小説「旅人の歌ー 儒者篇」その6 - 子守唄 | 物語書いてる?

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 「君子は」儒者の頭の中で、妻の声がした。
「君子は危うきに近づかず」
 妻の目に奇妙な光が宿っていた。
「お前、無事だったんだな?」儒者は妻の体を掴もうとした。
「あなた、儒学というのは、何の役に立ったのかしら?」
 そう言って歯を見せた。また妻の目がさまよう。
「愛生は、愛生はどこへ行ったのかしら?」
 そう言って、船底から流木を抱き起こした。
 流木を覗き込みながら、舌を出してあやす。体を揺すって子守唄を歌いだした。

「チャルジャ、チャルジャ…」

 儒者の目頭が熱くなった。船べりから暗い波間が見える。今夜は月も無かった。暗い海の中に、小さな白い手が見えた気がして、儒者は目を瞑った。儒者はどこにも視線を向けることができなかった。
(儒学というのは、何の役に立つのかしら?)
 妻の声が耳元に残っていた。
(儒学は、地位や名誉を得られる、もっと立派で誇らしいものだと…未来を保障してくれる、輝かしいものだと思っていたのよ、私。)

 ああ、これは正気な時の妻の声だ。声に張りがある。

(でも、儒学では、娘は守れなかった。)
 この声は妻のものではない。これは夢だ。妻はそばにはいない。自分の中に居る女の声―。
(何故、娘は死ななければならなかったの?)
(天下国家だのと、偉そうなことを言っておいて、武力の前では何の役にもたたないのね。)
(何故あなたは、そんなこともわからずにこれまで長い間儒学を修めてきたの?)
 儒者は、これまで歩んできた道のりを思い返した。祖父の代からの高名な儒者の家に生まれ、七歳にして、既に儒学の世界に浸っていた。科挙に通り、家門も栄え、これまで順風満帆であった。いずれは朝堂にも登り、この国の枢密にならんと志を立てた所であった。

(ではお主、武力は必要ないとでも?)
 あの武官の声だった。それに反論する自分の姿が浮き上がる。
(そうは言っていない。もちろん武力は必要だ。重要なのは、いずれかに偏らない事なのだ。南に軍費を出し、北の備えを怠らず、ここ数年の旱、河川の氾濫対策など、全て重要なものだが、全てを一度に解決しようとすることは出来ぬ。それでは国が破たんするのだ。)

 自分の口から言葉だけが空虚に流れ出てゆく。出てしまった言葉を止めることはできなかった。儒者の心に、武官の怒りが突き刺さる。
(何を悠長な事を。そうして対策を打たないでいるうちに、他国に攻められ、国が滅びては元も子もないではないか。
 良いか。軍の教練には時間がかかる。武器も古いままでは敵に勝てぬ。特に火器が物を言う時代なのだ。士たるもの、時代の趨勢を見抜けずして、なんとするか。)
(では聞くが…)相手の怒りに儒者の心がつられる。言えば言うほど、言葉は空しく消えていく。
(軍備の増強のために民が飢え、流民が発生し、その結果亡国の危機に陥ってもよいと思うか。私が言っているのは、いずれにも偏らない『 中庸 』の道こそ大事なのだ。)

 『 中庸 』の道とは何か?脳の根幹が痛みを訴える。
(書生、流石にいっぱしの口を利くが、貴様は敵と戦ったことがあるのか?夷狄に 『 中庸 』の精神は通用せんぞ。獣の世界では、躊躇った生き物は喰われるのだ。)
(ならば、 『 中庸 』の精神を夷狄に広めれば良い。)
(何だと。何をぬかすかと思えば絵空事を…。)
(我が軍備を増強すれば、夷狄も軍備を増強しよう。これでは終わりが無い。さすれば両国とも疲弊し、疑心暗鬼になる。戦が起きれば勝者も敗者も、そののち滅ぶ。
 『 武 』のみに心を捕われるのは『 士大夫 』の道ではない。文武両道こそが物事の 『 中庸 』の道。真の『 士道 』ではないか。)

(そのような世迷い言をまともに聞いていては、この国が何度滅んでも足りぬわ。)

