ナベちゃんの徒然草 -4ページ目

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

下剋上は当たり前、たとえ親子であっても殺し合いになるのが珍しくなかった戦国時代・・・その激動期に最も運命を翻弄された女性といえば、

 

 お市の方

 

ではなかったでしょうか。

 

今日は、織田信長の妹にして2人の武将に嫁いだ、この悲運の女性の命日にあたります。

 

1547(天文16)年頃に生まれ、絶世の美女と謳われた彼女は21歳で近江の浅井長政と結婚。

 

これにより織田家と浅井家は同盟関係を結ぶことに。

 

しかし1570(元亀元)年、両家の間での誓約を破り信長が越前の朝倉氏を攻撃。 

 

これに怒った浅井氏が朝倉氏と共謀し、織田軍を挟み撃ち。

 

この兄の大ピンチを知ったお市の方は、小豆を入れて両端をヒモで縛った袋を織田陣営に陣中見舞いとして送り届けることで挟み撃ちを知らせます。

それを見た信長は自軍が袋の鼠状態であることを瞬時に悟り、即時撤退・・・辛うじて命を長らえた、とされています。(金ヶ崎の戦い)

 

長政とは仲睦まじかったといわれていますが、その作戦を兄に知らせることは夫に対する裏切り行為・・・兄と夫の間に挟まれた彼女の心中は、いかばかりだったのでしょう?

 

当然の如く長政の裏切りに激怒した信長は、朝倉義景を姉川の合戦で撃破したのち長政の居城・小谷城を攻略。

 

共に死のうとするお市の方を制した長政は、信長に対して彼女と3人の娘の助命を嘆願。

 

信長がこれを受け入れると、長政本人は切腹して果てました。
(※但し長男・万福丸は殺され、次男は強制出家。)

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

その後9年間は、お市の方と3人の娘は信長の庇護の元で暮らしましたが、その信長が本能寺の変に倒れると彼女は兄の重臣であった柴田勝家と再婚。


しかし今度は信長の後継者として台頭してきた豊臣秀吉と夫・勝家が衝突。

 

1583(天正11)年の賤ヶ岳の合戦で秀吉は柴田軍を破り、勝家は切腹。

 

秀吉からもたらされた助命の話を断り、お市の方は夫・勝家の後を追って4月24日に自害して果てたのです。

 

秀吉自身も彼女に惹かれていたといわれていますが、その一方で(前述の)万福丸処刑を行ったのも秀吉といわれています。

 

彼女にしてみれば、命に代えても秀吉に屈することはできなかったのかもしれません。

 

お市の方を手に入れることが出来なかった秀吉は長女・茶々を側室にし、彼女は秀頼を産みます。

 

しかしその後、茶々も大阪夏の陣で息子共々自害することに。

 

一方、三女・小督は徳川秀忠の正室として3代将軍家光を出産。

 

時代・・・いや、武将たちに運命を翻弄された挙句に自らの命を捨てながらも、残した娘たちが日本の歴史に少なからず影響を与えた〝悲運の美女〟の冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

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皆さんは、学校でこれを習った記憶があると思います。

 

 三国干渉

でもこれがどんな内容だったのか・・・スラスラと答えられる方は、おそらく少ないでしょう。

これは今から131年前の今日・1895(明治28)年4月23日に、ロシア・フランス・ドイツの3国が、その僅か6日前に日本と清国との間で交わされた下関条約で日本に割譲された遼東半島を清国に返還するよう求めたもの。

遼東半島とは、中国大陸と朝鮮半島の間に突き出た半島。

 

     

ここは地政学的に非常に重要なポイントで、当時日本にとっては満州進出の拠点となる一方、ロシアにとっては極東進出の足掛かりとなる不凍港を確保するために譲れない場所でした。

そこでロシアは清国の分割に関心を持っていたドイツ・フランス

・イギリスに、協調して日本への遼東半島割譲を阻止するよう持ちかけます。

イギリスはロシアの極東進出に反対していたのでこの話には乗らず、結局露・独・仏3国での干渉となりました。
(アメリカは、この件に関しては中立姿勢を崩さず。)

