小説「旅人の歌ー 儒者篇」その8 - 韓招ぎ | 物語書いてる?

物語書いてる?

物語に関するあれやこれや。そんなこんなでゆっくりやっていきます。

 儒者の腕の中で、夫人は儒者に微笑みかけた。自分の口から、勝手に言葉が出て行った。
「ありがとう。あなたは、私を救ってくれた」
 儒者の手に、夫人は口をつけた。そこで夫人は急に凍りついた。身を離すと、丁寧に感謝の意を述べた。そこに、倭人たちが取り囲んだ。倭人たちは何か言いながら、指で夫人を指し示し、海を差した。夫人の顔は青ざめた。儒者は咄嗟に船床にあった索具で夫人の腰を縛り、自分も縛った。そして天を差し、首を横に振った。すると曇天の一角から、急に三筋の光条が降りてきた。後ろで澄んだ声がした。
 人々の後ろに、いつのまにか三人の童女が立っていた。その言葉を聞いて、倭人たちが童女と夫人の間を空けた。畏怖の眼差しで夫人を見る。
「…虎宮主様、お会いしとうござりました。者ども、何をしておる?我ら宗像三女神の名において命ずる。疾く索具をお外し申せ」
 倭人たちは、恐れる様に夫人に近づくと、丁寧に索具を外した。三人の童女は、夫人の前に頭を垂れた。
「五虎宮主様、我らはこの地に根を生やしました」そう言って童女たちはじっと夫人を見つめた。
 夫人は戸惑った。何か、言葉を待っているのだろうか?誰かと間違われている。でも言うべき言葉が見つからない。
 夫人は、童女たちを差し招いた。童女たちは、大きく瞳を開いた。その顔は何か不自然な状況をものがたっていた。
 沈黙の時間が流れた。何故か儒者の額から汗が滴り落ちた。
 童女たちは、警戒しながら、ゆっくりと近づいてきた。そして夫人の目の前に立つと、おずおずと言葉を押し出した。
「お怒りで、ござりましょうや?そのお怒り、この場にて具現いたしましょうや?」
 夫人は、何故かその瞬間に夫を思い出した。『怒』、『恨』、『悲』、『哀』それらの言葉では表現しきれないものが、体内を昇ってきた。黒雲の内側で、くぐもった音が聞えた。頬に流れるものがあった。夫人は黙って、三人の童女の頭を撫でた。童女たちはほっと息をついた。
「では、これより『韓ぶり(風)のお招き』をいたしましょうぞ」
 
(三島木綿(ゆう) 肩に取り掛け われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや…
八葉盤(やひろで)を手に取り持ちて われ韓神も 韓招ぎせむや 韓招ぎ 韓招ぎせむや…)
 童女たちは、蝶のような舞を見せた。すると曇天がにわかに明るくなった。周囲を見渡すと波も穏やかになっている。点から次々と光条が雲を突き破って降りてくる。瞬く間に雲が消えて行った。人々がその視線を天から船上に戻すと、いつのまにか三人の童女は消えていた。この一件があってから、倭人たちの夫人に対する態度が異なってきた。飯は白飯が供され、着替えも支給された。あれから、儒者が夫人に会うことはなかった。ただその夫人が、特別扱いを受けている理由がわかって、儒者は顔をしかめた。
 長い時間が経って、船が倭の港に着いた。
 海上で奇瑞を受けた夫人の話は、行く先々で庶民に知れ渡った。北九州から大坂までの旅の間、沿道には奇瑞を受けた女人を一目拝みたいという民衆で列ができた。
(なんでも、相当な美人だとか。)
(それで、海神様が嵐を止めたのけ?)
(海神様は海神様でも、相当古い女神さまらしいっちゅうとこや。しかも、三柱いっぺんに現れて、逆巻く大波を鎮めたとか。)
(なんでも、わざわざ迎えに現れたっちゅう…。)
(ほう、神様が、人を迎えにか?それは、物凄いお人っちゅうことやな。)
(なんでも、透き通るような肌らしい。)
(お前はまたそこに戻るんかいな。)
(それが、またも太閤に?)
