小説「旅人の歌ー 儒者篇」その9 - 停戦 | 物語書いてる?

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 田や畑に、作物が実らなくなった。手入れの途絶えた土地は痩せ、植物は病に冒された。大地が毒を飲み、腐った死体を分解する能力を失った。大陸からの熱風が吹き荒れ、砂が宙を舞った。砂はそのうち蝗の大群へと変わった。蝗害の通った土地には、何も残らなかった。 
 倭人の進軍は続いた。もはや糧秣の現地調達すら滞りがちとなっていた。兵は目先の略奪に心を奪われ、欲望だけを生きるよすがとしていた。倭兵は秀吉の恩賞を疑わなかった。切った人間の鼻は全て恩賞だった。どの兵の顔も青ざめ、腹をくだし、目だけが燐光を放っていた。倭兵は胃の物を吐きながら人を殺した。人を殺すごとに、額の血管が膨れ上がり、瞳孔が開き、目尻が上がる。その姿は、次第に餓鬼に近づいて行った。朝鮮の王はどこまで行っても捕まらず、闇に紛れて兵たちが消えていった。翌朝いなくなった兵が見つかった。それは木に吊るされていた。いたるところで竹に足の甲を突き刺した。そのまま沼地を抜け、破傷風で戦線を離脱するものが増えた。
 その進軍が、ついに止まる日が来た。明軍がやっと重い腰を上げ、首都奪還に向け兵力を増強してきた。戦線は膠着した。倭兵は、疲れていた。昼餉の椀の中に血が流れた。兵は口の中のものを思わず吐き出した。吐き気は連鎖した。飯と唾液が辺りに飛び散る。何人かは腹を抱えて外に出た。

「またお前も見たのか?」首を振って、今見た像を追い払う。
「こればかりは、どんなに戦場を経験しても収まらねえ。むしろ経験すればするほど、幻影は多くなる」
「この間は、椀の中で赤子の指が蠢いていた。良く見ると、でかい虫だったけど...」 
「う、うああー」
「い、いやだ。俺はもう帰るぞそこをどけ」
 逃亡者と追跡者が、斬りあいを始めた。

(この戦は、間違っている)

 武将たちの想いは、腹の底で充満していった。その気体にも似たものは、出口を求めて体内を彷徨った。そのころから、一度支配下に置いた土地で反旗が上がり始め、倭軍は次第に点と点を繋ぐだけで手一杯となって行った。

 長宗我部元親は、深い眠りの淵から、引き起こされる様にして覚醒した。陣幕が揺れて、一陣の風が舞い込んだ。何かの息が顔にかかる。身を起そうとして、四肢の上に影が乗っている事に気が付いた。それは、人ではないものだった。小山程もあるものが五つ、元親の五体の上に蹲っている。頭をめぐらそうとした途端、唸り声が聞こえた。
~ 長宗我部元親、我が言葉がわかるか?
 それは頭の中から聞こえてきた。
~ お前は今、我が呪縛にかかっておる。
 元親の背中に汗が湧いた。
~ お前は、己の出自を侵したのだ。
~ 我が言葉の意は、わかっておろう?
~ お前の運は、蘇民将来の恨を受けるであろう。
~ それは、儂にはどうすることも出来ぬ。
~ お前の子孫は、その身分を貶められ、その肩を足で踏みつけられ続けることになる。
~ 我が言葉を覚えておけ。
~ お前が、己の出自を侵した罪は、永劫に消えぬのだ。
 体から、重圧がふと抜けた。幕内の空気が薄くなり、元親は喘ぐように息を吸った。

