ナベちゃんの徒然草 -6ページ目

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

〝毎日私たちが目にする、「黒くて丸い輪っか」 はなぁ~に?〟

 

幼稚園児でも分かりそうなクイズですが・・・そう、答えは

 タ イ ヤ
     Tire

 

実は、お釈迦様の誕生日である今日・4月8日は『タイヤの日』 でもあるのだそうな。


春の全国交通安全運動の実施月の4月と、輪(タイヤ)のイメージがある〝8〟を組み合わせたことが、その由来だとか。

 

    

 

さて、このタイヤ (車輪の外側にはめる輪)・・・皆さんは、いつ頃からあったと思いますか?

 

な、何と5,000年前からあったんですって!😲 ヘェ~

 

紀元前3,000年前、チグリス・ユーフラテス河口域に住むシュメール人が、木板を継ぎ合わせて酒樽のフタのようなものを作り、その中心に心棒をつけてソリの下につけた・・・という記録があるとか。

 

更に驚くべきは、当時から外周に動物の皮を被せて釘で固定していたこと。

 

これがタイヤの起源とされています。

 

それから3,000年程経過したローマ時代になると、外周に鉄製の輪を嵌める手法が開発されてこれが1,900年近く続き、ゴム製のタイヤが登場したのは1867年。

 

そして現在私たちがお世話になっている〝空気入りタイヤ〟が初めて登場したのは1888年。


イギリスの獣医師ジョン・ボイド・ダンロップが息子の自転車に使ったこととされています。
 
     

       John Boyd Dunlop(1840-1921)

 

そして自動車に初めて装着したのが、1895年の自動車レースに出場した仏のミシュランでした。

 

       

 

その後は溝をつけたり繊維を入れたり、またラジアルタイヤの誕生等々、技術開発が常に続けられて現代に至っているわけですが

・・・ここでクイズです。

 

〝何故タイヤの色は黒いのか?〟

 

普段当たり前に見ている光景なのに意外と答えられない方が多いかもしれませんが、その理由はカーボンブラック(炭素微粒子)をゴム原料に混ぜているから。

 

そうえることによって耐久性が4倍近くまで向上するのだそうで、導入は1912年頃。

 

それまでのタイヤは白やアメ色だったんですって。

とは言え、タイヤ痕が構内の床面に残らないよう、白タイヤを装着したフォークリフトがあるそうですが。

 

       

 

黒いタイヤばかりの現代・・・中には白いボディーに白タイヤ、な~んて車が出現したらオシャレじゃないですかねェ。

 

でも数回急ブレーキかけただけですり減るようじゃ困りますが。

 

普段は殆ど意識しないタイヤの存在に、今日くらいは感謝しようではありませんか!

 

 

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それは、日本海軍・・・いや我が国にとって、最期の砦・希望でありました。 その

 

戦艦大和 

 

が沖縄に向かう途上の鹿児島県坊ノ岬沖で米軍との激しい交戦の末に轟沈したのは、今から81年前の今日でした。

 

1937(昭和12)年11月に広島・呉の造船ドックで起工され、アメリカへの情報漏れを恐れ秘密裏に建造された戦艦大和。

 

全長 263m ・ 最大幅 38.9m ・ 公式排水量 69,000トン、最高速力 27.46ノット (時速約51km)は、当時世界最大・最強の超ド級戦艦でした。 

 

  

 

建造費は約1億4,000万円。
これは現在の貨幣価値で2,600億円超! 

 

当時の国家予算の3%、東海道新幹線の総工費とほぼ同程度の巨費を投じた、日本国の浮沈を賭けた大プロジェクトでした。

 

そして驚くべきは、その主砲の規模と破壊力。

 

正式名称・94式45口径46センチ砲は当然ながら世界最大。

 

長さ2m・重さ1.46トンの砲弾は、一発当たり330kgの火薬を使用して発射されると時速2,800kmで飛び出したといわれ、射程距離は何と42km!

