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虹の戦士からのメッセージ

~ 倖せになる方法 ~

長い出張から帰ってきました。途中の休日を利用して日光東照宮まで足を伸ばし徳川家康(東照大権現)にご挨拶をしてきました。

父は元気な頃、何度か日光行きを計画したのですが、天候の都合でとうとう行けませんでした。というより行かせてもらえなかったのかも知れません。


今回は天気に恵まれただけでなく、白龍、毘沙門天、薬師堂、観音様、開運表札とさまざまな出会いが準備(印籠)されており、行ったというより行かされた気がしてなりません。

またゆっくり写真なども添付したいと思います。


No.8 彼女は腎臓病


フォークグループでシグナルの代表曲「二十歳のめぐり逢い」という曲が流行っていた頃、私も20歳、大学で私はギタークラブの部長をしていました。部長特権というか、その頃彼女がいなかった私は、可愛い新入生とお付き合いを始めていました。


ある日、朝からデートをしていているとやがて、彼女が「私もう帰らなくちゃ!」と言い出すであありませんか!せっかくのデートなのに。わけを聞くと「今日はすごくむくむの」というのです!

むくむ理由を教えてくれました。
腎臓からひどいときには蛋白が+4出ているそうなのです。

腎臓機能が弱く、高校2年生の時から体育の授業を受けていなく、ドクターから「就職はあまり机を動かなくていい職種に就きなさい。」、「結婚はいいけど、赤ちゃんは産まないほうがいいよ!」とまでいわれたというのです。

毎月定期的に総合病院で蛋白検査をしている彼女に、早速ガジュツ を飲ませ始めました。すると彼女はやがてむくまなくなり、その後大学病院へ3回ほど蛋白検査にいったのですが、「もう病院には行かない、むくまないから蛋白は出ていなと思う」と言い出すぐらい元気になっていました。

そうなのです、当時尿蛋白を調べるだけなのに病院に行けば半日つぶれるのです。

彼女はそのとき以来、腎臓関係で病院に行ったことがありません。また、就職は動き回らなければならない旅行社にお勤めしました。

私が22歳の時「22歳の別れ」という風の曲が流行りましたが、私達は分かれることもなく、ガジュツ が接着剤となりご想像通り彼女は私の妻になりました。

その後子供も三人授かり、三人目の赤ちゃんは、主産した産婦人科開院以来の4,300gという大きな男の子でした。
勿論タンパクは出ませんでした。


私と出逢わなかったら「今頃腎臓透析していて、子供も持てなかったかもな!」という私に「あなたと出逢わなかったら、もっと良いくすりに出会ったかもしれない!」という妻もなかなかしたたかです。(笑)

私はこれもシナリオで、二人は出逢うべくしてであうという印籠が準備してあったとのだと思います。

                 続きは次回

父の人生を振り返れば何一つ偶然はなかった、とつくづく思います。


私の人生のシナリオは、今現在の平均寿命からすれば、半分を過ぎたぐらいといったところでしょうか!

私の人生の前半は・・・

父が貧乏でしたから当然私も貧乏生活でした。5歳半まで私にとって、父と母それに姉姉たちと一緒に暮らせる毎日に、何の不満もありませんでした。

しかし、5歳半の時母が入院し、四人兄弟の末っ子長男である私の生活は一変してしまいます。

家事全般が家族全員による共同作業です。小さい私にできることは限られたことだったのですが、それなりのお手伝いをしていました。

やがて7歳の時母が亡くなり、鍵っ子になっていた私は、勉強など一切しませんでしたので、成績はさっぱりです。

貧乏で、成績が振るわず、片親という三拍子そろっているわけですから、世間の大人の噂は言わずもがなでしょう!だが、いじめにはあわなかったですね。

ただ、マラソンだけは父に似たのか、その頃は早かったですね。頭脳は母似だったのでしょうか?母の名誉のために、母方の従兄弟は結構優秀ですので、私が特別なのでしょう!

バラドアジャ・リシの預言書にも書かれていたのですが、記憶力を削がれて産まれてきているとのことでしたので、記憶力が悪いというのは、私に別の何か人生の目的があってのことなのかと近年は思っています。

学校、学生時代は記憶力が良い方が住み良い世界のようですが、一生を四季で捉えれば、大まかに学生時代までは人生の前半にすぎず、長い人生というフィールドで物事を捉えれたとき、記憶力ではなく、如何に倖せに生きることのできる思考力を持っているか!ではないでしょうか?

