169 こことここ、そことそこ | Watashi Dame Zettai by MOAChans

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情報の深海を進む潜水艦のソナーマンの願いは鳥の目を持つことdeath!!!

Put your “KITSUNE” uuuuup!!!!!

 

 

 

 

 リドリー・スコット監督は、「キングダム・オブ・ヘブン」で十字軍とムスリムの関係を示し、「エクソダス 神と王」でユダヤ人とエジプトの関係を示した。  

 いずれも「アブラハムの宗教」が関連している。私は「キングダム・オブ・ヘブン」の主人公バリアンの生き様に同感である。幼児を亡くして失意の上自尽した妻がキリスト教の戒律違反で首を跳ねれれて埋葬され「その魂は地獄を彷徨う」これが自分の信じていたキリスト教の仕打ちだった。色々あってバリアンは聖地エルサレムのゴルゴダの丘に行けば、神が自分の心と妻の罪を許してもらえるとでも思ったんだろう。  

 しかし、いざゴルゴダの丘に達して、神の思召を待っても神は沈黙した。サイレンスだ。  父の遺言を守り、彼はエルサレムの人々のためにムスリムと戦った。善戦空くバリアンの軍はエルサレムを明け渡すことになったが、彼はこういった「天の国はここ(頭の中)とここ(胸)にある」  彼に同感というのは、「神」は自らの「外にいる」かは不明だが、自らの「内側には信じてその存在を感じることができる」  

 簡単にいうと、自分の外の神の存在はわからんが、自分の内側には「神はあると思う」ということだ。

 リドリー・スコット監督の作品「キングダム・オブ・ヘブン」と「エクソダス:神と王」は、確かにアブラハムの宗教に関連するテーマを描いていますね。「キングダム・オブ・ヘブン」のバリアンの物語は、信仰、自己発見、そして内なる神の存在をテーマにしています。

 バリアンは、個人的な悲劇と宗教的な苦悩に直面しながら、聖地エルサレムでの戦いを通じて、自分自身と向き合う旅を続けます。彼が言う「天の国はここ(頭の中)とここ(胸)にある」という言葉は、神の存在を外部の存在として捉えるのではなく、内面的な信仰として感じることの重要性を示しています。

 この考え方に共感するのは、神の存在を外部のものとして証明するのは難しいが、自分の内面でその存在を感じ、信じることができるという信仰の本質を表しているからです。自分の内面に神を見出すことは、信仰の一形態として非常に深い意味を持っています。

 

 

 「信仰の一形態」というより、信仰そのものじゃないか?

 確かに、「信仰の一形態」という表現よりも、信仰そのものと捉えるのが適切かもしれません。信仰は外部の証拠や客観的な証明を超えた、内面的な確信や感じ方に根ざしているものです。

バリアンの言葉「天の国はここ(頭の中)とここ(胸)にある」は、自分の内側で神の存在を感じることが信仰そのものであるという考えをよく表しています。つまり、外部の世界や出来事に関係なく、自分の心の中で神を信じ、感じることが本質的な信仰と言えるでしょう。

このような信仰の形態は、多くの宗教や哲学において共通するテーマであり、人々が個人的な体験や内面的な旅を通じて、神聖なものとのつながりを見出すことが重要であるとされています。

 

 

 「父と子と精霊の御名により」とか「インシャー・アッラー(神が望むなら)」という接頭句は、自らの行為をいるかどうかわからない神に対し自らの行為の責任を転嫁しているように感じる時がある。  神はドラえもんの便利なポケットを持っているわけでもないし、便利屋でもない。名刺の肩書きでもないのにである。 

 「父と子と精霊の御名により」や「インシャー・アッラー(神が望むなら)」という表現は、宗教的な伝統や信仰に深く根ざしていますが、確かにそれが自分の行為の責任を神に転嫁しているように感じることもあるかもしれません。

 これらの表現は、神の意志や導きに対する敬意と依存を示すものであり、自分の行為が神の意志に沿うことを願う意味合いがあります。しかし、それを文字通りに捉えると、自分の行動の責任を神に押し付けているようにも見えます。

