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メインウェーブ日記

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全国各地にあるお城の中で、特筆すべきお城はどこか
歴史評論家の香原斗志さんは「藤堂高虎が建てた今治城(愛媛県今治市)は、それまでの常識を壊した革新的な城だった
その後に建てられた江戸城や名古屋城など、多くの城のあり方を大きく変えた」という――

■江戸城、大坂城を手掛けた築城の名手

徳川幕府の拠点となった江戸城(東京都千代田区)
その縄張り、すなわち設計図の製作を家康みずから依頼した武将
大坂夏の陣後、大坂城(大阪市中央区)を徳川の手で再築する際にも、2代将軍秀忠が縄張りをまかせ、石垣の高さも堀の規模も秀吉が造った城の2倍にするように指示した武将
それは同一人物である

天下をとった徳川による城のうちでも、もっとも重要な2つの設計を任されるくらいだから、同じく「築城の名手」といっても並みのレベルではないことがわかる
その武将とは藤堂高虎であった

高虎は武将の生まれではない
近江国藤堂村(滋賀県甲良町)の土豪の次男で、浅井長政を皮切りに、主君を次々と換えていたが、羽柴秀吉の弟で来年のNHK大河ドラマの主人公である秀長に仕えてから頭角を現した
天正13年(1585)の紀州征伐後に大名となり、秀長の死後は養子の秀保に仕え、朝鮮出兵(文禄の役)には若い秀保の名代として出兵した

文禄4年(1595)に秀保が早世すると、出家して高野山に隠棲してしまうが、それまでにもすでに和歌山城(和歌山市)、赤木城(三重県熊野市)などを築いていた

とくに天正17年(1589)、数え34歳のときに築いた赤木城は、総石垣で主郭はほぼ正方形、虎口(城の出入口)は枡形(四角い空間の2辺それぞれに門を、まっすぐ進めないようにずらしてもうけた虎口)で、高虎の城づくりの原点といえる

■革命を起こしたといえる城

その後、才能を惜しんだ秀吉の命令で還俗し、この年、伊予国板島(愛媛県宇和島市)に7万石をあたえられた
板島城(のちの宇和島城)の築城に取りかかり、五角形で北と西は海に面した縄張りを実現し、また、ふたたび朝鮮に出兵すると(慶長の役)、現地に港を見下ろす順天城を築くなど、築城技術を磨いた

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に加わり、戦後、伊予半国20万石の大大名に取り立てられてからは、自身の居城に加え、家康らの命による築城を数多く重ねていく

まず、自身の居城としては、あらたに拠点にするために今治城(愛媛県今治市)を築いたが、これはのちの城の姿を大きく変えるほど革新的な城だった

海に面した平地に築かれたこの城が画期的だったのは、第一に、縄張りが非常にシンプルなことだった
本丸はほぼ正方形で、そこに3つの曲輪が加わった内郭全体としても正方形に近く、これを幅が50〜70メートルもある広大な水堀で囲んださらにその三方を中堀で、その外側も三方を外堀で囲んだ(もう一方は海だった)

■近世城郭の性格を決定づけた

従来の城のような、小規模な曲輪が複雑に連なり、迷路のような通路で結ばれているのとは構造が大きく異なった
高虎がめざしたのは効率性だった

それまで平地は軍事的に不利とされたが、前述のように三重の堀で囲み、さらに高い石垣をめぐらせて弱点を補った
このころ石垣の構築技術は、日進月歩で進化しており、今治城は地盤が弱い砂地に築かれたにもかかわらず、石垣の高さは9〜13メートルにおよぶ
むろん石垣の上は、隅部は多重櫓、櫓と櫓のあいだは一重の多門櫓や塀で守られていた

また、内堀の50〜70メートルという幅は、弓矢の射程距離は超え、城内からは鉄砲で敵をねらい撃てるという絶妙の距離
加えて、ほとんどの虎口に枡形虎口を採用し、守りやすく攻められにくい構造にした

このように高い石垣と広い堀、鉄壁の枡形虎口により、防御がしっかり固められれば、城の構造は単純なほうが使いやすい
政庁としても機能的だが、軍事拠点としても多くの兵を駐屯させやすい
この高虎の発想が、その後の近世城郭の性格を決定づけた

■高虎が家康に気に入られた理由

高虎が今治城に建てたとされる天守も画期的だった
下の階から上の階に向かって床面積を規則的に少しずつ小さくして積み上げる「層塔型」の天守は、今治城にはじまったといわれる

それまでの天守は、大きな入母屋屋根の建物に望楼を載せた「望楼型」だったが、高虎が考案した層塔型は、下の階から規則的に積み上げるだけの単純構造なので、用材を規格化でき、工期も短くて済み、移築も容易だった

このため、全国の天守はこれ以後、一転して層塔型が主流になった
名古屋城天守も、江戸城天守も、徳川が再築した大坂城天守もみな層塔型で、その原型が今治城天守だった

同じ時期、すなわち関ヶ原合戦から大坂夏の陣にかけて、家康は大坂との対戦も視野に入れ、諸大名に自腹での助役を命じる、いわゆる天下普請での築城を重ねた
そして、その縄張りのほとんどを高虎が担当した
家康が高虎に頼ったのは、高虎の築城術を評価していたからであり、加えて、かつて秀吉が聚楽邸内に造営させた家康の屋敷にまつわる逸話が関係しているかもしれない

家康の屋敷の作事奉行を務めるように秀長に命じられた高虎は、渡された設計図では警護上問題があるとして、独断で設計を変更し、その費用も自己負担した
それを知った家康は心遣いに感謝し、これを機に高虎との関係を深めていったとされる

■「正方形」がスタンダードに

慶長6年(1601)の膳所城(滋賀県大津市)を皮切りに、高虎は家康の命による築城に深く関わった
関ヶ原の前哨戦で全焼した伏見城(京都市伏見区)や、冒頭で記した江戸城はもとより、篠山城(兵庫県篠山市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)などの縄張りを次々と手がけた

なかでも篠山城は高虎らしい城だ
ほぼ正方形の本丸を中心に二重の堀で囲まれ、本丸の虎口は枡形で、本丸を取り囲む二の丸の虎口は馬出(虎口の外側に堀を隔ててもうける小さな曲輪)で守られている

家康が隠居城にした駿府城(静岡市葵区)や、やはり家康が西国を牽制する拠点として威信をかけて築いた名古屋城(名古屋市中区)には、高虎は直接は関わっていない
だが、ほぼ真四角の本丸を三重の堀で取り囲んだ駿府城や、本丸がほぼ正方形の名古屋城は、高虎が築いた今治城や篠山城の影響をかなり強く受けている

高虎は自身の居城もあらたに手がけた
慶長13年(1608)、今治城周辺の2万石を飛び地として残し、伊賀国(三重県西部)と伊勢国(三重県東部)という要地に転封となり、計22万石の大名になると、伊賀上野城(三重県伊賀市)と津城(三重県津市)を築いた

■伊賀上野城にある30メートルの高石垣

伊賀上野城は高虎の城であっても、大坂城を包囲する役割を負っていた
このため本丸に高さ30メートルの、当時としては日本一の圧倒的な高石垣を築いた
また、津城は今治城や篠山城と同類の縄張りだが、本丸の周囲を広いところで幅100メートルに達する堀で囲んだ

そして、慶長20年(1615)大坂夏の陣を経て、翌年に家康が死去したのちに手がけたのが、二条城の改修と大坂城の事実上の新造だった
二条城は京都市の地図を見てもらえばわかりやすいが、ほぼ正方形の本丸を長方形の二の丸その他が取り囲み、まさに高虎らしい縄張りだ

一方、大坂城は、夏の陣で灰燼に帰した秀吉の城に、場所によっては10メートル以上の盛り土をし、諸大名による天下普請でまったくあらたに築かれた
石垣の高さは高いところで30メートルを超え、堀も南外堀など深いうえに幅も75メートルにおよび、秀吉の城とは段違いのスケールとなって、高虎の面目躍如だった

■家康の死の枕元にいた唯一の外様大名

高虎は男性の平均身長が157センチ程度だったとされる時代に、6尺3寸(約190センチ)もあったという
むろん外様大名だが、ここまで記した築城の記録からも、この大男が家康にいかに信頼されていたかがわかるだろう

実際、家康の死に際して、その枕元にいることを許された唯一の外様大名であった
家康は死を前にして、有事の場合は高虎を一番槍に、井伊直孝を二番槍にするように命じている
それを反映し、藤堂家は井伊家とともに幕末まで転封がなかった
むろん、家康亡きあとは2代将軍秀忠からも厚く信頼された

そんな高虎の最大の功績は、やはり城をとおして徳川の力を高め、太平の世の礎を築いたことだろう
そして、高虎の築城の名人芸は、いまも今治城や伊賀上野城はもとより、大都市の真ん中に威容を誇る江戸城や大坂城をとおしても偲ぶことができる