また、私は一生懸命どんなに勉強しても二番でトップにはなれなかったし、まるっきり勉強しなくてもビリにもならなかった。これもシナリオ。

だから私は何事においても天狗になったことがありません。天狗になってはいけない、なれない運命・宿命なのでしょう!

小学校4年生の時、学年マラソン大会で二位になりました。
勉強はともかく父譲りというか、マラソンならば父を喜ばせることができると、来年は一位になろうと時々練習をしていました。

いよいよ翌年のマラソン大会当日がやってきました。
私は余裕で折り返し地点を一位でターンして運動場に戻ってきたのです。あとトラックを半周すれば念願の一位です。ところがです、今年転向してきた男が残り70メートルというところで私を抜き去ったのです。今でも覚えています。あいつさえ転校して来なければ!どんなに足を上げようとしても上がらないのです。
これもシナリオでしょうね!

いつも二位だったのですが、翌年はクラス別駅伝だったのですが、駅伝だと一位になる。バレーも個人的には下手なのに、組んだグループは優勝する。

何かそこにも、まつわる人は倖せになるというようなシナリオがあるような気がするのです。

どうのこうので二十歳を過ぎた頃から人生が変わり始めます。

父が人生を四季に例えたら一期が20年と言っていたことを思い出します。

             続きは次回


2011年7月は「毎月のお便り」としてお客様に
商品と共にお届けしているメッセージです。

2011年7月

倖せになる方法・・・場の空気にご用心

日本が第二次世界大戦に突入するとき、当然時の軍部や大臣による会議が開かれました。そのメンバーの中には戦争反対者もいたのです。しかし、日本は戦争へと向かっていきました。
そこには、反対しがたい場の空気というものがあったのです。

近年では、薬害エイズ問題です。世界でも日本 だけは加熱製剤 が開発された後も2年4ヶ月以上の間放置されたままなかなか承認されず、非加熱製剤を使い続けたためにエイズの被害が拡大しました。


HIVに汚染された非加熱の血液製剤が流通し、それを投与された患者がHIVに感染して、エイズを発症したことで多数の死者を出したという問題です。

承認に関わった日本の多くのドクターが、加熱製剤に切り替えることを望んだようですが、偉い教授の威圧による場の空気に流されてしまったのです。

このような社会的に大きな問題ではなくても、親しいご近所での井戸端会議やちょっとした会社での会議などの場合でも、自分が有利になるようにいつの間にか場の空気をつくる人がいます。

もちろん悪気もなく自分でも気づいてなく場の空気を作っている人もいます。

だから流されて生きていると、そんなはずではなかったという結果や、家族をも巻き込む問題に派生することもありますので、くれぐれも気を付けてください。

犬や猫と違って人間は知恵があり頭が良いので、人によっては都合に合わせて悪知恵を働かす人がいる現実をお忘れなく!

庶民レベルでは嫉妬心のステージで場の空気を作る人が多いようです。しかし、そのような人は案外自分が嫉妬していることを知らない人もいます。

場の空気に流されない方法は、自分自身で信念を貫けるくらいの軸をしっかりと持つことです。例えば、自分にとっての究極の倖せとは?を常日頃から考えたり、メモしておくと揺るがない軸を作ることができます。

くれぐれも、ネバなら無い!とか、こうあるベキ!という落とし穴にはまらないようにしてください。

とにかく自分自身が調和のとれた場の空気を作れれば最高ですね。

あなたの未来が健やかで明るいことを思いながら、また、次回。




父はデルモーゲン を国鉄や林野庁の保険組合や学校の保健室、職員室へと奨励販売していました。

精力的にデルモーゲン を販売する父のもとに、宮崎駿作スタジオジブリのアニメ”もののけ姫”のモデルになった世界自然遺産の島、屋久島から人が尋ねてきました。

地元でガジュツを胃腸薬として製造販売している株式会社恵命堂の柴誠社長さんです。

その人は母の従兄弟か叔父にあたる関係で、松本さんを我神散販売に誘うように!神のお告げがあった!といわれるのです。その年の内に柴社長は、父のもとへ二回目もラブコールにやって来られたのです。

