小説「旅人の歌ー 信使篇」その16 - 霧隠 | 物語書いてる?

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 陶姫は厠へ行くふりをして、陣幕の裏へと抜け出した。辺りを見回して大師の宿所へそっと入る。そこで何か音がしたように思って、陶姫は動きを止めた。耳を澄ましてあたりの様子を窺う。必要以上に神経が張りつめていたようだ。陶姫は頭陀袋を探り目当ての国書を取り出した。中を開いて殿下の印を確かめる。そのまま胸に隠して、宿所を出た。人に見つからないかと胸が高鳴った。柳の見える塀の内側から、小石を外に投げた。すると塀の上から、鉄の鉤にぶら下がった籠がスルスルと降りて来た。陶姫はその籠に国書を入れた。籠は塀の上に消えた。陶姫の顔が青ざめた。まるで白日夢から今醒めたかのような気分になった。陶姫は首を何度も振って、頭の中の種子を消し去ろうとした。陶姫は辺りを見回しながら、その場に佇んだ。


「才蔵、戻ったか。国書は?」

「はい、これに」才蔵は胸から国書を取り出して幸村に渡した。幸村の頬の筋肉が持ち上がった。幸村は静かに書を開いた。才蔵は片膝をついて控えていたが、幸村の眉が顰められたのに気付いた。読み終わった幸村の顔は少し赤らみ、鼻の穴が開いていた。その鼻から、荒い息が漏れた。

「フフフ、これは使えるな。いざというときに。フフフ…ハハハ」

 才蔵は主人の顔を見上げ、大笑する幸村に不安がよぎった。

「才蔵、これであの娘の用は済んだ。夜にでもおびき寄せて殺せ」

「はっ」才蔵は無表情で立ち上がり、来た道を戻っていった。


 塀の上からスルスルと籠が下がって来た。籠には紙があった。


 陶工所在、夜塀外待。


 どこかで梟が啼いている。今夜は特に霧が濃い。陶姫はふと寒気を覚えた。背後から声がかかり、背筋が震えた。振り返ると、霧の中から才蔵が現れた。


「コクショ…」陶姫の言葉を消し去る様に、才蔵が言葉を発した。

「陶工は、死んだ」

 陶姫はその倭語を聞き取れなかった。

「カク。ココ」そう言って地面を指した。

 才蔵は霧に濡れた土の上にも字を書いた。


 陶工焼死。家火災。


 陶姫は首を横に振った。

「コジンマル(噓つき)。ショウコ。ショウコ」

 陶姫は才蔵の襟を掴んで揺さぶった。才蔵は陶姫の手に包みを握らせた。陶姫はその場にしゃがみ込んだ。包みをゆっくりと解く。そこには小さな壺があった。壺はほの白く輝いて見えた。

(ああ…オッパ。オッパの壺。)

 蓋を開けて、中の物をつまみ上げた。それは灰色で細い棒状をしていた。才蔵は地面に『骨』と書いた。陶姫の視界が曇って、その文字が急に見えなくなった。胸の骨のあたりが細かく震えだす。肺に何かが溜まり、陶姫は息がうまくできなくなった。

「オディ(どこ)?ウェ(なぜ)?ブリ(火が)…ウェ?」陶姫は涙に喉を塞がれ、言葉を上手く繋ぐことが出来なかった。地面に書きながら、その文字が見えなくなる…。


 何故、火。何処。


 薩摩、日本最南。火理由不知。


 才蔵は急に立ち上がった。辺りを気にしながら、足で土の文字を消す。陶姫は項垂れたまま、地面の文字を見ている。才蔵はゆっくりと刀の鞘を抜いた。


 霧が深くなって来た。踊り子は宿舎までの道を急いだ。さっきまで鳴いていた虫の音も止んでいる。もう既に深更を過ぎているだろう。踊り子は先ほどの話を思い返して、ため息をついた。同胞の消息はそこそこ聞くことができた。多くは武家屋敷や豪農で働かされていた。また連れてこられたものの、その後の内乱で放置され、人足などでその日の暮らしを何とかたててきた者も多かった。人売りの話も聞いた。聞いているうちに血がさかのぼり、胸が塞がれ、最後はいつも酒に手を出した。その中で、医術を施して付近の民を治している韓女の話を聞いた。その者は西洋の異教を信奉し、名をジュリアと言った。その医女の話をする時、倭人達の口調に尊敬の響きがあった。陶工についての消息もいくつかあった。日本の南に、陶工が流れ着いた。付近の漁民がことごとく嫌がらせをして、ついにその陶工は家ごと焼き殺されてしまった。その陶工の名は陳当吉と言った。踊り子は多くの韓人達の消息を帳面につけた。しかしその帳面は、自分とは遠い世界のように感じられた。考え事をしながら歩いていた道が、霧で見えなくなっていた。