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身
早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い
著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)
ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている
関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など
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歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志

(この記事はプレジデントオンラインの記事で作りました)

藤堂高虎は、秀吉・家康から「信頼」された人物だったようだ
需要な江戸城、大坂城(いずれも現存する)築城にも・・・

そして190センチの大男だった
(平均身長が低い当時はもちろん平均身長が伸びた現在でも)


 

 


家康に天下を取らせ日本の近世を創った男・藤堂高虎
伊予藩主・藤堂高虎は外様大名としては異例の信頼を幕府から得た
それは彼が日本で初めて「藩」を構想しえた政治家だったからだ
まさに「江戸時代の設計者」といえる

「内臓脂肪燃焼 万能ふりかけ」のつくり方

塩や調味料を使わなくても、かつお節と切りいかでとっただしを粉豆腐に吸わせることで、うま味たっぷりのふりかけになります

つくり方①
フライパンにかつお節、キッチンバサミに1cmほどにカットした切りいか、水を入れる
軽く全体を混ぜてから、弱めの中火にかける

つくり方②
表面が白っぽくなり、ふつふつとしてきたら(目安は2~3分)、粉豆腐といりごまを入れ、水分を吸わせるようにして混ぜ合わせる

つくり方③
焦げないように混ぜながら5分ほど加熱
塊がなくなり、全体的にサラサラしてきたら火を止める
青のりを加えて混ぜ合わせたら完成

大さじ5杯で卵1個分以上のたんぱく質がとれる!
1日大さじ5杯で、約8.5gのたんぱく質を摂取することになります
これは卵(Mサイズ)1個分以上に相当します

出典:『肥満治療の名医が教える 図解 内臓脂肪がごっそり落ちる食事術』


(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


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日本人にもなじみ深いマッカーサー元帥ことダグラス・マッカーサー

彼は、第一次・第二次世界大戦にて大きな戦功を挙げ、日本軍からフィリピンを奪還した際に、アメリカ国民からは「アメリカ合衆国が生んだ最も有能な軍人」と讃えられている

軍人としては高く評価されたマッカーサーだったが、非常に自閉的で自己中心的、自分の間違いを決して認めず、常に他人を疑って被害妄想を抱いているような、性格に難のある人物であったという

このようなマッカーサーの人格形成には、彼を見守り干渉し続けた“偉大なる母”が影響を及ぼしていた

マッカーサーは士官学校時代に苛烈ないじめを経験し、私生活でも離婚や再婚を重ねたが、常に母メアリーが関わっていた

厳格な教育と溺愛のもとで育ち、優秀ながらも「マザコン」と揶揄されたダグラス・マッカーサーと、その母メアリーの異様な親子関係を紐解いていく


次男の死が、母の心に闇を生む

ダグラス・マッカーサー(以下ダグラス)は、1880年1月26日、アメリカのアーカンソー州リトルロックにて誕生した

父方の祖父は、ウィスコンシン州の第4代知事も務めたスコットランド出身の法律家だったが、父のアーサー・ジュニアは10代の頃から南北戦争に従軍していた軍人であり、ダグラスは父の任地であるリトルロックの兵舎にて生まれた

ダグラスは、アーサージュニアとメアリー夫妻の三男かつ末子であり、先に生まれた兄が2人いた

ダグラスが生まれた1880年は、アメリカ西部開拓時代の末期だった
一家は父の転属に従って各地の兵舎や砦を転々としていたが、ダグラスが生まれて間もない頃に、次男のマルコムがわずか5歳で病死してしまう

母メアリーは、幼い次男の死に大きなショックを受けて、残る2人の息子の中でも特に末子のダグラスに執着し、溺愛するようになった

当時は男児の無事の成長を願うまじないとして、男の子にも女の子の服装をさせる風習があった

その風習が行われるのは、一般的には子供が2歳になる頃までだったが、メアリーはダグラスが自分に少しでも長い間依存するように、6歳になる頃まで髪を長く伸ばして三つ編みに結い、スカートをはかせていたという

また、メアリーはダグラスを溺愛しながらも、非常に厳しくしつけて育てた

13歳の時、ダグラスは小遣いを稼ぐために新聞売りのアルバイトをしたが、他のアルバイトより販売実績が低いことを知ったメアリーは「新聞を売り切るまで帰ってきてはいけない」と𠮟りつけた

ダグラスはメアリーの言いつけを素直に守り、傷だらけになりながらも新聞を売り切ってから自宅に帰ってきたという

ヘリコプターマザー・メアリー

16歳になった1896年、ダグラスは父や兄と同じ軍人となるために「ウェストポイント陸軍士官学校」を目指していたが、受験に必須だった有力者の推薦状を得られずにいた

しかし、メアリーの尽力で下院議員の推薦を得ることに成功し、独自に編み出した「失敗の可能性を抽出し1つ1つ取り除く」勉強法で受験勉強に勤しみ、1899年にはウェストポイントに首席入学を果たした

このようにダグラスは学業では優秀だったが、恋愛は不得意だったようだ

受験生時代、ミルウォーキーのミッチェル上院議員の娘に思いを寄せていたものの、自作の「愛の詩」を懐に忍ばせたまま上院議員の家の周囲をうろつくだけで、結局告白もできず、想いが実ることはなかったという

ウェストポイントに入学後、メアリーはダグラスを心配するあまり学舎近くのクラニーズ・ホテルに移住し、息子の学生生活を監視するようになった

当時の士官候補生は、年頃の女性たちにとって羨望の的だった
しかしダグラスは、首席合格で入学したエリート候補生であるにもかかわらず、女性からは全然モテなかった

なぜなら母メアリーが、ダグラスの学業だけでなく私生活までもを監視し、ダグラスに近付く女性たちに警戒心を抱いていたからだ

ダグラスもメアリーの過保護すぎる行動に反抗することはなく、むしろ毎日メアリーに会いに行く時間を作り、同期生に遊びに誘われてもいちいちメアリーの了承を得ていたという

メアリーの過保護ぶりは教官にまで知れ渡り、ある日、ダグラスがこっそり女性とキスをしていたところを見かけた教官は、ダグラスをたしなめるどころか笑顔で祝福の言葉を贈ったほどであった

士官学校で受けた苛烈ないじめ

ダグラスが在学中のウェストポイント陸軍士官学校では、上級生から下級生に対してのしごきとして、暴力的ないじめが横行していた

首席入学者かつ、父が有名な軍人で、母が近くのホテルに常駐していたダグラスは、いじめ常習犯の上級生にすぐに目を付けられた

ダグラスが受けたいじめは酷かった

「ガラスの破片の上で膝をつき前屈させる」「ささくれた板の上をスライディングさせる」「ボクシング選手に殴られる」など過酷なもので、ダグラスは上級生による暴力に抗えず、最後には痙攣して失神してしまった

やがて、いじめ被害者の中から死亡者が出たことにより、ウェストポイントのいじめは社会問題化して軍法会議にかけられた

いじめの被害者だったダグラスも証人として法廷に呼ばれたが、今後の学内での立場を考え、自分が受けた暴行については証言を拒んだ
その姿勢がかえって周囲の尊敬を集めることになったという

だが、ダグラスはいじめを受けながらも常に成績は優秀だった
3年生の時には野球に熱中し一時的に成績が下がったものの、1903年には首席でウェストポイントを卒業し、陸軍少尉に任官している

しかし、母メアリーの存在はあまりに大きく、ダグラスはその優秀さに注目されるよりも「ウェストポイント史上初の母親と一緒に卒業した男」として揶揄された

友人を必要と感じていなかったダグラスは、学生時代に心から信頼できる友人を作らなかった

ウェストポイントの卒業生は結婚式に多くの同級生を招くのが通例だったが、ダグラスの結婚式に出席した同級生はわずか1人だけだったという

母の意思が反映された婚姻歴

ダグラスは1922年2月、42歳になってすぐの時期に、1度目の結婚をしている

10代の頃は恋愛面では冴えなかったダグラスだが、その頃には垢抜けて軍人としても頭角を現しており、「アメリカ陸軍のダルタニアン」などと呼ばれ、もてはやされる人物となっていた

ダグラスの妻となったルイーズは、若い頃には「社交界の華」と呼ばれた大富豪の令嬢で、すでに1回の離婚歴がある子持ちの女性だった

出会ってからたった数ヶ月で結ばれた2人の結婚は「軍神と億万長者の結婚」と話題になった

しかし華美な生活を好む恋多き女性だったルイーズは、姑となったメアリーとはとにかく折り合いが悪かった

メアリーはダグラスとルイーズの婚約を知った時、あまりのショックで体調を崩し、結婚式にも参列しなかったという

結婚してからもルイーズに対するメアリーの口出しは治まらず、結局は2人は結婚から7年後に「性格の不一致」を理由に離婚した
ダグラスは、この1度目の結婚については、自身の伝記でもほとんど触れていない