「殿、一大事にござる」外から駆け付けた侍が勢い込んで入ってきた。
「兵が、兵たちが下痢を、流行病のように…」
「殿、長宗我部の軍が…」
 加藤清正は起き上がった。
「どうした」
「撤退を始めました」
「何?何ゆえだ?」
「軍に疫が起きたらしく…」
「疫?」
 雨の激しく降る夜、一人の僧が清正の本陣を訪れた。
「坊主が戦陣に何の用だ?」清正は癇癪を隠そうともせず、いらいらと言葉を放った。
 その僧は、じろりと清正を見た。その眼に強い光を認めて、清正は表情を改めた。
「おい、通訳。この坊主の意図を聞け」
 僧が話を始めた。
「停戦交渉に来た」
 清正の眉が動いた。
(何故、儂のところに?)
「停戦とな。ほう、全戦全勝のわが軍に乗り込み、停戦とは片腹痛い。お主は今、虎の髭に触っていることに、気付かなんだか?」
「虎とな。人ではないと申すか。知恵を持たぬと?」
 その言葉は清正に伝わるまでに時間を要した。清正の顔は次第にどす黒くなっていった。
「そもそも貴公は、虎を見た事があるのか?」僧は笑いもせずにむっつりと言った。
 清正は妙な気分に陥った。通訳を介しての会話は、どうも今一つ相手がわからない。次第にこの僧に興味を持ち始めた。清正は、単身乗り込んできたこの僧の度胸が気に入った。
「虎とこの会見と、どういう関係があるのだ?」
 僧は苦笑いした。
「これは話がそれた。失礼つかまった」
 (何だこの坊主は?停戦交渉に来た緊張感がまるでないではないか?)
「で、お主は何を持ってきた?勝者である我が軍に来たからには、それ相応の物を用意したのであろうな?」
 僧は、頭を掻いた。
「いや、別に何もない。何か拙僧から欲しかったのか?」
「そうではない」
 清正は声を荒げた。
「お主のような貧乏僧から、この上何かを取り上げようなどと、さもしい根性は持たんわ」
 そう言って清正は、はたと自分を振り返った。賤ヶ岳の戦からこのかた、清正は一度も交渉というものをしたことが無かった。いつも自慢の槍に物を言わせて突進してきた。しかしその間、他者はどうか?遠く日の本より勝手に指示を繰り出す石田三成。首都に居座り、明と密談をしているらしい小西行長。いずれも儂の戦功を何だと思っている?
「何か、悩みがあるようだな?」
 様子を見ていた僧が言った。
 清正は、ふと爪を噛んでいる自分に気がついた。
「おい、酒を持て」
 侍が聞き返した。
「酒ですか?」
「そうだ」
 酒と膳が運ばれてきた。僧は案に相違して、なまぐさ物を箸で口に運んだ。酒もよく飲んだ。しばらく無言での饗応が続いた。
「して、何も持たぬ敗者のお主が、どうやって勝者の儂と停戦を交渉しようというのだ」
 僧はつるりと頭を撫でた。
「今お主の陣に、疫病が出ておるな?」
 清正は思わず聞いた。
「それがなんだというのだ?」
「あっさり認めたな。この一事でお主の軍隊の士気が知れたわ」
 清正は顔をしかめた。
「まずは、その疫病を鎮めねばならんの。このままでは、どちらの陣営も人がいなくなるぞ」
 清正は僧の顔をじろりと睨んだ。
「どうするというのだ?」
「疫病者を隔離し、その居所を焼く」
「そうして我が軍を潰す肚か」
 僧は苦笑した。
「お主の兵だけが死んでくれるのであれば、何もここまで来る必要はない。ただ待っていれば良いだけの事。疫病神は、お主の兵だけを選んではくれぬのだ」
「して、疫病を鎮めた後は?」
「その後は、国に帰ってもらおう」
「何?」
「ここに居ても、もう何もない。食べ物を求めてさすらうのみ。わからんお主でもなかろう」
 清正は僧を返すと、一人床に座っていた。気がつくとまた爪を噛んでいた。
 そこへ、伝令が入ってきた。
「申し上げます。沙也門ノ尉が三千名を引き連れ、敵に寝返りました」
「なに沙也加がか?」
 清正はつい愛称でその名を呼んだ。
(何故だ?)
 そこへ、副将格の浅野が入ってきた。
「聞いたか?」
「沙也加の事か?」
「そうだ。もう限界だ。兵は疲れ切っている。太閤殿下には儂が一命をかけて説明する故、この地を引きはらおう」
「外に密使を待たせてある」
「何?誰からだ?」
「先ずは、書を読もう。おい、ここに密使を通せ」
 そこに、黒覆面に顔を包んだ男が現れた。清正が渡された書を読んでみると、そこには小西行長と明の和平交渉の経過が書かれてあった。そして最後に一言添えられてあった。
(…命、短し。引く潮、逃すべからず。)
「なあ、俺達、何でここにいるんだ?」浅野がぽつりと呟いた。
(これを、もたらした者は…)清正の頭に、一人の太鼓腹をした老人の顔が浮かんでいた。
(家康…。なぜわしに密書を?)
「誰かいるか?先ほどの坊主を、もう一度呼んで来い」