浜は入江となっていて、そこには黒い倭船が集結していた。その船の群れは、何かを恐れるかのように、密かにこの浦に集まって来ていた。浜辺にはかなりの倭兵が駐屯しており、いずれの顔も威圧の表情をしている。
倭兵たちは、明らかに神経質になっていた。しじゅう湾の沖に目をやり、他の船影がないかを確認していた。前方の浜にさやえんどうのような小舟が見えてきた。その先の沖合には、倭船が湾一杯に錨泊している。
儒者の脳裏に、スンシンの顔が浮かび上がった。
「おぬしのような儒生どもが、国を滅ぼすのだ」
その直前に言っていた言葉は何だったか?
儒者はどうしても思い出せなかった。
「ホウ」倭将が現れて、何事かを語り掛けてきた。そばにいた将卒が皆笑った。儒者の衣を見て言っているようだった。
儒者は扇子を出して、ゆったりと仰いだ。将卒たちは笑いを止めた。一人が、儒者を乱暴に引っ張っていった。
家族は、他の捕虜たちと共に、数珠つなぎに縛られていった。倭兵は黙ったまま、儒者を縛って捕虜の列に加えた。
急に蝉の声が聞こえてきた。それは辺りの物音をかき消す程大きく、人々の思考力を奪っていった。太陽は、中天から永遠に動かないように思われた。
赤子の大きな瞳が、儒者をじっと見つめて、動かなくなった。儒者はそっと赤子に話しかけた。
「大丈夫。大丈夫だ。父はもう何処にも行かないからな。これからはお前と一緒にいよう」
赤子は何事かを話しかけてきた。
「ほう、もうお前は口がきけるのか?」
儒者は赤子に笑顔を見せた。
「お前の名前は、"愛生"だ。この父が名付けた。わかるか?」
赤子は、また口を開いた。その声が、心なしか何かを問いかけているように聞こえた。
(そうだ。"愛"は、親しい人を守りたい、慈しみたいと思う心だ。お前に対する今の父の気持ちであり、いつしかお前が持つようにと望む、父の心だ。)
赤子の瞳が、キラキラと輝いた。赤子は、独自の言語を発明したかのように、いつまでも父に話しかけていた。
「おい」義父が倭に向かって話しかけようとしていた。
「飯くらい出さないか」にこやかな顔で口を開き、歯をガチガチと鳴らす。倭兵は虚ろな目でその前を通り過ぎようとした。義父は立ち上がって足を踏み鳴らした。倭兵がビクッと立ち止まった。
「飯だ。飯を食わせろ」
手が後ろに縛られているので、歯を鳴らせて口を大きく開ける。よく見ると、その倭兵はまだ少年だった。少年兵は困ったように周囲を見ると、懐から干し魚を出して、義父の口に入れた。義父は口の中で何度も噛んだ。
義父はまた口を開いた。
「我々は、オディカ(何処行くんだ)?」
「お出かけ?」少年は少し首をかしげると、海のある方向を指した。
「まさか、倭へ…連れて行くというのか?」
すると、急に馬のいななきが聞こえ、人の動きが慌ただしくなった。儒者達捕虜もまた、軍団の後に引き連れられていった。目の前に、小舟が見えた。
「お、おい。に、逃げよう。このままじゃ倭に連れていかれる」義父の足は縺れた。ヨタヨタと歩く。
「義父上、今ここで逃げても、殺されるだけです」兄のホンが低い声を出した。
「そうやって機会を逃すつもりか?」義父が声をあげた。その声は、空気中に耳障りな音波となって広がり、後で母に抱かれている赤子の目を覚まさせた。
赤子が火のついたように泣き出した。
倭兵たちが近づいてくる。儒者の腋の下を、冷たいものが流れた。一人の倭兵が乳母の肩に手をかけた。赤子を黙らせろと言っているらしかった。母はオロオロとした。倭兵が刀を抜いた。儒者は間に入ろうと縄を引っ張った。数珠の列が乱れ、何人かが一斉に倒れた。さらに倭兵が集まってきた。
後から来た倭兵が、先に刀を抜いた男に何かを言っている。それに対し、刀を持った男は首を横に振った。儒者は地面にしゃがみ、文字を書いた。
「汝、"仁"の語を知るや否や」
倭兵は二人で顔を見合わせた。文字が読めないというように首を横に振る。
儒者は自分の胸に手のひらを当て、そして倭兵の胸に両手を当てた。
地面に"愛"と書いた。