この勧告(干渉)を受け伊藤博文首相は広島で御前会議を招集、

 ①全面拒否
 ②列国による国際会議に委ねる
 ③勧告受け入れ


の3案が検討されました。


会議では②案に傾いたものの、当時病床にあった陸奥宗光が

「②案だと遼東半島返還以外に話が拡大・波及する怖れあり」

として、③案を主張。

 ※陸奥宗光に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

結局その③案に落ち着き、同年11月に清国と『奉天半島還付条約』を締結して賠償金3,000万両(当時の4,500万円、現在の貨幣価値で700億円前後?)と引き換えに返還されたのです。

     
           奉天半島還付条約文書

 

この譲歩に関して日本国内では(新聞などが煽ったことにより)激しい批判が巻き起こりましたが、政府は国民に対し〝臥薪嘗胆〟をスローガンにしてロシアに対する敵愾心を煽り、軍拡を進めました。

これが後の日露戦争への導火線となったことは言うまでもありません。

ただそれ以前に列強が清国に割譲させたのは、イギリスに対する香港のみ。

遼東半島割譲は、面積でいえばその約20倍の規模となりますから、列強の目に過大な要求に映ったのも致し方なし・・・むしろ欲張り過ぎて、寝た子を起こしたと言えましょうか。

しかし列強に泣きつく形で遼東半島を取り返した清国も、この干渉を恩に着せられ、日本に対する賠償金の借款供与の見返りに租借地や鉄道敷設権を要求される始末。

結局は、列強のいいようにやられた形。

この一件を顧みると、日本外交の弱さと西欧諸国の強かさが浮き彫りになります。

しかし当時の国力では、致し方なかったとも言えますが・・・。

外交は(軍事・情報)力と駆け引きが全てであり、まさに〝勝てば官軍・負ければ賊軍〟。
 

国際社会に於いては誠心誠意とか話せば分かる、なんて甘い考えは通用しないことを、日本人は心得るべきでしょう。

 

 

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タイトルの漢字、読めますか?

最近サプリメントのCMで、疲労回復や二日酔いに効く〝オルニチン〟という物質を多く含むことで知られていますが・・・。

4月23日の語呂合わせで、今日はその

 シジミの日

なんですって。

 

シジミとは、二枚貝綱異歯亜綱シジミ科の分類される二枚貝。

日本で獲れる在来種としてはヤマトシジミ・マシジミ・セタシジミの3種があり、いずれも大きさは2,3cm程度。

他の二枚貝に比べて小さいことから〝縮み〟が転じてシジミと名付けられたとか。

   

前述のオルニチンの他に鉄分が多く貧血に良いともされ、またうま味成分の一種・コハク酸を豊富に含み、昔から肝臓に良いとされています。

 

有名な産地としては、まず島根県の宍道湖。
 

それに私が以前転勤していた青森県の十三湖も有名ですネ。

 

シジミといえば、皆さんも味噌汁やすまし汁の具としてよく使われると思います。

私もシジミの味噌汁は大好きでよく作りますが、その際には砂抜きすることが大切。

多くの料理本には、水道水(真水)を使って砂抜きをするよう書いてあるそうですが、これは間違い。

浸透圧によって、しじみの旨み成分(コハク酸・アラニン・グルタミン酸など)が逃げてしまうのだそうです。

 

0.3~1%程度の塩水を使うのがコツ。

また、その塩水をボウルに溜めてその中にシジミをいれ、底に沈めるのもNG。

それだとシジミが酸欠状態になってしまい、排出物やアンモニアなどによって水質が悪くなってしまうのだそうな。

ザルなど網目状の物に入れ、シジミの殻の一部が水面すれすれになるように浮かせると、酸欠になりません。

またこれもちょっと意外ですが、シジミは空中放置や冷凍することによって、むしろ〝うま味〟が増すのだそうな。

冷蔵庫の中に水なしで乾かないように保存すると、非常に美味しく食べることができ、また長期間保存するには砂抜きした後こわけにして冷凍保存すると良いのだそうです。

それから、シジミを食べる時に気を付けたいのは、産地。

1980年以降、北朝鮮産・ロシア産など海外からシジミが輸入されており、大量に出回っています。

 

       


しかしそれを外見で見分けるのは極めて困難で、過去に産地偽装で摘発された業者も。

産地を確認すると同時に、生産量の2、3%しかいない大型シジミが極端に安く売られていたら、手を出さない方が無難かと。

以上をご注意いただきながら、今晩は美味しいシジミの味噌汁を召し上がれ!😊

 