 

例えて言えば、東京駅から発射された小型乗用車程の重さの砲弾が、八王子や川越辺りまで飛んでいくということ。😯


写真の左に映っている人間と比べると、その大きさがお分かりいただけるかと・・・。(↓)

        

  

その主砲の威力は凄まじく、呉に作られた極秘発射実験場で試射した際には、ひとつ山を越えた民家の瓦が吹っ飛び、実験場では衝撃波で亡くなった工員もいたそうな。

それ故、大和に搭載した飛行機は甲板に出したまま発射すると破壊されてしまうため、わざわざ甲板下に格納しなければならなかったとか。

 

1940(昭和16)年8月8日に進水、やがて連合艦隊の旗艦となった大和でしたが、(真珠湾攻撃で連合艦隊自らが立証した如く)大東亜戦争における海戦は、既に機動力を活かした航空機による空中戦がカギを握る時代に変わっていました。

 

その結果、艦隊の主役は戦艦から空母に移行。

 

主砲の射程距離42kmに対し、敵戦闘機の航続距離は200km

・・・これでは勝負になりません。


大和は実質的な戦果を挙げることはできず、豪華な内装などを指して〝大和ホテル〟などと揶揄され、脅威の主砲も通算僅か311発を撃ったのみに留まったのでした。

 

米軍に上陸を許した沖縄防衛支援を目的とした『菊水作戦』遂行のため豊後水道から4月6日に出撃・・・しかし、その行動は暗号無線を悉く解読していた米軍に掌握されていました。

 

待ち構えていた米軍は1945(昭和20)年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖で大和率いる第二艦隊と交戦。

 

大和は米軍航空機約380機の波状攻撃を受けて火災を起こし、6発の爆弾と10発以上の魚雷を被弾。

 

最後に米軍が大和専用に開発したという潜行深度が深い魚雷を船底に受け、同日14時23分転覆。

 

その直後に大爆発を起こし、その巨体を3つに割られた史上最強の戦艦は沈没。

伊藤整一・第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下乗員2,740名共々太平洋に散ったのでした。(生存者は269名)

   

 

※伊藤整一司令長官に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

北緯30度43分17秒・東経128度04分00秒・深度345mの海底に、今も静かに沈む大和。

 

    

 

    
                
海中に沈む大和

 

西暦2199年には『宇宙戦艦ヤマト』として蘇り、人類を救うらしいですが・・・戦艦大和乗組員の方々がもしこのアニメを見たら、果たしてどう思われるのでしょう? 

 

宇宙に飛び立つヤマトの雄姿を見て、感激で涙するかも・・・。

母港であった広島・呉にある『大和ミュージアム』には、大和の模型が展示されています。      

 

 

1/10スケールですが、それでも迫力は十分。
広島を訪れた際には、是非足をお運びください。 

 

 

あらためて2,740名の英霊のご冥福をお祈り致します。🙏 
 

 

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もうそんなに昔の事だったのか・・・と驚くくらい、彼の急逝はプロ野球ファンにとってあまりに衝撃的な出来事でした。

今日は、プロ野球界のキムタクこと


 木村 拓也 元読売巨人軍コーチ

の命日・・・早いもので、十七回忌にあたります。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-木村拓也

 

木村コーチは1972年に宮崎県宮崎市に生まれました。

 

宮崎県立宮崎南高校時代はキャッチャーとして甲子園に出場経験があり、プロ時代からは想像できませんが高校通算ホームラン35本も打ち、また俊足を生かして5打席連続3塁打という非常に珍しい記録も残しています。

1990年に捕手として日本ハムファイターズにドラフト外で入団したものの、開幕時に支配下登録選手枠から漏れ任意引退選手扱いになるなど、出だしから屈辱を味わいました。


翌年に俊足・強肩を買われて外野手にコンバート。
しかし1994年に広島に移籍すると、今度はセカンド。

更に1996年にはスイッチヒッターに転向し、左右両打ちでピッチャー以外はどこでも守れるという、いわゆるユーティリティー・プレーヤーに。

監督としては、1人何役もこなせる有難い選手に成長したわけですが、そこを買われて2004年にはアテネ五輪の日本代表選手にも選ばれました。

 

2006年にブラウン監督の若手起用方針により出番がなくなったことでトレードを志願し、同年6月に巨人入り。

以後2009年に引退するまで現役生活19年・・・決してチームの主力ではなかったにも関わらず、息の長い選手でした。

私が個人的に忘れられないのは、2009年9月に死球により退場したキャッチャーの代役として10年ぶりにマスクをかぶったシーン。

たまたま私はこの試合中継をテレビ観戦していたんですが、時速150km超の剛速球を見事受け止めてチームを勝利に導き、原監督やチームメートから祝福を受けた時の彼の笑顔が忘れられません。


       