信用信頼でデルモーゲン を販売している父は、そのころお客様から塗るもの(シップ薬)もいいけど何か飲むもで良い商品を紹介して欲しいという要望が出始めていましたので、胃腸薬(我神散)販売をお引き受けすることにしました。

柴社長の口を借りたにせよ、ガジュツの精霊から父は選ばれたのです。

①屋久島”もののけの森”の精霊


虹の戦士からのメッセージ


②ガジュツ乾燥所 精霊が飛び交う 

虹の戦士からのメッセージ

私が頼んだわけではないのですが、②の写真をある女性にリーディングしてもらわれた方がいて、その内容を私に教えてくれました。下記がその内容です。
写真に写っている人は私(松本)です。


虹の戦士からのメッセージ

父の運命・宿命という人生のシナリオは、ガジュツツルボ(デルモーゲン)という植物から選ばれた人生を死ぬまで歩むことになりました。

そして、そこに生まれ、家業として受け継いだ私の人生のシナリオも、ガジュツツルボ(デルモーゲン)から離れることのない運命・宿命をたどっているのです。

生きていく中で、多くの人との出会いを通して関係性が生まれます。その一つ一つを思い出し検証していくと、今の自分が何故こうあるのかとか、今からの自分のシナリオがこのようになっているのではなかろうか?ということが、腑に落ちるように分かってくるものです。

”人生はシナリオ”偶然はありません。高視聴率だったテレビドラマ「仁」の最終回で、今がパラレルワールド(多重世界)になっていて、過去が変わることで未来が変わると説明していました。

ドラマでは過去に戻って日本(世界)の歴史を変えるというような壮大な内容でしたが、私達個人は過去に戻るのではなく、今の自分が未来から来ていると考えたらどうでしょう!

未来から見れば今は過去です。
日本や世界の歴史は変えられなくても、自分達個人の未来は変えることができるのではないでしょうか?

              続きは次回

病気や薬に関心を持ち始めていた父は、発明薬を販売するために募集する研究所に就職することになりました。


その薬は植物性で、当時福岡の田舎ではお年寄りが雑草(ツルボ草)をすり潰してシップ薬として何にでも使っていました。それを見た英国人が大変興味を持ち、九州大学に持ち込み、注射薬を創るべく研究していたものでした。


結局無機化学で研究すれどもすれども注射薬はどうしても完成せず、仕方なく当時のお金で30万円と原料を渡された、当時の日本銀行券(お札)のインクを発明した人で、とてもとんちの利いた博士がいる民間の研究室に依頼されたものでした。


その研究所では有機化学で試みましたが注射薬はやはりできません。


ある日その博士の末娘の足におできができ、泣きながら足を引きずってやってきたので、そのエキスをシップ薬として塗ってみたところ、夕方には走り回るほど元気になっていたそうです。


そこで試しに研究所のある村で、病人を探しまわって多くの人に塗ったところ、またそのどれもがあっという間に治ってしまうのでした。


当時熊本県では発明展があっており、その年の発明大賞を獲得したそのツルボエキスは民間薬として販売されることになりました。


商品名をデルモーゲン として、父は九州中の病人を探して塗って回り、治った体験を九州大学に報告していたのです。


あるとき結核性の痔瘻が治ったことを九大に報告したら「素人はこれだから困る。結核性の痔瘻が手術なしで治るはずがない。」と、にべもなく付き返されそうになったそうです。


するとある教授が「なんぼ素人とはいえ九大に向かって根も葉もないことは言わないだろう!

患者は沢山いるんだから試してみたらいいじゃないか!」と、とりあえず痔に限らずいろんな症状に試してもらえることになりました。


九大で驚くような素晴らしい結果が出たので、熊本大学医学部でも臨床され、久留米大学からは臨床依頼があり、原液ではなく薄めたチンキの症例も取れました。チンキでも同じような結果が出ていました。


結果、昭和29年には正式の保険適用の医薬品として病院でも使える薬として世の中にデビューしたのです。


しかし、すでに世の中は化学薬品一辺倒の時代であったし、火傷、怪我、化膿炎症から内臓疾患まであっという間に完璧に治ってしまう薬は受け入れてもらえなかったのです。


疑問1、病気は治していいのでしょうか?・・・この質問、何かおかしいでしょう!でもデルモーゲンと関わりある仕事をしていると、このような疑問が湧いてくるのです。


疑問2、資本主義社会(利益追求社会)の中で医療を考えていいのでしょうか?なぜなら、特にあっさり治れば病院経営にとっては不都合ですもんね!


