ナベちゃんの徒然草 -7ページ目

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

4月は新入学や新入社の季節であると同時にTV番組の改変期。

多くの新番組がスタートする時期ですが、今からちょうど50年前の今日・1976(昭和51)年4月1日から、それまでにない革新的な番組がスタートしました。

それは、昭和世代の野球ファンなら皆さんご存知であろう、フジテレビ系列の


 プロ野球ニュース

 

それ以前にも同局では1961年から4年間ニュース番組に 『きょうのプロ野球から』というコーナーを設けていましたが、これを大幅に拡張する形でのスタートとなりました。

 

当時民放のプロ野球中継はほとんど巨人戦一色でしたが、その巨人は1974年に長嶋選手が引退、そして監督に就任した翌シーズンは最下位に沈むという激動の年。

一方フジテレビは在京キー局としては開局が1959年と最も遅く、ドル箱の巨人戦中継も1970年代に入ってからと他局に後れをとっていました。

当時の民放深夜帯は日テレ『11PM』の一人勝ち状態が続いていましたが、視聴率が徐々に低下・・・その中でフジテレビが起死回生の新番組として企画したのが、『プロ野球ニュース』だったのです。

この番組のコンセプトは、従来のニュース番組の単なるコーナー扱いだったスポーツ・ニュースを独立させただけに止まらず、

◆ 全試合を扱いアナウンサーだけでなく必ず解説者をつける。

◆ 最初に試合結果を明かさない。
◆ 打球音や歓声など球場の音を極力活かす。


という、巨人偏重からの脱皮を図ったのです。

そしてこの新番組の成否を担うメイン・キャスターには、我が母校・慶大の先輩、佐々木信也さんが抜擢されました。

       

4分割のマルチ・スクリーンの前に座り、笑顔とソフトな語りで各試合の担当アナと解説者に振る佐々木さんのキャスターぶりは

、とても元プロ野球選手とは思えぬ見事なものでした。

※この番組の解説者の一人に西本幸雄・元近鉄監督がいましたが

・・・実は彼、大毎オリオンズの監督に就任した年に、佐々木さんを戦力外にした張本人。

ということで佐々木さんが再会した西本元監督に、「どうして私をクビにしたんですか?」と尋ねたところ、帰ってきた答えは

「当時5人の内野手のうち、どうしても1人を削らなければならなくなった。その中で一番食いっばぐれのなさそうなキミにしたのや。」

だったとか。 野球以外でも何でも卒なくこなせそうな佐々木さんを選んだ西本監督の眼力もさすがですが、逆に佐々木さんもそのおかげで新天地を切り開けたといえましょう。


ウィークデーは佐々木さん、そして土・日はみのもんたさんが担当して始まった同番組は、プロ野球ファンの心を鷲掴み。

高視聴率をマークし、他局もあわてて追随・・・これがパ・リーグ人気の下地となかったことは明らか。

 

※放送開始から10年間使われた懐かしいオープニング・テーマ曲『ライツアウト』を、こちらでお聴きいただけます。(↓)

 

 

もうひとつ、これも懐かしく思う方が多いはず。

 

 

また1980年代から始まった番組最後の〝今日のホームラン〟を全部見せるコーナーは就寝前にスカッとする好企画でしたし、選手やコーチたちもビデオを録って参考にしたとか。

更にこの番組から派生して1983年から始まった『好プレー・珍プレー』特集は、今やすっかり定番化しています。

そう考えると同番組がプロ野球の発展に果たした貢献度は、佐々木さん共々殿堂入りに匹敵する程大きかったといえましょう。

2001年に地上波放送が終了しCS(フジテレビONE)での放映になって以降は殆どご無沙汰している『プロ野球ニュース』、今晩あたり久しぶりに観てみようかナ。野球ボール


※お時間のある方は、現在も同便組の解説をしているデーブ大久保さんと佐々木さんの対談をご覧ください。(↓)

 

 


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クラシック音楽において、交響曲・協奏曲あるいはオペラなど最も大規模な楽曲を演奏する団体・・・今日3月31日は、その

 

 〝オーケストラの日〟

 

なのだそうです。

 

何とも壮大な記念日ですが、その由来は「み(3)み(3)に一番」という語呂合わせというところに、何とも言えぬ味わい(?)がありますネ。

〝オーケストラ〟は、舞台と観客席間にいる半円形のスペースを指すギリシャ語 「オルケーストラ(ορχηστρα)」 が語源とか。

 

バロック時代にオペラの伴奏としてヴァイオリンなどの弦楽器とオーボエなどの木管楽器が合奏したのが起源とされ、トランペットなどの金管楽器や打楽器などが加わる現在のオーケストラ編成になったのは、18世紀半ば。

 

すなわちモーツァルトやべートーヴェンが活躍した時代に誕生したわけです。

 

逆にいえば彼らより一時代前のバロック後期に活躍したバッハやヘンデルの作品に交響曲がないのは、そのためといえましょう。

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-オーケストラ

 

時代が進むにつれ、様々な楽器が加わるようになり、総勢100名近くにもなる大編成になるオーケストラの音色は、個人的に申し上げればロック・ポビュラーなどマイクやスピーカーで増幅されたものと根本的に違うと思います。

 

今までオーケストラのナマの音を聴いた経験のない方には、是非一度コンサートに行かれることをオススメします。

 

きっとその素晴らしい音に魅了されること、間違いなし!?