    

 

 

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アメリカの大統領は、現在のトランプ氏で47代目。

そのトランプ氏を含め2名が再当選していますから、実質45名となりますが、過去その中には、リンカーンやJFKなどのように暗殺されたり、そしてF・ルーズベルトのように急病などで任期を全うできなかった方が何人かいます。

しかし存命でありながら任期途中で辞任という不名誉な記録を持つ大統領は、唯1人だけ・・・今日はその

 

 リチャード・ミルハウス・ニクソン
     Richard Milhous Nixon


かつてJFKのライバルであった、この第37代大統領の命日であり、日本流に言うなら三十三回忌にあたります。


     

ニクソンは1913年、ロサンゼルス近郊でギリシァ系の父とドイツ系の母との間に生まれました。

実家は比較的裕福だったものの、兄弟が結核を患いその医療費がかさんだため、アルバイトをして家計を助けたとか。

高校時代は成績優秀、弁論大会で好成績を収め、早くも政治家としての資質を見せましたが、兄弟の医療費負担が理由でハーバード大学への進学を諦め、地元ウィッティア大学へ。

同大学を2番目の成績で卒業した彼は、奨学金を得てデューク大学ロー・スクールに進学し、弁護士に。

1939年には独立し、自分の事務所を開設します。


第二次世界大戦中に海軍に入隊し兵站業務に従事、除隊後はペプシコ社の弁護士になって国際的な人脈を築いた彼は、出身大学からの要請もあって1946年に共和党から下院議員選挙に出馬し、カリフォルニア州で見事当選。

(※この選挙では、後に大統領選を戦うことになるJFKもマサチューセッツ州から立候補し初当選を果たしています。)

 

その後〝反共の闘士〟として名を売った彼は上院議員への鞍替えにも成功し、弱冠39歳で副大統領候補に。

リベラル派マスコミから受けたバッシングを、テレビでの〝チェッカーズ・スピーチ〟(※チェッカーズとは娘が可愛がっていた

支援者から贈られた犬の名前)で切り抜けた彼は、翌年見事大統領選に勝利したアイゼンハワー政権下で副大統領に就任。


積極的に外交を行ない、2期務めたアイゼンハワーの後任として満を持して大統領選挙に名乗りを上げたニクソンてしたが、その前に立ちはだかったのがJFKでした。

政治実績はJFKを圧倒し人気でも先行していたニクソンでしたが、それを逆転されたのは皮肉にもかつて自分を救ってくれたテレビ。

ばっちりメイクもして当時の白黒テレビの見栄えを考慮したJFKに対し、ニクソンはノーメイクで演説重視。

しかし画像に映し出された彼の姿は明らかにくたびれた印象を有権者に与え、逆にJFKの若々しさを引き立たせる結果に。(↓)

 

 

そして彼は敗北を喫し、史上最年少大統領誕生の引き立て役になってしまいました。


敗北後、一旦弁護士活動に戻った彼は2年後に政治家として復活すべく、カリフォルニア知事選に立候補したものの落選。

もう再起不能とまで言われたのですが・・・ベトナム戦争が泥沼化していたアメリカは、彼を見捨てませんでした。


ベトナム戦争からの〝名誉ある撤退〟を公約に掲げて支持を集め

1968年の大統領選に見事勝利し劇的な復活を遂げたのです。


しかし無難に1期目を務め、再選も果たした彼を史上最悪のスキャンダル・・・『ウォーターゲート事件』(↓) が襲います。

 

 

2期目の選挙戦の最中、野党・民主党本部が入っていたウォーターゲート・ビルに盗聴器を仕掛けようとして捕まった犯人の雇い主が実は共和党であったことが発覚。

当初関与を否定していたニクソンでしたが、揉み消し工作や司法介入が次々明るみに出たことで遂に1974年8月、自ら辞任。

その後彼は1994年4月22日に脳卒中により81歳でこの世を去りましたが、史上初めて途中辞任したことで、歴代大統領と違い国葬は行われず仕舞い。

以上の経過から、どうしても悪いというか暗いイメージが付きまとうニクソンですが、ベトナム戦争からの完全撤退や中国への電撃訪問など、政治家・大統領としての実績は特筆に値するもの。


