ナベちゃんの徒然草 -5ページ目

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

70歳代で亡くなられたお父様には、2人の息子さんがいらっしゃいました。

 

奥様の体調が優れなかったこともあり、喪主は金融機関にお勤めの真面目そうなご長男が務められることに。

 

迎えた通夜当日の午後4時過ぎ、式場内の準備真っ最中だった私に顔を赤らめた見たことのない男性が近づいてきて・・・。

 

「葬儀屋さんさぁ、この辺にお酒売ってるところないかなぁ?」

 

「は、はぁ?」 

 

通夜の開式前に酒屋さんの場所なんて聞かれたことがなかった私は、一瞬呆気にとられましたが、

「少し離れてますけど、コンビニならありますょ。」

と、場所をお教えしました。

 

「おぅ、ありがとナ!」

 

といって式場を出て行く男性を見守りながら、そばにいらした喪主様にどなたかお聞きすると、苦笑まじりに

 

「あれ、私の弟ですワ。」

というお答え。 
何でも建設関係の会社にお勤めで、大変お酒好きの方なのだそうな。

 

(だけど、今からそんな飲んじゃって・・・大丈夫かなぁ?)  


と、何となく不安な私・・・。

 

さて仏式葬では、『末期の水』を差し上げる儀式があります。


一般的にはご遺体をご自宅にご安置した際にご遺族・ご親族に執り行っていただくものですが、今回は遠方にお住まいのご親族が多かったため通夜開式前に式場で執り行うようご提案しました。

 

午後4時30分を過ぎてご親族の皆様が式場に集まってこられましたが、弟さんの姿が見えません。

 

「弟さんが戻ってこられるまでお待ちしましょうか?」

 

と喪主様にお聞きしましたが「いえ、待たないでいいです」。

 

周りのご親戚からも、「ったく、相変わらずしょ~がねぇヤツだなぁ。」 とヒソヒソ声が・・・。

 

「それでは始めさせていただきます。」

 

喪主様から順次故人様のお口に、脱脂綿を巻きつけた割り箸を使って故人様の口にお水を差し上げていただきました。

 

あと2,3名で終了・・・というところで、突然式場の扉がガラガラッと開き、弟さんが駆け込んでこられました。

 

「いや~、悪い悪いっ!
 コレ買いに行ったら、帰りに道迷っちゃってサ~。」

 

という弟さんの手には、ワンカップ大関が・・・。  


                     

 

「あいつ、こんな時に酒なんか買いに行きやがって・・・」

 

と訝るご親族に目もくれず、弟さんは一直線にお父様の棺に突き進み、呆然と立ち尽くしていたご親族の手から綿棒を取り上げると、

 

「オヤジ~、大好きな日本酒買ってきたゾ~! 

    飲みたかったろ! 今オレが飲ませてやるからナ~!」

 

と、蓋を開けると脱脂綿に日本酒をタップリ含ませて、


「どうだオヤジ~! 美味ぇだろ~!?」

 

と泣きながらお父様の口に持っていかれました。

 

その姿を黙って見ていたご親族から、誰とはなく「なぁ、もう1回みんなでお酒あげようよ。」という声が・・・。

 

その瞬間、私は式場内の空気がピシッと一気に引き締まった、というかご親族の気持ちが一つにまとまったように感じたのです。

 

さっきまで白い眼で弟さんを見ていたご親族の方々は、もう誰も文句を言うことはなく、再度喪主様から順番に粛々と日本酒を差し上げたのです。

その日の通夜は大変に気持ちのこもった、酔い モトイ 良い雰囲気のお式となりました。


式終了後は弟さんの勤務先の社長さんや同僚が、まるでご遺族のように棺に寄り添い、合掌する姿も・・・。

 

翌日午前9時過ぎに式場に来られた弟さんの顔色は、前夜の酒が抜けなかったのか真っ赤。 ご出棺の際には、最後まで

 

「オヤジィ~!」


と叫びながら柩にすがりつかれ、会葬者の涙を誘っていました。

 

良いご葬儀になるかどうかは、参列者のお気持ち次第・・・そんなことを、弟さんの姿を拝見しつつ再認識したものです。

きっと故人様も、天国で 

 

「おうっ、ワンカップ旨かったぜ!」 

 

