小説「旅人の歌ー 儒者篇」その4 - 捕縛 | 物語書いてる?

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 その日は、朝から気温が上昇していた。比較的風はあったが、太陽は労役に就く人々を容赦なく照射した。
「それで、一体どっちなんです?糧秣を運ぶんですかい?運ばないんですかい?」
 道の真ん中に荷車を置いたまま、人々は立ち往生した。先ほどから頑として譲らない官吏に、誰もが目を向けていた。その官吏の目の前で手を拡げているのは、地元の統治監。押し問答をやめる気配は、どちらにもなかった。朝から同じ道を、同じ荷を背負って、もう何度も往きつ戻りつさせられ、人々から時間の感覚が失われていった。

 

「まてまて、貴官は何の話をしておる。この糧秣は官庁の所有だ。これを南の水師営に送るだと?」
 相手の若さを見てとった統治監は、周囲を味方につけようと図った。
「この暑いさなかに、荷役を民に押し付け、一体のために南に送る必要があるのだ?」
 儒者はじっと統治監を見据えて言った。
「倭がこれ以上我が国に上陸をしないように、李統制使が水軍を率いて戦っていることは存じて居りましょう?」
「貴官は、その李スンシンと争ったのではなかったか?何故今頃彼の支援をする?」
 言われて儒者はぐっと詰まった。
「あれは、私が間違っていたのだ」
「何?間違っていた?その判断を誤ったお主が、今度は正しいと、どうして言い切れるのだ」
 統治監は口の端を曲げて笑った。
「では、この荷を李統制使に送ることに、どうしても反対だと言うのですか?糧秣が届かなければ、どうやって戦うというのですか?」
「いいか、今や倭軍は上陸し、各地で戦いは展開している。いや、より正確にいえば、王室をはじめ我が正規軍は、倭と戦わずして退却している。そんな時に辺境の水軍に糧秣を送って何になる?」
「王室が退却するのは王の血統を絶やさぬため。我々がそれに便乗してどうするのです?」
 統治監は声を潜めて、儒者の耳元で囁いた。
「こんな時こそ、貴官ももっと柔軟になれ。この糧秣は、倭に奪われたのだ」そう言って目配せした。
 儒者は首を横に振った。
「この地の長なる者の言葉とも思えませぬ。不肖拙官は、王室より録を頂く身。不正を見過ごすことなど到底できませぬ」
 統治監は業を煮やした。
「面倒な男よな。おい人夫、こ奴をあの木に縛り付けろ」
 しかし役夫たちは、儒者の代わりに統治監を取り囲んだ。
「ナウリ、悪いがあんたの方が縛られるべきだ。お上の米で私腹を肥やそうなど、おいらの耳に入ったからには許しちゃおけない。なあそうだろみんな」
 統治監を囲んだ男たちは一斉に気勢を上げた。統治監の顔に汗が噴き出した。
「ちょ、ちょっと待て早まるな。ここは、儂が悪かった。わかった。この米は持って行け」
 人だかりのすきを見つけ、統治監は物凄い勢いで逃げ出した。
「ナウリ」人々は儒者の前に集まった。
「この荷を、李スンシン統制使の許へ運べばいいんですね」
 儒者は、一人一人の顔を見回して言った。
「頼む」
 男たちは掛け声をかけあいながら、炎天下の峠道を、荷車を曳いて下って行った。

 

 遠くで黒い雲がたなびいていた。風に乗ってその雲から物の焼ける匂いがしてくる。雲と思っていたものは、もうもうと湧きあがる黒煙だった。その煙の下と見える辺りは
「南原城だ」儒者は思わず叫んだ。自分の声に心臓が大きく響いた。
「だんな?」後からついてきた荷駄人足達に、背を屈むように合図をした。高台に上って様子を見る。辺りに倭兵のいる様子はなかった。儒者は人足達に、この場を迂回して目的地に向かうように指示した。
「だんなはどうなさるので?」
「儂は、南原を見て参る」
 近づくにつれて、匂いがひどくなってきた。儒者は焼け焦げた人体を見た。重なって倒れている者たち、あるいは離れて倒れ、血の塊となっているもの。小さな五体が黒焦げとなっている。それを庇うような母親の顔は、目が開いたままだった。儒者の胃の腑から苦い物がこみ上げてきて、道端に迸った。
(愛生
 そこに見える者は既に人間ではなく、木や石と変わらない物体だった。ふと見上げた儒者は息をのんだ。そこには焔に包まれた人体がゆらゆらと立っていた。
「怪物」恐怖のあまり、儒者は大声を出した。
 その人体は、急速に縮んでいった。空間の歪みに吸い込まれるようにして、消えて言った。
(あなた
 其処かで声がした。ふとめまいがした。しばらく物を口にしていなかった。
(家族を、はやく逃さねば。)
 飢えでふらつく体を押し出す様にして、足を縺れさせながら、儒者は道を急いだ。

 

  儒者の妻は、腕の中ですやすや寝ている娘を見て、ため息をついた。ふと空を見上げると、雲の流れが速い。大風でも来そうな様子だ。
  (あの人は、今どこにいるのだろう?)
 