ルイーズとの離婚後、ダグラスは2度目のフィリピン勤務中に、33歳年下のイザベルという女性と親しくなった
しかし結婚には至らず、最終的には母メアリーが認めたジーン・フェアクロスと、57歳の時に再婚した

ジーンとの結婚生活は順調に続き、ダグラスが亡くなるまで破綻することはなかった

彼女は2000年に101歳で亡くなり、その遺体はダグラスの墓の隣に埋葬されている

息子の自由を容認

メアリーは、ダグラスとジーンを引き合わせることに成功したものの、結婚を見届けることなく、1935年11月に82歳でこの世を去っている

当時副官だったアイゼンハワーの記録によれば、母を失ったダグラスは深く落ち込み、立ち直るまでに数ヶ月を要したという

母の大きな愛情と期待に応えるために、常に勝ち続けることにこだわったダグラスだったが、ジーンとの間に生まれた1人息子のアーサー4世は、軍人になることを拒み、ジャズ・ピアニストになった

ダグラスは、息子の進路の要望を受け入れた理由を問われた時に、こう答えたという

「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった。」

ダグラスに心酔していた妻ジーンは、息子も軍人になってくれることを願っていたが、ダグラスは実の息子には自由に生きてもらうことを望んだ

アーサー4世はダグラスの死後、世界的に知られたマッカーサーという名前の重圧から解き放たれるために改名し、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーになったと伝えられている

たった1人の息子が自由な人生を選んでくれたことにより、ダグラスはようやく母と家名の呪縛から、解き放たれることができたのかもしれない

参考文献 :
世界の歴史 (著)『ダグラス・マッカーサー 生涯の物語』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

日本人にもなじみ深いマッカーサー元帥ことダグラス・マッカーサー

彼は、第一次・第二次世界大戦にて大きな戦功を挙げ、日本軍からフィリピンを奪還した際に、アメリカ国民からは「アメリカ合衆国が生んだ最も有能な軍人」と讃えられている

軍人としては高く評価されたマッカーサーだったが、非常に自閉的で自己中心的、自分の間違いを決して認めず、常に他人を疑って被害妄想を抱いているような、性格に難のある人物であったという

このようなマッカーサーの人格形成には、彼を見守り干渉し続けた“偉大なる母”が影響を及ぼしていた

マッカーサーは士官学校時代に苛烈ないじめを経験し、私生活でも離婚や再婚を重ねたが、常に母メアリーが関わっていた


私のイメージのマッカーサーはGHQのトップであくまで「恰好いい」・・・
(老兵は死なず、ただ消え去るのみ」も有名)
「マザコン」のイメージはなかった


母の大きな愛情と期待に応えるために、常に勝ち続けることにこだわったダグラスだったが、ジーンとの間に生まれた1人息子のアーサー4世は、軍人になることを拒み、ジャズ・ピアニストになった

ダグラスは、息子の進路の要望を受け入れた理由を問われた時に、こう答えたという

「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった。」

ダグラスに心酔していた妻ジーンは、息子も軍人になってくれることを願っていたが、ダグラスは実の息子には自由に生きてもらうことを望んだ

アーサー4世はダグラスの死後、世界的に知られたマッカーサーという名前の重圧から解き放たれるために改名し、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーになったと伝えられている

たった1人の息子が自由な人生を選んでくれたことにより、ダグラスはようやく母と家名の呪縛から、解き放たれることができたのかもしれない



 

 


ダグラス・マッカーサーは歴史上最も偉大な軍人の一人であり、第二次世界大戦中、太平洋での連合国の勝利に決定的な役割を果たしました
彼は戦略的天才と鋼鉄の意志で知られていますが、その人物像には戦場での成功以上のものがあります
マッカーサーは約束を守ることに深くコミットし、強い使命感に突き動かされていました
これらの資質は、フィリピンが日本軍に陥落した後、必ず戻ってくると誓った時に鮮明に表れました
そして、その言葉通り、彼は歴史を作りながら実際に戻ってきたのです
この本は、ダグラス・マッカーサーの生涯を追い、制服の向こう側にいる人間に迫ります
第一次世界大戦の塹壕での戦いから第二次世界大戦での重要な役割まで、世界に永続的な影響を与えたリーダーの全貌が明らかになります

【世界史ミステリー】ロシアはヴァイキングが作った国!?思わず声が出る歴史の事実
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある


● ロシアの起源は、ヴァイキングにあり!?

ヴァイキングVikingとは入江(フィヨルド)を意味する古ノルド語(古代の北欧言語)vikに由来するもので、その名称自体が「商人」を意味します

海賊をはじめとする商業民族は、故地(縁故のある土地)が農業などに適していないことから商業活動が社会の維持に不可欠です(とりわけ穀物の取引など)
商業が順調なうちはいいものの、停滞すると生活必需品が手に入らなくなるため、彼らにとって死活問題となります
このため、商業活動が停滞すると、非常手段として略奪に走るのです

世界史に登場する海賊は、いずれも商業民族に相当するのです
これは、ミケーネ文明をはじめとする古代ギリシア、中世のヴァイキング、中国の倭寇など枚挙にいとまがありません

さて、スカンディナヴィア半島やユトランド半島を原住地とするヴァイキングは、人口増加や商業活動の停滞から、ヨーロッパ各地に出没し、略奪などを繰り広げるのです
一方で、商業民族の本分として、交易活動の拡大にも貢献します

ヴァイキングは主に3つに大別され、それぞれ、①デーン人(ユトランド半島)、②ノール人(スカンディナヴィア西部)、③スウェード人(スカンディナヴィア東部)と呼ばれます
彼らが後に原住地に建国した国家が、それぞれ①デンマーク、②ノルウェー、③スウェーデンに発展するのです

では、ヴァイキングの進出を読み解いていきましょう

スウェード人について解説します

スウェード人はバルト海を渡って東ヨーロッパに進出します
東ヨーロッパのスラヴ人はヴァイキングの一派を含む集団を「ルーシ」と呼び、これが「ロシア」という名称の由来となります

ルーシは9世紀にノヴゴロド(ホルムガルド)という拠点を建設し、商業活動を拡げます
その最大の相手は、はるか南の東ローマ帝国で、当時の地中海で最先端の文化を有する大国です

同じ9世紀の末、ルーシは商業拠点としてより利便性が高い南部に進出し、キエフ(現ウクライナの首都キーウ)に中心拠点を遷します
これが、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の成立です

キエフ・ルーシはドニエプル(ドニプロ)川を中心とした水上貿易で繁栄し、北欧と東ローマ帝国を中継したその交易路は「ヴァリャーグからギリシアへの道」(ヴァリャーグは北欧人、ギリシアは東ローマ帝国のこと)と称されました
これが、ロシア国家の源流となるのです

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDIAMOND onlineの記事で作りました)

ロシアの起源は、ヴァイキングにあり!?

スウェード人について・・・

スウェード人はバルト海を渡って東ヨーロッパに進出します
東ヨーロッパのスラヴ人はヴァイキングの一派を含む集団を「ルーシ」と呼び、これが「ロシア」という名称の由来となります

ルーシは9世紀にノヴゴロド(ホルムガルド)という拠点を建設し、商業活動を拡げます
その最大の相手は、はるか南の東ローマ帝国で、当時の地中海で最先端の文化を有する大国です

同じ9世紀の末、ルーシは商業拠点としてより利便性が高い南部に進出し、キエフ(現ウクライナの首都キーウ)に中心拠点を遷します
これが、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)の成立です

キエフ・ルーシはドニエプル(ドニプロ)川を中心とした水上貿易で繁栄し、北欧と東ローマ帝国を中継したその交易路は「ヴァリャーグからギリシアへの道」(ヴァリャーグは北欧人、ギリシアは東ローマ帝国のこと)と称されました
これが、ロシア国家の源流となるのです


 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

この決戦の渦中にあって、ひと際激しく槍を振るい、東軍の先陣を切った武将がいた

福島正則である

豊臣秀吉に若くして見出された「子飼い」の将でありながら、彼は豊臣家に背を向け、徳川家康の旗のもとに立った

その決断は、単なる感情論では片づけられない。なぜ、正則は東軍についたのか

そこには、時代の裂け目を生き抜く武将としての、冷徹な計算と覚悟があった

福島正則という武将

福島正則は、豊臣秀吉の母方の甥にあたる従弟であり、若くして秀吉に見出された武将である

加藤清正と並ぶ「豊臣子飼い」として知られ、武勇をもって早くから頭角を現した

天正6年(1578年)、播磨三木城攻めで初陣を飾り、天正10年(1582年)の山崎の戦いでも功を挙げた

特に天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首の戦功を立て、賤ヶ岳七本槍の筆頭格として名を馳せる
ここで他の七本槍が三千石の加増にとどまったのに対し、正則には五千石が与えられたことからも、その戦功の厚遇ぶりがうかがえる
その後も紀州雑賀攻め、四国征伐、九州平定に従軍し、天正15年(1587年)には伊予今治十一万三千石余を与えられて大名となった
家中での昇進も早く、石田三成や加藤清正ら他の子飼いの武将たちより先に大封を得ていた

