桜木が鍵を開ける。最上達が生徒指導室に入室する。桜木は今度内側から施錠した。最上が電気をつけると、七海が窓際の窓の施錠を確認してからブラインドを落とし、更にカーテンを閉めて戻って来た。

 周囲に片付けられた長机と椅子。中央に二つの長机が、向かい合わせてぴたりと揃えられていた。窓を右手に桜木が座り、窓を左手に七海が窓寄り、最上が廊下寄りに座った。

 桜木も七海も背もたれに背を預け、机の中央へ身体を向けて腕を組み、足も組んで座っている。まるで二人に咎めを受けているような重々しい状況で、最上は桜木の言葉を待った。

 桜木は怪訝そうな視線を最上へ向けて、深い溜息を二度ついた。

「まだ、思い出せないの?」

 そう言いながら、視線を一旦落とした桜木は、眼鏡を取って折りたたむと、机上に軽く投げ出した。再び鋭い視線がこちらへ向いている事に気付いた最上は、既に別の名で呼んでいた。

「ヘイラム…」

「フフフ…フン! 嬉しいわ。名前覚えてくれて。記憶が戻っていれば、改めて覚える必要なんて無かったのよ。もっといい事だって思い出すわ」

肩を揺らして笑い出したかと思うと、自棄になったように言葉を発する桜木。最上は、少し腹が立つのを感じた。

 ヘイラム。確か暗闇の女王だ。あのバリティエ達も知っている。そして、人並み外れた能力だ。フォウリエンの発光体。メイジョフの酸。バリティエの霧。桜木は恐らく影か闇。七海も何かあるに違いない。そして…ハスナワーという奴を殺した。自分も昨日、酸のメイジョフを灰に変えた。そしてしきりに問われる自分の『記憶』の在り処…。

“この女は何か知っている。俺が知りたがる何かを”

 気。そう、気だ。何故か最上には先日から昨今、この『気』といえば良いのか、何やら凄まじい威圧感を感じる事が出来るようになっていた。

 教科書を片手に閉じた桜木は、天を仰ぎ見るように一言

「時間切れだ…」と呟いた。その声色、言葉遣い、今までの桜木とは印象の異なる、言ってみれば別人の声だった。御柳が自分を指差して「俺の事?」と辺りに聞いているのが目に入ったが、最上は桜木を見ていた。

 と、静かに立ち上がった七海が教室の後方を、険しい表情で窓際に近づき、窓から距離を取って外を眺めていた。桜木も教室の前方から窓に近づき遠くを眺めている。

 教室は地上四階にある。二人の眼下には、まるで公園か、大学キャンパスのような鳳凰高校自慢の美しい景色が広がっているはずだった。

「そう、さっきからいるんだよな。誰か待ってるのか?」

岩見が、遠くに見える校門の傍に、三人位の他校の生徒がいると言い出した。

「灰色のセーラー? ありゃあ厳城大附属じゃねーのか?」と誰かが言う。

“厳城大附属…”

最上の心に花見の景色が蘇る。そして昨日の駐車場だ。終業のチャイムはそこで鳴った。

「今日のホームルームは無し。七海さん、最上君、至急生徒指導室へ来なさい」

 少し驚いた最上は思わず口を開いていた。

「俺が何をしたと?」

生徒指導室。文字通り問題でも起こさない限り用の無い所のはずだった。

「だから、言ったろう? サッカー部入っとけばこんな事には…」岩見が冗談めいた事を言う。そんな場合か!

「じゃあ何か? 入部断ったから呼ばれるって言うのか?」

最上はやれやれと溜息をついて見せてから笑って、桜木を振り向いた。

「いいから来なさい」

 依然、険しい表情で、桜木はそう言って、教室を出て行った。

 藤堂が霧小路、水鏡と三人で肩を組み突っ込んでくる。当然だが、振り向き様に突撃された最上は、グラリとよろめいてから、笑った。

「何だ、君らか」

「『何だ、君らか』じゃなぁい…」

 水鏡が膨れっ面でスネて見せるが、どうやらからかっているようだ。最上は経緯を説明して、水鏡の理解を得る。すると水鏡がこの可笑しな突撃の経緯を説明してから最上の顔を覗き込み、こんな事を言って笑った。

「今度見つけたら、まぁた突撃しちゃうよ?」

 その日最後の授業は、またしても担任の英文読解。桜木はいつもながら、あの透き通った水晶のイヤリングがよく似合っていた。英文読解は最上の苦手科目で、英語が苦手な御柳と意見が合うところだった。

終業チャイムが近々待ち遠しい時に、御柳が指された。教室の外を眺めていた窓際の岩見も、その時ばかりは一旦室内を見て、最上と顔を合わせ、プッと吹いてからクスクスと笑った。

外などを眺めてはいるが、岩見は出来るのだ。先日も英会話の授業中、抜群の発音で周囲を唸らせ、桜木に「凄いわね、何かラジオのDJっぽいけど」と言われ、「洋楽聞くんで」と答えて見せた程だ。

「ハウ、ドゥーユー、ドゥー、アイハブ、シーン、ユーフォア、アワイル…」

 御柳が必死で教科書を読むのを、頑張って聞いていると、左手を腰に当て、右手に開いた教科書に涼しい目を落としていた桜木も苦笑いで

「貴方ねぇ、私の事嫌いなの? 他の科目優秀なんでしょ? …んー、ま、まあよし! …それで?」と言って翻訳を促した。

「えー…『何、やってんの? 私は…見られた貴方を…持っている…遠くの…わ、ワイル…』…」

 桜木が、腰に当てた左手を今度は額に当てて呻きながら、何かに耐えるような仕草をしてから、

「『見られた貴方』は持ってない! もう…頑張ってよ御柳君!」と言った。

 周囲がゲラゲラ笑う。御柳は立ったまま頭を掻きながら、一緒にゲラゲラ笑ってから

「先生、分かりません」と答えた。

 突然桜木は顔色を変え、鋭い表情をする。それに気付いた生徒から直ぐに静まり返っていった。続きを読解するべきかを迷っている御柳を他所に、凄まじい気を放っている。