と喜んでおられたことでしょう。😊



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4月15日というと、タイタニック号の沈没が有名ですが・・・その2年前、今から116年前の今日、ある意味タイタニック号よりも世界中に衝撃を与えた沈没事故が起きていました。


それは日本海軍の潜水艇だったのですが、悲劇でありながらも世界中の人々から称賛を浴びたのは、艇長以下乗組員たちの散り際の見事さでした。

 

その艇長の名は、

 

 佐久間 勉 大尉

 

     

 

佐久間大尉は1879(明治12)年に福井県で生まれました。

 

1901年に海軍兵学校を卒業すると2年後海軍少尉に任官し、日露戦争に従軍。

 

第一・第四潜水艇長、駆逐艦 『春風』 の初代艦長などを経て、1908年に第六潜水艇長に着任しました。

 

日本海軍はそれまでアメリカ製の潜水艦を輸入していましたが、メーカーから新型潜水艇の図面を入手し、日本人だけの手で作られ1906年4月に竣工した初の国産ホーランド型潜水艇2隻のうち1隻が、第六潜水艇でした。
    

   

            第六潜水艇


当時の潜水艇は、兵器としては未だ実験の段階にあって信頼性に問題があったため、母艦艦長と潜水艇隊司令指揮のもと、艇隊単位で行動するのが普通。


しかし当該第六潜水艇は初の国産潜水艇ということで性能に多くの問題点があったため、第一潜水停滞から離れ単独で潜水訓練を行いつつ問題点の解明と改良を続けていました。


そして運命の1910(明治43)年4月15日・・・同艇は山口県新湊沖で潜航訓練中に浮上することが出来ず、沈没。


30歳の佐久間艇長以下20歳代の乗組員総員14名が殉職したのです。


当時は潜水艦の黎明期・・・世界的に沈没事故が多発しており、この直前イタリアで起きた同様の事故の際には乗組員たちが脱出用ハッチに折り重なったり、我先に脱出しようと乗組員同士で乱闘したまま死亡していることが確認されるなど、艦内はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

とは言えそれは、生存本能が働けば致し方ないとも言えます。

 

しかし第六潜水艇を引き上げてハッチを開けてみると、佐々木艇長以下殆どの乗組員は持ち場を離れず、最期まで任務を完遂しようとしていたことが判明。

 

それだけでも称賛に値しますが、更に世界を驚かせたのは佐久間艇長の胸ポケットからずぶ濡れで発見された2冊の手帳に記された遺書の中身でした。


    

 

『佐久間艇長遺言 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳無シ、サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ、沈着ニ事ヲ処セリ・・・ 』

 

という文章で始まる手記(遺書)は、あの日航ジャンボ機事故で亡くなった会社員が揺れる機内で書き残した遺書(↓)の如く、乱れた文字で埋め尽くされています。
 

しかし艇内の酸素が無くなりガスが充満しつつあった極限状態の中、艇長は潜水艇の開発に少しでも役立てようと39ページに及び詳細に艇内の様子や事故原因や応急処置の状況を書き残しており、さらに

 

『謹ンデ陛下ニ申ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之アルノミ』

 

と、天皇陛下に部下の遺族への経済的支援を依願しているのです。


何という部下思いの将校でありましょうか。

沈みゆく船から乗客をほったらかしにして我先にと逃げ出した某国の船長とは、大違いです。


この遺書に感激した諸外国からは弔電が相次ぎ届き、アメリカ合衆国議会議事堂には遺書のコピーが陳列されました。

またT・ルーズベルト大統領は国立図書館前にこの遺言を刻んだ銅板を設置し、真珠湾攻撃が行われた後ですら、撤去しなかったといいます。

 

日本国内でも、修身の教科書に『沈勇』と題して取り上げられていたのですが・・・しかし現在の日本国民で、佐々木艇長を知る人はどれ程いるでしょうか?

 

以前行われた岩国での追悼式で、駐日英国大使館付海軍武官がスピーチで発した、

 

「我が英国軍人に尊敬されている佐久間艇長の精神を、戦後の日本人は忘れている」

 

という言葉を、私たち日本人・・・特に政治家や文科省の官僚は噛みしめるべきでしょう。

 

あらためて武人・佐久間勉大尉と乗員のご冥福をお祈りすると共に、多くの日本人に彼の生き様と最期を知っていただきたいと存じます。

 

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学校で〝五街道〟って習った記憶、皆さんにもあると思います。

では、その5つの幹線道路をスラスラッと言える方・・・どれくらいいらっしゃるでしょう?

