授け、衣装や住まいに至るまで贅を尽くした待遇を与えたのです

地方から出てきた一貴族の娘にとって、それはまさに一夜にして夢のような宮廷生活が訪れたのです

突如暗転する人生

しかし、この華やかな日々は長くは続きませんでした

1680年、フォンタンジュ嬢はルイ14世の子を身ごもっていましたが、出産が早まり、男児が死産となってしまったのです
そして更なる不幸が彼女を襲います

早産に伴う出血が収まらず、瑞々しく美しかった彼女の身体は異様に膨らんでしまったのです
かつてはルイの寵愛を受けた愛らしい顔も腫れあがり、もはやフォンタンジュ嬢は自らを恥じて人前に出ることができない姿となってしまいました

その後も病状は改善せず、無情にもルイ14世が病弱な女性を嫌ったこともあり、フォンタンジュ嬢は絶望のうちに宮廷を去らなければなりませんでした

人目を避け、修道院へと姿を隠した彼女でしたが、原因不明の病状は回復せず、苦痛は日々身体を蝕み続けました

そしてその翌年の1681年6月28日
フォンタンジュ嬢はついに帰らぬ人となりました

享年わずか19
あまりにも早すぎる死でした

黒幕は?

若きフォンタンジュ嬢の突然の怪死について、宮廷はその黒幕の話題でもちきりとなりました

ちょうどその頃、パリでは「ラ・ヴォワザン事件」と呼ばれる大スキャンダルが発覚していました

ラ・ヴォワザンなる怪しげな女黒魔術師の元へ、1677年から1682年にかけて貴族や貴婦人たちが密かに通い、毒薬や呪術、さらには黒ミサまでもが行われていたのです

関係者は400人以上に及び、とくに黒ミサに参加した者や、暗殺目的で毒薬を依頼した者が多数逮捕され、数十人が処刑されました

この事件は王政の根幹を揺るがしかねない規模に発展し、ルイ14世自身も調査の徹底を命じます

その過程で浮かび上がったのが、王のかつての愛妾モンテスパン夫人の関与でした

ラ・ヴォワザンの娘であるマルグリットは、尋問のなかで「母の協力者たちがフォンタンジュを毒殺した」と証言し、さらにモンテスパン夫人がその背後にいた可能性にも言及したのです

ラ・ヴォワザンは拷問の末に処刑され、モンテスパン夫人は処罰こそ免れたものの、王の寵愛を完全に失いました
こうして事件は、誰にとっても後味の悪い結末となったのです。

フォンタンジュ嬢の死は、今なお謎に包まれたままとなっています

近年の仮説

近年、歴史家ジャン=クリスティアン・プチフィスは、その著書『ルイ十四世宮廷毒殺事件』(1985年)において、一つの興味深い仮説を提示しています

彼によれば、フォンタンジュ嬢がルイ14世の寵姫となった当初、モンテスパン夫人はその関係に気づいておらず、彼女をさほど重要な存在とは見ていなかったといいます

その根拠として、当時の手紙の中に、フォンタンジュ嬢について楽観的に語られている記述が残されていることを挙げています

さらにプチフィスは、フォンタンジュ嬢の死に関わった可能性のある人物として、モンテスパン夫人の侍女であったデゾワイエ嬢に注目しています

この侍女は、王とのあいだに私生児をもうけながら、公式な立場を得られず、その境遇への不満が王やフォンタンジュ嬢への憎悪に変わった可能性があるというのです

また、デゾワイエ嬢が当時フランスと対立関係にあったイギリスの貴族と関係を持っていたとされる点にも触れ、個人的な恨みにとどまらず、国家間の陰謀にまで発展していた可能性も示唆しています

真偽のほどは定かではありませんが、フォンタンジュ嬢はまさに「宮廷の花」と呼ぶにふさわしい存在でした
しかしその花は、咲いたそばから数多の思惑に絡め取られ、悲劇的な運命へと導かれていったのです

熾烈な生存競争が繰り広げられていたヴェルサイユの華やかな舞台では、彼女のように若く、純粋で、無垢な女性ほど、かえって早く命を散らす運命にあったのかもしれません

参考文献:
『ルイ十四世宮廷毒殺事件』
『やんごとなき姫君たちの不倫』/桐生 操(著)
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

フランス絶対王政の象徴とされる「太陽王」ルイ14世

その宮廷は、華麗な芸術と壮麗なヴェルサイユ宮殿で知られる一方で、野心や陰謀、愛憎が複雑に絡み合う舞台でもありました

ルイ14世には多くの愛妾がいましたが、その中でもひときわ異彩を放った女性がいます

彼女の名はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ

若くして宮廷に現れ、瞬く間に王の寵愛を受ける存在となりました

しかし、その栄光は長くは続きませんでした

彼女は、わずか数年後に謎の死を遂げてしまうのです
しかも当時から「変死」と囁かれ、宮廷内外ではさまざまな噂や陰謀説が飛び交います


彼女の「変死」

黒幕は?

