小説「旅人の歌ー 儒者篇」その13 - 寺 | 物語書いてる?

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 河原に陽が燦々と降り注いでいた。女たちが笑い声をあげながら洗濯物を棒でたたいている。夫人の侍女も盥を降ろして大きな岩の上にしゃがみ込んだ。
「ちょっとあんた、聞いた?」女たちの声が入ってくる。
「太閤はんの話やろ?もう町中その話で持ち切りや」
「何でもその女の人、カラから来はったそうや」
 侍女の手がピクリととまった。
「聞いた聞いた。それもカラから来た船の上でな、神がかりされたとか?」
「神がかり?どこの神さんや?」
「何でも、沖ノ島のなんたらゆう三女神…あ、宗像三女神ちゅうのんが、その女の人を迎えに来たちゅう話や」
「へ?ややこしいな。その女の人を、日本の神さんが迎えに来たちゅうことかいな?ほんで神がかりとは?」
「何でもその神さんたちは、『天照大神』とその女性を間違えたとか?」
「へ?『天照大神』?こりゃまた話がようけ飛びまんなあ。何が何やら…」
「それでな、奇瑞やいうて太閤はんがお召しになったところ、そこで天照大神が女性の体に降りてきて、太閤はんに何やら説教されたとか?」
「説教?へえ?ほんまかいな。数寄者の太閤はんのことやから、天照はんと懇ろになったんちゃいますのん?」
 女たちは辺りに笑い声を響かせた。
「まあようわからんがな。それからこっち、太閤はんの具合が悪いとか…」
「へえ、ほんまかいな。そうかいな。太閤はんも天罰が当たったんとちゃいます?」
「まあな。自分のかみさんだけでなく、ついには天の神さんに手を出すちゅうんはやりすぎですわな」
「お後がよろしいようで」
 侍女は笑みを零した。
(あのお人は…どういうお人なのだろう?)
 侍女は自分の眼にした出来事を思い返した。あの時は、多くの人が見ていた。自分一人の錯覚ではない。ただ夫人自身が神がかりになったのではない。しかも天照大神の名は出ていない。ならば、あの童女たちは、何故…何を恐れたのであろうか?そしてあの舞と謡は、どういう意味を持っていたのだろう?侍女は自分が何かとても…何か決定的な場面に居合わせたような気がしてきた。
(とにかく、噂が立った以上、気を付けなければ…。)
 またその後の夫人への決定についても、何か襟足が寒くなるような気持ちになった。
『夫人を城よりただちに下がらせよ。だが決して粗略に扱ってはならぬ。京の…神社…いや、寺がよい。寺に預けよ』
(頭巾を被っていたが、あれは間違いなく治部少輔どの…。奥向きの事に、何故直々に…?それもあの後すぐに…?)
 急に暗くなって、侍女は空を見上げた。日が雲に覆われている。急に風が吹き始めた。寒くはなかったが、何故が身震いが起きた。侍女は風に流れる雲を見つめていたが、急に立ち上がった。
(あまり長い事、眼を離してはいけなかった。)
 侍女が寺の門を潜って中に入ると、庭には誰も見当たらなかった。この時間ならばいつも聞こえて来る、読経の声も聞かれない。最もこの寺の住職は変わっていて、寺でありながら仏教を嫌って儒教とやらに心酔しているとか言っていた。それにしてもこの静けさは…と侍女が堂内の様子を伺っていると、離れの方から寺男たちがばらばらと走って来た。
「どうしたの?」侍女が聞く側を、男たちは駆け抜けながら言葉を残して行く。
「道春が、具合悪く」
「お加羅さまが、野草を採って来いと」
 侍女はほっと胸に手を当てた。裏庭からそっと離れに回る。すると夫人が手をかざしているのが見えた。よく見ると裁縫用の針を持っている。夫人はそのまま、伏せている稚児僧の鼻の下に、勢いよく針を突き立てた。ぶすりという音が聞こえたように思い、侍女は産毛を逆立てた。夫人は針を回すようにして引き抜く。稚児僧の胸が大きく動き出した。横で見ていた住職が手を叩いて夫人を誉めた。