クリスチャンである父は、何でも治るデルモーゲン を持って人助けをできることがとても楽しかったようです。


お陰で私たち家族は貧乏のどん底でした。


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衛生兵として怪我をした兵隊さんのお世話をする中、戦時厳しく物資が不足し始めていました。薬品も例外ではなく化学薬品はほとんど無かったそうです。

そんな中、体が弱ってきている兵隊さんに漢方薬も処方されるようになり、その中に生薬莪述(ガジュツ) がありました。

ガジュツの写真
虹の戦士からのメッセージ
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ガジュツ を飲ませると兵隊さんが、たちどころに元気を取り戻し、快復して復帰していく姿を見ていた父は、ガジュツ は素晴らしいと実感していました。


入隊一ヵ月後、臨月だった奥さんの産後の肥立ちが悪く、赤ちゃん共々亡くなってしまったのです。。


やがて部隊が全滅したということで、父は兵役を解かれもとの仕事に戻っていました。しばらくすると戦争も終り大連の街は政情不安で気ままに歩けないほど混乱していました。

独身になっていた父は、身軽で気回りが利き、皆さんの世話役として大変忙しく働いていました。そんな折、例の大連一大きな薬品卸問屋の社長夫人から、「独身だと日本に引き上げるのが後回しになるので、良い娘がいるので結婚しないか?」と紹介されたのです。

その良い娘が私の母です。

父はその社長婦人の財産を管理していて、2年間で8倍にした実績があり、父のことを大変信頼し信用していたのです。そのお互いの信頼関係が、結婚話をとんとん拍子でまとめ、日本に無事引き上げることができました。

母は社長宅のお手伝いさんをしていて、とてもやさしく、しっかりしていて、料理が特別上手だったようです。

大阪に引き上げたとき、実績のある父に三井物産からこのまま大阪に居るなら仕事はいくらでもまわすよと言われたそうですが、熊本に両親がまだ健在でしたので、一度戻ることにしました。それが運の尽きというかシナリオなんですね。

当時再び大阪に戻ることは叶いませんでした。

何とか熊本で家族を抱えて仕事をしなければなりませんが、父は体調を崩していて、何ヶ月もの間熊本大学病院に通い、いくら検査しても原因も分からなければ快復もしません。

そんな時ガジュツ を思い出し、父は母に「こんな時ガジュツ があったらな!」と、もらしたら母が、「ガジュツ なら里にいくらでもあるわよ!」。

そうなのです。母の里は世界自然遺産の島”屋久島”なのです。

早速ポンド瓶(約500g)に送ってもらい、半分も飲まないうちに体調がよくなり元気になってしまいました。

胃下垂だったのです。その頃の父の医学的知識では、胃下垂はバイクに乗る人が振動で胃下垂になるという程度の考えしかなかったのです。やがて、胃下垂は精神的ストレスが原因で起こると言うことが分かるようになりました。

今でこそ心療内科という分野がありますが、ストレスという、形のない原因を当時の西洋医学では見つけることができなかったようです。いや、今でさえ形のない原因の症状に西洋医学は対症療法にしか答えを見出していないように思われます。

ガジュツ で体調を快復した父は、今度は効果を自分自身で体感したのですから、衛生兵時代の兵隊さんへのガジュツ の実績は確信に変わっていました。

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日曜学校の先生はボランティアです。

父はやがて福井県出身のオヤジ(社長)さんがいる株屋(証券業)を営むお店で働くようになっていました。



根っからの頑張り屋さんである父は、直ぐにその店を取り仕切るようになっていて、オヤジさんが居ない方が数字を残せるといって、オヤジさんをしょっちゅう世界旅行に行かせていました。






第二次世界大戦が始まるとやがてオヤジさんは、「自動車で一日かけても回りきれないくらい広い製鉄所を持っているアメリカと戦争をしても、日本に勝ち目は無い。」といって、株屋を父に譲りそそくさと日本に引き上げて帰ったそうです。



