六  新入生歓迎試合

 見慣れない天井を見上げていた。大きなダブルベッドに薄紫色の毛布がかけられており、最上はそこで目が覚めた。ポールハンガーに女性の衣類が乱雑にかかっており、半身を起こすと自分が全裸である事に気が付いた。

「葉月か…?」

 まさかそんなはずはあるまい。食事をして家に着くなり、水鏡のメールを受け、返信。風呂に入り、明日の準備をして就寝。

おかしい。記憶が繋がらない。もう一度部屋を見渡した。正面の扉の外はどうなっているんだ? 入口のハンガーの衣類はいったい誰の物だ? 右に入るとすぐ奥にバスルームがあるのか? 誰かいるのか。いや、それより…

「ここは…」

「『どこだ』とでも言いたそうね?」バスルームから響く女の声。葉月ではないだろう。扉が開いたのか、キィーという音に続いてキュキュッと栓を閉める音がして、今まで聞こえていた音がシャワーの音だと分かった。

バスタオルのはためく音がしてすぐ、白いバスローブを身に着けた女が、短い髪をタオルで挟み込むように拭きながら現れた。美しい身体を思わせる艶(つや)やかな肌。美しい手つきで髪を掻き上げると、切れ長の鋭い眼が最上の視線を捉えた。

すぐに身構え、逃げる事を考えた時、自分が全裸である事を再認識して辺りを見回したが、服は見当たらなかった。

「俺の服はどこにやった?」

「服? 何の事?」

 惚けた振りをして近づいてきた女は、毛布を引きながらベッドを降りようと考えた最上が、行動を起こす前に、いち早く毛布の上に腰を下ろした。

不意に今まで無かった経験からか、戸惑いを感じているのか。不思議と抵抗する自分がいるようだった。この優しい感じに沈みたいと思う程、自分の中で何かが暴れ出す。不意に頭の中で何かが壊れるようなピシッという音を聞いたような気がして、水鏡の唇から思わず離れた。

 これは何だ? 最上は殆ど狼狽(ろうばい)にも近い心中を隠して、反射的に平常を装っていた。今までは無いのが普通だった。無くて然るべきものがある。それはあるべきものが無いのと同じだった。その不安を最上は心の中で整理しきれずにいた。

 精一杯平常を装って眼を逸らそうとした最上の視線を、水鏡が、全てを見透かしたような眼で捕らえた。

水鏡の口元に浮かぶ微笑は、最上の心を捕らえた彼女の自信を浮かべていたのだろうか。大丈夫。そう言っているようだった。

水鏡は両腕を最上の首へ絡み付けて、もう一度最上の唇を強く求めた。

一瞬、唇に噛み付かれたような感触を受けた最上は、次の瞬間、心の不安が霧散して行くのを感じた。

その後二人は残りの日没を見送っていた。深呼吸をすると春の香りが感じられるようだった。

水鏡が、途中で買ったペットボトルの緑茶を一口飲んで、最上に手渡す。最上はそれを受け取ると、手すりに背を向けた。水鏡は再び手すりにもたれ、夕暮れの空を眺めながら口を開いた。

「最上君…」

「ん?」

 甘えるような水鏡の声に、少し照れ臭い気もするが、最上は答えてみた。

「葉月って呼んで?」

「分かったよ葉月」

「フフ…」

「…何だよ」

 微笑む水鏡の表情が悪戯っぽい。最上はペットボトルに口をつけながら、水鏡の質問を待った。

「最上君…」

「?」

「七海さんの胸見た?」

「ブッ!!」

 むせる最上の傍で覗き込む水鏡の顔に、いつもの明るい笑顔が戻っていた。

 水鏡はとうとう笑顔を壊した。未だに何かを許せずにいるような表情だった。弟を救えなかった自分に対する恨み、そして悔しさの混じった、そんな表情で、しかし彼女はそれでも、涙をこぼす事は無かった。

「これからは、自分の人生における弟の死を、どう認識して生きていくのかを考えるべきだろう。君はどうありたい? スイミングスクール行ってるんじゃなかったのか?」

 月並みだが、高一の最上に言える事など所詮限られていた。

「…でもさぁ…私が泳げたら、助かったもの…」

 水鏡は今にも溢れそうな光を目に浮かべながら、それをこぼす事は無かった。

「心に闇を持って、生きてるな。水鏡も」

「そうだよ? 最上君なら、この痛み、分かってくれると思ってた。私のように、心に闇を持ってる…。暗いもの…。」

 震える声を押し殺して彼女はそこで深く息を吸い込んだ。それを静かに吐くと、彼女は続けた。

「だけど、そうなんだよねぇ…最上君って…強いんだよ!…こうやってさ、お互い、傷を舐め合うの、嫌い…なんだよ…ね?」

 最上は黙ったまま頷いて見せた。

 意外だった。水鏡は唯一、最上だけは自分の心を理解し、暗い人間を受け入れてくれると考えていた。そしてその心の拠り所たる最上の心に、手が届かぬ事を恐れていたのである。

 心に闇を持つ者の恐怖は、在りのままの自分を頭から否定される事だ。自分を形成する要の全否定。自分の全てをまるごと否定されているのに等しい。これを避ける為に人は偽りの仮面を被るのだ。笑顔で人に近づき他人に受け入れられる事を願っているのである。

だが、そうして受け入れられたものの中には真の自分、その要となるものは無い。他人の輪の中にいる事で、自分を受け入れてもらっているのだと思ってはいるものの、賢い人間ほど、実はそうでは無いのだと知っているのだ。自分は他人と過ごしているこの今ですらも孤独であるのだと…。

「頑張るよ…頑張るけど私…私そんなに強くない!…たまには…傷、舐めて欲しいんだ……」

 最上は歩み寄った。

「…分かったよ水鏡…。俺が舐めてやる。だからもっと自分を許してやるんだ。いいな」

 その言葉を聞いた水鏡は、最上の胸に飛び込んできた。そして顔を上げると、その眼を合わせて逃がさなかった。最上は吸い込まれるように、その唇を彼女のそれに重ねた。微かな水鏡の香りが、最上の心を震わせるようだった。