「全く大したものだ」住職は韓語で言った。夫人は住職ににっこりとほほ笑んだ。首筋に光るひとしずくの汗が、つっと夫人の襟足に隠れた。侍女は女ながら、その美しさに息をのんだ。
「いっその事、医院でも作るか」住職が夫人に聞いた。夫人はそれには答えず、侍女の姿に目を留めて、拙い倭語を発した。
「オカエリナサイ」
「只今戻りました」侍女は自然と頭を下げた。本当に不思議なひとだ。侍女は夫人の顔を見ながら舌を巻く。医術までできるとは…。
 そこにどやどやと足音が聞こえて来た。侍女ははっと身構えた。
 最初に眼に飛び込んできたのは、頭頂部に結わった短い髷だった。糸でぐるぐる巻きにして、角のように屹立している。その男は淡い空色の上着に、作務衣のようなものを穿いている。男の背中には赤子が背負われていた。赤子は真っ赤な顔で泣き叫んでいた。その後に、赤子の母親らしい女がついて来た。その母親は古びた木綿の着物を着ている。韓風の男とは釣り合いが取れなかった。侍女は、地震の避難民のようだと思った。韓風の男が言葉を発した。
「ウイサ…イサ…医者」韓風の男はもどかしげに言うと、離れで稚児僧に針を打っている夫人の姿を見た。韓の男は夫人に言葉をかけた。夫人の肩がピクリと震えた。嬉しそうな顔で男に応える。その眉が引き締まった。二言三言話しながら、布団を敷いて赤子を寝かせる。夫人は脈を診た。首を傾げ、胸をはだけて赤子の胸に直接耳を当てた。夫人は男に何事か指示した。男はうろうろしながら侍女に向かって言った。
「み、みず、火、ゆ」侍女は台所に駈け込んで火を起こした。
 夫人は男に薬草を渡した。男は首を横に振ったが、夫人に励まされ、薬草を煎じ始めた。夫人が赤子を見ながら、細かい指示を与える。その夫人は赤子に針を打とうとしていた。おろおろしていた母親は、喉の奥で短い悲鳴を上げた。夫人は容赦なく太い針を赤子の小さな手に打った。
 赤子の泣き叫ぶ声が止まった。四肢がだらんと力を失う。夫人は男を急き立てた。男がようやく煎じ終わった薬を持ち込んだ。夫人は緑色の薬を赤子に飲ませた。赤子はゲフッと音を立てて吐いた。赤子の息が、落ち着いて来た。夫人は赤子の胸に耳を当て、指で軽く叩きながら声を出した。
「チャルジャ…チャルジャ…」
 儒者はその声に顔をあげて夫人の方を見た。
「その歌は、もしかして…」儒者は夫人の顔を改めてみた。
「あの船で一緒になる前、もしかしてあなたと同じくらいの女性がその歌を歌っているのを…」
「はい…はい…」夫人は何度もうなずいた、そして、しばらくためらっていた。
「その女性は、私の妻です。妻の消息を知りませんか?」
 夫人は儒者の顔を見つめながら、言葉を探した。思わず儒者の手を取った。目が霞んでゆくのがわかる。涙が一筋、頬を伝って儒者の手の甲に落ちた。
「妻は…妻は…?」儒者は夫人の肩を荒々しく掴んだ。
「私の…腕の中で…口から血を吐いて…」
「まさか、まさか?」
「息を…引き取られました。」夫人はそう言って俯いた。
 儒者は夫人を離し、拳を畳に叩きつけた。その背中が小刻みに震えた。夫人はそっと儒者の背中に手を当てた。畳に擦りつけた儒者の顔の下から、押し潰した蛙のような声が聞こえて来た。夫人は儒者の背中をゆっくりと擦った。しばらくして、寝息が聞こえて来た。夫人は儒者をそっと布団に寝かせると、しばらくその横顔を見ていた。夫の顔が重なり、涙があふれ出て来た。涙で張り付いた儒者の鬢の毛を撫でつけて、静かにその場を立った。