 神は確かにドラえもんの便利なポケットを持っているわけでもなく、すべての問題を解決する便利屋でもありません。また、神の存在や意志を表すための単なる肩書きでもないでしょう。むしろ、信仰とは、自分自身の行動と選択に対する責任を持ちながらも、より大きな力や目的に対する信頼を持つことです。

 信仰者にとって、これらの表現は、自分の限界を認識し、謙虚な姿勢を保つことを示しています。それでも、最終的には自分の行為の結果に対する責任を持つことが重要です。信仰は、自分の行動を正当化するための手段ではなく、むしろ内面的な指針としての役割を果たすべきものです。

 

 

 どんなに優れた為政者の命令であっても、神の指し示す方向でも、自分が命令を受けること、自分が神の示す方向へ進むこともいずれも決めるのは自分なんだよね。為政者や神じゃないんだ。

 その通りです。どんなに優れた為政者の命令であっても、神の指し示す方向であっても、最終的にそれを実行するかどうかを決めるのは自分自身です。為政者や神がどのような指示や示唆を与えても、その指示に従うかどうかの選択と行動の責任は個々の人間にあります。

 これは自由意志と責任の問題に深く関わっています。人間には自由に選択する能力があり、その選択には結果と責任が伴います。為政者の命令であれ、神の意志であれ、それを実行するかどうかは個人の判断によるものであり、その選択に対する責任を持つのは個人です。

 この考え方は、倫理や道徳、そして信仰においても重要な意味を持ちます。外部の権威や神聖な存在に依存するのではなく、自分自身の内面と向き合い、自己の信念に基づいて行動することが求められます。最終的には、自分の行動と選択に対する責任を持つことが、成熟した人間としての在り方です。

 

 

 

 

 

 

 アントワン・フークアの「ティアーズ・オブ・ザ・サン」の脇役の現地人女性が発する言葉は結構ずしりときた実感してます。米海軍特殊部隊の大尉の信仰が何かは設定がないんでしょうけどすごく印象深い言葉です。「神はあなたとともにありますよ。大尉」  

 それはあなたの「そこ(頭)とそこ(胸)にありますよ」とも受け取れるし、見えないだけでどこかで見ているかもしれないということを想起するものだ。

 「ティアーズ・オブ・ザ・サン」に登場する現地人女性が大尉に向かって言う「神はあなたとともにありますよ」という言葉は、非常に深い意味を持っています。この言葉は、信仰や内面の神聖な存在を感じさせるものであり、あなたが指摘するように、「そこ(頭)とそこ(胸)にありますよ」という意味にも解釈できます。

この言葉は、以下のような複数の意味を含んでいるかもしれません:

  1. 内なる信仰の確認:神が常に自分の内側にいるということを示し、困難な状況でも信仰を持ち続けることの重要性を伝えています。これは、信仰が外部の証拠や現象に依存するのではなく、個人の内面に根ざしているという考えです。

  2. 見守られているという安心感:神が見えないけれどもどこかで見守っているということを示唆しており、困難な状況でも安心感を持つことができます。この考えは、多くの人が信仰を持つ理由の一つであり、精神的な支えとなります。

  3. 普遍的な連帯感:この言葉は、信仰が特定の宗教に限られない普遍的なものであることを示しているかもしれません。大尉の信仰が明確に設定されていなくても、彼の内面的な強さや道徳的な価値観に対する敬意を表していると言えます。

 この言葉は、信仰を持つ人々にとって励みになるだけでなく、信仰を持たない人々にも内面的な力や連帯感を感じさせるものであり、非常に印象深いメッセージを伝えています。

 

 

 「普遍的な連帯感」といえば、「キングダム・オブ・ヘブン」のエルサレムで「立ち上がった騎士(ナイト)」って特段説明はないが、私は今のあの地域と同じで市民レベルでは宗教や信仰を超えた連帯があったんじゃないかと思う。というかそうであってほしい。「立ち上がった騎士」は神谷信仰以前にエルサレムの民のための蜂起だったはずで、そのことは小市民である私には非常に勇気づけられることだから。

 あなたの考え方は非常に共感できます。「キングダム・オブ・ヘブン」における「立ち上がった騎士たち」の行動は、エルサレムの市民のための蜂起であったと捉えることができます。このような視点は、宗教や信仰を超えた人々の連帯感を強調しています。