その時父は、大連の発展振りに、もし戦争に負けたら日本人が満州に逃げてくるくらいにしか思っていなかったのです。



譲り受けたお店の屋号を丸松商会と改名し、その後も証券業は順風満帆に過ぎてゆきました。



あっという間に銀座の土地が当時一坪千円もしないころに、総資産30万円以上持っていたのでした。

(その頃銀座の土地を100坪でも買っていてくれれば、今頃私は資産家だったのに。」(笑)




おしゃれな父は、やがて教会で知り合った横浜から来た都会的な女性と交際が始まり結婚しました。



お酒はたしなむ程度でしたが、ピアノ、バイオリン、三味線、ハーモニカと楽器は何でも弾きこなし、大変充実した時期だったようです。




仕事も順調に行き、大連一大きな薬品卸会社とお付き合いが始まっていました。薬品卸会社に沢山の友達ができ、いつの間にか父の机の引き出しは薬でいっぱいになっており、あだ名が松本薬局と付いていたそうです。



証券業の傍ら、富国生命の外部社員として全国トップ社員になったり、土地や家の斡旋もしていました。



そんな折、東大卒の軍医さんが新婚で大連に赴任されてきました。新婚なのに住む家が無いと困っている軍医さんに父が借家をお世話したのでした。



しばらくしたら父に赤紙(召集令状)が届き、妊娠中の奥さんを残して部隊に配属されることになったのです。


すると、直ぐに東大卒の軍医さんから呼び出しがかかり、「松本さんは薬に詳しいそうですね。是非衛生兵として手伝ってほしい。」と誘われ、当時薬のことも病気のことも、まったく詳しくない父は衛生兵として軍隊生活をおくりました。



後で分かったのですが、父が配属された部隊は大変危険な南方の地に行く予定になっていて、それを知っていた軍医さんが借家斡旋のお礼にと衛生兵に誘ってくれたようです。(その部隊は一人を除いて全員亡くなったそうです。)


シナリオは父に宿命の印籠(決まり事)を渡しながら、少しづ人生ドラマを進めていくのでした。




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・父のプロフィール

松本秀雄 1910年(明治43年)5月15日 熊本県阿蘇郡乙姫に誕生し、阿蘇の田舎町ではありましたが学業成績は優秀で、当時5000m(今は10,000m)トラックマラソン競技で熊本県の記録を持っており、20歳まで田舎で暮らしました。


【高校生のときトラック5000mマラソン(今は10,000m)の県の記録を持っていた父は、金栗四三さんから認められ、明治大学に特待生で推薦入学できることになっていました。】


『金栗 四三(かなぐり しそう、1891年(明治24年)8月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長である。箱根駅伝の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入するなど日本マラソン界の発展に大きく寄与し、日本における「マラソンの父」と称される。熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。玉名市名誉市民。』


しかし、貧乏百姓の家には学費は要らなくても東京に行くお金も無かったためあきらめざるを得ませんでした。


これも人生のシナリオなのでしょう!




進学をあきらめた父は、代用教員になるべく、あと二年間勉強をし代用教員試験を受けたのです。一次の学科試験に合格し、つぎは二次の身体検査です。


身体検査当日、運の悪いことにトラコーマという伝染性の眼病に罹り落とされてしまったのです。


人生のシナリオは父を教員という道には進ませてくれませんでした。




将来の人生を迷っていた父に、先輩から「これからの時代は満州だぞ!満州に出てこないか?」と満州行きを誘う手紙をもらい、意気揚々と満州の大連に向かいました。


大志を抱き意気揚々と大連に到着したものの、仕事は自転車修理屋さんの丁稚でした。


まじめに働く父はやがて満州鉄道(満鉄)に働く人と出会い、自分も満鉄で働きたいと思うようになっていったのです。


入社試験を受けたいという父を満鉄の知り合いは満鉄事務所に連れて行ってくれました。

事務所に行ってみると、その部屋には何十もの机が並んでいました。しかし、その知り合いの方は学卒それも京都大学出身なのに一番隅っこの机に座っていたのです。


父は尋ねたそうです。


「何故あなたのような優秀な人がこんな隅っこにすわっているのですか?」と、するとその人は「ここにいる人たちは全員東大出身なのです。だからあなたのような高校出身では満鉄で上に上がることは不可能だから受験をやめた方がいい。」と言われるのです。