 

それでも、「クラシックは堅苦しくて・・・。」という方のために、今日は1本の映画をご紹介致します。 その題名も、ズバリ

 

 『オーケストラ!』 (原題 Le Concert

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-オーケストラ!

 

かつてボリショイ交響楽団の首席指揮者として活躍していながら

ユダヤ人楽団員の排斥に反対してその地位を追われ、同劇場の掃除夫をしているアンドレイ。

 

たまたまオフィスに届いたパリの劇場からの公演依頼FAXを見た彼は、嘗ての仲間たちを集めて同楽団になりすまして演奏する・・・という驚天動地のアイデアを思いつきます。

 

(※信じられないことに、このニセ交響楽団が公演するという筋書きは、30年程前の実話をベースにしているとのこと。)😲

 

バッハやモーツァルトなど数々の名曲がBGMとして流れる中、幾多の障害を克服してパリに乗り込むアンドレイと旧楽団員達。

 

演奏する曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。 

 

そしてソリストに指名したのは、若き女流ブァイオリニスト、アンヌ・マリー=ジャケ。

 

なぜ彼は彼女を指名したのか? 

そしてコンサートは成功するのか?

 

心許ないコンサートの始まりから、様々な人間模様がチャイコフスキーの甘く切ないメロディーと共に明らかにされ、そしてストーリーもコンサートもフィナーレへと突入・・・。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-オーケストラ!

 

この映画を観てからというもの、私は〝チャイコン〟を聴くたびにこの映画を思い出し、ついつい涙ぐんでしまいます。

 

政治に翻弄された音楽家の運命と、名曲の数々・・・是非お楽しみ下さい。🎵

※予告編の動画を、こちらでご覧いただけます。(↓)

 

 

 

 

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今時の学生さんや若者は知らないかもしれませんが、私のような昭和世代の方なら一度は使ったことがあるはず。

これが何か、お分かりですょネ? (↓)

             

そう、〝消しゴム付き鉛筆〟なんですが・・・実はこの鉛筆と消しゴムをくっつける特許がアメリカで認められたのが、今から170年近く前の今日・1858年3月30日のこと。

取得したのは、

  ハイマン・L・リップマン(1817-1893)

        Hymen L. Lipman

 

という、ジャマイカ・キングストン生まれのアメリカ人画家。

 

          

 

12歳の時に家族と共にフィラデルフィアに渡ってきた彼は、デッサン中によく手元の消しゴムがどこかに行ってしまい、探すのが面倒くさかったことから、鉛筆と消しゴムをくっつけることを思いついたとか。

そして両方をニカワで接着して一体化させることに成功し、この特許を申請したというわけ。

 

   


まさに〝必要は発明の母〟の典型例ですが、彼はこの特許を取得してから数年後に10万ドル(現在の数億円)で売却し、一躍大金持ちに。

その後このように2つの商品を合体させるアイデア手法は〝ハイマン法〟と呼ばれるようになりました。

しかしこの特許を買い取ったレッケンドルファーなる人物と、リップマンが特許を取得するより前、金属片で鉛筆と消しゴムを装着する方式の特許を取得していた(後にエバーハード・ファーバー社という文具メーカーの創業者となる)ジョン・エバーハード・ファーバーとの間で特許紛争が勃発。

アメリカではよくある話・・・ですが、結局連邦最高裁は「鉛筆は書くもの、消しゴムは消すもの。ただくっつけただけで新しい相乗効果は生まれておらず、消しゴム付き鉛筆自体に新規性が認められない」として双方の特許を取り消してしまったとか。😣

ご両人にとっては、まさに〝藪蛇〟というか、骨折り損のくたびれもうけ(?)に終わってしまいました。

 

ということで、今私たちが利用しているシャープペンシルにも消しゴムが装着されていますが、特許は出願すらされていないようです。

ハイマン法という名は有れど、柳の下にそうそうドジョウはいないようです。😣

 

 

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現在、我が国で最も知名度の高い整形外科医といえば、おそらく高須クリニック院長・高須克弥さんでしょう。