若きフォンタンジュ嬢の突然の怪死について、宮廷はその黒幕の話題でもちきりとなりました

ちょうどその頃、パリでは「ラ・ヴォワザン事件」と呼ばれる大スキャンダルが発覚していました

ラ・ヴォワザンなる怪しげな女黒魔術師の元へ、1677年から1682年にかけて貴族や貴婦人たちが密かに通い、毒薬や呪術、さらには黒ミサまでもが行われていたのです

関係者は400人以上に及び、とくに黒ミサに参加した者や、暗殺目的で毒薬を依頼した者が多数逮捕され、数十人が処刑されました

この事件は王政の根幹を揺るがしかねない規模に発展し、ルイ14世自身も調査の徹底を命じます

その過程で浮かび上がったのが、王のかつての愛妾モンテスパン夫人の関与でした

ラ・ヴォワザンの娘であるマルグリットは、尋問のなかで「母の協力者たちがフォンタンジュを毒殺した」と証言し、さらにモンテスパン夫人がその背後にいた可能性にも言及したのです

ラ・ヴォワザンは拷問の末に処刑され、モンテスパン夫人は処罰こそ免れたものの、王の寵愛を完全に失いました
こうして事件は、誰にとっても後味の悪い結末となったのです。

フォンタンジュ嬢の死は、今なお謎に包まれたままとなっています

近年の仮説

近年、歴史家ジャン=クリスティアン・プチフィスは、その著書『ルイ十四世宮廷毒殺事件』(1985年)において、一つの興味深い仮説を提示しています

彼によれば、フォンタンジュ嬢がルイ14世の寵姫となった当初、モンテスパン夫人はその関係に気づいておらず、彼女をさほど重要な存在とは見ていなかったといいます

その根拠として、当時の手紙の中に、フォンタンジュ嬢について楽観的に語られている記述が残されていることを挙げています

さらにプチフィスは、フォンタンジュ嬢の死に関わった可能性のある人物として、モンテスパン夫人の侍女であったデゾワイエ嬢に注目しています

この侍女は、王とのあいだに私生児をもうけながら、公式な立場を得られず、その境遇への不満が王やフォンタンジュ嬢への憎悪に変わった可能性があるというのです

また、デゾワイエ嬢が当時フランスと対立関係にあったイギリスの貴族と関係を持っていたとされる点にも触れ、個人的な恨みにとどまらず、国家間の陰謀にまで発展していた可能性も示唆しています

真偽のほどは定かではありませんが、フォンタンジュ嬢はまさに「宮廷の花」と呼ぶにふさわしい存在でした
しかしその花は、咲いたそばから数多の思惑に絡め取られ、悲劇的な運命へと導かれていったのです

熾烈な生存競争が繰り広げられていたヴェルサイユの華やかな舞台では、彼女のように若く、純粋で、無垢な女性ほど、かえって早く命を散らす運命にあったのかもしれません


 

 


王の寵姫や秘密結婚、制度としての不倫、王と王妃の赤裸々な関係など、学校で勉強した世界史には出てこなかった、ドラマティックでちょこっとエロティック、下世話で面白い歴史の逸話たち・・・

九州の薩摩周辺に居住した古代民族「隼人族」は独自の文化や習俗を形成しました

なかでも隼人族の伝統芸能「隼人の舞」は、日本書紀に登場する「海幸彦・山幸彦」の神話物語に由来する舞として有名です

今回は、隼人の舞の元ネタとされる日本神話についてみていきましょう

日本書紀に登場する「海幸彦・山幸彦」の神話物語に由来する部分があります

そんな隼人の舞の元ネタとなった恐怖の神話についてみていきましょう

※ 本記事の内容は様々な方に魅力を感じていただけるよう、筆者が足を運んだ歴史スポットとともに史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています


