踊り子はいつものように塀を乗り越えようとして、ふと後ろを振り返った。夜の静寂をついて、梟が啼いている。その梟の声が止まった。路地の向こう側に人影が消えていった。その着ている物に見覚えがあった。
(あれは、オンニ?)
踊り子は路地まで行ってみたが、人影は見当たらなかった。
(オンニは、陶工を探しに行ったのかな?)
踊り子は小首を傾げた。欠伸が口をついて出る。踊り子は再び宿舎へと戻った。
陶姫が川縁に現れると、才蔵は薄く笑った。片腕を上げて手招きする。陶姫の項の毛が立った。まるであの世の者のようなしぐさだった。陶姫は自分たちを襲った者と気づいて、足が止まった。才蔵は石にくるんだ紙を投げた。それは放物線を描いて陶姫の足元に落ちた。陶姫は紙を拾って開いた。
陶工生、汝所在望如何
陶姫は頷いた。才蔵は次の紙を投げた。
盗国書
陶姫の瞳孔が開いた。紙を持っている手が震えた。陶姫は紙を半蔵に投げ返し、くるりと背を向けて走り出した。才蔵はその後を追おうとして、その耳が他の足音を聞きつけた。
(半蔵か…。)
才蔵は陶姫を諦め、闇の中へと消えた。
黒面の男は才蔵の消えた方向をしばし見ていたが、陶姫の後を追って行った。
川岸の柳が夜風に揺れている。陶姫の頭の隅に植物の種子のような痛みがあった。その痛みが大きくならないように、陶姫はそっと歩いた。種子はいつかは大きくなる。そんな予感がしていた。先ほどの「盗」という文字が浮かんだ。
陶姫は、まるで自分の体が他人に支配されたように感じた。この頭痛がそのまま過ぎてくれることを願った。
宿舎で寝ていた踊り子の鼻が何かを捕えた。襖が静かに開いて、陶姫の影が滑る様に入って来た。
「オンニ、遅かったね」突然声がかかり、陶姫の頭痛が脈打った。
「起こしちゃった?ごめん」
「ケンチャナ。ところで、何か消息つかめた?」
陶姫は独り言のように答えた。
「わからない…」
「誰と、会っていたの?」
「…私は…会えなかった」陶姫は布団に横になった。
「疲れたから、もう寝るね」
「うん…お休み」
「お休み…あ、あの…」
「うん?」
「国書は…大師が持っているんだよね?」
「うん?国書?そうじゃない…よくわからない」最後の言葉は欠伸に変わった。瞬くほどの間に、鼾が聞こえて来た。
(盗国書…。)
頭痛がひどくなり、陶姫は瞼の上に手のひらをあてた。
一行は小倉で船に乗り、赤間が関を経て長門へと渡った。安芸では尚武の風を尊ぶ藩主の意向で、沿道には侍がきっしりと並んだ。見物人は制限された。
「その土地によって、気風というものが違うようだ」
大師は馬上から、陶姫に声をかけた。
「これでは、刷還の役目が果たせません」陶姫はそっと大師を見上げて言った。
「うむ。さて…どうしたものかのう?」
「ところで、私たちは源大君に会いに行くのでしたよね?」
「うむ」
「その者が国主なのですか?」
「どうやらそのようだ。あるいは権力争いのさなかなのかも知れん」
「その者に、殿下の国書を渡すのですか?
