小説「旅人の歌ー 儒者篇」その7 - 邂逅 | 物語書いてる?

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 目を瞑っていると、夫の匂いが近付いて来た。お日様の匂い。日差しをふんだんに浴びた布団の匂い。渇いた夏の日に谷を渡る風の匂い。風が運んで来る海の匂い?夫人は、ふと目を覚した。
 天井が揺れている。胸の上に布団が見えた。起きあがって、現実の記億が蘇って来た。頭の芯が痛む。立上がって体の平衡を保とうとした時、床が左右に揺れた。蝶番の軋む音がして、倭の女が入って来た。倭女は外から潮の匂いを運んで来た。倭女は黙って、布団の上に着替と食べ物を置いた。膝を折り、両手を前に着いて頭を下げる。倭女はそのまま外に出た。夫人は着替えを手にとって見た。金襴の帯に、白を基調とし、錦糸の鶴をあしらった絢爛な図柄だった。値の張りそうなものであることは、一目でわかった。夫人は急に興味を失った。
潮の勾いに鼻が動いた。戸を開けて、外に出た。夫人の目に飛び込んで来たのは大海原だった。陽光に波が反射して夫人の目を射た。海鳥の群れが、船団に従って上空に浮かんでいる。後方を振り返った。陸地の影が、幽かに見えた。その影は既に小さく、戻れる距離では無かった。
 夫人の眼の隅に、韓服姿をした女性が映った。立止まって見ると、その女性は人差し指を宙に差し出している。手の先に、舟虫がいた。次の瞬間、女性はその舟虫を口の中に入れていた。誰にも見られなかったか見回すと、その視線が夫人に向けて止まった。夫人は目を逸らすきっかけを失ってしまった。
 女性は頭を搔き、悪事がばれた小児のように下を向いた。それからふと顔をあげ、夫人に向かって抱き付いてきた。
「あなた、儒学というのは、何の役に立ったのかしら?」女性はそう言って夫人に歯を見せた。その目は彷徨い始めた。
「愛生は、愛生はどこへ行ったのかしら?」女性は辺りを探すと、船底から流木を抱き起こした。
 流木を覗き込みながら、舌を出してあやす。体を揺すって子守唄を歌いだした。
「チャルジャ、チャルジャ…」
(子守唄…子供を亡くしたのね。)
 夫人は思わず女の肩を抱いた。その女性の体が激しく痙攣した。胃の腑が上下に動き、女性は口から大量に血を吐いた。
「しっかりして、誰か」
 先ほどの倭女が駆けつけて来た。夫人の腕の中で、その女性は白目をむいて悶絶した。夫人の隣にいた女は、あきらめたように首を横に振ると、夫人を部屋に連れ戻った。夫人は女の身振りで、先ほどの女性が亡くなった事を知った。
 女は手振りでさっきの女性を指し、顔の前で片手を左右に振って、最後に食事を指した。
 二本指を口の前でぐるぐる回す。左の二の腕をむきだしにして、力こぶを見せた。夫人は束の間、女を見ていたが、コクリと頷くと、食べ物を口に運んだ。何日かすると、夫人は自分の状況が特別であることに気づき始めた。捕虜は、老若男女、身分の貴賤を問わず、船倉に押し込められている。滅多に夫人の目にすらふれる事が無い。なのに自分だけが、御簾で囲われた一室を充てがわれ、侍女をつけている。食べ物や着替えも用意され、言葉がわからない以外に、特に不自由もない。
 ただ時折、女達の目の中に敵意を感じる事があった。夫人の神経は張り詰めた。そんな時はあの侍女が、決まって食事を持ってきた。そして口を開け、二本指をグルグルと回して見せた。箸という共通の文化に、夫人は少し親しみを感じた。その侍女が急に駈け込んで来た。切迫した様子で語りかけてくるが、身振りからは何を伝えたいのかわからない。すると、木材の軋む音がして船が横に傾いだ。夫人は船上に出た。舟虫によって浸水が始まっていたのだ。船上の人たちは小舟に移乗し始めた。沈みかけた船を見ながら、夫人は死んだという同国人の女性に思いをはせていた。新しい船に乗りかえるときに、両班の恰好をした男が船べりでこちらを見ているのに気付いた。その眼は一瞬光りを宿したが、何かの間違いに気づいたように、光を失って行った。
 海が突如荒れ模様となってきた。波が高く、大きくうねり始める。船は、大きな獣についた蚤のように、海にほんろうされる。その時、左前方の雲間より、太陽の光が三条刺し貫き、海上を照らした。
 人々は口々に叫んだ。
「何と言っているの?」思わず侍女に聞く。
「ムナカタ」侍女はそう言って天を見上げた。指を三本出して、髪の長い仕草をする。
「女神?なのね。日の神?三人ということかしら?」夫人は仕草で筆談を求めた。侍女は筆を用意して、紙に黒々と『宗像』と書いた。侍女の書いた文字は、夫の名を思い起こさせた。
(宋…象…旦那さま。)夫人の脳裏に、夫の面影が蘇ってきた。
 夫人の回りで時が遡り始める。夫の息遣い、声、匂い、むき出しの厚い胸…。夫人は自分の想いの中に溺れた。傷を負ったところを見つけるたびに、患部に口を付けて癒した。そして―。
 気がつくと、夫人は船べりに唇をつけていた。はっと身を離した瞬間、船が大波にのまれそうになり、夫人の足が船べりを越えた。その時、がっしりとした腕に後ろから抱きしめられた。この感触は、夫の…。
 夫人が首を回すと、そこにあった夫の残像は消えていた。その腕は随分と細く、その顔は青白かった。その男は、両班の服装をしていた。