 

私が思わず唸ったのは、実はこの試合で加藤捕手が死球を受ける前から木村選手が出番を予期しブルペンで変化球を捕る練習をしていたこと。

まさにベテランというか、スーパーサブの試合の流れを先読みする能力は凄いですょネ。

 

同年シーズン終了後に現役引退し、翌2010(平成22)年から原監督からの要請によりコーチとしてチームに残留。


その温厚な性格から誰からも愛され、同年3月に行われたプロ野球機構の研修会では講師も務め、新人選手たちにプロの世界で生き抜く秘訣を伝授。


下積み・控えで苦労した経験を持つだけに、指導者として将来を嘱望されていた彼が、かつて在籍した広島カープの本拠地・MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で試合開始前のシートノック中、クモ膜下出血によりホームベース付近で突然崩れ落ちるように倒れたのは、4月2日。

AEDで蘇生措置が施され、広島大学病院に搬送されました。

     

しかし運び込まれた時点でレベル5という最悪の状態だったと言う彼の意識は再び戻ることはなく・・・ファンや関係者の祈りも虚しく5日後に37歳という若さで天に召されてしまいました。

 

野球選手はよく「グラウンドで死ねれば本望」と言いますが、いざ実際にこういうことが起こると、軽々しく口に出来ません。

聞けば、倒れる前夜に「頭が痛くて2時間くらいしか寝られなかった」と話していたとのこと。

もしその時に病院に行っていたら、助かったかも・・・。

ちょっとした前兆がありながら、体育会出身で体力に自信があったため気に留めなかった挙句、数日後に突如体調異変に見舞われ救急車を呼んで9時間の緊急手術を受け、生死の境を彷徨った経験が私にもあります。


木村コーチの例も考え合わせれば、自信過剰は命取りになりかねません。

あらためて稀代のユーティリティープレーヤーのご冥福を祈ると同時に、自らの健康には憶病になるべきだと再認識する次第。

そして当時10歳を筆頭に3人いた小さなお子さん達が、今は立派に成長されていることを願うばかりです。

 

 

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明治維新前後の日本は、優秀な人財が数多く輩出しました。

〝明治の三傑〟といわれた西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通のような有名人もいますが、人知れず日本に尽くした傑物も見逃せません。

今日は、江戸幕府末期に勘定奉行などの要職を務め、明治維新以降富国強兵を目指した日本に大きく貢献しながら、最期は非業の死を遂げた

           た だ ま さ
 小栗上野介忠順

 

の命日にあたります。


       

1827(文政10)年に旗本・小栗忠高の子として生まれましたが、忠順の祖父・中川忠英も勘定奉行を務めた由緒ある家系の出。

幼少時はいたずら好きの悪童でしたが、やがてその文武両道の才能を開花させ、13歳にして結城啓之助から開国論を学び、また剣は直新影流・免許皆伝の腕前に、そして砲術までも学びます。

17歳の時に初登城するやその才を認められ、早くして書院番などの出世コースを歩み、22歳の時に林田藩の前藩主の娘・道子と結婚。

1855年に父の病死により家督を相続しました。

そして1860(安政7)年に遣米使節・目付としてポーハタン号に乗って(咸臨丸と同時期に)渡米。 

 

現地では堂々とした振る舞いで代表と間違われたとか。

       

            ポーハタン号

そして船や鉄道を乗り継いで東海岸・ワシントンに到着。

アメリカの鉄鋼所や造船所を見学して、その規模の凄さに圧倒された小栗は、大西洋を横切り喜望峰~インド洋を航海して帰国。

地球を一周した初めての日本人となった彼は、その体験を買われて外国奉行に。


更に1862年6月に勘定奉行となって巨額の軍費に喘ぐ幕府の財政立て直しに尽力し、翌年には陸軍奉行、そして更にその翌年には軍艦奉行に。

 

現代で言えば、財務大臣・防衛大臣を毎年務めるという、まさに大車輪の活躍。
 

しかし1867年、15代将軍・慶喜の大政奉還に強く反対し徹底抗戦を主張したため翌年1月に罷免され、友人が勧めたアメリカ亡命を断り自ら望んで家族と共に現在の群馬県高崎市に転居。

その僅か2ヶ月後に追走してきた薩長軍に捕えられ、ロクな吟味もないまま4月6日、家臣と共に河原に引き出され斬首刑に処せられました。

まだ42歳という若さで・・・。

こうやって略歴をご紹介すると、「なんでこの幕閣が富国強兵に関わっているの?」と不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。