「うむ、そうだな」
「大丈夫なのですか?またその者にとって代わる者が出るのでは?」
「そうだな。出るかもしれん」
「国書には、国交を再会することが書かれているのでしょう?」
大師は馬上から陶姫に顔を向けて、にっこりとほほ笑んだ。
「実は、儂も知らんのだ」
陶姫はその笑顔を見て、頭の隅の頭痛が少し和らいだように感じた。ふと目を遠くの山並みに向けた。雁が群れを作って、渡っていく。目を沿道に戻すと、一本杉の根元に、あの女がいた。女は薄く笑って、手招きをした。陶姫は頭の中の種子が育ったように感じた。
その夜は薄い霧が出ていた。陶姫が連絡してきた場所に来てみると、あの女が霧の中に佇んでいた。青白い顔だけが浮かんでいるように見えた。女は紙を手渡した。
国書一見後戻。暫時只借。
「ホント?」陶姫は倭語を使った。女の顔が綻んだ。
「本当だ」その声は低かった。どちらとも性別を持たぬ者のように感じ、陶姫は少し身を引いた。
「イキテイル、ショウコ」陶姫は手を出した。
「ミニツケテイル、モノ」
「ああ、陶工の事だな。それは、持って来れない。陶工は遠い地にいる。ただ一つ言えるのは、彼は命を狙われている」女はそう言って、親指で首を斬る真似をした。
陶姫の顔が青ざめた。
「それに、もうひとつ」女は眉をひそめた。
「彼の横には、ひとりの女がいて、身の周りの世話をしている」女は言葉をゆっくりと発音した。
陶姫の胸に火がついたように感じた。その火は陶姫を炙った。額に青い筋が立った。
「コクショ、カナラズカエスカ?」
女は頷いた。
「しばし預かるだけだ。誰も困らぬ」
陶姫の頭の中の種子が疼いた。鉄環のようにこめかみを締め付ける。陶姫は何も考えられなくなった。
「ジカン、ホシイ」
「手遅れにならねば、良いが…。彼の命も、心も…」
陶姫はいたたまれなくなり、その場を離れた。女は後姿を見送って、薄く笑った。
翌日、大師は対馬島主を通じて、安芸藩主に馬芸の披露を申し出た。藩主は喜んだ。
「わが国には『流鏑馬』という馬技がある。めったなことでは驚かんぞ」藩主はそう言って豪快に笑った。
大師からその話を聞いた時、踊り子は行首と少年に新しい技の話を持ち掛けた。行首は踊り子の顔を二度見て言った。
「オイお前。いくらなんでもそれは危ない。お前は九尾狐か?命がいくつあっても足りんぞ」
踊り子はフフフと笑った・
「九尾狐かあ。九つの命を持つ女。しかしてその正体は?格好いいね」
「お前な。茶化している場合か?今」
「ところで、我が弟子の方はどうだ?」と少年に向き直った。
「できるか?」
「うーん」少年は腕を組んで考え込んでしまった。
「結局、『やる』というしか、ないんだろ?」
踊り子は少年の肩を叩いた。
「分かって来たね。この師匠のことが」
笑う踊り子を見て、二人はあんぐりと口を開けた。
朝鮮通信使が馬芸を披露するという話は近在の人々にすぐ伝わっていった。倭の地に連れてこられた韓人達の耳にも届き、望郷に想いを馳せた人々が、次々と一行の宿舎に集まって来た。帰国を望む者には路銀を出すよう、幕府は各藩に布告を出していた。一行は訪れた人たちと手を取り合い、泣き崩れる人々の肩を抱いた。陶姫はその様子を見て、そわそわと落ち着かなかった。人々と手を取り合いながら、その目は次に来る人を見ていた。宿舎に来る人が途切れ、夜になっても、陶姫は独り、宿舎の門の前に佇んでいた。踊り子が肩を叩いた。
「まだまだ、道は長いぞ」
陶姫は踊り子に目の焦点を合わせるまでに時間がかかった。
「うん。そうだね…」その声には抑揚が無かった。
遠くの山並みに紅葉が目立ち始めた。緑一色だった森林の中に、ポツポツと黄色や赤い色が混じり、全体として華やかに見える。踊り子は鞍の上に手を乗せたまま、遠くの紅葉をぼんやりと見ていた。少年が声をかけた。