むかし、海で漁をして暮らす兄「海幸彦」と山で狩猟をして暮らす弟「山幸彦」の兄弟がいました。

あるとき、海幸彦と山幸彦は互いの大事な仕事道具を交換してみることに。

しかし、山幸彦は兄が大事にしていた道具の釣り針をなくし、怒らせてしまいます。

深く悲しむ山幸彦の様子を見兼ねた潮の神様は、船を用意し海の宮殿へと案内。

宮殿に着くと海神の姫が現れ、海幸彦の釣り針を見つけてきてくれました。

けれど、釣り針を返しても兄が許してくれると思えなかった山幸彦の表情が晴れることはありません。

そんな山幸彦を見かねた海神の姫は満潮と干潮を操る宝具を山幸彦に授けることにします。

そして「釣り針を返しても兄が怒り続けるなら、満潮にして溺れさせたり干潮にして助けたりを繰り返して懲らしめなさい」とアドバイスしたのです。

陸に戻った山幸彦は海幸彦に釣り針を返し謝罪しますが、想定通り海幸彦の怒りは収まりません。

困り果てた山幸彦は満潮と干潮を操る宝具で海幸彦を何度も懲らしめることに。

すると、最初は山幸彦に激怒していた海幸彦が怒りすら忘れ、苦しみから救済してほしいと懇願するようになります。

最後には命を救って貰えたことに感謝を覚え、さまざまな仕草で感謝の意を表現したのです。


というのが海幸彦と山幸彦の神話
山幸彦は何度も繰り返し制裁を加え、最後の最後で優しい態度をとって許す「飴と鞭」を上手く利用し、海幸彦を従順にさせました

それにしても、山幸彦の過剰な制裁にはサイコパスを感じますし、海幸彦の心境の変化にも恐怖を感じる日本神話です

「隼人の舞」はこの神話を題材にした舞で、一説では命を救われた海幸彦が何度も感謝を伝える姿を表現したとされています

神話自体は細かい設定があり、伝承の残る地方により異なる部分もあるのだとか

しまなみ海道が通る島々のひとつ大三島に位置する「大山祇神社」には、隼人の舞を記念した像が設置されています
気になった方は足を運んでみてください

(この記事は山内琉夢の記事で作りました)

「海幸彦・山幸彦」の神話物語は名前は知っていても「内容」は知りませんでした

両神ともある種の「サイコパス」を感じます
(海幸彦は「しつこさ」、海幸彦は「心境の変化」)


 

 


生まれてすぐに両親に捨てられた神ヒルコ、拷問を加えられて天上界を追放されたスサノオ、イザナミが眠る異界として恐れられた熊野三山、生贄の風習を伝える祭り・・・など、日本神話に描かれた恐怖のエピソードを紹介
古代の人々が厳しい自然といかに向き合い、熾烈な勢力圏争いをどのように記憶してきたかがわかる

「天邪鬼(あまのじゃく)」という言葉は、さしたる理由がなくても我を通すタチが悪い人物を指すものとして今日でもよく知られている
しかし、その起源をたどってみると実は古代にまで遡ることは案外知られていない
歴史と神話を通して天邪鬼の存在を探ってみる


■我を押し通す「ひねくれ者」?

「あの人は天邪鬼だから、本当に困ったもんだ」
世の「ひねくれ者」は、おおよそ、こんな風に非難されるようである
筆者も、時として、やせ我慢して「大衆に阿(おもね)りたくない」と意固地を張ることもあるから、「天邪鬼」の部類に入るのかもしれない

ちなみに、広辞苑で天邪鬼を引くと、「わざと人の言に逆らって、片意地を通す者」とある
「人に逆らい、人の邪魔をする」とも記されているから、やはり相当な「ひねくれ者」と言わざるを得ないようである
また、「片意地を通す」とは、頑なに我を押し通すこと

となれば、人に迷惑をかけることもありそう
そんなところから、大方は鼻つまみ者として敬遠されるのがオチ
ならば、少しは自重すべき・・・と反省するも、とどのつまりで、またもや天邪鬼な性格が顔を覗かせるから始末が悪い

ここからは、一般論としての天邪鬼のことについてお話ししたい
この人物のタチが悪いところは、我を押し通すことにさしたる正当な理由がない点である
理由付けは本人にとって意味あることかもしれないが、大抵の場合、それは周りから見て納得できるものではない

むしろ大勢の人の意に逆らうこと自体に楽しみを見出す・・・というところに特徴がありそうだ
その特異な性格ゆえ、結果として、その言動および行動に対して、正当な評価をされることはほとんどない
どんな結果になっても卑下されるばかりで、悪者呼ばわりされることも
わかっているけど、性格は変えられないのだ

■人を騙す邪神あるいは妖怪か?