性格については、勇猛果敢で直情的、時に粗暴とも評される

加藤清正や黒田長政とは親交が厚く、黒田長政とは兜を交換するほどの間柄だったとされる

一方、奉行職に就いた石田三成とはそりが合わず、折に触れて不仲が取り沙汰された

関ヶ原の戦いまでの福島正則の行動

秀吉の死後、正則の動きも次第に大きな転機を迎えていく

まず知られるのが、いわゆる「石田三成襲撃事件」である

これは慶長4年(1599年)、福島正則・加藤清正・黒田長政ら武断派の有力大名が、石田三成に対して武力行使に出た事件であった

背景には朝鮮出兵中の補給や指揮を巡る積年の不満があったとされ、とくに蔚山城の戦いに関わった加藤清正・黒田長政らの怒りが火種となったとされる
正則自身も文禄・慶長の役には従軍しており、朝鮮半島での経験から三成の現場感覚の乏しさには少なからず不満を抱いていたと考えられる

この後、正則は自らの養子・福島正之を徳川家康の養女と婚姻させている
豊臣政権下では大名間の私的な婚姻は禁じられていたが、この縁組は家康の後押しによるものであり、ここに至って正則は家康寄りの立場を明確にしていくことになる

慶長5年(1600年)、家康の命により正則は会津征伐に従軍する

これは石田三成が挙兵する前段階の動きであり、大谷吉継や三成の遺族ら西軍方も本来は従軍予定であった

現地での正則の行動はごく通常の参陣であり、この段階で、両者の間に個人的な恨みの感情が強くあったとは考えにくい
むしろ派閥として立場は対立していたものの、正則も三成も互いに私怨を抱くような関係ではなかったと見られている

小山評定から大活躍の正則

会津征伐の途上、石田三成挙兵の報が届くと、諸将は下野小山に集まり進退を協議した

いわゆる「小山評定」である

ここで福島正則が示した態度は、以後の歴史の流れを決定づけたと後世に語られている

よく知られるのは、家康が「大坂に残してきた妻子のもとに帰るのも構わぬ」と諸将に告げると、正則が真っ先に立ち上がり「内府殿にお味方いたす」と宣言し、これに他の武将も次々と続いた、という逸話である

これが「東軍」形成の契機となったとされ、ドラマなどでも繰り返し描かれてきた
しかし実のところ、この劇的な場面は一次史料には確認できず、後世の創作の可能性が高いとみられている

いずれにせよ、諸将は西へ反転し、正則の居城である清洲城が東軍の拠点となった
ここからも、正則が東軍の中で相応の地位と発言力を有していたことがうかがえる

一方、家康がなかなか出陣しないことに苛立った正則は「我々は捨て駒か」と怒りを露わにし、周囲の徳川家臣たちが宥める場面もあったという『慶長年中卜斎記』

やがて家康の使者が現れ、「先に戦端を開いてくれれば出陣する」と伝えた

正則はさっそく美濃へ進軍し、岐阜城を攻撃した
この際、池田輝政と先鋒争いを演じたと伝わる

輝政が先に到着し攻撃を開始したことで、正則は「抜け駆けだ」と激怒し、ここでも徳川家臣が必死に取り成すこととなった

戦となれば先鋒を争うほどの積極性を示した正則の行動は、単なる気性の激しさだけではなく、家康への忠誠心や東軍内での地位を確立しようとする意図もあったと考えられる

関ヶ原本戦での活躍

家康がようやく到着し、ついに関ヶ原本戦が始まる

正則はここでも先鋒を務めることを強く望んだが、実際に先陣を切ったのは徳川家臣の井伊直政であった
かねてから正則の感情の昂りを宥めてきた直政の抜け駆けに、正則は再び激怒したと伝わる

開戦後、正則の軍は西軍の主力である宇喜多秀家勢と正面から激突した

福島勢六千に対し、宇喜多勢は一万七千余ともされる(推定)
この戦いは関ヶ原本戦の中心部での激戦となった

数で劣りながらも持ちこたえる正則の軍は、その武勇を存分に発揮したとされる

やがて戦局は、小早川秀秋の寝返りを契機に大きく動き、西軍は総崩れとなり、東軍の勝利が決した

正則は戦後、家康から安芸・備後二カ国、計五十万石の所領を与えられた

これは破格の加増であり、家康が正則への処遇に特に心を砕いた様子もうかがえる

おわりに

ここまで福島正則の動きを追ってきたが、全体を通じて積極的に東軍として戦っていたことが浮かび上がる

加藤清正や黒田長政らが「三成憎し」の感情を抱いて東軍に加わったことから、正則も彼らに同調したと見る向きもある
正則自身も三成を快く思っていなかったであろうが、単なる感情論だけで東軍に与したとは言い切れない面もある

正則は行政手腕にも優れ、領国経営でも成果を挙げた実績を持つ
性格は直情的な面が知られるものの、決して思慮に欠ける武断一辺倒の人物ではなかった
豊臣政権内で三成の政治手腕を間近に見ていたからこそ、家康の方が今後の安定した政権運営を担えると判断していた可能性もある

さらに、関ヶ原の開戦前に養子を家康の養女と婚姻させるなど、早い段階から徳川方との関係を強めていた点も、正則の現実的な政局観を物語っている

福島正則は勇猛果敢な武将として語られることが多いが、その決断の裏には、家の存続と政局を見据えた冷静な計算があったと言えるだろう

その生き様には、戦国を生き延びた武将の苦渋と、したたかさがにじんでいる

参考:『慶長年中卜斎記』『武家事紀』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

関ヶ原の戦いは「秀吉子飼い」の武将の戦でもあった
武断派と文知派の対立とも・・・

なぜ、「秀吉子飼い」の福島正則が家康に付いたのか?


福島正則とは・・・

福島正則は、豊臣秀吉の母方の甥にあたる従弟であり、若くして秀吉に見出された武将である

加藤清正と並ぶ「豊臣子飼い」として知られ、武勇をもって早くから頭角を現した

天正6年(1578年)、播磨三木城攻めで初陣を飾り、天正10年(1582年)の山崎の戦いでも功を挙げた

特に天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首の戦功を立て、賤ヶ岳七本槍の筆頭格として名を馳せる
ここで他の七本槍が三千石の加増にとどまったのに対し、正則には五千石が与えられたことからも、その戦功の厚遇ぶりがうかがえる
その後も紀州雑賀攻め、四国征伐、九州平定に従軍し、天正15年(1587年)には伊予今治十一万三千石余を与えられて大名となった
家中での昇進も早く、石田三成や加藤清正ら他の子飼いの武将たちより先に大封を得ていた

性格については、勇猛果敢で直情的、時に粗暴とも評される

加藤清正や黒田長政とは親交が厚く、黒田長政とは兜を交換するほどの間柄だったとされる

一方、奉行職に就いた石田三成とはそりが合わず、折に触れて不仲が取り沙汰された


福島正則の動きは、全体を通じて積極的に東軍として戦っていたことが浮かび上がる

加藤清正や黒田長政らが「三成憎し」の感情を抱いて東軍に加わったことから、正則も彼らに同調したと見る向きもある
正則自身も三成を快く思っていなかったであろうが、単なる感情論だけで東軍に与したとは言い切れない面もある

正則は行政手腕にも優れ、領国経営でも成果を挙げた実績を持つ
性格は直情的な面が知られるものの、決して思慮に欠ける武断一辺倒の人物ではなかった
豊臣政権内で三成の政治手腕を間近に見ていたからこそ、家康の方が今後の安定した政権運営を担えると判断していた可能性もある

さらに、関ヶ原の開戦前に養子を家康の養女と婚姻させるなど、早い段階から徳川方との関係を強めていた点も、正則の現実的な政局観を物語っている

福島正則は勇猛果敢な武将として語られることが多いが、その決断の裏には、家の存続と政局を見据えた冷静な計算があったと言えるだろう

その生き様には、戦国を生き延びた武将の苦渋と、したたかさがにじんでいる


 

 


敵か、味方か?
全国各地で繰り広げられた「関ケ原の戦い」人物事典登場!
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「2025年7月5日に大災害が日本を襲う」との噂がアジアを中心に世界に広がってるようです

発端は元漫画家・たつき諒氏の漫画単行本『私が見た未来』(朝日ソノラマ刊)・・・・

予知夢に関する作品を収録した1999年に発売された漫画だが、表紙に《大災害は2011年3月》と記載があったことから、“東日本大震災を予言していた”と、2020年ごろからメディアで取り上げられるように・・・

2021年10月には、たつき氏の解説を加えた『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社刊)が発売され、さらに話題に・・・