倭兵たちの顔から緊張の色が抜けていった。儒者は赤子を指し、地面の文字を指した。倭兵の倭の中から、兜をつけた男が前に出た。その男は"愛"の文字を足で消すと、表情を消したまま、倭兵たちを持ち場に戻らせた。
数珠の列が歩みを再開した。
儒者が小舟に乗ったところで、その舟がいっぱいになった。倭兵が儒者と妻の間の縄を断ち切ると、儒者を乗せた舟は波間に向かって進んだ。背後で妻が短い悲鳴をあげた。すると、また赤子が泣き声をあげ始めた。太陽が容赦なく照り付け、海面からは不快な湿気が昇っていた。倭兵の一人が立ち上がった。儒者の視界がそこで後ろの舟から外れた。身をひねった時に、重い石を投げ込んだような水音がした。儒者はさらに身を捩って、自分の視界に入らなくなった赤子を探した。金属音のような妻の叫び声が聞こえてきた。
「どうしたのだ?」大声をあげたが、果たして妻に届いたかわからなかった。
儒者の大声に、一緒の舟に乗っていた倭兵が反応した。倭兵は刀の石突で、儒者の顎を思い切り殴った。弾みで舟に頭をぶつけた。太陽の破片が、最後に儒者の意識に降り注いだ。それきり深い闇に沈んでいった。
意識の向こう側で、誰かが見ていた。辺りは暗い闇で、ほの白い筋のような首が、はるか彼方まで続いている。その道の途中に、白い丸い顔が、何か三角の雨除けのような物を纏って、こっちを見ている。その白い顔は、晴れを乞う人形の様な形をしていた。その顔には何もなかった。ただ白い丸い顔だけが、じっと見ている。やがてその白い顔は、糸のように細い道を、滑るように進んでいった。儒者はためらった。この道を進んでいくべきなのか、わからなかった。すると、その白い顔は、途中で立ち止まり、こちらを向いた。何かよくわからない物が胸の内を昇ってきた。儒者の頬を温かいものが伝っていった。儒者は思わず、前へと進んでいった。そこに、妻が一人で立っていた
「今まで家族を放っておいて、何をしていたの?」
儒者は黙って、妻の言葉に耳を傾けた。
「都合が悪くなると、黙るのね。それは、君子の道というのかしら?」
回りにいた者たちが、それまでしていたヒソヒソ話を止めた。妻は気配を察すると、より気持ちを振り切りたくて言葉を発した。
「わかっているの?あなたのせいで…あなたの計画のせいで捕まってしまったのよ」
妻の顔は益々青ざめていった。
儒者は頬をはたかれ、そこで目が醒めた。目の前にいたのは妻ではなく、倭兵だった。ふと見上げると、黒い倭船が威嚇するように、横づけされている。儒者は小突かれながら、縄梯子を上った。義父と兄が儒者を見つけて近づいてきた。
「娘は、娘はどうした?」義父と兄が同時に言葉を発した。
「わかり…ません。妻は舟に乗れず…悲鳴が聞こえ…水音が…」
「水音?何が落ちたのだ?」義父は儒者の肩を掴んで揺さぶった。儒者は項垂れた。義父は儒者を離し、船べりを叩いた。
「まさか…まさか?」その義父の視線が、波の上で止まった。
「あれは…あの舟に乗っているのは、娘のスンア…。おおい、おおい」
妻を乗せた小舟が近づいて来た。小舟の船頭が倭兵に声を掛けた。
「スンアや。大丈夫か?」義父が大声で妻を呼び止めた。妻はそれに応えなかった。その顔は涙にぬれていた。
「スンアや、どうしたのだ?赤子は?赤子をどうしたのだ?」その声に、スンアは奇怪な声を出して泣き出した。
「あ、あなた、愛生が、愛生が…」
儒者が声を張った。
「愛生が、どうしたのだ?」
「倭兵に…倭兵が海に…愛生を海に…」
船べりを握っていた儒者の爪が音を立てた。腹の中から、巨大な気泡が儒者の口をついて出そうになった。
儒者はふと、妻を乗せた舟の船頭と倭兵が口論していることに気づいた。やがて船頭は諦め、舳を他の倭船へと向けた。
「あ、あなた」妻が泣き叫んだ。その声が途中から変わった。妻は口から血を吐いた。
「スンアや、スンア」儒者は大声で叫んだ。
妻を乗せた舟は、次第に倭船から離れて言った。
儒者は唇を真っ白にしながら、船べりを叩いた。拳に涙がこぼれて視界が霞む。近くにいた倭兵が、儒者の顔を鞘で殴った。倭兵は儒者を船倉に戻そうと何度も殴った。儒者は船べりにしがみついたまま、その場を離れなかった。