実はこの方、軍艦奉行になった直後に軍艦を日本で建造する造船所の建設を発案しているのです。

これは彼がアメリカ視察体験から、今後の日本は木の国から鉄の国に変貌させることが不可欠だという確信を持ったが故の進言。

また帰国途中香港に立ち寄った際、アヘン戦争に敗れた中国でイギリス人が道の真ん中を歩き、中国人が道の端をスゴスゴと歩いている様子を見て植民地がどういうものかを実感し、日本の将来に危機感を抱いたのでしょう。


幕閣たちが皆反対したものの、14代将軍・家茂はこれを承認。

 

彼はフランス人公使・技師の協力を得て建造地を横須賀に決定。

 

巨費を投じ当初は製鉄所として建設が開始されましたが、新政府が誕生し接収された後、1871年に完成。

その翌年に海軍省の管轄となり、1903(明治36)年からは横須賀海軍工廠(こうしょう)として数多くの国産軍艦を建造したのです。
                   

   
    
    1872(明治5)年頃の横須賀造船所

そして2年後の1905年5月、日露戦争・日本海海戦においてバルチック艦隊を撃破した連合艦隊には『音羽』・『新高』・『春雨』など同工廠で建造された巡洋艦などが活躍。

後に東郷平八郎が自宅に忠順の遺族を招き、

 

「日本海海戦の勝利は、小栗が作った横須賀造船所のおかげ」

と礼を述べたのも頷けます。

もし忠順なかりせば、日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。

彼のことをもっと詳しく知りたくなった方には、この書籍をのご一読をオススメします。


『小栗上野介』 (村上泰賢・著 平凡社新書・刊)  

 

       

 

彼のグローバルな思想と、日本初の本格的ホテル『築地ホテル館』や日本初のフランス語学校を建設し、また日本初の株式会社『兵庫商社』を設立した功績などを知ることが出来ます。

敗軍の将であったがために歴史の中でスポットを浴びなくても、我が国の礎を築いた逸材がいたことを、私たちは後世に伝えるべきでしょう。

大隈重信に 明治の近代化は殆ど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と言わしめ、司馬遼太郎がその先見性を高く評価して〝明治の父〟と呼んだ偉人のご冥福を、改めてお祈り致します。🙏

 

 

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それは第二次世界大戦後、米ソが激しく対立していた東西冷戦時代を象徴する出来事のひとつと言えるでしょう。

今から75年前の今日・1951年4月5日、スパイ容疑でFBIに逮捕されたユダヤ人でニューヨーク在住の電気技術者ジュリアス・ローゼンバーグとその妻エセルが死刑判決を受けた、いわゆる


 ローゼンバーグ事件

 

彼らにかけられた容疑は、第二次世界大戦中にロスアラモスの原爆製造工場に勤務していた妻エセルの実弟デビッド・グリークグラスから原爆に関する機密情報を受け取り、ソ連に売ったというもの。

 

     
             ローゼンバーグ夫妻

 

しかしその証拠としてはグリーングラスの証言だけで、夫妻は終始無罪を主張。

アインシュタインや原爆を開発したオッペンハイマーらの科学者や画家のピカソ、更にはローマ法王までが夫妻の冤罪を主張し、西側諸国で大規模な助命運動が行われました。

司法側からは「供述すれば死刑にはしない」という司法取引が持ち掛けられましたが、なぜか夫妻は供述を拒否。

結局「幾千万の生命を脅かすがゆえに、単なる殺人よりも悪い」として言い渡された死刑判決は覆ることはなく、夫妻は1953年6月19日にシンシン刑務所で同じ電気イスにより死刑が執行されたのです。

     

          死刑執行を報じた号外
 

夫妻はアメリカ史上初めてスパイ容疑で処刑された民間人となり

、冷戦が終わりを告げた1990年代初頭まで、反ユダヤ主義によるでっち上げ事件として東側諸国から批判され続けました。

しかし風向きが変わったのは、死刑執行から40年以上経過した1995年。

旧ソ連の暗号を解読した『ベノナ計画』に関する機密資料が公開され、夫妻が実際にソ連のスパイであり、アメリカの軍事機密の多くをソ連側に渡していたことが明らかに。

またベルリンの壁崩壊後に公開されたフルシチョフの回想録中に「スターリンがローゼンバーグ夫妻から渡された情報が役に立った」という記述があることからも、その事実は裏付けられます。