2021年7月5日に見た夢が今回の「根拠」らしいが、たつき氏は「2025年7月5日」をやんわり否定・・・

災害が「その日」に起きるかはわからないとしている


予言ではノストラダムスの大予言もあった・・・

実際に「大災害が2025年7月5日に起こるかはわからない」が災害はいつ起こるかわからないので「注意」「準備」が必要だ


 

 


各メディア、マスコミでも話題・・・
2025年7月5日に「大災害」は起こるか否か・・・

大阪府東大阪市、生駒山の西麓にひっそりと鎮座する枚岡神社(ひらおかじんじゃ)

河内国一宮として長い歴史を誇り、地元では古くから篤く信仰されてきました

しかし、その存在は全国ではあまり知られていません
さらに、この枚岡神社が「元春日」と呼ばれ、奈良の春日大社とも深い縁をもつことをご存じの方は少ないでしょう

その知られざる由緒をひもときながら、枚岡神社の歴史と魅力をご紹介します


枚岡神社の創祀と由来

枚岡神社の創祀は、初代天皇の神武天皇が即位される3年前と伝えられており、まさに神話の時代に遡ります

神武天皇が東征に向かう際、天種子命(あめのたねこのみこと)が勅命を受けて国の平定を祈願しました

そのとき、生駒山中の神津嶽(かみつだけ)に、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と、比売御神(ひめみかみ)の二柱を祀ったのが、枚岡神社の始まりとされています

のちに社殿は現在の地へと移されましたが、神津嶽は今も創祀の地として神聖視されています

その後、都が難波宮に置かれた頃、難波宮の鬼門を守護する役割も担い、社殿は現在の地へと移されました

その後、社伝によれば、778年(宝亀9年)に武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)をお迎えし、四柱を祀る現在の体制が成立したといいます

枚岡神社が「元春日」と呼ばれる理由とは

枚岡神社が「元春日」と呼ばれるのは、奈良の春日大社との深い関わりによるものです

世界文化遺産にも登録されている春日大社は、平城京の守護神として創建され、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売御神(ひめみかみ)の四柱を祀っています

このうち、天児屋根命と比売御神の二柱は、もともと枚岡神社に祀られていた神々であり、春日大社創建の際に分祀されたと伝えられます

こうした経緯から、枚岡神社は「元春日」と称されるようになったのです

春日神と総称されるこれら四柱は、全国の春日神社の祭神として広く祀られています

枚岡神社のご祭神とご利益

枚岡神社の主祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、天照大神が天の岩戸に隠れた際、祝詞を奏上して岩戸開きを導いた神として知られています

古来より神職の祖神とされ、国家安泰や家内安全、開運招福を祈る信仰を集めてきました

その配偶神とされる比売御神(ひめみかみ)は、良妻賢母の象徴とされ、安産や子授け、災難除けなど、特に女性の守護神として広く信仰されています

これらの二柱は、すでに前述の通り、春日大社の創建に際して分祀され、春日神の中心を成しました

のちに鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)が加わり、春日四神が成立しています

枚岡神社でも、現在はこれら四柱すべてを祀っています

枚岡神社の見どころと、ユニークな祭礼

近鉄奈良線の枚岡駅を降り、線路に沿って走る道路を東側に渡ったところに、石の鳥居があります

そこから東に向けて、玉砂利の敷かれた参道が続きます

参道の奥の階段を上ったところに、拝殿があり、その奥に中門・透き塀と四祭神を祀る本殿が4つ並んで建っています

枚岡神社は、生駒山の山麓でも比較的高い場所に位置しており、拝殿から南側へ進み、摂社・末社を抜けた広場からは大阪市街を一望する眺望が広がります

参拝の際には、この景観も大きな魅力のひとつです

枚岡神社の祭礼のなかでも特に特徴的なのが、毎年12月23日に行われる「注連縄掛神事(通称・お笑い神事)」です

これは、主祭神の天児屋根命が天照大神の岩戸隠れの際、美声で祝詞を奏上し岩戸開きに貢献したという神話に由来するとされています

神事では、神職が大声で「ワッハッハ」と笑い、続いて参拝者も声を合わせて笑い声を響かせます
こうして繰り返し笑うことで、天照大神が再び岩戸に隠れることがないよう祈念し、注連縄を掛ける儀式が執り行われます

年の瀬にふさわしく、笑いによって邪気を払い、新年を晴れやかに迎えようとする神事です

長い歴史を刻む枚岡神社は、今もなお神話の面影を残しながら、人々の暮らしに寄り添い続けています

参考 : 『枚岡神社 公式サイト』『境内説明板』他
文:撮影 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

大阪府東大阪市、生駒山の西麓にひっそりと鎮座する枚岡神社(ひらおかじんじゃ)

河内国一宮として長い歴史を誇り、地元では古くから篤く信仰されてきました

しかし、その存在は全国ではあまり知られていません
さらに、この枚岡神社が「元春日」と呼ばれ、奈良の春日大社とも深い縁をもつことをご存じの方は少ないでしょう


枚岡神社が「元春日」と呼ばれる理由とは

枚岡神社が「元春日」と呼ばれるのは、奈良の春日大社との深い関わりによるものです

世界文化遺産にも登録されている春日大社は、平城京の守護神として創建され、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売御神(ひめみかみ)の四柱を祀っています

このうち、天児屋根命と比売御神の二柱は、もともと枚岡神社に祀られていた神々であり、春日大社創建の際に分祀されたと伝えられます

こうした経緯から、枚岡神社は「元春日」と称されるようになったのです

春日神と総称されるこれら四柱は、全国の春日神社の祭神として広く祀られています



 

 


神社は多くの日本人の生活・心に根づいていると思います
初詣、七五三など・・・
そんなある意味「身近な」神社についてわかりやすく解説・分析・魅力など

実在が確認できる中国最古の王朝

いまから約3000〜3700年ほど前、黄河中流域に「殷(商)」と呼ばれる古代王朝が存在していた

中国史上、実在が確認されている最古の王朝である

殷は、高度な青銅器文化や独自の文字(甲骨文字)、緻密な占いの体系を発展させた王朝で、長く神話と現実の境界にあったが、20世紀に入って本格的な発掘が始まった

1928年、中国河南省安陽市小屯村にある殷墟(殷王朝後期の都城跡)での調査が始まり、甲骨文字が刻まれた亀甲や獣骨、大量の青銅器、巨大な王墓などが次々に出土
これにより、殷王朝の実在が確実なものとなった

その後、殷墟の発掘が進む中、1984年、小屯村北地の5号宮殿遺跡付近から出土したある青銅製の「大型蒸し器」が、大きな注目を集めた

蒸し器の内部から、なんと「少女の骨」が発見されたのである

一体、なぜ彼女はそこにいたのだろうか

その発見が語りかける殷王朝の知られざる実像を掘り下げていく


青銅蒸し器が語る奇妙な発見

その青銅器は、大型の「甗(げん)」と呼ばれる蒸し器だった

殷代の青銅器といえば、酒を盛る「爵(しゃく)」や、煮炊きに使う「鼎(てい)」が有名だが、この甗(げん)は内部に格子状のすのこが仕込まれ、水蒸気で食材を蒸す構造になっている

大型で精緻な青銅製の甗(蒸し器)の発見は珍しく、宗教儀礼など特殊な用途に用いられていた可能性が高い

しかし、研究者たちを戦慄させたのは、この蒸し器そのものではなかった

内部を調査したところ、そこで見つかったのは少女の頭骨だったのである

骨格の特徴から、10代と推定される少女の頭骨が、蒸し器の内側にほぼ完全な形で残されていたのだ

腐敗を避けるかのように密封されていたこともあり、保存状態は極めて良好だった

この発見は、ただの副葬品では説明できない異様さを帯びており、考古学者たちの間で議論を呼ぶこととなった

何が行われていたのか?生贄儀礼の実態

殷王朝の繁栄の裏には、現代の私たちには到底受け入れがたい儀式があった

神々と祖先の加護を得るため、殷の王たちは牛や羊のみならず、人間すら生け贄として捧げていたのである

蒸し器の内部から見つかった少女の頭骨は、歯の成長段階や骨格の発達状況から、13歳から17歳ほどと推定されている
さらに骨の成分分析によれば、成育環境は良好で、重労働の痕跡も認められないことから、貴族階層に属していたと考えられる