憧れの満州鉄道ですので、それでも受験をしたいと言う父にその人は、試験問題と解答用紙をくれました。必ず受かるはずです。


しかし父の人生のシナリオは宿命の印籠(決まり事)を出してくるのです。。


試験日当日、父は高熱を発症し試験どこではありません。


またもや人生のシナリオは思うように運びませんでした。




ことごとく思うようにならない自分の運命を意識するようになった父は、やがて見えない世界(チカラ)に興味を抱くようになり、PL教団の朝参りを二年間続けました。


いろんな宗教を学ぶなか、やがて日本基督教教団と出逢いクリスチャンとなります。

その後子供達を対象にした日曜学校の教師を十年間続けました。


                            続きは次回

水戸黄門というテレビドラマがあります。

私の子供の頃からすれば、すでに何十回もシリーズ化され、放映されています。

そのいづれもが似たり寄ったりの内容で、おおよそ8時46分頃になると助さんか格さんが必ず印籠を悪人に見せて一件落着となるわけです。
(でも多くの人がついつい見てしまうから何回もシリーズ化されるのでしょう。)

何を言いたいかと言いますと、

人の一生も、肉体ではなく魂に焦点を合わせると、シリーズのようなものだということです。
(それを輪廻転生といいます)

また、印籠(決まり事)を出すことは決まっている。つまり、人生には要所要所に印籠を出すことのような、(多少はどうでも良い期間もあるけど)絶対にそのことだけは決まっていて避けられない何かがあるということです。

このブログを読んでいただいている方は今生きていますので、未来へのシナリオを限定する必要はありません。

これからの人生、その一瞬一瞬で何を選択するかによって、印籠を出す時や印籠の種類が変わるからです。

しかし、すでに亡くなってしまっている方の人生を検証してみると、あーこの人の一生のシナリオはこのようななっていたんだな、と納得することができます。

92歳半で亡くなった父の人生を思うと、これから思い出を書き進むことで、父の始めた仕事を継いでいる私の人生のシナリオが読めてくるような気がするのです。

勿論、自分の未来のシナリオ選択は、自分自身でできるのですが、私自身はこれからどうしたいとか、何かが欲しいというような思いを持っていません。。

では私は何を選択をしているのかと思われるでしょう?

私の希望は、万調・皆善・無尽蔵とか愉しいことしかしない!というような漠然としたことなのです。

仕事に関しての目標は、「調和のとれた医療変革」です。
(医療関係に詳しい人に言わせると、それは不可能だといわれます。バラドアジャ・リシの預言書には、革命ではなく変革と書かれていました。)

ですので、科学の粋を集めた原発の安全神話が崩れたように、恐らく医療の世界も世の中の考え方が一変するような出来事が起こるのかもしれません。もし上記のことを前提とした私のシナリオがあるならば、それに従おうと思っているだけです。

新しい時代が都合の悪い人(今の時代に利権を持っている人)が傷つくことは仕方ないと思いますが、できる限り”調和のとれた医療変革”に向かって、愉しんで生きたいと思っています。

父は貧乏をしながらも、ガジュツ屋さんという仕事を何故選んだのか?あるいは選ばされたのか?を考えながら、自分自身の今までの人生を振り返りながら、未来を考えて行きたいと思います。

父のプロフィール・・・ 続きは次回

「バラドアジャ・リシの預言書」13 


その後の予言書

そろそろまとめなくては切りがありません。

その前に、先週、大阪のインド人S氏のご自宅を訪問しました。ついでにインド占星術を今も見て頂けるのかどうかお尋ねしましたら、時間を頂ければOkですとのことでした。
星の位置を割り出すのに2週間位かかるそうです。

ご興味のあるかたは私にご連絡ください。



本題に戻って、
実はH氏とはその後数回お会いしているのですが、後の会話のほとんどは電話になりました。

時々突然電話があり、今現在の自分(H氏)の置かれている状況、

例えば、今上天皇や皇太子殿下に世界情勢をご説明する役割を仰せつかったとか、今度(数年前)フィリピンで行われるサミットに関しての根回しを日帰りで行ってきたとか、モンゴル政府と100億円の関係や、北朝鮮金正日のお姉さんとの関わりやら、その他沢山の事など、私にとっては想像もつかないような仕事をされていることを聞かされました。

そのことも全てバラドアジャ・リシの予言書には書いてあるようでした。


約3年前、電話が掛かったとき、久しぶりでお会いしたいですね!と言いましたら、わざわざ休暇をとって大阪で会っていただけることになりました。平成20年1月21日のことです。