(そんな神様みたいなお人までか?)
(バチでもあたらんと、良いがの。)
(我が世の春もよいが、もうちっと、庶民の暮らしにも、関心持ってもらえんかのう。異国にまで戦を拡げて、わしらは、ますます苦しむだけじゃ。)
 人々は大坂城を見上げると、首を振って嘆息した。
 大坂城の奥は、騒然としていた。神の恩寵を受けた異国の女人が、入内する。前代未聞だった。奥向きの女たちに、さまざまな感情が渦巻いた。誰の目にも、その女が自分たちと異なることが、はっきり分かる。神秘なもの、異国の女。その女人は、好奇心旺盛な秀吉が好む資質を持ち合わせていた。同時に畏怖の心もあった。何かよからぬ事でも―バチでもあたらねば良いが…。
 船上から世話をしてきた侍女は、夫人の顔の表情に変化があることに気付いていた。自分の処遇に気付いた当初は、しばらく鬱としていたが、最近は食事もしっかりとり、侍女には笑顔も見せるようになった。むしろ、秀吉との対面を待ち望んでいるようにさえ見受けられる。自分の運命を受け入れるには、まだそれ程時が経っているとも思えないが…。夫人の変化に、侍女の方がついていけずに戸惑っていた。
 いや、そんなことに拘っている場合ではない。いよいよ殿下へのお目見得となるのだ。まずは無事にその夜を迎えることに集中しよう。寵愛を受け、もしお種でも宿すようなことになれば、未来が開ける。夫人にとってもそれが良い道に違いない。無事乗り切るのだ。
 その時、えもいわれぬ香が漂ってきた。あまり嗅いだ事のない香に、侍女の表情が緩んだ。侍女は、あくびを噛み殺した。
 畳から、井草の匂いが立ち上ってくる。これまで触ったことのない、不思議な感触だった。居間のつい立てには青龍が、珠を咥えて宙を昇っていた。墨の力強い筆致だった。だが、その絵には一篇の詩も添えられていなかった。色彩のない世界であった。それと対照に、部屋の至るところに、金がしつらえてあった。そこには強烈な個性があった。飽くことなき欲望が明確に表されていた。床の間にある壺は、うわぐすりの色がくすんでいた。
(私は、秀吉に会うのだろうか?)
 夫人は、鏡の前の自分をじっと見つめた。その女は、夫の知っていた夫人の顔とは異なっていた。
 夫人は、幾度も想像してみた。この戦争を始めた人間。朝鮮の民の無辜の命を、奪った人間。朝土を荒廃させた張本人。今なお、さらに民を苦しめ続ける、大悪人。そして夫の敵。
 簪の先に、短い刃を隠していた。刃には黒い毒が塗ってある。下帯の中にも、針を刺しておいた。まず吹針で敵の視力を奪う。敵の刀が奪えればよいが、なければ簪で心の臓を刺す。必ず貫かなければならない。心臓の音が聞こえてきた。自分が人の命を奪うことになるとは、考えもしていなかった。
 障子の外から、薫風が徐々に吹いて来た。何か外に居るようだった。夫人は侍女の名を呼んでみた。少しくぐもった声が返ってくる。香が夫人を包みこんだ。昨晩あまり眠れなかったせいか、急にあくびが出た。目から涙が出る。体がだるく感じられ、夫人はその場に横になった。
 廊下の向こうから湿った咳が聞えてきた。甲高い声が忙しそうに聞こえて来る。
「何なに、奇瑞とな。それはこの秀吉にふさわしい。我が身自ら日の精を浴びて生まれた者じゃからの。ホッホッホッ。やれ楽しきかな。奇瑞を受けた異国のおなごとは、数寄の心が騒ぐ」
 障子に手をかけたところで、お付きの侍がとめた。
「お待ちを、先に我らが」
「よい。早うこの障子を開けよ。一度に、ガラッとな」
