夫人は夫の裸の胸に耳をあて、その心音を聞いていた。
トク、トク、トク。
指先でそっと広い胸をなぞる。筋肉質の厚い胸の感触を確かめる。
音を立てるかと思うくらい長い睫毛を伏せて、また意識がゆっくりと深みに落ちていく。
(このまま、ずっとこうして、眠っていたい。)
耳がぴくりと動いた。はるか夢の彼方から、規則正しい靴音が聞こえてくる。
(だめよ。まだ来ないで)
頭の上で夫の瞳が開いた。胸から直接耳へと、言葉が振動となって伝わってきた。
「夫人、客が来たようだ」
夫人は夫を自分の体で寝台に縛りつけたかった。しかし力を抜くと、起き上って薄物を纏った。
その足音は部屋の前で軍隊の様に止まった。
「司令官。お休みのところ失礼します。」
「どうした?」
衣擦れの音がしたかと思うと、正装をした司令官が室外に出てきた。
「はい、南からの伝令が来ました」
司令官は眉を顰めた。「そうか、では会おう」
執務室には、伝令が立ったまま待っていた。
「どこから来た?」
「釜山であります」伝令は憔悴しきっていた。
「御苦労。何が起きた?」
「倭が侵入してきました。大規模な兵力で、おそらく数十万かと」
司令官の目がつりあがった。
「敵の侵入経路は?」
「はっ。敵は釜山の浦に突如現れ、釜山水軍を一気に撃破。第二、第三波を待ってここを目指し、北上中です。おそらくふた時のちには到達する模様かと思われます」
数十万対六千ー。まるで蝗害だ。
司令官は外に向かって大声を出した。
「外にだれかおるか」
「はっ」
入ってきた兵に「今から軍議を始める。各部隊長を此処に集めろ。待て」司令官は簡潔に書を認めた。
「これを持って、漢城府へ行け」
夫人は食事の支度を終えると、室内に座り込んで待っていた。婚礼を終えたのが三日前だったということに気が付き、時間の流れの速さに戸惑っていた。ふと気になり、鏡の前で紅を引き始めた。問いかけているその眼の前にいるのは時分だった。このとき、様子を見にやった侍女が戻ってきた。
「奥方様、大変でございますよ。南から軍隊がやってくるそうです」
「南から、軍隊?」
とっさにどう反応してよいか分からなくなった。夫はその軍隊と、戦わなくてはならないのだ。きっと。
手が小刻みに震えた。その手をもう一つの手が押えた。
(落ち着こう)
その時、夫はもう此処へ戻って来ないのではないかという予感がした。夫人は胸に手を当てた。
「医局へ...。医局へ行かないと」夫人は頭の中の雲を振り払うかのように決然と立ち上がった。
軍議の場に次々と伝令の報告がもたらされた。敵の勢力は二、三万。武器の主力は鳥銃。釜山では味方の大半が鳥銃によって討ち死にした。威力は相当なもので、射程距離が長いため、こちらの矢頃に入る前に戦闘が始まり、甚大な被害をもたらした。
「鳥銃か」銃はほとんどなかった。何よりも、銃の精度は矢と比べても悪く、暴発も多く使い物にならない。まだ時期尚早に見ていたが…。
「直ちに分厚い板を用意しろ。それを城壁の上に並べるのだ。また甲冑には油を塗る様に兵につたえよ」
この日はうだるように暑かった。甲冑を着けた途端に体中から汗が噴き出してきた。兵たちにはまだ戦闘の経験のないものが多く、一年のうちでもとくに気候のよいこの時期、緑豊かな周囲の自然の情景と、自分たちの戦支度のあまりの違いに、何かこれから起きることが非現実なものに思えた。
遠くに砂塵が見えた。
城に達するまでの道は、細く曲がりくねっていて、山全体が一個の要塞と化した観がある。尾根にそって城壁が回らされているため、城からは、敵を見下ろす格好となり、敵の全容をつかみやすかった。しかし、この城は首都の前哨基地でしかなく、規模も小さかった。眼下に迫る雲霞のような大軍を迎えたのは、初めての出来事だった。
司令官は正門の楼閣に立ち、敵の陣構えにじっと眼を注いでいた。すると奥のほうから白旗を背に立てた騎馬武者が、訳官とおぼしき人間を伴い、前に進んできた。
「司令官に渡したい書がある。攻撃はしない。開門されよ」
司令官は顎で門を開けるよう指示した。
門のすぐ内側に床几を設え、使者を待った。
使者の持ってきた書の内容は、この城の攻撃をしない代わりに、漢陽への道案内を求めるものであった。
司令官は書を見て哄笑した。
「では、そちらの将軍にこう伝えよ。しからば道を通してしんぜよう。ただし全員首だけは置いていけ。とな」
使者はそれを聞くと、何事かつぶやいた。
「拒むならば、老若男女、赤子に至るまで根こそぎ撫で斬りにするが、よいか」訳官の声が震えた。
「ふむ。それは困るぞ。ではこうしよう。わが城門に達する前に大岩で其の方どもの体を潰してやろう」
使者は白い歯を見せると、また何事かを呟き、立ち上がった。
「良き敵に出会うたわ」
会見を終えた司令官は仮面のように表情を全て覆い尽くした。
(敵は、戦に慣れているのだ。交渉をしようとすらしない)
みぞおちのあたりに、違和感を覚えた。