しかしその情報の機密度がどれくらいだったのかは不明のまま。

また夫妻のスパイ行為を自供したデイヴィッド・グリーングラスは、2001年になって 「自分の妻を庇うために法廷で偽証し、姉の罪を重くした」 と告白。

 

また当該事件の担当検事ロイ・コーンも 「判事への法廷外での働きかけを駆使し、なかば強引に夫妻の死刑判決を勝ち取った」 と後に自伝で述べていることから、果たして妻エセルが死刑相当の罪を犯したかどうか、疑問ではあります。

真相はおそらく闇に葬られたままになるでしょうが、この事件を通して感じるのは、米ソの情報戦の激しさ。

結果的にスパイ行為があったとはいえ、身内の自供だけで死刑執行するほど、機密漏洩に対しては神経を尖らせていることが、よく分かります。

では、日本はどうか。

相変わらずスパイ防止法はなく、CIAやモサドのような諜報機関もありません。

従って諸外国のスパイが大手を振って日本で活動できる状況。

外国人の人権を大事にして、幾千万の日本人の生命を危険に晒していて良いのでしょうか?😰

 

 

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3月3日と5月5日の中間だから、今日は 『おかま(トランスジェンダー)の日』 だそうですが、それと同じような感じで、桃の節句と端午の節句に〝挟まれた〟日・・・すなわち

 どらやきの日

なんだそうな。

おかまの日より、多少強引な気もしますが・・・。😅

 

     

 

どら焼きといえば、丸いカステラ風生地に、小豆餡を挟み込んだ和菓子のこと。

私も子供の頃き大好物で、おやつで何個食べたか分かりません。

値段は安いし腹持ちがいいから、食べ盛りの子供を持つお母さんにはありがたいおやつですものネ。

そのどら焼きという名は、その形が打楽器の銅鑼(どら)に似ていることから・・・というのが有力説。

 

      

確かにそっくりですが・・・では、いつ頃からこの食べ物が存在したのか?

名前の由来として、武蔵坊弁慶がケガの治療をしてくれたお礼に

小麦粉を水で溶いて銅鑼の上に薄く伸ばして焼いてご馳走した

・・・なんていう説もあるそうですから、鎌倉時代以前からあったのかも。

 

羊羹で有名な『虎屋』さんでも、8代目当主が江戸時代中期に虎の模様に焼き上げたどら焼きを〝虎焼き〟として販売したそうですから、長い事庶民に愛されていたことは間違いなさそうです。

とは言え、江戸時代のどら焼きは1枚の皮の端を折りたたんだ四角形が一般的だったそうで、現在のように2枚のカステラ生地に挟む形にしたのは、1914(大正3)年に創業した東京・上野の和菓子店『うさぎや』さんが最初とか。

同店のどら焼きは今でも名品とされ、多くの方がお土産などに利用しています。

 

また具に関しても小豆だけでなく栗や餅が入っていたり、小倉餡と生クリームを合わせてホイップした〝生どら〟なんてのも。

どら焼きも、進化し続けているんですネ。

 

ところでどら焼きが大好物といえば、ご存知ドラえもん。

       

でも彼の名前のドラはどら焼きのドラではなく、どら猫のドラだそうですから、お間違いの無きよう・・・って、ファンにとっては基本中の基本でしょうけど。


せっかくの記念日ですから、是非お好きな具のどら焼きをお召しあがり下さい。

私は激辛党ゆえ、遠慮しますが・・・。😅

 

 

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朝鮮半島の西南に位置し、気候が温暖。

ゴルフ場やカジノがあり、観光地としても有名ですし日本からも近いので、行かれた方もいらっしゃるであろう、〝済州島〟。


   

その〝韓国のハワイ〟で、今から78年前の今日、

 済州島四・三事件

と呼ばれる凄惨な島民の大量虐殺事件が起きたことを、ご存知でしょうか?