また1971年8月の〝ニクソン・ショック〟と言われるドル紙幣と金との兌換一時停止、またこれに派生した円・ドルの変動相場制への移行等々、日本にも多く影響を及ぼした大統領だったと言えましょう。


政治的力量は十分ありながら、運がなかった・・・一言で表現すれば、そんな大統領だった気がします。


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日本国内では各家庭に1台以上普及している、テレビ・ラジオ。

 

故にテレビ・ラジオ番組を全く視聴しない方は殆どいないはず。

その番組を制作・放映しているのはテレビ局ですが、大別すると公共放送たるNHKと民間放送に分けられます。 

今日は、その後者である

 民放の日

なのだそうな。

 

今から75年前の今日・1951(昭和26)年4月21日、日本で初めて民放16社に放送予備免許が与えられ、その翌年同日に民放連が発足したことを記念し、1968年にその民放連が同日を『放送広告の日』として制定。

1993年に『民放の日』と改称しました。

 

     
              
日本民間放送連盟のロゴ


民放とは、当初の記念日名の如くCMスポンサーからの収入を主な財源とする民間放送局のこと。

ラジオ放送については1951年9月から名古屋の中部日本放送(CBC)が、そしてテレビは1953年8月から日本テレビ放送網(NTV)が放送を開始しています。

 

※その日テレが放映した最初のCMに関する過去記事(↓)

 

さて、冒頭 「テレビ・ラジオを視聴しない人は殆どいないはず」 と申し上げましたが・・・私自身はもう10年以上殆どテレビ(特に地上波)・ラジオは視聴していません。

観るのはスポーツ中継かCSの映画・ドラマ専門チャンネル、ラジオはドライブ中にFMの音楽番組を聴くくらい。

その理由は、まず民放は下品かつ下らない番組ばかりだということと、ニュースなど報道番組についてはあまりに偏向・捏造・印象操作が過ぎるから。

〝放送を公共の福祉に適合するように規律〟するために定められた放送法第四条には、こう記されています。

 

第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 

・・・現在、この条文に違反していない民放があるでしょうか?

私はNHKを含め、殆ど皆無だと思います。

各局のニュースやワイドショーでは悪質かつ恣意的な情報の切り取り・印象操作や捏造・偏向報道が連日繰り返されています。

   

例えば、小学生にも笑われるようなグラフを作っての印象操作。

   

またいかにも偶然通行人に話を聞いたような街頭インタビューでも、実は同じ人物が何度も、しかも複数局に登場したり・・・。

   

私は前述の通りテレビは殆ど観ていませんが、その酷い捏造報道ぶりは上掲画像のようにネットで即座に指摘され批判を浴びています。

しかし未だにネットを利用せずテレビ・新聞の報道を鵜呑みにする高齢者が少なくないのが現状。

過去に、このような放送法違反丸出しの報道が注目を浴びた出来事がありました。

それは1993(平成5)年7月に行われた解散総選挙で自民党が結党以来初めて野党に転落した直後のこと。

同年9月に行われた民放連の会合で、テレビ朝日の椿貞良・取締役報道局長が

 

「自民政権の存続を絶対に阻止し、何でもいいから反自民の連立政権を成立させる手助けをする報道をするべく局内をまとめた」

 

等と発言したことが表沙汰になった、所謂『椿事件』がそれ。

 

当時同局は〝ニュースステーション〟という看板番組を持ち高視聴率をマークしていました。

 

そして椿局長(と言うよりテレ朝)の思惑通りの選挙結果になってイイ気になり、つい口元が緩んだのでしょうが・・・これは明らかに放送法第四条違反。

郵政省から無線局運用停止をちらつかされた同局は、椿氏の取締役・局長を解任しました。

あれから四半世紀余りが過ぎましたが、ここ数年の報道番組の内容からすると、同局の反自民・・・というか反日左翼体質は全く変わっていないと言えます。

そしてそれは、同局に限らずTBSを始め殆どの放送局も同様。

 

未だに戦後直後のプレスコード(↓)に縛られ、各局に入り込んだ特亜勢力により日本の国益に反する報道を続けるオールドメディアに、私たちはどう対処すれば良いのか?