 

 踊り子の耳がひくりと動いた。この霧の中に、誰かが立っている。闇の中で霧が少し晴れた。一人の男が、倒れている女を斬ろうとしていた。女は陶姫だった。

「オンニ」

 踊り子は跳躍した。懐のクナイを取り出し、才蔵の首を狙って突き出した。鉄の弾ける音がした。踊り子は才蔵と並行に走りだした。互いに狙う隙を探る。才蔵は不意に止まった。胸の前で九字を切る。踊り子の視界から才蔵が消え、霧が踊り子を包み込んだ。

「フフフ、この霧は厄介だろう。そら」

「霧の中から手裏剣が飛んできた。咄嗟にクナイでかわしたが、二つ目が踊り子の肩を掠めた。

「フフフ。霧はわが身を隠すだけではないぞ」

 霧の中から光が伸びて来た。人影が浮かび上がる。その人影は三つに分かれた。声が聞こえて来た。

「霧はわが身を分身させる。怪しめば怪しむほど、お前は霧に惑わされるぞ。そら」

 思ってもいなかった方向から手裏剣が飛んできた。その刃は服を切り裂き、肉を抉った。踊り子は呻いて片膝をついた。痛みに顔をしかめる。

「ククク。動けば動くほど、お前の体を刃が切り刻む。お前はこの霧に抱かれたまま果てるのだ」

 霧の中から才蔵が現れた。

「フフフ。どうせ助からん。楽に往生させてやろう」

 才蔵は刀を振りかぶった。その切先が宙で止まった。踊り子の体の上に、陶姫が覆いかぶさっていた。才蔵の唇が歪み、その目が鋭く光った。才蔵の刀は陶姫の背中を斜めに切り裂いた。陶姫はのけぞった。

(これで楽になれ。)

 とどめを刺そうとした才蔵の刀が弾き飛ばされた。才蔵は咄嗟に体を回転させて、霧の中に入り込んだ。地面にクナイが突き立った。

「半蔵、邪魔をするな」

 霧の中から、黒覆面の男が現れた。

「才蔵、邪魔をさせてもらおう。それとも同郷の誼、ここはお前も手を引くか?」

「同郷だから言っておる。お前も狙われておるのだぞ」

「ほお、忠告かたじけない。そこまで明かすのなら、お前は手を引ける」

「何をほざくか。異国者の命など、お前に何の関わりがある?」

「異国者…異国者か…ならばお前は郷の…俺の敵だ」半蔵の目が鋭くなった。半蔵は踵を返し、後ろの草叢に向かって突進した。才蔵はその刃をかわしきれず、左の肺を貫かれた。才蔵の口から血の塊が飛んだ。

 才蔵は薄く笑った。その目が焦点を失い始めた。


 踊り子は腕を組んで半蔵の前に立った。

「お前、何者だ?」

 半蔵は片膝をついて、頭を下げた。

「最初は、対馬で会ったな。この『く』の字の…」懐からクナイを出した。

「刃物の持ち主だ。お前は大師の居室に入ったな?」

 半蔵は頭を下げたままだった。

「それにお前は、私にふしだらな真似をしただろ?」

 半蔵の耳がぴくりと動いた。

「私の意識が無いのを良いことに、勝手に私の唇を奪ったな?」

「い、いや、あれは…」半蔵は思わず言葉を発した。

「お前、さては私の容姿に惑わされたか?ホホホ…」踊り子は手を口に当てて笑った。

「然してその実体は?家康の間諜か?」

 半蔵は思わず踊り子の顔を見た。

「なら家康に伝えるんだ。『警護役、大儀じゃ。これからもしかと大師を守れ』とな」踊り子はそう言って半蔵の肩を叩いた。その横で陶姫が崩れ落ちた。

「オ、オンニ」

 踊り子は陶姫の肩を抱き起した。そこで初めて背中の血に気が付いた。