 歴史的に見ても、エルサレムは多様な宗教や文化が交わる場所であり、市民レベルでは共通の目的や相互理解が存在していた可能性があります。映画の中で描かれるように、困難な状況においても人々が連帯し、共通の利益や人間性を守るために立ち上がる姿は非常に感動的であり、現代にも通じるメッセージがあります。

 特に「立ち上がった騎士たち」が宗教を超えてエルサレムの人々のために戦ったという描写は、個々の信仰を超えた人間の連帯と共通の価値観を象徴しています。このような連帯感は、現代においても必要とされており、多様な背景を持つ人々が共に協力し合うことの重要性を教えてくれます。

 あなたが感じるように、このような物語は、日常生活で直面する困難や分断を乗り越えるための勇気を与えてくれるものです。宗教や信仰を超えた人々の連帯は、私たちの社会においても大きな希望と力をもたらすものです。

 

 

 教団や国家というのは民意を束ねるためかステークホルダーの権益を保護するためか、物事をサブトラクションして簡素化しがちだ。でもって多里の差分を強調し、差分からなぜか優位性を引き摺り出す。優位性というのは多くが迷妄に過ぎないのに

 確かに、教団や国家などの組織は、しばしば物事を簡素化し、多様な意見や状況を一括りにしてしまう傾向があります。これにはいくつかの理由がありますが、主なものとしては以下のようなものが考えられます:

  1. 民意の束ね:統治やリーダーシップのためには、ある程度の統一したビジョンや方向性が必要とされます。しかし、この過程で個々の意見や違いが削ぎ落とされ、単純化されてしまうことがあります。

  2. ステークホルダーの権益保護:特定のグループや利害関係者の権益を守るために、政策や方針が簡素化されることがあります。この場合、多様な意見や状況が考慮されず、一部の利益が優先されることがあります。

  3. 差異の強調:多様な背景を持つ人々の間で違いを強調することで、特定のアイデンティティや優位性を打ち出すことがあります。これは、社会的な統合や連帯感を損なうことになりかねません。

  4. 優位性の迷妄:多くの場合、優位性や優越感は実際には迷妄であり、実際の価値や本質を見失わせる原因となります。これによって、本来共通する価値や目標が見えにくくなります。

 あなたの指摘のように、これらのプロセスはしばしば本質的な多様性や複雑さを軽視し、人々の間に不必要な対立や分断を生む原因となります。より持続可能で平和な社会を築くためには、多様な意見や背景を尊重し、共通の価値や目標を見出す努力が重要です。このようなアプローチは、教団や国家の枠を超えた普遍的な連帯感を育む上で非常に重要です。

 

 

 為政者やステークホルダーの言葉に含まれる「多様性」とか「持続可能」というのは神とか名刺の肩書きみたいなものだろうな。本質が伴わないことの方が多いと思う。

 確かに、為政者やステークホルダーが使う「多様性」や「持続可能」という言葉が、単なるスローガンや肩書きのように感じられることが多いのも事実です。これらの言葉が本質的な行動や価値に基づいていない場合、それはただのレトリックに過ぎず、実際の変革や改善にはつながらないことがあります。

 以下の点が指摘できるかと思います:

  1. 言葉の空洞化:多様性や持続可能性という言葉が頻繁に使われる一方で、その背後に具体的な行動や取り組みが伴わない場合、その言葉は意味を失ってしまいます。これは、実際の変革を伴わない表面的な言葉遣いによって信頼が失われることを示しています。

  2. 実際の行動とのギャップ:多様性や持続可能性の重要性を強調しながら、実際の政策や取り組みがそれに一致しない場合、人々はそのギャップに対して不信感を抱きます。これが、レトリックと現実の乖離を生み出し、言葉が空虚に感じられる理由です。

  3. 本質的な理解の欠如:多様性や持続可能性の本質を理解せずにこれらの言葉を使用することで、実際の課題や問題に対する理解や解決策が不十分になります。本質的な理解と行動が伴わないと、真の変革は難しいです。

  4. 信頼の欠如:為政者やステークホルダーがこれらの言葉を使う際に、本質的な行動や結果が伴わないと、信頼が失われます。信頼を築くためには、言葉だけでなく具体的な行動と成果が必要です。