 

 

まずひとつは、私のように番組を視聴しない事。
これによって間違った情報に惑わされることはなくなります。

今はネットで手広く情報を入手できる時代ですから。

ネット環境のない方は、放送局の報道番組が流す情報を鵜呑みにせず、まずは疑ってかかることです。

例えば彼らが発表する世論調査なんて裏付けが全くなく視聴者側が確認できない一方通行の数字ですから、信用できません。

ネット上で行われる政権支持率などの世論調査と全く結果が違うのが、その証拠。

もうひとつは偏向番組のスポンサーに〝問い合わせ〟すること。

冒頭申し上げた通り民放の経営を支えているのはスポンサーからの広告収入ですから、そのスポンサーに降板されるのが彼らにとっては最も痛手。

実際株主総会でそれを認める発言をした放送局もありますから。

日本には〝沈黙は金〟という格言がありますが、現代は黙っているとどんどん相手が増長します。

正しいと思うことは堂々と主張しないと、日本に明るい未来はやってきません。


私は、オールドメディアに中立公正を求めるのは無理だと確信しています。

ですから放送法第四条を廃止した上でテレビ・ラジオを多チャンネル化し、保守から革新まで偏向放送を混在させて視聴者がその放送局を選択できるようにすべきだと。

そして同時に、世界的には常識である(電波の周波数帯の利用権を競争入札にかける)〝電波オークション〟の導入を早期に実現することが、国家・国民にとって有益と考えますが・・・如何?

 

 

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家臣が主君を、また子が親を殺す〝下剋上〟が当たり前の戦国時代にあって、それらを身を以って体現した典型的な武将といえるのが、


 斎藤 道三

 

今日は、この一介の商人から一国の主にまで成り上がり、織田信長の義父でもあった〝マムシ〟の命日・没後470周年にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-斎藤道三

 

実は道三の出自については諸説あり、はっきりしていません。

 

京都で僧侶をしていたともいわれていますが、彼の父親も僧侶であったという文献もあります。


いずれにせよ京都から美濃国に移った道三は、油問屋の娘と結婚して山崎屋と名乗り、油の行商人となります。

 

油を一文銭の穴に通し、もしこぼれたらお代はタダ・・・というパフォーマンスで人気者となり、商売は順調だったようですが、ある時それを見た武士から 「それを武芸に生かせば立派な武士になれるのに」と言われて一念発起。
 

武芸の修練を重ねて達人の域に達すると、伝手を頼って地元の武将・長井氏に仕えることに成功。

 

更にはその能力を長井氏の上役であり当時美濃国を支配していた土岐一族の一人・土岐頼芸に見込まれ、彼の側室・深芳野を与えられるほど信頼されるまでに。


もともと口八丁手八丁で才覚に溢れた道三でしたが、これ以降更に策略を巡らせます。

 

兄・政頼が家督を相続したため、土岐一族内では力のなかった頼芸を焚きつけて兄を襲撃するクーデターを1527年に起こさせて、まんまと成功。


美濃国の大名となった頼芸の筆頭家臣となった道三は、自らを取り立ててくれた長井長弘を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎規秀と改名。


その後様々な手を使って敵対勢力を味方につけ勢力を伸ばした彼は、元々美濃国の守護職であった斎藤家を継いで斎藤新九郎利政を名乗ると、1542年には主君・土岐頼芸を襲撃して追放。


更に信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせて織田家の後ろ盾で抵抗していた武将を退け、美濃国主の座を手に入れます。

 

元商人らしく楽市・楽座を導入し大いに発展させましたが、領内には土岐家の勢力が依然として残り、親土岐派家臣団の対応に苦慮していました。


そこで側室・深芳野が生んた長男・義龍(よしたつ)が実は土岐頼芸の子である、という噂を逆手にとって彼に家督を譲り、自らは剃髪入道を遂げ隠居し領内の安定を画策。


しかし策略家の道三も人の子・・・やがて正室・小見の方が産んだ孫四郎や喜平次らを偏愛し義龍(↓)の廃嫡を考え始めます。

     


道三を怖れていた義龍はそれを察知すると、叔父・長井道利らと共謀し1556(弘治2)年4月20日に弟たちを殺害した上で道三を襲撃。(長良川の戦い)