倭軍が北上してくるという噂は、今や事実として伝わってきていた。最初はその土地に拘っていた両班地主たちも、このところ櫛の歯が欠けるように、次第に姿を消していった。だが、どこに移ったらよいのか、人々は思案に暮れた。倭軍の進む経路については、正確な情報が伝わってこなかった。流民の群れは土地から出てゆき、また新たな流民が入ってきた。通りではしょっちゅう怒号、喧嘩、窃盗騒ぎが起きたが、取り締まりに現れる者はいなかった。
  門が開いて、妻の父が駆け込んできた。
「倭軍が州都から三里のところに陣を張った。いよいよここも危ない」父はオロオロと中庭を横切ってくる。
「婿から何か連絡はあったか?」
  妻は首を横に振った。夫が軍糧搬送の任についてから、一か月がたつ。その間聞こえてくるのは、敗戦の報だけだった。夫からは万一の時、山に難を避けるようにと言われていたが、山の中での不自由な暮らしを想像しただけで足が止まった。
「どうしたらよいか?」父がまたオロオロと中庭を歩く。その声に、赤子が目を覚ました。赤子は黒目がちの目を大きく開けたかと思うと、急に大声で泣き始めた。妻は赤子を揺すりながら、中庭を歩いてあやした。 
 
その時、門の外で聞きなれた咳払いがした。

 

 儒者は門を開ける手を、ふと躊躇った。南原の惨状が目に浮かんだ。
(あの時、確かに妻の声が聞こえた。)
 儒者は息をついて、門を開けた。
 目の前に、赤子をおぶった妻がいた。儒者は両ひざに手を突いた。
「あなた、よかった」妻の声が震えた。髪の毛をいじる小さい手に気づいて、妻は儒者に赤子の顔を見せた。
「ほら、お父様よ。挨拶なさい」赤子は、奇妙な生き物を見るような目つきで、父親の顔をじっと見つめた。赤子の頬にそっと触れながら、儒者の胸に温かいものが流れた。
 そこに義父が出て来た。
「婿殿、随分とのんびりしたお戻りよの。今此処に起きている状況を、知っているのか?」
 儒者は義父に向き直って頭を下げた。
「義父上、申し訳ございません。言葉もありません。先ほど、倭軍の眼をかいくぐって戻ってきました」
「そうだ。倭軍が此の地に現れたのだ」義父は大声で言った。その声に、家族の者が中庭に集まった。兄のホンは、弟の肩を叩いた。
「戻ったか、心配したぞ」
 父も足を引きずりながら姿を見せた。
 儒者はそこで、避難について自分の考えを説明した。
「何?舟を使う?大丈夫なのか?」義父が大きな声を上げた。
「はい、陸路は全て倭軍が抑えており、いつどこで遭遇するかわかりませんゆえ」
「ふむ。確かに名案だ。ここなら津にも近い」父が頷く。
「今から、すぐに出立いたしましょう」
 儒者は家族を引き連れ、近くの漁村へと向かった。村は倭軍の噂で騒然となっていた。儒者は知り合いの漁夫を探し出すと、家財を差し出して舟を出すよう頼んだ。漁夫は頭を掻いた。
「ナウリ直々の頼みとあっては、断るわけにはいかないのですがね。そんなに大勢では、乗り切れないですよ」
「他に、舟を持っている者はいないか?」
「はあ、皆さま考えることは同じようでああ、一人おります。だが、ちょっと癖のある男でして
 儒者と漁夫はその知り合いの舟主の許へ急いだ。話を聞いた舟主は、顔を曇らせた。
「かかあが島に隠れてて、今から避難しようと思っていたところでさ。ナウリについて行くことはできませんね」
 儒者は懐から家伝の宝飾品を取り出して、舟主に渡した。
「これで、何とか頼めないだろうか」
 舟主は目を大きく開けて、手にしたものを見た。
(これだけあれば、後の暮らしはふむむ。日頃威張っている両班だが。そうか。)舟主の顔が輝いた。
「ようございます。だが手前の舟は小さい。乗せるお人を選ばせてもらいますよ」
 儒者は頷いて、息をついた。
 舟主の方には父と付き添いの者たち、乳母が乗ることになり、二艘の舟は浜を後にした。海は霧が立ち込め、すぐに前後が見えなくなった。時折見える島影を頼りに、漁夫は慎重に櫂を操った。儒者は胸騒ぎを覚え、後ろを振り返った。
「すまんが、舟を止めてくれ。後ろの舟がついて来ない」皆が一斉に後ろを振り返った。兄が叫んだ。
「いない。父上の舟が見当たらぬ」
 家族の者は声を出して父の姿を求めたが、霧の立ち込める水上からは何の応えも還ってこなかった。やがて漁夫がぽつりと言った。
「あの男、逃げたんですよ。ナウリ」
 その言葉に兄が反応した。立ち上がって漁夫の胸ぐらをつかみかかる。二人は縺れ合って、舟が大きく揺れた。儒者は兄を宥めた。
「船頭、舟を戻せ。父を探すのだ」兄が大声を上げた。
「おい、何を言っている?」義父が驚いて言った。
「今は、まずこの舟の者の事を考えろ」
「ですが、早く探さないと
「ふん。もうこの辺にはいないよ。最初からあいつ、逃げるつもりだったのさ」漁夫はそう言って、櫂を漕ぎ始めた。
「どこへ行くのだ?」兄が詰め寄った。
「悪いがあんたたちを近くの島に降ろさせてもらうよ」
「何?」いきり立つ兄を儒者が宥めた。
「ヒョン(兄さん)。近くの島に降りた方が、父上の消息を掴みやすいかもしれない」
 霧が晴れて来た。漁夫は近くの島影へと舟を操っていった。浜に着いたところで、森の中から倭軍が現れた。倭兵は儒者の家族を取り囲み、槍を突きつけた。