王族に仕える侍女や、陪嫁(ばいか:結婚に際して実家から新郎側に伴われる従者・侍女)として、宮廷に入った少女だった可能性が高い

つまり貧困層ではなく、比較的恵まれた生活を送っていた少女が犠牲にされたのである

さらに歯に含まれる微量元素の分析から、彼女は河南の出身ではなく、遠い沿海部で育った可能性が高いと判断された

この時代、殷の軍隊は沿海地域で大規模な戦争を行い、勝利とともに大量の戦利品と捕虜を獲得している
この少女も、その捕虜の一人であったと考えられている

また、蒸し器の内部には焼け焦げた痕がこびりつき、骨には高温で加熱された痕跡が確認されたことから、少女は生きたまま蒸し器に入れられ、蒸し殺された可能性が高い

動物の骨もあったことから「人と獣をまとめて蒸し上げ、神に捧げる」儀式だったことが推測されている

この「蒸し生贄」の儀礼は、一度きりの異常な事例ではなかったようだ
1999年にも殷墟近郊で、同様の青銅蒸し器と少女の炭化頭骨が発見されている

殷代の人々は鬼神を崇め、壮大な規模の祭祀を執り行っていた

漢代に編纂された儒教の経典『礼記』には殷代の祭祀について

「殷人尊神,率民以事神,先鬼而后禮。」
意訳 : 殷人は神を尊び、民を率いて神に仕え、鬼(祖先神・死者)を優先し、礼(儀礼)を後に置く。

『礼記』礼运篇 より引用

と記されており、最も残虐な祭祀では500人以上の生贄が捧げられたとも伝えられる
殷王墓群全体では、累計で数千人規模の生贄とみられる人骨が確認されている

これらの生贄の多くは捕虜であり、少女もその一人だった
そして彼女は、青銅甗の中で生贄として最後の時を迎えたのである

殷王朝を覆う神権支配の闇

殷王朝の支配は、単なる武力や血筋だけでは成り立っていなかった

殷の王は、神々や祖先の声を聞く者とされていた

実際、殷墟から出土した甲骨文には、日々の生活から国家の大事に至るまで、あらゆる出来事を占っていた記録が膨大に残されている
戦争に出るべきか、作物の種まきはいつ始めるか、王妃の出産は順調に進むのか。すべてが神の意志に委ねられていたのだ

だが、その神託を受け取るのは王だけである。神の声は王を通じてのみ下され、臣民はただ従うしかなかった
神と王が重なり合うこの構造が、王権に絶対性を与えていたのである

そして、この神権支配を象徴していたのが壮大な生贄の儀式だった。人も獣も、血と肉をもって神々を満たす供物とされた
少女たちの命さえ、王権の誇示と国家の安定のために捧げられた

殷の人々にとって、生贄は恐怖というより、日々の祭祀に組み込まれた当然の営みだったのかもしれない
祭祀は神と王とを結びつける神聖な儀礼とされ、その中で誰が犠牲となるかはあまり重要視されなかったようにも見える
こうした苛烈な神権体制のもと、殷王朝は長く繁栄を維持していった

しかしやがて、この血なまぐさい国家文化は次第に社会の内部を蝕み、殷王朝を滅亡へと導く遠因となっていったのである

参考 : 『礼記・礼运篇』『带人头的单体甗:殷墟青铜蒸饭器里的古少女』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

実在が確認できる中国最古の王朝

いまから約3000〜3700年ほど前、黄河中流域に「殷(商)」と呼ばれる古代王朝が存在していた

中国史上、実在が確認されている最古の王朝である

殷は、高度な青銅器文化や独自の文字(甲骨文字)、緻密な占いの体系を発展させた王朝で、長く神話と現実の境界にあったが、20世紀に入って本格的な発掘が始まった

1928年、中国河南省安陽市小屯村にある殷墟(殷王朝後期の都城跡)での調査が始まり、甲骨文字が刻まれた亀甲や獣骨、大量の青銅器、巨大な王墓などが次々に出土
これにより、殷王朝の実在が確実なものとなった

その後、殷墟の発掘が進む中、1984年、小屯村北地の5号宮殿遺跡付近から出土したある青銅製の「大型蒸し器」が、大きな注目を集めた

蒸し器の内部から、なんと「少女の骨」が発見されたのである

一体、なぜ彼女はそこにいたのだろうか


この「少女の骨」などの発見は当時の死生観、思想観などをうかがえる

殷王朝を覆う神権支配の闇

殷王朝の支配は、単なる武力や血筋だけでは成り立っていなかった

殷の王は、神々や祖先の声を聞く者とされていた

実際、殷墟から出土した甲骨文には、日々の生活から国家の大事に至るまで、あらゆる出来事を占っていた記録が膨大に残されている
戦争に出るべきか、作物の種まきはいつ始めるか、王妃の出産は順調に進むのか。すべてが神の意志に委ねられていたのだ

だが、その神託を受け取るのは王だけである。神の声は王を通じてのみ下され、臣民はただ従うしかなかった
神と王が重なり合うこの構造が、王権に絶対性を与えていたのである

そして、この神権支配を象徴していたのが壮大な生贄の儀式だった。人も獣も、血と肉をもって神々を満たす供物とされた
少女たちの命さえ、王権の誇示と国家の安定のために捧げられた

殷の人々にとって、生贄は恐怖というより、日々の祭祀に組み込まれた当然の営みだったのかもしれない
祭祀は神と王とを結びつける神聖な儀礼とされ、その中で誰が犠牲となるかはあまり重要視されなかったようにも見える
こうした苛烈な神権体制のもと、殷王朝は長く繁栄を維持していった

しかしやがて、この血なまぐさい国家文化は次第に社会の内部を蝕み、殷王朝を滅亡へと導く遠因となっていったのである


 

 


殷は、実在が確認できる中国最古の王朝である
殷は、高度な青銅器文化や独自の文字(甲骨文字)、緻密な占いの体系を発展させた王朝で、長く神話と現実の境界にあったが、その後の発掘や科学の進歩などで実在などがわかってきた

「水戸黄門」という名を聞いて、どのような人物像を思い浮かべるだろうか

世間一般の人が考えるであろう「悪事や悪人を決して許さない正義の人」「尊い身分を笠に着ず弱者に優しい好好爺」などのイメージは、時代劇や講談で人気を博した創作話に由来するものだ

水戸黄門のモデルとなった常陸水戸藩第2代藩主・徳川光圀もまた、日本の文化と学問の発展にも寄与した偉人として知られている

しかし、実は若い頃はとんでもない「不良少年」だったばかりか、藩主になった後も数々の常識外れな行動をしていたという逸話が多い

堕胎されかけた庶子の立場から水戸徳川家当主になった、「水戸黄門」のモデル・徳川光圀の波乱の生い立ちや破天荒な逸話に触れていきたい


生まれる前に父に殺されかけた光圀

光圀がこの世に生を受けたのは、1628年7月11日のことだ

父は徳川家康の十一男であり、常陸水戸藩初代藩主の徳川頼房、母は佐野藩士・谷重則の長女・久子(後の久昌院)であった

久子はもとは頼房の奥向きを務める侍女であり、正式な側室ではなかったが、やがて寵愛を受けて懐妊するようになる
光圀の誕生に先立つ6年前にも、久子は頼房の子・松平頼重を出産していた

この頃には高瀬局と呼ばれるようになっていたが、正規の側室の扱いではなかった
実は頼房は、頼重の時も光圀の時も、妊娠した久子の身を重臣の三木之次(みき ゆきつぐ)に預けた上で、堕胎させるように命じている

頼房が堕胎命令を出した真の理由は不明だが、一説には大名の一夫一婦制を推進する江戸幕府の方針に、違反する可能性があったことが原因とも考えられている

『義公遺事』によれば、光圀自身はこう回想している
母・久子が懐妊した際、母の実母である養心院や、すでに頼房の寵愛を受けていた側室のお勝の方が激しく憤慨したことが原因となり、さらに久子自身に十分な後ろ盾がなかったため、父は堕胎を命じたのではないか、と考えていたようである

しかし三木之次の妻であり、頼房の乳母でもあった武佐(むさ)は、久子の最初の妊娠の際に密かに久子を匿った

江戸麹町にあった三木家の別邸で出産させ、生まれた頼重は、まず三木夫妻のもとで養育され、その後、公卿・滋野井季吉に預けられている

続く光圀の出産時も、武佐は同じように久子を匿い、今度は水戸城下にあった三木家の本邸で出産させた

つまり光圀は、三木夫妻の孫として密かに育てられたのである

幼児時代に常陸水戸藩の世嗣となる

三木家で密かに育てられていた光圀が、公に頼房の子として認められ、水戸城に迎え入れられたのは1632年のことである

この年は、大御所として幕政の実権を握っていた徳川秀忠が死去し、頼房を実兄以上に信頼していた第3代将軍・家光の親政が本格的に始まった年でもあった

父との正式な対面を果たした光圀は、まもなく常陸水戸藩の世嗣に定められ、江戸小石川の水戸藩邸で世子教育を受けることになる

8歳の頃には早くも元服し、家光から偏諱を与えられて「光国」と名乗るようになった(※後に「光圀」と改める)

その年には、水戸徳川家の最古参家臣であり、三木夫妻の娘婿でもある伊藤友玄を筆頭に、3人の傅役(教育係)が付けられた
さらに、最上義光の四男で水戸藩家老職に就いていた山野辺義忠からも教えを受けることとなった

