小説「旅人の歌ー 儒者篇」その14 - 韓食 | 物語書いてる?

物語書いてる?

物語に関するあれやこれや。そんなこんなでゆっくりやっていきます。

 虎武者は天井の梁を見上げていた。その隅に蜘蛛の巣が張ってあるのが見える。近くを飛んでいた蠅が、その網にかかった。巣全体が大きく揺れたと見えた途端、黒と黄の大蜘蛛が突然現れ、その蠅を尻から出す糸でぐるぐる巻きにした。虎武者は手元の文に目を戻した。
(ここからは、よくよく思案のしどころだな。)
 その眼は文を見ていなかった。自分の頭の中を何度も探っては、浮かび上がる勢力者達の相関図を描きなおす。
(それにしても、ここまで太閤の死を隠すとは、三成も侮れぬ奴よ。ここはやはり儂が、抜け駆けの功を狙っていち早くご注進といくか。)
「和気、和気はおるか?徳川内府の屋敷へ参るぞ」
「はっ、ところで殿、先ごろ逃げた儒者の件は、いかがしますか?」
「うぬ」虎武者の脳裏に儒者の顔が浮かんだ。
「小面憎い奴め。この手で八つ裂きにしてくれよう。京の隅々までくまなく探すのだ」
「ははっ」
 侍達は屋敷の門を出て、町の中に散らばっていった。ほどなく、一人の侍が儒者の消息をつかんで来た。地震の被害にあった者たちが難民となって、近くの山中に集落を作っているという。その中で儒者の姿を見たものがいた。侍たちはその集落を目指して山の中に入り込んだ。その山には数多くの難民集落があった。侍たちは筵小屋を覗いては、儒者の姿を探し回った。
「婿殿、遅いのう。何かあったのでは?」義父が手を揉んで言った。
「私、探しに行ってきます」儒者の兄が筵小屋の一点を見つめて言った。
「そうか…そうしてくれ。でもツテはあるのか?」
「近くのお寺…と聞いています。そこで、医術を行う人がいるとか…多分、探せば見つかると思います」
「医術…?医師か?」
「何でも、同国の女性らしいです」
「何?我が国の?」
「はい」
 外で複数の足音が聞こえた。小屋の扉にしていた筵がめくられ、外の光が二人の眼を眩ました。続いて黒い顔が覗いた。
「いたぞ」侍が叫んだ。咄嗟に、義父と兄は侍を押しのけて外に出た。侍たちがこちらに気づく、義父と兄は走り出した。峠に向かって坂道を駆け下りてゆく。途中で義父の足がつんのめった。義父の体は土埃をあげて坂道を転がった。
 