この〝五街道〟すなわち 東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道 の呼称を江戸幕府が正式に布達したのが、今からちょうど310年前の今日・1716(正徳6)年4月15日だったそうな。

この五街道の起源は、1601(慶長6)年に徳川家康が全国支配のため江戸を起点とする5つの街道整備を命じたこと。

3年後に日本橋を起点と定め、1里毎に〝一里塚〟を設けるなどして整備を進めました。

 

以後1624年に東海道、1636年に日光街道(道中)、1646年に奥州街道(道中)、1694年に中山道(中仙道)、そして甲州街道(道中)は間をおいて1772年に完成させました。

(※中山道は戦国時代に東山道と呼ばれた街道の中筋であったことから。 日光・奥州・甲州は海道でないため道中とも呼ばれました。)

それぞれのルートは、以下の通り。

   

 

当たり前ですが、現在の東名・中央・東北の各高速道路と大筋似たルートですネ。


この街道整備にあたり、江戸幕府は様々な制度を導入しました。

◆宿場制度


旅行者が休憩や食事をする施設を提供するもの。
大名が参勤交代などで使用したのが本陣・脇本陣、民間人は旅籠

・木賃宿を利用しました。

本陣は宿場きっての由緒・家格を持った有力者が任命され、世襲でその職につくことが原則。

 

◆伝馬制度


各宿場に一定数の伝馬を常備させ、将軍の朱印状や老中などの証文によって無賃で、旗本・大名は格安料金で、そして民間人が利用する場合はその約2倍の料金で利用できた。


◆飛脚制度

幕府の公用文書・書状を入れた御用箱を輸送する。
普通の旅で2週間近くかかった江戸~京都間を僅か3日で書状が届けられたそうな。


これまた現在の高速道のSAや道の駅、宅配便と制度の趣旨は同じもの。

田中角栄氏の提唱した『日本列島改造論』の江戸時代版ですネ。

政治においては、人と物流のスピードアップとコントロールが最重要課題なのは、今も昔も変わらないということでしょう。

 

我が家の近くには中山道が通っているのですが、その街道名の標識を見るたび私はどうしても以前フジテレビの某女性アナが、旧中山道を 「いちにちじゅうやまみち」 と読んだ・・・という伝説を思い出してしまいます。

但しこれ、事実ではないそうな。

実際は、某番組で彼女が他局アナのトチリ例を紹介する際、「いちにちじゅうやまみち」と書かれたフリップを持ちながら、

「正しくは〝きゅうちゅうさんどう〟ですょネ。
 ・・・えっ、違うの?」


と喋ったことが間違って伝説化してしまったもの。

彼女の名誉のために申し添えておきます・・・って、大して違わないか?😅

 

 

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〝昭和歌謡界の大御所といえは、誰?〟と中高年世代に問えば、きっとこの方の名が出てくるはず。

今日は、その


 三波 春夫 さん

の命日・没後25周年にあたります。


三波(本名:北詰 文司)さんは、関東大震災が起こる1ヶ月半ほど前の1923(大正12)年7月に現在の新潟県長岡市に本屋

・文具商を営む父親の三男として生まれました。

7歳の時に母親が腸チフスで死去し、文司少年も同じ病気で生死を彷徨ったそうな。

家業が傾いたため13歳の時に東京に出た彼は、米屋や製麺工場で働きながら既に当時流行していた浪曲師になりたいと志を立てていたといいます。


16歳の時に文京区本郷にあった『日本浪曲学校』に入学すると

1ヶ月後にはもう初舞台を踏み、3ヶ月後には住吉亭で〝南條文若〟という芸名の披露興業を行ったそうですから、まさにトントン拍子。

しかし1944年に徴兵され満州へ。

 

軍隊内でもその歌唱力で兵士たちを楽しませたようですが、敗戦直後の1945年10月にソ連軍の捕虜となり、以後4年間もシベリアに抑留され、苦しい生活を余儀なくされました。

1949年9月に帰国すると浪曲師として復帰し、12月には三味線の曲師・野村ゆきさんと結婚。

 