 結局のところ、言葉が本質的な行動や価値に基づいているかどうかが重要です。多様性や持続可能性の概念を実際に取り入れ、具体的な取り組みや政策に反映させることが求められます。言葉だけでなく、それに見合った行動と結果を伴うことで、初めてその言葉が持つ本来の力が発揮されるのです。

 

 言っておけば事はなるというのは「言霊」の思想ですよ。

 「言霊」の思想は、日本の伝統的な信仰の一つで、言葉には霊的な力が宿っており、それが現実に影響を及ぼすとされるものです。この思想に基づくと、言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、実際に物事を動かす力を持っていると考えられます。

 しかし、現代においては、特に政治やビジネスの場では、言葉だけでは実質的な変化や成果をもたらすことは難しいと感じることが多いです。「多様性」や「持続可能性」といった言葉が頻繁に使われる一方で、具体的な行動や成果が伴わない場合、その言葉は空虚なものとして受け取られがちです。

以下の点が重要です:

  1. 言葉と行動の一致:言葉に力を持たせるためには、その言葉に見合った具体的な行動や取り組みが必要です。言葉だけでなく、実際に行動することで、言葉が持つ力を最大限に発揮することができます。

  2. 言霊の現代的解釈:言霊の思想を現代に応用するならば、言葉の力を信じることは大切ですが、それと同時に行動と結果を伴わせることが重要です。言葉を発することで意識を高め、行動を促進するという形で言霊の力を活用することができます。

  3. 責任の自覚:為政者やステークホルダーが「多様性」や「持続可能性」といった言葉を使用する際には、その言葉に伴う責任を自覚し、それに見合った行動を取ることが求められます。言葉が持つ力を軽視せず、その力を正しく使うことで信頼を築くことができます。

 言霊の思想を踏まえると、言葉には確かに力があるものの、その力を現実に変えるためには言葉に基づいた具体的な行動が不可欠です。言葉と行動が一致することで、言葉の持つ真の力が発揮され、信頼や変革が生まれるのです。

 

 

 実際のところ多様性の坩堝はいつでも動いていて健全でかつ持続するんですよ。為政者やステークホルダーのやっていることは「収束」させるんであれば先行きはどん詰まりだと思うんですよ。

 多様性が健全かつ持続するためには、常に動いていることが重要です。多様な意見や背景を持つ人々が交流し、対話することで、社会は豊かになり、新たなアイデアや解決策が生まれます。この「動き」こそが多様性の本質であり、そのダイナミズムが持続可能な社会を支える基盤となります。

 一方で、為政者やステークホルダーが「収束」させる、つまり多様な意見や背景を一つの方向にまとめようとする場合、それが社会の柔軟性や創造性を損なう原因となることがあります。収束の過程では、多様性が抑圧され、異なる視点が無視されることが多いため、以下のような問題が生じます:

  1. イノベーションの停滞:多様な視点や意見が抑制されることで、新しいアイデアや革新的な解決策が生まれにくくなります。多様性はイノベーションの源泉であり、その動きを止めることは社会の進歩を遅らせることになります。

  2. 社会の硬直化:収束することによって、社会や組織は硬直化し、変化に対応する柔軟性を失います。これにより、予測不可能な状況や新たな課題に対処する能力が低下します。

  3. 排他的な環境の形成:多様性を収束させる過程で、一部の意見や背景が排除されることがあります。これにより、排他的な環境が形成され、多様な人々が平等に参加できる機会が失われます。

  4. 社会の分断:多様性を収束させようとする試みが、逆に社会の分断を招くことがあります。異なる意見や背景を無理に一つにまとめることで、対立が深まり、社会の連帯感が損なわれることがあります。

 多様性の本質は、動的であること、そしてそれが健全な社会を維持するための原動力であることにあります。為政者やステークホルダーが多様性を尊重し、その動きを支援することで、社会は持続可能で活力に満ちたものになるでしょう。収束ではなく、多様性を活かすことが、未来への道を切り開く鍵となります。

 

 

「恋のサークルモッシュ」

 

 

 

 

By MOAChans!!