幼い光圀に施された世子教育はスパルタで、現代であれば児童虐待と見なされかねない苛烈なものだったと伝わる

「夜中にひとりで罪人の首を持ち帰る」「遺体や汚物が浮かぶ川を泳いで渡る」など、胆力を養うために極端な試練が課せられたという

こうした過酷な教育を、持ち前の胆力で乗り越えていった光圀だったが、一方で、母を同じくする兄を差し置いて世嗣に選ばれた自身の立場に、複雑な感情も抱いていた

やがて思春期を迎える頃には、大人たちも手を焼くほど素行が荒れ、周囲が抑えきれないほどにグレてしまっていたのだ

不良少年になった光圀の非行

ここからは、若き日の光圀にまつわる「非行伝説」とされる数々の逸話を紹介していこう

お供の助さん格さんではなく不良仲間を引き連れて、派手な服装に身を包んで江戸の町をぶらつくようになった光圀は、ある時、仲間とともに町内で開催されていた相撲大会に乱入した

腕っぷしと負けん気の強さを誇っていたはずの光圀一行だったが、仲間たちは相撲で次々と負けてしまい、それに大いに腹を立てた光圀は刀を振り回して大暴れしたという

さらに10代中盤にして吉原遊郭に入り浸って女遊びを覚え、屋敷に戻ればまだ幼い異母弟たちに対して、女の悦ばせ方を得意げに教えたりもした

少年時代の光圀の問題行動の中でも、特に異彩を放っているのが「辻斬り」だ

武士が無実の人間を刀で斬りつける行為は、光圀が生まれる以前の1602年から、幕府により厳しく禁じられ死刑に値する罪とされていた

だが晩年の光圀の侍医であった井上玄桐は、本人から聞いた話として『玄桐筆記』に光圀の辻斬りの話を記している

いつものように江戸の町を肩で風を切って出歩いていた光圀一行は、夜更けに屋敷に帰ろうとする途中で、休憩するために浅草の堂に寄った

そこで仲間が「堂の縁の下で寝ている奴を引きずり出して、試し斬りをしてみよう」と言い出したのだ

光圀は「罪のない人間を斬るわけにはいかない」と断ったが、仲間は臆病者と光圀を嘲った

武士のプライドを傷つけられて挑発に乗った光圀は、堂の下から4、5人の人間を引きずり出し、嫌々ながらもそのうちの1人を斬り殺してしまったのだ

光圀はこの出来事以降、辻斬りを勧めてきた仲間とは絶交したという

18歳で『史記』に出会い勉学に目覚める

光圀の荒れっぷりには、家臣たちも大いに悩まされた

傳役の1人である小野言員は、光圀が16、17歳の時に『小野諫草』という諫言の書を著し、光圀をいさめたという

父の頼房も、熱海に湯治に行く際に光圀を連れていき、簡単には逃げ出せない旅先で厳しく叱責したが、反抗期真っ最中の光圀少年にとってはそんなものはどこ吹く風で、非行を一切改めようとはしなかった

しかし光圀が18歳の時、転機が訪れた
古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』の「伯夷伝(はくいでん)」を読み、その内容に大きな感銘を受けたのだ

伯夷伝は、殷代末期の孤竹国の公子兄弟をめぐる故事を伝えている
孤竹国君主の三男である叔斉(しゅくせい)は、長男の伯夷(はくい)を差し置いて、父の遺言によって位を譲られることになった

兄の伯夷は、父の遺言に従って弟の叔斉に位を継がせようとしたが、叔斉は弟である自分が兄に先んじるわけにはいかないと、伯夷に位を継いでもらうことを願った

しかし伯夷は、父の遺言を守るために国を捨てて出奔してしまった
すると叔斉も、兄を追いかけて国を出て行ってしまったのだ

結局、位は残された次男が継ぐことになった

儒教で聖人とされる、この高潔な兄弟の姿に、光圀は自分自身の境遇を重ね合わせた

父・頼房の三男として生まれながら、長男の兄・頼重を差し置いて世嗣となった自らの立場と重ねたのである(なお、次男は光圀の誕生前に夭折している)

そしてそれからの光圀は、愚行を改めて悪い仲間とは縁を切り、将来は兄の子に跡を継がせると心に決め、人が変わったように勉学に打ち込むようになっていったのだ。

1657年、明暦の大火をきっかけに、光圀は後世に残る日本の歴史書を編纂しようと決意する

移り住んだ駒込別邸に史局を設け、当初『国史』などとも呼ばれた『大日本史』の編纂事業を始めた

父と同じく「妊娠した妾の堕胎」を命じる

「伯夷伝」との出会いで学問に目覚め行いを改めた光圀だったが、元々の激しい性格がそれで矯正されたわけではなかった。

1652年頃、光圀の側仕えをしていた侍女・弥智(いやち)が、光圀の子供を身籠ってしまう。

正室を迎える前であり、さらには18歳の時から兄の子を跡継ぎとすることを心に決めていた光圀にとって、弥智の妊娠は非常に都合が悪かった。

そこで光圀は、身重の弥智を家臣の伊藤友玄に預けたが、その際に弥智の堕胎を命じたとも伝わっている。

奇しくも、光圀は父・頼房と同じ失敗を犯し、同じ行動を取ることになった。
だが、生まれてくる子もまた、かつての頼重や光圀自身と同じように、秘かに匿われる境遇に置かれることになる。

家臣の伊藤友玄は、かつての三木夫妻と同じように、頼重と相談したうえで弥智を秘密裏に匿い、江戸小石川の自邸で出産させた。

生まれた男子は頼重のもとに養子として迎えられ、高松城で育てられた。
そして後に、讃岐国高松藩の第2代藩主・松平頼常となる。

正式に認知された子はこの頼常のみであり、後に光圀は水戸徳川家の跡継ぎとして、兄・頼重の長男と次男を養嗣子に迎えている。

生涯破天荒だった光圀

1661年8月、父・頼房の死去により光圀は常陸水戸藩の藩主となった

就任後は領内の水道整備や寺社改革に力を注ぎ、とくに神仏分離を徹底する寺社政策を断行している

一方で、時の将軍・徳川綱吉が推し進めた「生類憐みの令」には従わず、堂々と獣肉を食べていたという
豚肉で出汁をとったうどんを得意料理として客人や家臣にふるまうこともあり、綱吉に野犬数十匹の毛皮を献上したという俗説まで生まれている

さらに蝦夷地への関心も強く、藩で巨船「快風丸」を建造させ、幕府の正式な許可を得ないまま三度にわたる探検を命じた
最後となった三度目の航海では石狩まで到達し、大量の塩鮭や熊、ラッコ、トドの皮などを持ち帰ったと伝えられている

光圀が編纂を始めた『大日本史』は、後世の歴史学に大きな影響を与えることになるが、その一方で膨大な費用が水戸藩の財政を圧迫し、領民や家臣たちは光圀の死後も長く重い負担に苦しむことになった

隠居後も活動は続き、古墳の発掘調査を行わせたほか、天皇の忠臣・楠木正成を顕彰する石碑を湊川に建立させている

さらに隠居後に江戸へ上った際には、小石川藩邸で催された能の席で家老の藤井紋太夫を呼び出し、説教の末に刺殺し、そのまま能の舞台に出ていったという逸話も残されている

『史記』との出会いを契機に藩主としての自覚は育ったものの、光圀の破天荒な気質は、生涯を通じて変わることはなかったようだ

“水戸黄門”人気は政治と関連していた?

「水戸黄門」という名が広く知られるようになったのは、幕末期のことである

講談『水戸黄門漫遊記』が人気を集め、以後もさまざまな作品で描かれるようになっていった

一方、光圀が主導した『大日本史』の編纂事業を通じて形成された「水戸学」は、尊皇攘夷思想に影響を与え、討幕運動や明治維新の思想的原動力となった
実際、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父は、光圀から七代後の常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭である

「天下の副将軍こと水戸黄門」を主人公とする講談が庶民の人気を博した背景には、慶喜を将軍に推す斉昭の政治的意図があったという説もある

フィクションの「水戸黄門」では、隠居後に家臣を従えて諸国を巡る姿が描かれているが、実際の光圀は隠居後、久慈郡の西山荘に籠もり、『大日本史』の編纂に心血を注ぎ続けた
そのまま同地で最期を迎えている

伝説の「水戸黄門」とは異なり、常陸の山奥で余生を過ごした光圀であったが、幕末期以後の日本に大きな影響を与えた人物であることは間違いないと言えるだろう

参考 :
泉秀樹 (著)『水戸黄門の素顔 漫遊記の虚と実』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

徳川光圀はテレビなどの「水戸黄門」で知られる
「大日本史」を編纂した人物・・・

しかし、若い頃はかなりの「不良」だったようだ


生涯破天荒だった光圀

1661年8月、父・頼房の死去により光圀は常陸水戸藩の藩主となった

就任後は領内の水道整備や寺社改革に力を注ぎ、とくに神仏分離を徹底する寺社政策を断行している

一方で、時の将軍・徳川綱吉が推し進めた「生類憐みの令」には従わず、堂々と獣肉を食べていたという
豚肉で出汁をとったうどんを得意料理として客人や家臣にふるまうこともあり、綱吉に野犬数十匹の毛皮を献上したという俗説まで生まれている

さらに蝦夷地への関心も強く、藩で巨船「快風丸」を建造させ、幕府の正式な許可を得ないまま三度にわたる探検を命じた
最後となった三度目の航海では石狩まで到達し、大量の塩鮭や熊、ラッコ、トドの皮などを持ち帰ったと伝えられている

光圀が編纂を始めた『大日本史』は、後世の歴史学に大きな影響を与えることになるが、その一方で膨大な費用が水戸藩の財政を圧迫し、領民や家臣たちは光圀の死後も長く重い負担に苦しむことになった

隠居後も活動は続き、古墳の発掘調査を行わせたほか、天皇の忠臣・楠木正成を顕彰する石碑を湊川に建立させている

さらに隠居後に江戸へ上った際には、小石川藩邸で催された能の席で家老の藤井紋太夫を呼び出し、説教の末に刺殺し、そのまま能の舞台に出ていったという逸話も残されている

『史記』との出会いを契機に藩主としての自覚は育ったものの、光圀の破天荒な気質は、生涯を通じて変わることはなかったようだ

“水戸黄門”人気は政治と関連していた?