そして1950年代に入り世間で演歌などの大衆歌謡が流行し出すと、彼はいち早くその流れを感じ取り、1957年には芸名を『三波春夫』に改名、初の和服歌手として歌謡界に進出。

デビュー曲の『チャンチキおけさ』がいきなり大ヒットすると、以後新曲を出すたびにヒットを連発。

翌1958年には紅白歌合戦に初出場を果たします。
(以後紅白には通算31回・連続29回出場)

      

 

その後歌舞伎座で1ヶ月公演を打つ程に人気が高まりましたが、私が三波さんの歌声を始めて耳にしたのは、おそらく1963年にリリースされた『東京五輪音頭』。

 

この曲は他にも三橋美智也さん・橋幸夫さん・北島三郎さんらが歌ったそうですが、レコード売り上げは250万枚の三波さんがダントツだったそうな。

そして今でも憶えている曲は、1970年に開催された大阪万博のテーマソング・『世界の国からこんにちは』。

この曲も複数の歌手がレコードを出しましたが、やはり三波さんの130万枚がトップ・・・これにより、いつも笑顔で朗々と歌う三波さんの〝国民的歌手〟というイメージが定着したように思います。

しかし、精力的に芸能活動を続ける三波さんを病魔が襲います。

1994年に体調を崩して病院で診察を受けたところ、前立腺がんとの診断が。

それを聞いた三波さんは冷静に「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と答えたそうで、以後家族以外にはこの事実を明かさず、歌手活動を継続。

抗がん剤で毛髪が抜けると植毛をして周囲に気付かれないようにしたといいますから、まさにプロ根性の塊。

 

そして1999年に最後の紅白歌合戦の出場を叶えた三波さんは

2001(平成13)年4月14日に77歳でこの世を去ったのです。

ところで、三波さんの歌を聴いたことのない若い世代の方でも、彼の〝永遠の名台詞〟

「お客様は神様です。」

 

はご存じのはず。

これは1961年に公演のステージ上で当時司会をしていた宮尾すすむさんとの掛け合いの中から生まれたフレーズだそうな。 

 

ともすると

 

「お客様の言うことは絶対であり、店側は要求を拒否出来ない」

 

という意味合いで接客業の金言として使われたり、逆に客の立場で横暴な振る舞いした挙句このセリフを吐く人がいますが、実はご本人はそういう意味で言ったわけではありません。

「舞台に立つ時は敬虔な心で神に手を合わせた時と同様に心を昇華しなければ、真実の芸はできない。」

「お金を払って楽しみを求めご来場くださるお客様には、その代償を持ち帰っていただかなければならない。 

その意味で、お客様は絶対者=神様の集まりなのです。」


とご本人は仰っていますから、かなりハイレベルな趣旨。

三波さんの高尚な思いを察すれば、そうそう簡単に使えないセリフであることがお分かり頂けると思います。

それでは最後に、懐かしい大阪万博のテーマ曲を聴きつつ、国民的歌手のご冥福をお祈り致しましょう。🙏

 

 

 

 

 

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皆さんの中にも、自宅の蛇口に取り付けている方がいらっしゃるでしょう。

今日は、4月13日・・・よ(4)い(1)み(3)ずの語呂合わせで、

 浄水器の日

なのだそうです。 日本工業規格(JIS)では、

『ろ材を用いて水道水中の溶存物質、濁りなどを減少させる機能を持つ水処理器具』

と定義されている家庭用浄水器は、「水道水が臭う」という苦情が多数寄せられた1960年代から、各家庭で使用されるようになったとか。

具体的には発がん性のあるトリハロメタン、マンションなどの貯水槽に貯まった水のサビや金属等の不純物、更には臭いの元となる藻や菌類の除去などが効用として謳われています。

蛇口直結型・据え置き型・ポットピッチャー型・シンク内蔵型など様々なタイプがあり、また過去には様々な業者が独自の効用をPR・販売していました。

しかし現在では上記JISにより、適用範囲・種類・浄水能力(対象物質は遊離残留塩素、濁り、揮発性有機化合物、かび臭、溶解性鉛など13物質、その内遊離残留塩素は必須)・耐圧性能・逆流防止性能・操作性能・耐久性能・各試験方法・表示事項などが細かく規定されています。