頬に波しぶきがかかった。そこで儒者は眠っていたことに気が付いた。海上を小舟が滑る様に近づいてくる。儒者はふと、両班の夫人の恰好をした女性が船に乗っていることに気づいた。目を大きく見開いて、その女性の顔をじっと見続けた。近づいてきたその顔は、思い描いていた顔とは違っていた。儒者は女性の顔から眼を逸らした。妻の面影を海面に求めて、喉がひりついた。横にいたカリョンが海水を手にすくってひと口飲んだ。
「おい、やめろ」儒者の兄がカリョンの手をはたいた時にはもう、海水はカリョンの体内に吸収されていった。そういえば顔がむくんでいる。
「今まで、海水を飲んでいたのか?」兄が問いただす。カリョンはこくりと首を縦に動かした。見かねた義父が大声で倭兵を呼んだ。
「水、水をくれ。水だ」そう言って水を飲む仕草をした。倭兵は笑って首を横に振った。義父が倭兵につかみかかる。その肩を倭兵は刀の鞘で打った。
「やめろ」儒者が義父と倭兵の間に入った。倭兵は笑って、その場を離れて行った。
「なんという…蛮族なのだ」義父が悪態をついた。
 午後になって、カリョンが腹痛を訴えた。下痢を起こし、額に手を当てると火のように熱い。兄は呻いた。
「まずい。腹を下したようだ」
「おい、医者は、医者はいないか?」兄は倭兵を呼んだ。先ほどの男だった。男は子供の様子を見ると、その体をそっと抱きかかえた。倭兵のその態度に、家族の者は一瞬戸惑った。倭兵はあたかも医者に見せに行くかのように子供の体をそっと運んでいく。その倭兵の体が、急に回転した。兄があっと叫んだ。
 カリョンの体は、宙を舞って海に落ちた。
「カリョン、可憐…ああ」兄は海に飛び込みそうになった。儒者と義父がその体を抑えた。兄は船べりに額を打ち付けた。兄の顔が開けに染まり、目尻から血が流れた。儒者は袖を千切って兄の額に当てた。倭兵の背に向かって叫んだ。
「獣の行いは、いつか己に戻ろうぞ」
 倭兵は耳をほじって去っていった。
 韓人達はまとめて船倉へ押し込められた。夜になっても食べ物も飲み物も与えられず、多くの者は横になって身じろぎもしなかった。どこかで鼾が聞こえ始めた。
「おい、このまま倭の地へ、連行されるつもりか?」義父が兄と儒者に膝を寄せた。
「私は、倭の地へ行きたくはありません」兄が眼を細めた。
「倭の地へ行くくらいなら、ここで死ぬ」儒者は、はっとして兄の顔を見た。義父が膝を叩いた。
「よく言った。士大夫たる者、その覚悟がなければならん。婿殿はどうだ?」
「はい…私も…既に生への執着はありません」儒者は、自分の口から出たその言葉を、他人の言のように聞いた。
(『 生きる 』とは、一体何のことだ?)
(『 生きる 』とは、どのようにするのだ?)
(『 生きる 』事に、何故こだわるのだ?)
「それでは、よいか?儂は隙があらば、逃げる」
 兄と儒者は、互いに顔を見合わせた。
「見張りの眼をくらまし、小舟を奪うのだ。後は、陸を目指す。そこで…」義父は、儒者の顔を見た。儒者はごくりと喉を鳴らし、義父に向かってゆっくりと頷いてみせた。
「私が、騒ぎを起こしましょう。その隙に、逃げてください」
 義父は儒者の肩を叩いた。兄が口を挟んだ。
「お前が…?つまり、囮になると?」
 儒者は頷いた。
「何を知っているのだ?それでは…?」兄の言葉を、義父が遮った。
「此の儘でいても、どうせ皆、そう長くは助からん。逃げるのも、囮になることも、その先は、同じようなことだ」
 兄は義父の言葉に、思わず拳を握りしめた。その拳を振り上げ、目に見えない何かを殴ろうとして、思いとどまった。拳を開き、その手を儒者の肩に乗せた。
「すまん…俺はお前を守ることができない」
 儒者は口の端をあげて、兄の手の上に自分の手を重ねた。

 儒者は船べりに出て、あたりの様子を探った。夜空に星はなく、どんよりとした雲が天から垂れ下がっていた。倭兵は要所に配置されていた。だがその注意は海上に向けられている。儒者の足元が大きく沈み、思わず床に這いつくばった。海を見ると、大波が船に押し寄せて来ている。倭人たちが大声を上げている。船を波に直角に向けようと、懸命に操舵していた。船は木の葉のように揺れた。韓服を着た女性が、その中をふらふらと歩いて行った。そこに横波が来て、女性がはずみで落ちそうになった。儒者は思わずその体を後ろから抱きかかえた。