義龍軍の圧倒的な兵力の前に、道三はあえなく戦死。


かねて道三は義龍を無能呼ばわりしていたものの、その采配ぶりを見て彼の評価を見誤った事を後悔した・・・といいますが、時すでに遅し。


道三は首を討たれた際に鼻も削がれたといいますから、義龍の恨みは相当に深かったのでしょう。


商人から一国の領主となりながらも、その謀略・裏切りによって多くの敵を作り、結局は我が子によって滅ぼされた道三・・・まさに下剋上の典型例といえる生涯でした。


かつて道三が信長と会見した際、義理の息子となった彼が多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で現れたことに大変驚き、「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐようになるだろう」 と予言したとされています。

 

義龍は流行病により34歳の若さで他界し、道三の死から僅か11年後に斎藤家は織田信長に滅ぼされることを予見するとは、さすがというべきか、あるいは皮肉というべきか。

 

現代人にはちょっと考えられない、あまりに色濃く血なまぐさい人生。

 

でも政治家には道三くらいのバイタリティーが欲しい、と私は思うのですが・・・いかがでしょうか? 


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今から155年前の1871(明治4)年4月19日に、それまで武士にのみ許されていた乗馬が庶民(平民)にも認められた・・・ということで、今日は

 乗馬許可の日

なのだそうな。

 

       

 

江戸時代以前から農耕などで使われていたのに、乗ることは許されていなかったのは意外な気がします。

しかしそもそも日本では馬術は武芸の一つとして位置づけられていたため。基本的に乗馬できたのは武士のみ。

武士以外はたとえ自己所有の馬でも乗ることは許されなかったのだそうな。

そして明治時代に入り、誰でも乗馬できるようになった・・・のですが、そうはいっても庶民が馬に乗る機会などそうそうあるわけはなし。

西洋馬術が取り入れられたものの、実際に活用されたのは陸軍。
即ち馬は兵器と見做されたわけです。

現在でも自宅で馬を飼育する方は殆どいませんから乗馬人口は少なく、殆どの場合は乗馬学校や乗馬サークル、または牧場に行かないと馬に乗る機会はないでしょう。

私自身も馬と接する機会はこれまで殆どなく、生まれて初めて馬を間近で見たのは、損保マン時代手伝いに行った、〝日光武者行列〟の時。(↓)

 

 

テレビで競馬中継を見るのとは違い、間近で疾走する馬の迫力に、ド胆を抜かれたものでした。

そして本格的に乗馬したのは、今から20年以上前・・・研修の一環で、アメリカのアリゾナ州でキャンプした時のこと。

2泊3日で山岳地帯を馬に乗って移動する行程でした。

初めて鐙に足をかけて馬に乗った私は、意外な高さにビックリ。

なるほど、競馬の騎手が落馬すると大怪我をするってのも、頷けました。

その研修期間中、騎乗しようとした際に雨で鐙にかけた足を滑らせ馬の胴体をちょっと蹴ってしまい、驚いた馬に振り落とされて3m程吹き飛ばされた時には、馬のパワーの凄さにも驚かされました。

そしてこのキャンプで最も印象深かったのは、最初に指導教官から受けた説明。

「馬が勝手に道端の草を食べようとしても、絶対に食べさせてはいけない。
 

もちろんエサをねだるような仕草をしても、決まった時間以外与えてはいけない。

何でもいいなりになると、あなたが馬にナメられて言うことを聞かなくなる。」


なるほど~、馬も女房も操縦法は同じなんですネ。

出来れば結婚前に知りたかった・・・。😣
 

 

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以前、就任直後に「美人芸姑に三本指を出して、月30万円で付き合ってくれと口説いた」というスキャンダルを週刊誌にすっぱ抜かれ、僅か2ヶ月余りで退陣した総理がいらっしゃいましたが

、残念ながら(?)その話ではありません。


今日は、おそらく皆さんも学生時代に理科の授業で習った法則にその名がつけられている、


 ジョン・アンブローズ・フレミング 博士

      John Ambrose Fleming 

の命日なのです。

 

そう、俗に〝フレミングの法則〟と言われているものですが、憶えていらっしゃいますか?