記念日を制定した浄水器協会では、景品表示法・特定商取引法・家庭用品品質表示法など消費者保護法令に準拠した表示・表現を行っているかなどのコンプライアンスを審査して、『浄水器適合マーク制度』を実施しているとのこと。

 

さんのご自宅に設置してある浄水器に、下記のマークが添付されているかどうか確認してみてください。

 

ひとつの目安として・・・。

 

 
      (注:右の〝RO〟は、逆浸透膜方式の略)

 

因みに我が家も水に対しては敏感な方で、かなり前から使っています。

ただ浄水器というよりも、水を電解・分離してアルカリ・イオン水を作り出すという、いわゆる〝整水器〟というヤツですが。

 

「水が柔らかくかつ美味しくなり、水道水から発がん性物質である活性酸素を取り除く」という謳い文句に惹かれて、20年以上前に購入し、以来使い続けています。

 

     

まぁその効能は? と聞かれれば、確かに水道水より炊いたご飯や味噌汁は美味しいとは感じますが、活性酸素を取り除いてくれているかどうかについては、正直実感はありません。

蛇口をひねると、飲用水と分解された排水がほぼ半々に別のホースから出てきますから電離分解しているのでしょうが、何となく水道代を2倍払ってる気になるのは、単に私がセコいから?

まぁこういう商品は、肉体的というよりも精神的な安心のために使うものなのかも・・・なんて言ったら、浄水器協会さんに叱られるかナ?😅

そういえば、ナントカ還元水なんて国会で答弁した挙句、自殺してしまった国会議員がいましたっけ。


因みに彼をそこまで追い込んだのは、「2番じゃダメなんですか?」でお馴染みの二重国籍疑惑議員でしたが・・・。

 

 

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フレッシュマンに捧げる、元世界チャンプ・現ジム会長の至言です。
 

 

 

 

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今日は、我が愛読誌・月刊『致知』5月号に掲載された東北大学加齢医学研究所・川島隆太教授と東京いずみ幼稚園・小泉敏男園長の対談記事の抜粋をご紹介致します。

対談のタイトルは〝スマホの危機から子供たちを救おう〟。

 

   

小泉園長は以前から漢字教育に力を入れてこられたそうですが、それにも拘わらず40年程前から言葉の発育が遅い子や態度が落ち着かない子が出始めたとか。

その子らの母親に家庭での習慣を聞いたところ、テレビをつけっ放しにしていたとのこと。

そうすると確かに子供たちは画面に釘付けになって静かになりますが、家族の会話も減りますから当然言葉の発育は遅れます。

そして10年程前から、今度はスマホを頻繁にいじる幼児が多くなったと。

これはそもそも親がスマホに夢中になっていることが原因。

ファミレスなどで両親と子供1,2人の家族が全員無言でスマホをいじっている光景を目撃したのは、決して私だけではないはず。

傍から見ていて、(この家族は家でも会話がないんだろうナ)
他人事ながら心配したものですが、それは決して特異な事例ではなくなってきているようです。

その流れで、最近は子供の目を見ない母親が増えているそうですが、これは非常に危ない傾向ではないでしょうか。

そしてつい最近、紙の教科書を電子化しタブレット端末などで閲覧する〝デジタル教科書〟を正式な教科書とする学校教育法改正案を閣議決定したという報道がありました。

しかしこれには、既にデジタル教科書を導入した北欧で学力低下が顕著となり、再び紙の教科書に戻していることから批判する声が上がっています。



対談記事の中でも、子供に対するデジタル端末の使用制限を法制化する動きが世界的に広がっていると紹介されていました。

周回遅れの対応になっていることに気付かない日本の教育は、そして子供たちはこのままで大丈夫?😰


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今や国民食と言ってもいい、ラーメン。

 

しかし一方で、様々な店が誕生しては消えていく非常に厳しい業界でもあります。


今日は、その中にあって常にラーメン界の顔というかトップ・リーダーだった

 佐 野 実 さん

の命日・十三回忌にあたります。


佐野さんは1951(昭和26)年に横浜市戸塚区で生まれました。

家は貧しく、父親が酒乱気味でたびたび佐野さんに暴力をふるったそうで、それが彼自身を短気ですぐキレる性格にしたとか。

同級生に対する暴力行為で幼稚園(!)を退園処分になったというんですから、喧嘩っ早さは筋金入り。

母親が彼を妊娠中にラーメンを好んで食べており、また本人もラーメンを食べたくて中学生時代に新聞・牛乳配達のアルバイトをしたそうですから、ラーメン屋になることは早くから運命づけられていたのかも。

