「フフフ…ごめんね? ……私ったら…何言ってんだろうね」

 風が彼女の髪を遊んだ。極めて白に近い桃色のジャケットを風が揺らしていく。軽く空を仰いで深く息を吸い込むと、肘から先、両腕を手すりの上に横たえ、腕組みのような格好でもたれながら、水鏡は再び口を開いた。

「何かね、そんなの見つけちゃったんだ…最上君に。……妙な所に、力が入っててね…。それで…」

 そこで一旦口を噤(つぐ)むと、水鏡は話を変えた。

「最上君、女、嫌い?…」

「…かも知れないな」

 最上は両手をポケットに突っ込みながら、ゆっくりと水鏡の左に立ち、夕日を眺めてみた。彼女が何を言いたいのか。測りかねていた。彼女が眺める所に、彼女の心の内でも投影されていると言うのだろうか。我ながら何をしているのだろう。

「男心…土足で、踏み躙ってる、かな…?」

微笑む水鏡の顔がこちらへ向いたような気がして、最上は振り向いた。その眼に星のような輝きを見た最上は再び夕日に眼を戻した。

“泣きそうだな”

 悲しい笑顔をする。最上は、未だその心中が察しきれずにいた。

「何を見つけたつもりでいる?」

最上は尋ねてみた。

「…私には弟がいたの。……私の目の前で溺れて…海でね。……私さぁ………泳げなかったから……」

“確か、水泳教室へ通っていると言ったな……自らを…責めているのか…”

 最上は暫く考えてからようやく理解した。水鏡も暗いのだ。だからこそ一生懸命明るく元気に振舞っていたのだろう。だが、その心は弟を救えなかった自分を、ひたすら責め続けていた。

「可笑しいと思うよね。…今更……。でもね、でも…何で私……何で飛び込まなかったかなぁ…」

きっと、苦しむ弟の表情が今でも脳裏に焼き付いているに違い無い。

充分だと感じて、最上は話し出した。

「弟は家族に愛されて、不運な事故に遭い、世を去った。だが彼にとってはそれまでだ。…姉が泳げたならなどと思ってはいないだろうし、君が苦しむ事も望んではいない」

 最上は一度水鏡の様子を見て、更に続けた。

「…死んだ弟に対して、君がしてやれる事など何も無いよ。その弟が姉に何も望んでないからだ」

 五  水鏡葉月

日曜日の朝、携帯電話に着信があった。最上が出ると、声の主は水鏡だった。今から待ち合わせして遊びに行こうというのだ。桜祭りはもういいから映画でも見ようという事になった。

昼過ぎに、指定された場所に行くと、話に聞いていた噴水があった。最上は春物の淡い柄のワイシャツに黒のスラックスという格好で、噴水を背に水鏡を待った。

五分も待たなかっただろうか。ふと顔を上げると、美しい女が、遠くから真っ直ぐ歩いて来るのが見える。まるで自分に自信のあるやり手のOLといった所か。よく聞く話だが、すれ違う人が、全てそこに振り返っていた。

“ほう…”と思うのも束の間、それは“まさか!…”に変わった。

水鏡は現れた。

極めて白に近い桃色のジャケットを羽織り、純白のブラウスと黒のミニスカート。膝上までの黒いストッキングに黒いヒールサンダル。水鏡に良く似合っていた。

少し遅い昼食を取ってから、恋愛物の映画を見る。喫茶店で映画の話をして一息ついたら、今度は駅前のデパート内を眺めて歩く。そして夕暮れの街をデパートの屋上から見下ろしていた。展望鏡がいくつか設置されていたが、そんなもので遊ぶ人影も無く、今は二人だけだった。

美少女の髪が、時折風に乗って流れていた。手すりの傍に立ち、遠くの夕日を眺める水鏡の背中を眺めながら、最上は一日を振り返っていた。

世間一般にはこれが当たり前のデートかも知れない。今日一日、一本の電話に始まり、今まで無かった休日を過ごせたのは、偏(ひとえ)にこの美少女のお陰であった。水鏡は今、どんな事を考えているのだろう。最上は黙って待った。

「最上君…」

 水鏡は何やら物思いに耽ったような顔つきで夕日を眺めていた。

「ん?」

「…最上君ってさ…暗いね…」

 暗いんだね? というような言い方だった。ならば何故自分といる事を選んだのだろう。そう思った最上は水鏡の表情に目をやった。一息ついたような、しかしどこか寂しそうな笑顔が、儚げな空のグラデーションを眺めていた。

「…そう…だな……」

 少し考えてから最上は静かに肯定した。

「灰色の学ラン? つったら…厳城大附属か? そういえば今日沢山いたな」御柳が思い出したように呟く。

最上は鞘邑を振り払おうとしたが、その時彼女は身体毎完全に振り返り、今度は左腕を右手で掴む形で最上と向き合った。

「問題無いって。…済んだって言ったろう?」大人しく少し追い詰められたような、そんな声だった。鞘邑の眼もいつものそれに戻っていた。だが、腕をまるで放さない。是が非でも先へは行かせないつもりのようだ。

 それならばと、最上は自由になった右手で襟を掴んで体当たり気味に壁に鞘邑を押し当てた。人の身体を叩き付ける鈍い衝撃が、彼の腕に伝わるようだった。

「何故先へ行かせない! 学ランの奴はどうなった!? 怪我人は!?」

 気が付くと最上は鼻先をくっつけて怒鳴っていた。目前に野性的で美しい七海の顔がある。その視線は襟を掴んだ最上の手に落とされていた。

「お、おいどうした落ち着けよ、最上」

岩見達が止めようという時、鞘邑は周囲を左手で制する仕草をしてから、自分の襟をねじ上げる最上の上腕へ、手を手繰り寄せるように掛けながら、囁くような声で最上に言った。その吐息は最上の唇から顎にかけて届いていた。

「ん、…荒っぽいねえ…ったく、痛ぇったらありゃしないよ…。でもあたし、そーいうの嫌いじゃない」少し背を反らせ、最上の顎の下に元々ボタンのはめてない胸元を惜しげもなく露にして曝(さら)け出す。妖艶な笑みを浮かべて七海はとうとう最上の腕を放した。すると今度はその手を、艶(なまめ)かしく這わせるようにして、最上の腰に廻し、ゆっくりと、しかし強く引き絞るように引き寄せた。

間近に見詰め合う時間。そして囁き。

「知るべきものならば、いずれ必ず知る事になるから…」

勝ち誇ったような、そして優しく包み込むような眼で七海は静かに最上を解放した。

それから駐車場を出た七人は、吹雪く夜桜に迎えられ、甘美なひと時を満喫して、やがて帰って行った。