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

フレミング博士は、1849年にイギリスのランカスターに生まれました。

 

父親は聖職者で、彼も熱心なキリスト教徒でありました。

 

子供の頃から幾何学や数学が得意な反面ラテン語はからっきしだったフレミング少年は、必然的にエンジニア志向。

 

11歳の時には既に自分専用の工房を持ち、エンジン付きの船やカメラを自作していたそうで、後に写真家としても高い評価を受けることに。


ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンなどで数学・物理・化学を学び、1877年にはケンブリッジ大学に進学し化学・物理学で首席で卒業。


大学の講師を務めたエジソン電灯会社に電気技師として入社、交流システムについて助言などを行い、1884年にはイギリスで初めて電気工学の教授となります。

 

ここで教鞭を取っていた時、学生たちにファラデーの法則を分かりやすく説明するために〝フレミングの(右手と左手の)法則〟を考案。

 

磁場内に於いて電気が流れる導体に力が発生する現象と方向性を

左手3本の指で示したもの。(

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

この図、懐かしくありませんか?


何とな~く習った記憶がありますが、文系の私には皆さんにこの法則を説明する自信も記憶もありませんので、割愛させていただきます。😅

 

その後1897年にユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに創設されたベンダー研究所の所長に就任し、様々な研究を行い論文も発表。

 

中でも1904年に初めて(二極)真空管を発明したことは、その後の電気科学に大きな貢献をしました。

 

もっともご多聞に漏れず、その後特許を巡って訴訟合戦を繰り広げたようですが・・・。

 

1927年に大学を退職後アメリカテレビジョン学会の初代会長に就任するなど、電気技術の発展に尽くした彼が亡くなったのは1945年4月18日・・・95歳の大往生でした。

 

科学技術の発展に寄与したフレミング博士に敬意を表しつつ、今夜あらためて〝フレミングの法則〟を復習したいと思います。

 

 

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言うまでもなく、人は必ず死にます。

しかし、その瞬間がいつどこで訪れるかは、誰にも分りません。

そこで皆さんにご質問・・・あなたは、人生の最期をどこで迎えたいですか?

 

    ① 自 宅  ② 子供の家  ③ 老人ホーム  ④ 病 院 

まぁ、中には 「④は死んでもイヤだ!」という方もいらっしゃるでしょうが、おそらく①と答える方が多いと思います。

かく言う私もそうですが・・・実は、その願いを叶えるのは大変なのです。

 

      

昔のように2世代・3世代同居が当たり前の時代ならともかく、核家族化・親子別居が殆どの現代では、在宅ケアは(高齢の)配偶者かケアサービスに頼らざるを得ません。


また家族が世話をするにしても、最期を看取るにはそれなりの知識と技術、そして覚悟が必要。

戦時中と違って〝死〟を間近で見る機会が殆どない現代人にとって、決して負担は軽くありません。


また医療技術の進歩により日本人の平均寿命は延びましたが、その反面生きるより生かされてる方が増えているのも事実。


もし自分が末期がん患者になった場合、延命治療をすべきかどうか?・・・この点についても、事前に家族に意志を伝える必要があると思います。

本人の意思がはっきり分からないと、家族が精神的・経済的に大きな悩みを抱えることになりかねませんし。

 

皆さんの中には「どうしても自宅から離れたくない」と仰る年老いた親をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。

 

その気持ちは分からぬではないのですが、それを続ければやがては老老介護・一人暮らし、そして孤独死を迎えることは必至。

かく言う私の両親もそう希望していましたが、最終的には2人とも介護施設に入り、そこで最期を迎えました。

葬儀屋時代には様々な最期を迎えた方をこの目で見てきましたが

、独居老人が自宅で亡くなっているのをヘルパーさんや家族が1日以上経ってから発見したり、中には正月久々に一人住まいの父親に連絡したら電話に出ないため、大家さんに部屋を覗いてもらったらこたつに入ったままの姿で亡くなっており、死後1ヶ月以上経っていたためご遺体を息子さんや親族に見せられなかったなんて事例もありました。😣

しかし、これは決して他人事ではありません。

もし親が、配偶者が、そして自分が重病に罹ったらどういう医療を受けたいのか? 

 

そして万一の事態を迎えた時、どんな葬儀を執り行って欲しいのか?

遠慮することなく家族で話し合い、お互いの意思疎通を図ることが大事だと思います。

何の兆候もなく突然奇病に襲われ、死にかけた私が言うんですから間違いなし!?

私は既に女房には末期がんや重度の脳疾患等に罹った場合は延命治療をしないよう伝えており、また葬儀に際しては棺の色までも指定してあります。
😅

 

 

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