私立藤沢商業高校に進学して野球部に所属した佐野さんは一時期プロ野球選手を目指したそうですが、後に巨人入りした小俣進投手が同学年だったことで、その実力の違いを見せつけられ断念。

野球部を退部した後は応援団に入り、朝・昼と1日2回ラーメン屋に通った彼は、卒業後横浜ドリームランド内の不二家レストランに就職。

 

しばらく洋食界に身を置く傍らラーメン屋通いを続け、遂に35歳の夏に藤沢市鵠沼海岸に『支那そばや』を開店。

当初はなかなか思うような味が出せず客の入りも悪かったそうですが、素材と味にこだわる頑固職人として徐々にその名が知られるように。

いつだったかは定かではありませんが、ラーメン特集番組でカウンターに座った客が隣の友人と喋っていると「うるさい、静かに食え!」と怒鳴っている場面が映し出され、

(いやはや、凄いラーメン屋があるもんだ。)

と驚いた記憶があります。 

 

確か香水をつけた客も「匂いがラーメンの味を落とす」といって入店を断ったり、麺やスープを残す客も叱ってましたねェ。

それでもお客が押し寄せたそうですから、余程美味しかったのか、はたまたマゾの客が多かったのか・・・。

オールバックの髪型で白い詰め襟のユニホームが、まるで床屋さんみたいでしたが、それが佐野さんのトレードマークでした。

 

       

そして彼の名を全国区にしたのは、TBSの『ガチンコ』だったと思います。

2000年から始まったラーメン道シリーズに出演した彼は、ラーメン屋経営を目指す出演者たちを厳しく罵倒したり水をかけたり、更には「まずい」と酷評する等々、まさに〝ラーメンの鬼〟として立ち回りました。

まぁ捏造報道機関TBSのことですから当然ヤラセはあったと思いますが、この番組で佐野さんの強面ぶりが視聴者の印象に強く残ったはず。

しかし殺害や店の爆破予告などもあったそうですから、有名になるのも楽じゃありません。

その後もテレビの企画番組に出演したり、また弟子を取って新店舗のプロデュースをしたり、またブログも立ち上げるなど活躍を続けましたが、2006年頃から患った糖尿病が2014年に入って悪化。

そして同年4月11日に多臓器不全により死去・・・まだ63歳になったばかりでした。

 

私自身もラーメン好きで方々の店を訪れましたが、佐野さん自身が作ったラーメンは(店が神奈川県内で遠かったこともあり)残念ながら口にすることは出来ず仕舞い。

池袋西口に彼のプロジュースした店が出来たので1度行きましたが、正直あまり美味しくなく、また暫くして閉店したことも私の足を遠ざけた一因でしたが。

ただ、亡くなる間際にも弟子が作ったラーメンを食べたといいますから、ラーメンに対する情熱と愛情は誰よりも深かったことは確かでしょう。

現在は彼のお弟子さんが佐野さんの出身地・戸塚区で『支那そばや本店』の暖簾を掲げて頑張っているとのこと。

いつか本拠地で佐野さんの作りだした味を確かめてみたいものです。

今日はランチで彼が追及したあっさり系しょうゆラーメンを食べつつ、〝ラーメンの鬼〟のご冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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戦後、GHQの指導によりそれまで日本になかった様々な新しい制度が導入されましたが、その中のひとつに女性への参政権付与があります。

その権利を行使した初めての国政選挙、

 第22回衆議院議員選挙

が行われたのが、今からちょうど80年前の今日・1946(昭和21)年4月10日のことでした。

男女問わず満20歳以上の日本国民(※前回まで選挙権の有った台湾・朝鮮籍の者は除外)が投票権を持ったこの選挙には、定数466議席に対し、衆院選史上最多の2,770名が立候補。

戦後直後の混乱期ゆえ致し方なかったのでしょうが、候補を擁立した政党数が、なんと258!😯

かつ立候補者の半数近い1,343名が無所属だったそうですから、選ぶ有権者もさぞ悩んだことでしょう。

で、この選挙の結果39名の女性代議士が誕生しました。

   