「水戸黄門」という名が広く知られるようになったのは、幕末期のことである

講談『水戸黄門漫遊記』が人気を集め、以後もさまざまな作品で描かれるようになっていった

一方、光圀が主導した『大日本史』の編纂事業を通じて形成された「水戸学」は、尊皇攘夷思想に影響を与え、討幕運動や明治維新の思想的原動力となった
実際、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父は、光圀から七代後の常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭である

「天下の副将軍こと水戸黄門」を主人公とする講談が庶民の人気を博した背景には、慶喜を将軍に推す斉昭の政治的意図があったという説もある

フィクションの「水戸黄門」では、隠居後に家臣を従えて諸国を巡る姿が描かれているが、実際の光圀は隠居後、久慈郡の西山荘に籠もり、『大日本史』の編纂に心血を注ぎ続けた
そのまま同地で最期を迎えている

伝説の「水戸黄門」とは異なり、常陸の山奥で余生を過ごした光圀であったが、幕末期以後の日本に大きな影響を与えた人物であることは間違いないと言えるだろう


 

 


テレビでおなじみ、天下の副将軍「水戸黄門」
しかし助さん格さんと悪を懲らしめて全国を漫遊した話は完全な創作
人生最大の旅は、鎌倉までの往復のみ
では、全国漫遊伝説はいかに生まれたのか?
本書では、資料が語る光圀の人生を追いながら、その思想と行動が後世に与えた影響を大胆に考察する
出生の秘密、グレた少年期、藩主としての光と影、隠居後の優雅な生活まで、偶像ではない「人間くさい水戸黄門像」をあぶりだす

「人造人間」、すなわち人型ロボットは、SF作品ではおなじみの存在である

現実の技術で、自ら考え行動する完璧な人造人間を作り出すことは、おそらく未来永劫不可能だろう
だが、太古の神話や伝承には、現代人も驚くような精巧さと自我を備えた人造人間が登場することがある

そうした神話に描かれた驚異のメカニズムについて解説していく


1.ゴーレム

ゴーレム(golem)といえば、ゲーム等ではお馴染みの動く巨像のモンスターであるが、元々はユダヤ教の伝説に登場する人造人間である

ゴーレムの作り方は、まずラビ(ユダヤ教の聖職者)が祈祷を行った後、泥をこねて人形を作る
その額に「emeth」と記された札を張り付けることで、泥人形にみるみる生命力が生じ、ゴーレムが完成するとされる

ゴーレムは製作者の命令を忠実に遂行する下僕であるが、扱いが非常に難しく、その運用には細心の注意を払う必要があるという

エリヤ・バールシェム(推定1570~1583年)というラビが使役していたゴーレムは、時が経つにつれ、身長がどんどん伸びていったそうだ

このままでは宇宙を飲み込むほど巨大化してしまうのではないかと危惧したエリヤは、ゴーレムの抹殺を決意する

方法は、札に書かれた「emeth」の頭文字の「e」を消し「meth」にすることである
「meth」は死を意味する言葉であり、こうすることでゴーレムの生命力を断ち、破壊することができるとされている

しかし死への恐れからか、ゴーレムはエリヤに反逆し、その顔に引っかき傷をつけたという

また、別の伝承によるとゴーレムは滞りなく破壊されたが、その瓦礫に押しつぶされエリヤも死んでしまったと伝えられている

イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル(1525~1609年)というラビが使役していたゴーレムは、姿を自在に消したり、死者の魂を呼び出す神通力を持っていたと伝えられている

ユダヤ・キリスト教の伝統には「安息日」という労働を禁じる日が存在する
安息日にはいかなる理由があっても労働は許されず、違反すれば厳しい罰則を受ける場合もある

ゴーレムも例外ではなく、安息日を迎える前夜には額の札を外して停止させるのが慣例であった

ところがある時、レーヴはその札を外し忘れていたことに、安息日の直前になって気づいた
もしゴーレムを働かせたまま安息日を迎えたとなれば、どのような罰を受けるか分かったものではない
加えて、ゴーレムが怒り狂って反逆する危険もあった

慌てたレーヴは急ぎ札の「e」を消し去り、ゴーレムを塵と化したと伝えられている

2.ガラテア

ガラテア(Galatea)はギリシャ神話に登場する、人間に生まれ変わった彫像である

詩人オウィディウス(紀元前43~紀元後17or18年)が著した『変身物語』にて、その存在が言及されている

かつて地中海のキプロス島は、「ピグマリオン」という王により治められていたという
彼は、人間の女性を軽蔑していたと伝えられている

当時キプロス島では売春が横行しており、金のために平気で体を売る女の尻軽さに、ピグマリオンは心底うんざりしていたそうだ

憂さ晴らしのため、象牙を素材に彫刻を始めたピグマリオンだったが、思いがけず見事な女性像を彫ることに成功した

この像があまりにも美しかったためピグマリオンは恋をし、寝食を共にするようになった
像は無機物でしかないため、当然何も反応はしてくれない
だがそれでも、ピグマリオンはかまわず愛を注ぎ続けた

この異常な光景を見かねた愛の女神「アフロディーテ」は、像に生命を与えることにしたという

ピグマリオンは大喜びで彼女を妻に迎え入れ、二人は末永く幸せに暮らしたとされる

3.モックルカールヴィ

モックルカールヴィ(Mökkurkalfe)は、ゲルマン民族の伝承、いわゆる北欧神話に登場する人造人間である

アイスランドの詩人、スノッリ・ストゥルルソン(1178~1241年)が記した『散文のエッダ』にて、その存在が言及されている

(意訳・要約)

ある時、雷神「トール」と巨人「フルングニル」が、決闘をすることになったそうだ。

※参考記事
『酒に敗れた神話の怪物たち』酒呑童子、ポリュペモス、フルングニルの伝承
https://kusanomido.com/study/fushigi/story/102696/#3

フルングニルは巨人たちの中でも屈指の実力者であり、滅法強かった。

だがトールは、北欧神話最強の存在と謳われる存在であり、いかにフルングニルといえど勝ち目は薄い。
そこで仲間の巨人たちは、粘土をこねて巨大な人形を作り、さらに雌馬の心臓を移植することで生命を与え、人造人間「モックルカールヴィ」を生み出したのである。

モックルカールヴィは身長が約72kmほどもある、とてつもない巨体であった。
ところが性格は極めて臆病であり、決戦場に現れたトールを見た途端、恐怖で心臓は震え、挙句の果てに失禁するという体たらくであった。

決戦はトールが勝利し、フルングニルは討ち取られた。

モックルカールヴィはというと、トールの従者である「シャールヴィ」により、いつの間にか殺されてしまっていたという。

こうして見ていくと、神話に登場する人造人間たちは、現代のSFに通じる発想や、人間の創造願望を色濃く反映していることがわかる

人類は古代から、命を作り出すという「神の領域」に憧れ続けてきたのかもしれない

参考 :『Israel der Gotteskampfer der Baalschem von Chełm und sein Golem』『散文のエッダ』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)
 

「人造人間」、すなわち人型ロボットは、SF作品ではおなじみの存在である

現実の技術で、自ら考え行動する完璧な人造人間を作り出すことは、おそらく未来永劫不可能だろう
だが、太古の神話や伝承には、現代人も驚くような精巧さと自我を備えた人造人間が登場することがある


神話に登場する人造人間たちは、現代のSFに通じる発想や、人間の創造願望を色濃く反映していることがわかる

人類は古代から、命を作り出すという「神の領域」に憧れ続けてきたのかもしれない



 

 


良心回路を持つ人造人間ジローは、人の心を持ちながら機械ゆえに苦悩する
巨匠の傑作SF!
人造人間とえば私の子供の頃は「キカイダー」でしたね