夫人が医局に姿を見せると、患者たちの顔が一斉に綻んだ。夫人は穏やかな笑顔で患者達に微笑みかけると、一人一人の容態を診ていった。患者の一人が口火を切った。
「戦に…なるんでしょうか」
夫人は花の零れる様な笑顔を見せた。
「今は…何も考えず、治療に専念しましょう」患者はその笑顔に見とれ、口をぽっかりと開けた。
子供の膝の裂傷に薬を塗りながら、夫人は夫を思い浮かべていた。あまりに活動的すぎて、すぐに体のあちこちに傷を作って帰ってくるのだ。しかもそれをなんとも言わず、平気な顔をしている。夫人は夫の体を調べることが日課になっていた。子供のような…。夫の顔を思い浮かべて、また夫人は微笑んだ。頭の中が次第に現実に戻ってきた。夫人は笑みを止めて、立ち上がると、傷薬、白布の準備を始めた。
司令官は城門の高楼に陣取ると、大太鼓をその横に据えた。味方の視線を尻目に、両腕を奮って鼓棒を太鼓に叩き込んだ。音は木霊となってあたりの山々を共鳴させた。二度、三度と規則的に鳴らす大太鼓に、しばし敵は呆気にとられていた。ようやく巻貝を鳴らし、攻撃が始まった。
守備隊の兵士たちは、その戦闘方法の違いに大いに戸惑った。各部所を守る司令たちは、的確に相手を射るために、ぎりぎりまで矢を待たせた。すると一斉に乾いた音がして、弾丸が急拵えの板を粉々にぶち破っていった。慌てた弓兵は矢を放つために城壁から身を乗り出し、鳥銃の標的となって倒れていった。鳥銃の殺傷力は物凄かった。弾丸は、人体に食い込んで漸くその勢いを止めた。司令官は大太鼓を叩き続けた。その音は守備兵たちの耳にはっきり伝わった。兵たちは城壁の内側から、斜度を上げて火矢を放った。だがその戦闘方式は、倭兵の眼には時代遅れに見えた。あらかた矢が尽きたと思われた頃、倭兵は城壁に向かって進撃した。
その時、城門が開いた。
黒馬に跨り、大斧を持った武者が一騎、静々と進んでくる。その武者は何事か叫んだ。
「ヤア。XXXX」
多くの倭兵がその意味するところを瞬時に悟った。最初の「ヤア」は全く同じ言葉だった。その昔鎌倉武者が一騎打ちを望んだ時に使った、その一語だった。
倭軍から、騎馬武者が槍を持って現れた。
両者は全軍の見守る中、静かに対峙した。
やがて双方はおもむろに馬に鞭をあてた。馬は鋭く嘶いた。物凄い勢いで相手目がけて駆けてゆく。一瞬武者同士のぶつかる鈍い音がしたと思った時、馬同士も頭から激突し、人馬とも横倒しになった。周囲は二人の人影に眼を凝らした。どちらもしばらく倒れていたが、やがてよろよろと立ちあがった。両軍から喚声が上がった。その声に、二人は正気に戻った。相手に眼の焦点を合わせる。おそらく脳震盪を起こしているであろう。それでも、眼の前の敵にひたと眼を据えたまま、互いにその距離を縮めていった。
「推参」「応」
司令官は叫びざま地面を蹴って宙に舞った。その下腹を長い槍が貫いた。司令官は目を剥きだすと、両手で大斧を相手の脳天に振り下ろした。相手は即死した。
司令官に、力は残っていなかった。口からごぼごぼと血が吹き出た。それを見た敵陣から声がかかり、鳥銃の一斉射撃が司令官にとどめを刺した。
医局には大勢の怪我人が運び込まれていた。夫人は白布が足りなくなりそうだと気付き、家の奥から夥しい衣類を運び出してきた。
「みなさん。まずは止血が先です。唇が紫色の人は注意して。頭の損傷者、腹からの出血者も気を着けてあげて。応急処置が終わったら、次の人を診てあげてね」口はそう言いながら、手は患者の止血に努めていた。その目の隅に、ひっきりなしに外傷者が運ばれてくるのが映る。一瞥して重傷者を見分けると、そちらにかかる。瀕死の者の大半は銃創だった。弾が肉に食い込んでいて、応急手当が意味をなさない。どうにかして弾を取り除かないと…。その時懐中の守り刀に気がついた。意を決して、傷口を切り開き、丸い弾を取り出した。額の汗が地面にボタボタと落ちた。ふうっと口から息を吐いた。
「奥方様」後ろを振り返ると、そこに夫の部下が立っていた。
「お話が…」
急に心臓が重苦しく感じられた。
「司令官が。お亡くなりになりました」
脚の筋肉が急に萎えた。夫人はその場に崩れ落ちた。
それから後の事を、夫人は覚えていなかった。鼓膜が破れてしまったかのように、世界が夫人を置いて遠ざかっていった。そして倭兵が医局になだれ込んできた。
夫人の意識は半覚醒の状態で、倭軍の将と対峙した。責任者はいるかとの問いに、静かに首を肯んじた。
倭将は、一瞬夫人の姿に見とれた。夫人は夢見心地のように、うっすらと微笑んでいた。自分の目的を思い出すまでに、時間がかかった。そして地面に、人の体から取り出されたと思われる血だらけの銃弾が転がっているのを見て、しゃがみこんだ。地面を指差して、夫人の仕事かと問うた。夫人は微かに頷いた。
倭将は兵に目配せした。次々と負傷兵が運ばれてきた。倭将は夫人に槍を向けた。
夫人は、倭人に包帯を巻いている自分の体が、他人のように思えた。