友人二人と妻、私の4人でお会いしました。朝11時に大阪駅隣接ホテルグランビア大阪で待ち合わせをして、夜の11時過ぎまでお付き合いしていただきました。

その時、約400年前に存在した聖者ババジとの出会いの話や、友人二人にはメセージをいただきました。

常識的には400年前に実在したババジが存在するわけはないのですが、科学が証明することが絶対と信じるほうがもしかしたら危険なのかもしれないと、この頃思うようになっていた私には、そのお話を否定できませんでした。

そのことよりも私の疑問は、何故そんなに私に情報をくれたり、私にだけ親しくしてくれるのか?でした。

前に書きましたが、バラドアジャ・リシの予言書にインドのお父さんから、松本氏と親しくするようにと書いてあったといわれるのです。・・・信じるほかありません。

その年の10月、ある日の夕方電話が鳴りました。 H氏からです。

松本さん、近いうちに「か」「き」「こ」の付く苗字で、45~46歳の女性と会うことになり、その人の言うことは必ず実行されます。

例えば、松本さんが今1000円しか持っていないとしても、その女性が来年は100億円持っています。といわれたら必ずそうなるといわれるのです。

預言書の一部に虫食いがあり、お伝えできるのは「か」「き」「こ」としか言えません。
フルネームも書いてあり、その名前も分かっているが、私にその名前を教えてはいけないと予言書には別に書かれているようでした。


わくわくする想いで「か」「き」「こ」の付く45~46歳の女性に出会うことを期待していました。


それから三ヵ月後、知り合いから見えない世界を感じることのできる女医さんを紹介されました。夕食をご一緒することになり親しく話していたら、突然、松本さん大分の宇佐八幡宮に、今月中(一月中)に行かれたほうがいいですよ!と本当に突然言われたのです。

私はハッとしました。

実は昨年の11月末、妻に宇佐八幡宮に行きたいんだけど行かないか?と誘ってまだ実行していなかったのです。

(宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県 宇佐市 にある神社 である。全国四万四千社と言われる八幡宮 の総本宮である。式内社 、旧官幣大社 。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。)


私にとっての神社は、お正月に形ばかりの三社参りくらいで、特別に好きで行く趣味もありませんでしたので、何故そのようなことを私が思いついたのか自分自身不思議で、私自身が記憶していたのです。


女医さんに突然何事ですか?と訊くと、分かりませんが、いいことがありますよ!そう思うのです。といわれすのです。

その時、バラドアジャ・リシの預言書のメッセージを思い出しました。

あなたの名前は「こ」さんですよね!失礼ですが何歳ですか?と尋ねたら46歳といわれました。

まさにドンピシャです!!


あと一週間で1月も終りです。最後の日曜日に早速宇佐八幡宮をお参りしてきました。

そこでは何も無かったのですが、不思議なことに、趣味ではない神社参りを、その年中に3回、それも三重県の伊勢神宮に3回もお参りすることになったのです。

見えない世界で、何かが起こり始めていたのかもしれません。
もうじき100億円を手にするのでしょうか!(笑)


残念なことなのですが、H氏と最後にお会いしてからちょうど一年後の平成21年1月21日に、H氏が交通事故で亡くなったと、S氏から電話がありました。まだ46歳でした。

私は残念で仕方がありませんでした。

いまだに信じられない思いです。

今でも呼び出し音の鳴るH氏の携帯に時々掛けています。

出るはずは無いのですが、H氏との関係は不思議の連続でしたので、もしかしたら「こんにちは松本さん、Hです。」と返答があるのではないかと、今でも思ってしまうのです。


今まで書いてきた事柄は全て事実です。

実際はもっと多くの不思議な事実があったのですが、何せバラドアジャ・リシの予言書にも書かれていたように、記憶力が削がれて産まれてきた私には精一杯の思い出でした。


記憶力が削がれていることについて戯言として聞いてください。

あるチャネラーから伺ったのですが、過去世で私はあらゆることを勉強し尽くして来たそうなのです。

ですので、今世は記憶力を必要としないシナリオを持って生まれてきているそうなのです。

ありがたく納得して受け入れることとします。(笑)

最後までお読みいただきありがとうございます。

次はまた違うことを書きますので、またよろしくお願いします。