 

1945年9月に日本が降伏した後の朝鮮半島は、アメリカの支援を受けた李承晩政権とソ連を後ろ盾にした金日成政権が北緯38度線を境に分断状態となりました。

その状況下、1947年3月1日に済州島内で南北統一を求めるデモを行っていた島民に対し、警察が発砲して6名が死亡。

これは李承晩政権による挑発行為だったようですが、島民はまんまとそれに乗せられる格好で同月10日から全島ゼネストを決行。

更に島民の不満を背景に力を伸ばしていた南朝鮮労働党が、翌1948年4月3日に島民を中心とした武力蜂起を起こしたのです。

これに対し韓国政府は政府軍や警察を大量投入して島民の大掛かりな粛清を行い、朝鮮戦争を挟み1954年9月までに島民全人口の20%にあたる6万人を虐殺。

韓国軍は村を襲撃して若者達を連れ出しては殺害し、少女達は2週間に渡って輪姦・虐待を繰り返された後に惨殺したと言われています。

   

 

この事件は韓国内でも長年タブー視され、教科書にも掲載されず封印されてきました。

2003年に当時の廬武鉉大統領が初めて島民との懇談会で公式に謝罪しましたが、今でも事件の全容に関しては明らかになっていません。

 

そしてこの事件、実は我が国にも無関係ではないのです。

この虐殺により島民人口は事件前の28万人から1957年には3万人にまで激減したといわれていますが、ちょっと計算が合いません。

殺害された島民が6万人だったとして、残りの20万人近くはどこに行ったのか?

実はその多くが難民として日本に渡り、そのまま在日朝鮮人として住みついたのです。

在日朝鮮人に済州島出身者が多いのは、このため。

そして元々済州島は政治犯などの流刑地・・・つまり日本に逃げ込んできた朝鮮人は、その多くが罪人とその子孫ということになります。

近年、在日朝鮮人の犯罪率の高さがネット上で問題視されていますが、それと全く無関係とは言えますまい。

在日朝鮮人は、強制連行された・・・なんて、とんでもない。

 

祖国の迫害から逃れてきた彼らがそのまま日本に居座っている事実を、日本人は知るべきです。

 

 

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その願望は誰でも潜在的に持っているそうですが、「ヘ~ンシンッ!」 とくれば、もう皆さんお分かりですょネ。 そう

 

 仮面ライダー


ウルトラマンとは一線を画した、この元祖〝等身大〟変身ヒーローが初めてテレビに登場したのが、今から55年前の今日・1971(昭和46)年4月3日のことでした。

 

『部長刑事』 の低視聴率に悩まされていた毎日放送が、東映に新しい仮面ヒーロー番組の制作を依頼したのが、この空前のヒット番組を生み出したキッカケだったとか。

どうして刑事ドラマの後釜が仮面ヒーローになったのか不思議ですが、以前から仮面モノの企画は温められていたのだそうな。

 

番組開始の半年前に、〝オートバイに乗るヒーロー物〟という設定が固まり、ここから『サイボーグ009』などで人気を博していた石ノ森章太郎さんが参画。

当初案はガイコツがモチーフだったそうですが、これはボツ。


そして次に浮上したのが、スタッフが持ち込んだ昆虫図鑑に出ていた〝バッタ〟案。


大人たちには不評だったようですが、石ノ森さんが幼稚園児の息子ら子供たちに見せたところ、これが対好評。

結局日本初の変身ヒーローは〝バッタ〟に決定しました。

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

主役は、IQ600(!)を誇る優秀な科学者であり、かつオートレーサーの本郷猛。

彼に扮したのは、ご存じ藤岡弘さん。

 

しかし当初は劣悪な撮影環境で、藤岡さん自身が変装してバイクを運転するなど苦労が絶えなかったそうですが、怪奇ムードが強く大人びた設定で子供の人気が得られず視聴率も低迷したとか。

さらには第9・10話の撮影中に藤岡さんがバイクで転倒し全治半年近い大怪我で降板。

 

番組存続の大ピンチだったのですが・・・ここで代役というか、佐々木剛さん演じる2人目のヒーロー・一文字隼人を登場させて番組の雰囲気を明るくしたこと、更にはあの〝変身ポーズ〟を導入したことが子供たちに大ウケ。

視聴率も20%を超える大ヒット番組に成長。

これこそ、〝ケガの功名〟の見本と言えましょうか。


街中に〝仮面ライダー変身ベルト〟を腰に巻いて走り回る子供が溢れてましたもんねェ~。

ケガから復帰した藤岡さんも再登場して更に番組は進化を遂げていきますが・・・今でもテレビで変身ポーズを取ってはいるものの、最初にコレをやったのが藤岡さんでなかったとは意外。


初代は1973年に終了しましたが、その後も断続的に制作・放映され続けている『仮面ライダー』シリーズは、昔を懐かしむ大人から初代を知らぬ子供まで、まさに日本を代表するヒーローといっていいでしょう。

さて、皆さんは変身できるとすれば、何になりたいですか?