 食べ物の匂いが漂ってきた。儒者の鼻がひくひくと動く。これは、倭の食べ物ではない。儒者の脳裏に故郷の家の情景が浮かび上がった。これは、韓食だ。儒者は目を開いた。布団の向こうに膳があった。その膳の上には、見慣れた食べ物が並んでいる。ごま油の匂いが儒者を誘った。腹が大きな音を立てる。儒者は起き上がり、膳の前に座った。飯を汁に浸し、口に運んだ。韓食の味付けのおかげで、昨日まで味気無かった飯までが甘く感じられる。儒者はふと父の食べる姿を思い出した。木の匙に飯と菜を乗せ、ゆっくりと口に運んだ。耳が妻の声を捉えた。それは飯のお代りを促す声だった。ふいに熱いものが胸の内を昇って来て、涙腺を緩ませようとした。儒者は飯をよく噛みしめ、熱いものを体の内に押し止めた。
(儒は、なんの役に立つのでしょう?)儒者はかぶりをふった。これは、断じて妻の声ではない。
 外から声が聞こえて来た。赤子の笑う声だ。儒者は微笑みかけ、途中でその頬が引き攣った。水音が耳の中に聞こえた。
(いったい、何故この蛮族は家族の平和をむしり取ったのだ?)
 儒者の胸に、外で笑っている赤子に対する憎悪が湧いた。首を左右に振って、気持ちを追い払った。儒者は庭に出た。
 庭は人で溢れ返っていた。いたるところに筵が敷かれ、病人やけが人が寝ている。その真ん中に夫人がいた。病人の上に屈みこんで手を動かしていた。儒者はその背に声をかけた。振り返った夫人はにっこりと笑った。顔の汗が朝日に映えてキラキラと光った。その一滴が首筋へと伝った。
「すみませんが、手伝ってください」夫人は笑顔でそう言った。懐かしい韓語の響きに頷きかけ、儒者は戸惑った。
「医術の心得がないのだが…」
「ケンチャナヨ。針を使ってとは頼まないわ。包帯を巻いたり、お湯を運んだり…私の横にいて手伝ってほしいの」
 儒者は頷いた。そこに赤子の母親も子を紐で括りながら加わった。寺の住職や稚児僧に至るまで、動けるものは全てが、動けないものの介抱をしていた。その集団は侍の軍団とは全く違っていた。忙しく動き回りながら、どの顔にも自然と笑みが浮かんでいる。夫人を中心にその指示に従って、それぞれ無駄な動きが無い。細かいところまで、まめに動いていた。やがて昼近くなると、女たちが握り飯を用意した。
「ふう。皆さん、少し休みましょうか」夫人が額の汗を拭いながら声を掛けた。儒者に振り返り、にっこりと笑う。
「お疲れ様。ご飯にしましょう」
 夫人と並んで握り飯を頬張りながら、儒者は夫人の顔を見た。鶏卵のような小顔で、雪のように白い。弧を描いた眉の下で黒い瞳がクルクルと動いた。
「飯は…」
「あの…」二人は同時に言葉を発した。
「どうぞ…」
「何か?」今度も同じ呼吸で言ってしまってから、二人は顔を見合わせて笑い合った。夫人は両手を組んで空に伸ばした。背中の筋をゆっくり伸ばすと、ところどころがポキポキと鳴った。
「うーん。良い天気ね」夫人は儒者の顔を見て、頭を下げた。
「手伝っていただいて、ありがとうございます」
「いや、あまり役に立ったかどうか…」
 夫人は儒者の手を抑えた。
「とっても助かったわ。実は最初、少しドキドキしていたの。硬い方だったらどうしようって…」
 儒者は、片方の眉を上げた。
「私は、硬くないと?」
 夫人は被りを振った。
「ほう、では私が手伝うか、試したのだな?」
 夫人は瞳を大きくして手を振った。
「アニエヨ。試すだなんて、決して…」途中から、からかわれていると知って笑った。
「こうして体を動かしていると、とても気分が良いの」夫人はつま先を宙に伸ばした。チマがそよ風にふんわりと広がった。
「そうだな。おかげですっかり気が晴れた」儒者は地面を見て言った。
 夫人はそっと儒者の横を見た。
「あの朝食は、あなたが…?」
 夫人は頷いた。
「お口に…合ったかしら?」
「とても美味しかった。懐かしい味がした…」
「私も…同国の人に逢えて…とても嬉しい」
 儒者はふと、頭の中に浮かんだ疑問を口にした。
「あなたは、どうして此処に?」
「ワタシガ、オマネキシマシタ」たどたどしい韓語が聞こえて、儒者は声のする方へ首を巡らせた。そこには住職が立っていた。
「私ハ、禅宗ノ僧侶デスガ、儒学ヲ勉強シマス」
 儒者は夫人と目を合わせた。夫人が言った。
「儒学を独学しているんですって」
「アナタハ、儒者デスカ?」
 儒者は頷いた。
 住職は立ち上がって、両手を地面につける礼をした。
「ドウカ、儒学ヲ、オシエテクダサイ」
 住職が頭を下げた時、どやどやと複数の足音が門内に侵入して来た。侍たちが寺内に踏み込んでくる。一人の侍が儒者を見つけると、患者たちを押しのけ、庭を突っ切って来た。
「その方、カンハンだな?」侍たちは儒者の両肩を左右からがっしりと掴んだ。
「お待ちくだされ…」住職が言い募ろうとした。
「問答無用だ。この者は逃亡の大罪人ぞ」侍たちは儒者を乱暴に引っ立てて行った。