 

よく選挙のたびに話題になるのが、女性議員の比率。
国際的に見て、日本の比率は低い・・・とよく言われます。

実際、39名当選したこの選挙でも女性議員の比率は8.6%。
次の第23回衆院選では女性議員は15名に激減。

 

2005年の第44回衆院選で43名が当選するまで、60年近く最初の39名を超えることはありませんでした。(↓)

 

  

 

参議院は衆議院より比率が20%弱と高いですが、これは1989年に社会党々首の土井たか子(敢えて敬称略)が引き起こした〝マドンナ・ブーム〟が大きく影響していると言えます。

それまでは参議院でも6~7%で推移していた女性議員比率が、一気に17.5%に上がりましたから。

さて、皆さんはこの国会議員の男女比について、どうお考えでしょうか?

女性には睨まれるかもしれませんが、私はこの男女比を気にしません。

「男女比率を半々に」と主張する方もいますが、私はそういう数合わせはナンセンス・・・政治家は、あくまでその力量・人格で選ぶべきだと思っていますから。

ですから、男性より女性の方が優秀な人材が多ければ、女性議員の比率が50%を超えても構わないと。

しかしただ若いからとか、イケメンだからとか、女性だからという見た目や上辺だけで投票すれば、そのツケは私たち有権者自身に返ってきます。

マスゴミの偏向報道に騙されて2009年に誕生した民主党政権の酷さが、それを如実に証明していますネ。

選んだ政治家のレベルが、有権者のレベル。

あらためて、私たち有権者はそれを認識すべきでしょう。

 

 

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岡山・倉敷や福島・喜多方などは、蔵の街として多くの観光客を集めています。


今日・4月9日は、見事にその白壁を塗る、

 左官の日

 

なのだそうな・・・。 その由来は、漆(4)喰(9)の語呂合わせから。

左官は、建物の壁や床などを鏝(こて)を使って塗る職人。

 

     

 

その語源は、平安時代に宮廷の建物を建築・修理する職人を〝木工寮の属(さかん=官位のひとつ)〟と呼び、壁塗り職人も属として出入りを許したことからで、やがて当て字で 『沙官』 → 『左官』 へと変化したもの。(※別説あり)

 

しかもただ綺麗に塗るだけでなく、表面を盛り上げるなどした鏝絵など、芸術作品にまで高める左官も出現しました。

その代表例が江戸末期から明治初期にかけて活躍した入江長八


彼の出生地・静岡県賀茂郡松崎町には、彼の作品を展示した『長八記念館』もありますし、こんな彼の作品を観れば、職人というより立派な芸術家としか思えません。

     
 

日本家屋の壁は、竹を格子状に編んだ小舞下地の両面に藁を混ぜた土を塗り、その土壁の表面を消石灰・麻などの繊維や糊で作った漆喰を塗るため、左官は必要不可欠な職人。

私が子供の頃だった昭和30年代後半から40年代にかけては、田舎の信州でも田んぼから住宅地へと次々に開発が進み、見事な鏝使いでゴツゴツした土壁に真っ白な漆喰を塗る左官の姿がそこかしこで見受けられました。

その手捌きがあまりに見事で、私は時々近くに寄って見学・・・現場にあった鏝を手に取って塗る仕草を真似したものです。


ところが平成時代に入ると住宅の建築様式が大きく変わり、工期の短縮化から工場で組み立てた資材を現地で組み立てる方式が主流になり、左官の出る幕が大幅に減って、職人の数は激減。

しかし最近アトピーなどアレルギー症状の原因がハウスダストにあることが分かってきたため、建築資材を漆喰や土などの自然素材に回帰する傾向に。

更に日本と欧米の建築様式を融合した〝和モダン〟も登場・・・そのおかげで室内の壁塗りなどで、再び左官職人のニーズが高まっているそうな。

幸いにも、現在は日本各地に左官職人養成の専門学校があり、以前その教育現場を取材した特集番組を観ましたが、女性を含む若者が大勢学んでいました。

彼らには是非日本の伝統技術を継承して欲しいですし、その中から小手先ならぬ鏝先を見事に操る〝21世紀の入江長八〟が出現することを、期待してやみません。扇子

 

 

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