少年は宿舎の方を見上げた。
しばらくまともに飯にありつけず、さすがに体が弱ってきていた。塀の回りをウロウロと巡る。と、道端に物入れが落ちているのに気付いた。拾って中を見ると、饅頭が幾つか買えるくらいの金が入っていた。少年の足に力が戻った。少年は走りながら塀の角を曲がった。目の前に人がいて、頭をしたたかにぶつけた。視界が金色の光で覆われた。気が付くと、相手の体の上に乗っていた。口に柔らかい感触がする。唇が重なっていた。目の前に、大きな二つの瞳があった。
「ヤア。何すんだ。この変態ヤロウ」
「少年は突き飛ばされて、体が宙を飛んだ。その相手は男の恰好をしていた。立ち上がると、少年の胸ぐらを掴んだ。その拍子に少年の胸元から物入れが落ちた。
「オ、こいつは、私の…。オイ、こいつはどういう事だ?何でお前がこれを持っている?」
少年は弱々しく声を出した。
「何言ってるか聞こえないよ」
「ひ、拾ったんだ」
「拾った?」踊り子は腕組みして、少年を正面から見据えた。
「お前の顔、見覚えがある。何日も門の前をうろついてただろ。何を探ってんだ?」
少年は頭を横に振った。
「探ってなんかいない。ただ…俺も」
「俺も…何だ?」
「倭に…行きたいんだ」
踊り子は眉を上げた。
「ウェ(倭)にウェ?(何故)」踊り子は言ってから自分の言葉が可笑しくなった。
「それは…」少年は踊り子の言葉に気が付かなかった。
「言えない」少年は下を向いた。
「やっぱりお前、怪しいヤツだな」
踊り子は少年の手を引いて、門を潜った。
門衛が慌てて止めようとする。
「お前、また面倒を持ち込むつもりか?その物乞いは…あっ待て」
踊り子は門衛に構わず宿舎へと向かった。
「大師、怪しいヤツを捕まえました。大師」
踊り子の威勢のいい声に、多くの人間が表に出て来た。
「どうしたのだ?」大師がゆっくりと聞いた。
「怪しい奴を捕えました」そう言って踊り子は少年の手を引っ張り、横に立たせた。
大師は歯を見せた。
「手など握って…随分と親しいようだな」
踊り子は慌てて手を離した。
「ち、違いますよ。こんな変態ヤロウ」
「変態?」
「…じゃなくって、こいつ外をうろついてたんですよ。また大師の邪魔をする連中が送り込んできたんじゃないかって」
「そやつのことは構うな」大師は面倒な顔を見せた。
少年の頬が紅潮した。
「何故だ?何故俺を除け者にするんだ?俺が倭に行きたい理由は百も承知のくせに」
その場の人々の口が一斉に開いた。大師と少年に代わる代わる目が集まる。踊り子は行首に首を傾げて見せた。行首も首を横に振った。
「理由が知りたいか?」大師は少年の目を正視した。少年の目が挑む様に大師に向けられた。
「知りたい」
「その理由は…」大師は、ふと踊り子を目に留めた。
「そこの踊り子が教えてくれるだろう」
「へっ?」声を出したのは踊り子だった。
「とにかく、お前をこの旅に連れていくわけにはいかん。よいか皆の者。この者を宿舎の敷地に入れるでないぞ」大師は、最後は怒った様な表情になり、奥に引っ込んだ。
門衛は少年を引きずって門の外に放り出した。その様子を、副使はじっと見ていた。
少年の目の中に、さっきから大師の顔がちらついて離れなかった。両腕で頭を抱え込む。そのまま塀に背中を預けてしゃがみ込んだ。横に人の気配を感じて、顔を上げる。近くに踊り子の顔があった。少年は驚いて尻もちをついた。
「本当に倭に行きたいんだね」
少年は踊り子と目が合って、また下を向いた。踊り子はふいに、少年に馬乗りにされた光景を思い出し、目を逸らせた。
「大師とは、前からの知り合いなのか?」
少年は答える代わりに、道端に生えている草を毟り取った。
「倭に行きたい理由と、関係があるのか?」
少年は草を毟り続けた。
「言いたくないんだな。わかった。聞かない」
「大師は、何故あんなに俺につらく当たるんだろう?」
少年が口を開いた。
「心当たりがないのか?てっきり気まずい関係なのかと思った」
「無い。旅に誘ってくれると思った」
「何故だ?」
「それは、俺がこの国の何処にも、居場所が無いと知っているから…」
踊り子はプッと吹き出した。大笑いしながら少年の肩を叩く。
「大袈裟なことを言うな。それで格好つけたつもりか?」
少年の耳が赤くなった。
「まるで自分が、名の知れた大盗賊みたいに言うじゃないか」
少年は唇を尖らせた。
「ヒッヒッヒッ。何て顔だ。ところでお前、食い物に困っているのか?」
言われて少年は腹を抑えた。さっきから腹が何度も鳴っていた。
「わかった。一団に加えてもらえるように、何か考えてみるよ。そんな暗そうな顔すんなって。何とかなるよ」この時、踊り子の頭の中に、一人の料理係の顔が浮かんだ。
「オンニィー(お姉さん)」急に甘ったるい声が聞こえ、厨房にいた料理係は野菜を切る代わりに指の皮を切ってしまった。
「痛っ」
するとその指を踊り子が口に含めた。料理係は思わず手を引っ込めた。
「よしとくれ。気持ち悪い。男だか女だかわからない恰好して」
「オンニィー。ひどいな。女だよ。稽古するのに動きやすいからこの恰好してるだけさ」
「わかったよ。で、何か用かい?」
「よくぞ聞いてくれました。ここ辞めたいって言ってたよね。倭まで行くのは嫌だって」
「ああ、行きたくないのさ」
「じゃあさ。オンニから口入れして欲しいヤツ…子がいるんだ。オンニから紹介してもらえば、料理長もうんと言うだろ?」
「まあいいけどさ。大丈夫なんだろうね?」
「オンニ、ケンチャナ。大丈夫だって。じゃ連れて来るよ」踊り子は満面の笑みで厨房を出て行った。
「随分と背の高い娘だね。それに色も真黒だ」
チマチョゴリ姿の少年を、料理係は訝しそうに見た。少年の耳元に顔を近づける。
「あんた、ホントに女かい?」
少年は俯いて、消え入りそうな声で答えた。
「はい」
それを聞いていた踊り子の顔が一瞬崩れそうになった。腹の筋肉を必死に締めて。踊り子は堪えた。笑いの衝動がすっと消えた。
「オ、オンニ。年頃の娘になんてこと言うんだ」
「わかったよ。あたしにとっては渡りに船だ。うまく言っとくよ」
踊り子と少年の目が合った。少年はまた俯いてチマの裾をいじった。踊り子は我慢できなくなって、厨房を飛び出した。踊り子は走りながら思いっきり笑った。