陶姫の鼻が動いた。唾を飲み込む音がする。竈から炊飯の匂いがしてくる。声が聞こえた。
「飯の匂いだ。いーい匂いだなあ」
「もう、忘れていたなあ」
「まだかい?」誰かが椀を箸で叩いた。
陶姫は目でたしなめた。釜の蓋を開ける。白い蒸気が家の中を漂った。
「飯だーめしだーめしめしだー」
目の前にいる陶工の椀に飯を盛る。その時、誰かの頭の中に自分が入っていく感覚があった。
(この白じゃあないの。こんなの白と言えない。ウリナラの白じゃないわ。ダメダメ。これじゃあ、あの人に会わす顔が無い。)
その声は自分のものだった。外から強い風が吹いてくる。家の中の物が飛ばされていった。風は砂埃を伴って家の中を吹き荒れる。陶姫は目を開けていられなくなった。風の中で声がした。
「お前は、蘇民将来の子孫か豈か?」
陶姫は薄く目を開けた。陶工の座っていた位置に、顔の黒い男がいた。目から峻烈な光を放っている。男は真っ直ぐに陶姫を見た。
「お前は蘇民将来の子孫か豈か?」
「陶姫は答えられなかった。相手が普通の人間とも感じられなかった。荒々しい神のように思われた。陶姫は身を引いて逃げようと間合いを測った。男は陶姫の腕を取った。
「お前は蘇民将来の子孫ではないのだな?」
「豈」陶姫は一言返事した。
男の目がさらに光で眩しくなった。
「この体は約定によりこの五虎宮主が守っておる。無礼であろう。五虎宮主と知っての狼藉か?」
その言葉は自分の口から出た。陶姫は自分の口から出た言葉の、その意味がわからなかった。喉元が熱く、手で喉を掻き毟ろうとした。そこで意識が混濁していった。
陶姫は高熱を発し続けた。何かうわごとを言っている。傍にいた踊り子にはその言葉が聞き取れなかった。踊り子はため息をつくと、陶姫の額の汗を、布巾で拭いた。背中から声がかかった。
「陶姫、どう?」踊り子は少年と目を合わせて、首を横に振った。
「熱に浮かされて、うわごと言ってる。宮主だとか…」
「そうか…。さっき来てた医師だけど…その…手の施しようがないと言ってた」
「何だって?どうしてさ?」
「本人の気力が弱ってるからだって」
「気力が?そう言えば…陶工が死んだとかうわごとで言ってた。なんでわかったんだろう?」
「陶工が…死んだって?」
「うん…誰から、聞いたのだろう?」
「その話、もう少し詳しく話してもらえまいか?」
襖を開けて入って来たのは、大師だった。
大師は静かに陶姫の額に手を当てた。
「高い熱だ。これはなんとかせねば…」
「そうなんだ。医師も打つ手がないと…そこでね。大師に相談があるんだ」
「言ってみなさい」
「ここから北の方に…ウリナラと海を挟んだところに、同胞が居て、医女をしているそうなんだ」
「うん?同胞が?それは探しに行かねばの」
「そうだろ?しかもその医女は、回りの人たちにも評判の腕らしい。それでね…」
「連れてきたいと?」
「そうそう」
「よし、早速出発するがよい…だが道中が不安だ。お主も」と言って少年に向き直った。
「一緒に行くがよかろう」
少年は頷いた。
「ところで先ほどの話だが、陶姫を斬った男は、どういう者だった?」
「前から我らを狙ってた奴だ。男のくせに女装した奴。きっと。一度陶工を探しに行く道中で襲われた。それに、対馬で大師を狙ったのも、もしかしてあいつかもしれない。きっと裏に誰かいるんだ」
「ふむ…そうか」
「きっと家康に会わせたくないんだ、そいつ…」
「ところで陶姫は何か持っていなかったか?」
「あ」と言った踊り子は、陶姫の枕元にあった小さな壺を大師に渡した。
「中には骨が入っているんだ」大師は中を見ようとしていたが、その手を止めた。
「そうか、それで陶工の骨と?」少年が言った。
「うむ…」大師は髭を捻った。
「そう言えば…」少年がおずおずと言った。
「昼間大師の部屋から、陶姫が出てくるところを見た。胸の辺りが、やけに膨らんで…」
「お主も助平よのう」言ったのは踊り子だった。
「ア…その、そうじゃなくて、あれは何かを隠していたんだと思う」
「え?それって泥棒?」二人の目が大師に集まった。大師は頷いた。
「盗まれたのは、国書だ」
「ええ?」二人は同時に驚いた。
「おそらく陶姫は、国書と引き換えに、陶工の消息を教えると言われていたのだろう」大師は陶姫の上気した顔を眺めた。
「とにかく、陶姫の命を救わねばならん。エセンや、行ってくれるか?」
「もちろん、行くとも」踊り子はそう言って立ち上がった。
「弟子や、お主も行くよ」
少年は頷いて、陶姫の顔を見た。陶姫は口を開け、汗をかいていた。