さて、「ひねくれ者」の人間のお話はこのぐらいにして、ここからは、鬼あるいは妖怪としての天邪鬼のお話である
まずは、名前から見ていくことにしよう
名前の中に、「邪」(よこしま)な「鬼」と記されていることに注目したい
「邪」というから、心がねじ曲がった物の怪の如き存在と見なされるようである

この鬼、仏教の世界では、煩悩の象徴、または仏法を犯す邪神とみなされ、毘沙門天(多聞天)などに踏みつけられたり、鎧の腹部に押し込められた姿で表されることが多い
仏から見れば、極め付けの悪者なのである
「俺は天邪鬼だから〜」な〜んて、自嘲だか自慢だか分からぬような発言は、仏を前にしては、とても言えたようなものではないのだ

また、民間説話においては、人を騙す妖怪として登場することが多い
人の真似をしてからかったりするたわいもない妖怪が多いが、中には人を殺してその人になりすまし、そのまま暮らし続けること(瓜子姫/うりこひめ など)もある
人の気持ちを見抜く能力に長けているだけに、騙しのテクニックは抜群
並みの詐欺師など、足元にも及ばないのだ

■天探女にそそのかされた天若日子とは?

この詐欺師紛いの天邪鬼
実はその祖先の名が『記紀』に記されているのをご存知だろうか?
それが、『古事記』に記された天佐具売(あめのさぐめ/『日本書紀』では天探女)である
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)に命じられて葦原中国へと降り立った天若日子(あめのわかひこ)に、召使として仕えていた巫女であった

降臨から8年もたっても復命しようとしなかったことを不審に思った二柱が、伝令として雉(きじ)の雉名鳴女(きぎしななきめ)を地上に舞い降りさせた時のことである
この鳥を目にした天佐具売が、天若日子に「不吉な鳥など、射殺してしまいなさい」とそそのかしたことが不幸の始まりであった
ここでもその性格を、「心のねじくれた」とあえて記すほどだから、相当な「ひねくれ者」
まさに、歴史書に記された最初の天邪鬼が、この天佐具売だったのである

天若日子は、この巫女の言を真に受けて、天神から授かった天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あまのかぐや)を放って、雉を射殺してしまった
放った矢は、雉の胸を突き通し、そのまま天へと射上げられ、ついには安河原にいた二柱のもとにまで飛んでいったという
これを目にした両柱が怒って矢を突き返すや、地上にいた天若日子の胸に突き当たって、たちどころに死んでしまったというのだ

『記紀』において、天神の名前の後には必ず尊や神などの尊称が付けられるのが習わしであるが、天若日子は呼び捨て状態
天神の名を汚した反逆者と見なされたからだろう
その名前にある「天若」も、読みようによってはアマノジャクと読めなくもない
天若日子もまた、天佐具売同様、「ひねくれ者」だったのである

ちなみに、『日本書紀』に記された天探女の名前の中に「探」とあるが、そこから「実相を探る」女と捉えられることもある
良く言えば「真意を探る」能力を有した賢い女、悪く言えば「他人の心を探る」イヤ〜な女である
その良い意味に捉えられた天佐具売(天探女)が祀られたのが、和歌山県の白浜にある平間神社とか
ここでは、尊称も付けられた天佐具売命として祀られていることはいうまでもない

最後に興味深いお話を一つ
一説によれば、天佐具売が天から岩船に乗って降臨したのが、大阪市鶴橋付近の「味原池」(すでに埋め立てられた)だったという
すぐ近くに比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)があるが、ここに祀られているのが下照比売命(したてるひめのみこと)

『記紀』が記す下照比売(下照姫)で、天若日子が妻とした女性である
奇妙なのは、『古事記』が、比売碁曾(比売許曽)の社に鎮まるのを新羅からやって来た阿加流比売(あかるひめ)としている点である

阿加流比売の夫は、新羅王の子・天之日矛(あめのひぼこ)
となれば、天神・天若日子と天之日矛は同一人物で、新羅からの渡来人だとみなすこともできそうなのだ

ただし、この辺りの真相は不明のまま
神話という靄の中に、真実が隠れたままになっているのが実情である
いつの日か、スッキリ晴れ渡る日が来ることを願うばかりだ
これに関しては、ひねくれ者の天邪鬼ではなく、「実相を探る」ことに長けた天探女の働きに期待したいものである

(この記事は歴史人の記事で作りました)

『日本書紀』で“呼び捨て”にされているヤバい神・天若日子は朝鮮の渡来人、天邪鬼とも関係あるようです

 


生まれてすぐに両親に捨てられた神ヒルコ、拷問を加えられて天上界を追放されたスサノオ、イザナミが眠る異界として恐れられた熊野三山、生贄の風習を伝える祭り・・・など、日本神話に描かれた恐怖のエピソードを紹介
古代の人々が厳しい自然といかに向き合い、熾烈な勢力圏争いをどのように記憶してきたかがわかる