小説「旅人の歌ー 儒者篇」その12 - 虎武者 | 物語書いてる?

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 土蔵の小さな窓から薄日が入って来た。儒者はまぶたを閉じたまま、その陽射しを感じ取った。肌色の膜を通した世界は、ほんのりと暖かった。乱雑な足音がして、牢の前で止まった。儒者の眼が開くと、倭人達が儒者を牢から引っ張り出した。
「どこへ行くんだ?」と聞くと、倭人達はニヤリと笑った。
「そうだ。『オデカケ』だ」
 その声に、隣で寝ていた義父と兄が眼を覚ました。
「どこへ行くんだ?まさか?」兄が咳き込んだ。
「婿殿…」義父と儒者の目が合った。儒者は笑顔を作った。
「お前たちは『オデカケ』しない。行くのはこの者だけだ」
 儒者は草で編んだ床の上に座らされた。奥の壁には掛軸が掛かっていた。そこには虎が宙を飛んで獲物に襲い掛かる絵が描かれていた。その虎の眼に狂気の光があった。その前に、すっと人が座った。
「お前、儒者か?」横にいた者がたどたどしく訳した。
「わしは、『…虎』だ」
 儒者は虎武者の風貌を見据えた。眼は三白眼で、口髭が貧相に生えている。薄い唇は絶えず舌で湿らせていた。『虎』というより、狐のようだ、と儒者は思った。顔に気を取られ、訳官のたどたどしい韓語を聞きそこなった。
「儒教は、何?」
 儒者は、口を開かなかった。
「お前、これか?」虎武者は頭の悪い事を示すしぐさをした。
「『虎』が人を喰らう以外に何の用だ?」
 儒者の言を聞いていた虎武者は、大きな声をあげて笑った。
「こやつ、知恵はあるようじゃ。よかろう。返答次第では、喰らうぞ。もう一度聞く。儒の秘密を教えよ。どうやって人の世を治めるのだ?」
 訳が終わっても、儒者はしばらく黙って、じっと虎武者の様子を見た。事が破たんした気配がないことを見極めてから、ゆっくりと口を開いた。
「それには、まず『仁』を身につけよ。『虎』から人になるのだ」
「『仁』とは何だ?」虎武者はもどかしげに言葉を発した。
「それは、人殺しをやめ、己の胸に手を当てて聞いてみる事だ。『何故他国の人間を殺すのだ?』と」
「こいつ、本気で喰らってやろうか?」虎武者は目を剝いて立ち上がった。
 そこに、地がゆらりと力を放った。
 虎武者は重心を失って、その場に這いつくばった。震動が地から突きあがり、柱が音を立てて折れた。天井が落ちてくる。儒者は頭を手で守り、障子を突き破って外に出た。土蔵の方角へと走る。義父と兄は壊れた土蔵から体を抜き出そうとしていた。儒者は二人の体を引っ張り上げた。
「お怪我は?」儒者は二人の体を調べながら聞いた。
「何とも無いようだ」義父と兄が応える。
「よかった。とにかく、此処を離れましょう」
「三人は街中を走った。倒れた屋敷から火が出ている。西の空から黒煙が巻き上がった。
「海へ、海の方へ行きましょう」儒者は記憶を辿りながら、二人を導いて走った。道は人と荷車であふれかえっていた。子供の泣き叫ぶ声。老人の倒れる姿。男達の怒号が響き渡った。前方の人間が叫んだ。
「ツナミダ。津波が来るぞ」その声は切迫していた。儒者は咄嗟に海と反対の方角へ戻った。儒者たちは山の中に逃げ込んだ。回りには避難した人が大勢いた。夜になると、回りの人たちは身を寄せ合って暖を取った。干し芋が回って来た。儒者は渡してくれた人に頭を下げ、義父、兄と分け合って食べた。近くの民家が人々に解放され、そこで共同の生活が始まった。人々は山を下りて町の消息を探ったが、しばらく復する見通しが立たなかった。山を下りた人たちは戻って来た。儒者たちは自然にその共同生活に溶け込んでいった。山の奥に入って薪を拾い、山茸の類を採って来た。赤子を抱いていたおかみさんは笑いながら、儒者の採って来た茸を選り分けた。ほとんどが食さぬ物であったが、おかみさんは儒者に手を合わせた。儒者は他の男達と鍬を持って山芋掘りに行った。その中で、儒者は次第に言葉を覚えていった。
「あんさん、ひ弱そうに見えてなかなかやりまんな」
 白髪の混じった農夫が、儒者の肩を叩いた。