音を立てて障子が開いた。そこには一人の女性が片膝を立てて座っていた。目を見張るような赤い着物の裾は円形に広がり、結界のような領域を作っていた。女の頭には太縄のように結わえた髪が巻いてあった。一見して、その場の者が息を飲んだ。
「女たち、今一度衣服を改めよ」侍の言葉に、控えていた女たちが異国の女の着物や頭を改めた。
 侍女達はその場で容赦なく髪を解き、着物を脱がせる。薄物一枚になったところで、秀吉の片手が挙がった。
「それ以上は無粋というものじゃ」
 秀吉の眼は、女の顔に注がれていた。闇のような黒髪が顔の真中から左右に分かれ、柳のように細い眉の下に、茶色の瞳がが輝いている。唇は淡い桃の色をしていた。秀吉の口からよだれが垂れた。
 閉めた障子の向こうで灯りが次々と消えてゆく。蝋燭ひとつだけになった時、何か猫が咽喉を鳴らすような音を聞いた気がして、侍は夜の庭に眼を凝らした。
 夫人の肩に触れていた手が引き抜かれる気がして、思わず夫の手をつかんだ。大きな、肉厚の手だ。手のひらに触れているだけで安心する。
(まだ…もう少し…。)夜が明けたらまた夫を戦場に送りださなければならない。
(もう一刻だけ…)夫の手のひらを唇につけた。
 自分の声が漏れていることに気付く。その声は…泣き声だった。
「中に誰かいるのかね」
 声が聞こえてきて、その言葉が母国語でないことがわかった。夫人は眼を開けた。
 戸が開き、光が差し込んできた。入ってきたのは侍女だった。
「ここにいたんですか。ずいぶん探しましたよ」
「ここは?」
「布団部屋ですよ。何もこんなところに隠れなくても…まあ、過ぎた事言うのはやめにしましょう。さ、早く出てきてください」
「私は…?」
「今からでも遅くない。戻りましょう。殿下に頭を下げて機嫌を直してもらいましょう」
 侍女に連れられるままに、夫人は元いた部屋に戻ろうとした。その部屋の前には、侍が控えている。
「何者?」
「朝鮮からの客人ですよ。船で奇瑞を受けた…」侍女が説明を始めようとした。
「何を言うておる?その女子ならば、今この中に殿とおるわ」
 侍女は顔色を変えた。その女は偽物だ。殿下が危ない。侍はそれを聞くと、障子をガラリと開けた。
「殿!」大声で安否を確かめる。
 暗がりの中に、秀吉が一人で寝ていた。
「やっ。あの女は?」侍は秀吉を起こそうとした。
「殿…殿?」
 秀吉はうっすらと目を開けた。その表情から生気が抜けている。まるで死相だった。
 その時、白檀の香をついて、腐臭が匂って来た。そのもとは秀吉だった。
 侍は先ほどまでとの変わりように不審を抱いた。
「医師を呼べ」
 夫人は、そこに小さな人を見た。顔はしわだらけで、あばたが浮いていた。もう既に、自力で起き上がれそうになかった。
(こんな弱々しい老人に、我が国は蹂躙されたの?)
 緊張がいっぺんに解け、夫人はそこに座り込んだ。涙がひとしずく、頬を伝って流れた。
「何?殿が?」三成は後ろを振り返り、左近の頭をみた。
「さようにござります。今医師に見せているところと伺っております」
 三成は、腰を浮かそうとしたが、逆に胡坐をかいた。
「左近」
「はっ」
「そち、ちと芝居をせい」
「殿下の色狂いを、昨晩も相当派手であったとみせるのだ」
「はっ?」
「そのうえで、そちが直々に諫言し、謹慎処分となれ」
「は」左近は口の端を歪めた。実際に諫言する積りでいた。
「またそちの手の物をやり、五大老の動静を探らせよ」
「承知つかまつった」左近は静かにその場を辞した。
(はて、あの老人が、気がかりなことよ。)
 三成の頭にあったのは、主君の顔ではなかった。