「師匠、いよいよだな」
「オ、なんか声に自信が出て来たな。お主も随分成長したじゃないか?」
「え?そう?」少年はにっこりと笑った。踊り子は少年の瞳を見て、眩しそうに瞬きした。少年は踊り子に近づき、両肩に手を乗せた。
「今日は、頑張ろうな。俺を信じてくれ」
踊り子の体が硬直した。そのまま体が傾きそうになって、ハッと姿勢を直した。
「オ、オオ。信じるよ」
踊り子は急に用事を思いついたように、その場を離れた。
馬場の回りに柵が設けられた。その日は一般にも立ち入りが許され、既に回りは多くの人で埋め尽くされていた。人々は刻限のはるか前から詰めかけ、見やすい場所を確保しようと争った。中央の陣幕には藩主の床几が置かれ、回りには警護の侍たちが詰めた。大師と金副使、通信使の一行も、その脇の席に着いた。やがて藩主が家老達と共に馬場に入って来た。
「ほう。随分の人気じゃのう。大膳。これほどの人が集まるとは…」
「はい。それも随分と前から人々は並んでいた由にございます。唐津城下で披露したと聞いておりますが、相当その話が広まっておるようです」
「そうか…ところで通信使の一行は何処に?おお大師どの」と脇にいた大師に声をかけた。
「中々な人気ですな」
大師は歯を見せて笑った。
「ははは、いやなに。それほどでもござらんよ」とつるりと頭を撫でた。
「ところで、大師は何ゆえ、このような催し物を提案されたのか?それも一般の民に公開という条件まで付けて…もしや、有名願望がおありか?」
「ははは、いや全くその通り。連れて来た者の中に、実は出たがりの者が居りましてな。どうやらその者は、芸でこの倭を乗っ取ろうと企んでおるようです。お気を付けくだされよ」
藩主は大笑した。
「何?芸でこの国を乗っ取ろうと…?それはまた胆の太い豪傑よの。早速会ってみたいものだ」
「それが本日の主役となりましょう」
そこへ視界の端から、韓服に身を包んだ娘たちが現れた。舞楽に合わせてクルクルと回りながら踊る。桃色や黄色、青地の小袖に紫紺、真紅のチマなど、色とりどりに現れては藩主に花びらを振りかける。その笑みに口を開いて見惚れた藩主は、桃仙境にいるような気分になった。続いて男たちの激しい踊りが始まった。首を前後に振り、ぐるぐると回すごとに、帽子の先に付いた紐が鞭のように躍動する。見物していた民衆は声をあげ、拍手した。どの若い衆の顔が良いと華やぐ娘たちもいた。その熱が少し収まった頃、馬の蹄の音が聞こえて来た。だがその音は規則的ではなかった。二頭の馬に男女の騎手が乗っていた。馬上の男女はそれぞれ立ち上がった。両手を水平に拡げてつり合いをとる。その手が互いの手に触れた瞬間、二人の体が上空に飛び上がった。驚いたことに少女の方が少年より高く飛び上がり、次の瞬間には相手の馬に乗り移っていた。
民衆は熱狂した。溜息が流れ、感嘆の声が沸き起こる。馬が走り去った後も興奮の熱気が馬場を包み込んでいた。次に、馬の通り抜ける道の片方に楯が並べられた。その反対側に少年が立ち、弓に矢をつがえた。道の外れで馬がいなないた。馬蹄の音が急速に近づいてくる。人々の心臓が高鳴った。少年は弓を絞り、馬上の踊り子に矢を向けた。右手を離す。矢は馬上に向かって放たれた。その瞬間踊り子の姿が消え、矢は空を切り裂いて楯に突き立った。人々が馬上に目を戻した時には消えたはずの踊り子は鞍に座っていた。馬は何事もなかったかのように駆け去っていく。踊り子の姿がまた鞍上から消えた。踊り子は両手で鞍を握り、馬の横腹に体を隠していた。その頭は地面すれすれに近づき、両足をピンと揃えて、体は斜め一文字に馬の側につけた。警護についていた侍たちも声をあげた。どよめきの声が連鎖のように続いた。
藩主は顔を青ざめていた。
「あの女子が兵を鍛えたら…。本当に馬技でこの国を乗っ取れるかもしれん…」