まさか〝バッタ〟という方はいないと思いますが・・・。😅



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〝ト、ト、ツー、ト、ツー・・・〟 よく戦争映画で戦艦や潜水艦の通信兵が小刻みに手を動かして発信しているシーンを見かけますょネ。

あれがモールス信号であることは、皆さんもご存知でしょう。
 
しかし現代のデジタル社会では、もはや過去の遺物・・・そう思われる方もいらっしゃるでしょうが、どっこい今でもアマチュア無線や船舶、また自衛隊を始め各国の軍隊でも使用しているのだとか。

今日は、この電信システムを発明した
 
 サミュエル・F・B・モールス

    Samuel Finley Breese Morse

 

の命日にあたります。


     

 

1791年に現在の米マサチューセッツ州・ボストンでイギリス移民の牧師の家庭に生まれたモールスは生まれながらの秀才だったそうで、イエール大学で宗教哲学や数学を学びながらも当初は絵画の才能を生かし画家で身を立てた人物でした。😯


モールスの作品を見た高名な画家W・オールストンは、彼をイギリスに留学させようと決意、1810年にイェール大学を卒業した翌年、2人は共にイギリスへ渡航。


イギリス王立芸術院に入学し3年間学んだ後に帰国し、画家として活動を開始。

 

ジョン・アダムス元大統領など、多くの有名人やVIPの肖像画を描きました。

 

そんな彼が電信に興味を持つようになったのは1825年、34歳の時。


ワシントンD.C.で肖像画を描いている最中、早馬によって妻の危篤が伝えられた彼はすぐコネチカット州の自宅に向かったものの、到着した時には既に妻の葬儀が終わった後でした。

愛妻の最期を看取れなかった彼は深く傷つき、もっと速い通信手段の発明を決心したのです。

そんな彼が閃いたのはそれから7年後の1932年・・・イタリア・フランスへの美術遊学からの帰路、大西洋横断中の船内で出会ったC.T.ジャクソンという科学者から電磁石とその実験を見せられた時。

 

「電磁石の導線を延ばして一方の端で電流を断続させた場合、反対側の電磁石の磁気が変化する結果として信号を送ることができるのでは?」


そう思いついた彼は、帰国後ニューヨーク大学の同僚だったL・ゲール化学教授の助言を受けながら新しい電信システムの開発に没頭。

そして遂に1838年1月、公開実験で成功を収めます。

そして資金援助を申し出てくれたA・ヴェイルのアイデアを基に現在も使用されているトン・ツーの〝モールス信号〟を開発し、他社との激烈な競争を経て特許取得に成功したのです。

しかし残念ながら、当時は世間から評価されませんでした。

当時の通信手段は早馬や煙突からの煙やのろし、手旗信号など・・・いきなり電信といわれても、人々がついていけなかったのです。

 

     

        モールス自らが製作した発信機

 

しかしさすがはモールス、決して諦めませんでした。

 

自ら資金集めをしては公開実験を繰り返し、遂に初の実験成功から8年後にアメリカ政府から資金援助の獲得に成功。

ワシントン及びその周辺をカバーする電信会社を設立し、以後着実に国内にその技術を広げ、彼が設立したウェスタン・ユニオン電信会社は1861年に西海岸と東海岸との直通連絡を実現。

アメリカ全土だけでなくヨーロッパでもモールス信号は採用され、その功績により1872年4月2日に80歳で死去するまで世界各国から多数の顕彰を受けました。


さて、ここで皆さんにひとつだけ大事なモールス信号をご紹介しましょう。

 

    【 ・ ・ ・ - - - ・ ・ ・ 】


言葉で表現すると、「ト・ト・ト、ツーツーツー、ト・ト・ト」・・・これ、実は〝S・O・S〟信号なんです。

これさえ覚えておけば、万が一海難事故などに遭遇した際身を守ってくれるかもしれませんョ。

 

あらためて画家・彫刻家・発明家という、〝アメリカ版ダ・ヴィンチ〟の冥福を祈りたいと思います。🙏


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