峠をいくつも越えて、高台に出た所で、急に目の前が開けた。そこには青い海が広がっていた。夜は白々と明け始めていた。海鳥の鳴く声が聞こえて来る。海は少し荒れているようだった。
「あの向こうはもうウリナラなんだ」
踊り子は潮を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
少年は時々背後を見ながら、辺りの気配を窺った。
「あ、あそこに集落が見える。あそこで聞いてみよう」
山を下りた麓近くに、瓦屋根が見えた。
「誰かいますか?」
そう言ってから、踊り子はこの建物が普通の民家と違っている事に気付いた。正面に扉のない門のようなものが建っている。人が二、三人通れるくらいの間隔で立っている二本の柱に、角ばった横木が二本、間を空けて渡してある。横木の両端は天に向かって反り返っている。二つの柱の間を通り抜けるときに、体毛がピリピリと立った。
「ここは…?」踊り子が少年を振り返った。
「人家じゃ…ないな?」少年はそう言って前方を指さした。二つの犬の像が建っている。
「海駱が守っている」
「じゃあ、この家の主は?」
「家じゃなくて、社じゃないか?」
その時、奥にあった小さな扉が開いた。そこから人の顔が覗き、上半身が乗り出してくる。
「わわっ。あんな小さなところから…人が…」踊り子は身を引いて、思わず少年の手を握りしめた。その間にもその人は全身を現し、社の前に立った。はげた頭が異様に長い。側頭から申し訳程度の生えている白髪が、顎髭と一体となって地面にまで垂れている。腰が曲がって杖をついている。全身白い着物で垂れ下がった白い眉の下で、小さな目が動いた。
「お前たち、蘇民の子孫か?」
踊り子は少年と顔を見合わせた。その言葉は全く意味が解らなかった。
「私たち、倭人じゃない。意味わからない」
「倭人でないことはわかっておる。だから聞いたのだ。蘇民の子孫か?」
「へ?」
「自分たちには通じていないこの会話が、相手には何故か繋がっている。踊り子の目が丸くなった。
「どうなのだ?蘇民の子孫でないならば、此の地に居ても無用だ」
「い、いや。子孫かどうかわからないが、俺たちはこの地に用がある。朝鮮から連れて来られた人を探している」少年が前に出て言った。
「朝鮮の、何処から来たのだ?彼の娘に会う前に確かめねばならぬ。どうなのだ?蘇民の子孫か?」
「つ、つまり、蘇民と言うのは、朝鮮の民と言うことか。そうだ。俺たちは蘇民の子孫だ」
「お主、今の言葉を後で取り消してはならんぞ。未来永劫だ」
「えっ未来永劫?そんなおおげさな…」
老人は浜を目指した。
「この先に行って聞け」そう言って老爺は、小さな扉に入っていった。最後に顔だけ見せて、扉を閉めた。
「何だ?結局何も知らないのか?」少年は目を瞬かせた。よく見ると、社に額が掛かっていた。
「見ろよ」少年は額を指さした。
『韓神新羅神社』
「え?こんなところに、ウリナラの神?でも倭の神社?どっちやねん?」
「何かこの国には、ウリナラの足跡がやたら多いね」
「ま、いいや。先に行こう」
「踊り子は浜辺で網を繕ていた漁夫に声をかけた。
「こんにちは」
漁夫は警戒するような目つきをして踊り子を見上げた。踊り子は漁夫と並んで流木の上に腰を下ろした。脇を見ると、魚が二、三匹網にかかっていた。
「漁はあまり、良くないの?」
漁夫は岩畳のような顔をして、黙って網を繕っている。
「おじさん。私たちは実は朝鮮から来たの。この地に捕らわれた同胞を救いに」
漁夫の眉が上がった。
「わしに…」声が擦れて出てこなかった。漁夫は咳払いして言い直した。
「わしに、何の用だ?」
「あのね。この辺で、朝鮮から来た人の消息、知らない?」
「…」漁夫は黙って首を横に振った。その時裏の小屋から、女の声が聞こえて来た。
「とうさん、薬飲んだ?」姿を現した中年の女は、二人を見て驚いた顔をした。目を逸らすようにして小屋に戻ろうとする。踊り子は呼び止めた。
「待って。おじさん、まだ薬飲んでないよ」
「何で…それがわかるんだ?」
「とうさん、早くこれを飲めって…」言ってから漁夫の妻は口を押えた。
「その薬、誰か処方したの?」踊り子はにっこりと笑って聞いた。漁夫は顎で、女房に合図を送った。女房は急に薬の入った椀を置いて、小屋の方へと戻って行った。踊り子は少年に後を追いかける様に片目を瞑って見せた。少年は急にむせながら、女房の後を追った。
「おじさん、邪魔したね」踊り子は猟師に片目を瞑って、少年の後を追いかけて行った。