テレビCMをあれだけ流し、政治的な発言をしたり多額な義援金を寄付するなど話題を振り撒いていますから当然といえば当然でしょうが、この高須クリニック・・・実は彼一人の力で現在の隆盛を築いたわけではありませんでした。

今日は高須院長の奥様であり、同医院の実質的な経営者であったといわれる、


 高須 シヅ   さん

 

の命日・十七回忌にあたります。


シヅさんは1944年に愛知県で生まれました。
 

昭和大学医学部で、同じ愛知県出身の克弥さんとは同級生だったそう。


彼女は成績優秀で、いつも克弥さんにノートを貸していたそうですが、その縁(?)で2人は大学卒業と同時に結婚。

昭和大学病院産婦人科勤務を経て、1974年に克弥さんと共に高須クリニックを創設。

当時まだ日本国内で認知されていなかった美容外科分野の先駆者として、二人三脚で同医院を成長させました。

「YES 高須クリニック!」

 

というあの有名なキャッチコピーも、シヅさんのアイデアだったとか。

 

     

             高須ご夫妻 


ご夫妻の凄いところは、お互いの身体を実験台にしたところ。

シヅさんは、それまで有色人種には不可能とされていた肌の若返り施術〝ハードケミカルピール〟を、ご主人の顔を使って実験し

見事成功させました。

これ、名前だけ聞くとカッコ良さそうですが、劇薬で皮膚にわざと熱傷を作り再生させるという、恐ろしい手法。

もし失敗したら、顔に傷が残る・・・そんな施術に自らの顔を貸した克弥さんの勇気は称賛に値します。

私には女房の実験台になるなんて考えられませんもの。

しかし逆にシヅさんもご主人の考案した施術の実験台になったといいますから、お互いに信頼し合っていたんでしょうネ。

 

というか、お互いを尊敬していたのかもしれません。

克弥さんが自らのブログで奥さんのことを〝シヅ先生〟と呼んでいるところからも、それが察せられます。

 

しかしその優秀な美容外科医であった彼女を病魔が襲います。

転移性のガンに侵されたシヅさんは治療の甲斐なく2010(平成22)年3月29日に65歳で天に召されてしまいました。

〝戦友〟を失くした高須院長の失望は、いかばかりだったか。

遺言でシヅさんは


「香典もお花も全部引き受けて。 立派な葬儀をしてね。

 地味にしちゃイヤよ。 

 葬儀はあなたへの評価でもあるんだからね。

 それから、香典は全額日赤に寄附すること。」

と告げ、克弥さんはその通り実行したとか。

奥様を亡くされた後の高須院長のハジけぶりは、その深い悲しみを忘れるがためのように感じるのは、私だけでしょうか?

ご主人と医院を支え、3人の息子さんをいずれも医者に育て上げたシヅ先生のご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

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皆さんは、1992年に公開された映画『プリティ・リーグ(原題:A League of Their Own )』をご覧になったことがあるでしょうか?

第二次世界大戦中の1943年に、徴兵で選手が大量にいなくなったメジャー・リーグに代わる形で発足したアメリカの女子プロ野球リーグを描いた作品なのですが・・・。

トム・ハンクスが監督役を熱演し、史実にある程度沿って作られた同作は、ちょっとジーンとくる中々の出来栄え。

     


出演もしているマドンナが歌うテーマソング “This Used To Be My Playground ” も心に沁みる名曲ですし、是非ご鑑賞をオススメします。

 

なんでこの映画の話から始めたかというと・・・実は我が日本でも、その女子プロ野球リーグがかつて存在したから。 その

 日本女子野球連盟

が発足したのが、今からちょうど80年前の今日・・・終戦直後の
1946(昭和21)年に日本プロ野球が復活して間もなくのことでした。

1947年にビクター横浜、オハイオ靴店、日産自動車、横浜女子商業などアマチュア女子野球の6チームがオール横浜女子野球大会を開催したところ、2万人もの観客が詰めかける大盛況で、新聞やニュース映画に取り上げられて全国的な話題に。

これを銀座のダンスホール『メリーゴールド』のダンサーたちが見て、その翌年に野球チームを結成。

横浜大会で2位になったオハイオ靴店と試合をしたところを実業家の小泉吾郎が観戦し、興行を思い立ちます。

そしてメリーゴールドと横浜女子商業を合流させて、同年7月に日本初の女子プロ野球チーム『ブルーバード』を結成し、地方巡業を敢行。

更に1949年5月には選手を一般公募して『ロマンス・ブルーバード』を結成。

この公募に際し「野球の腕前もさることながら、独身で容姿端麗という点も重視した」そうな。

現在ならネット上で即「差別だ!」と叩かれるでしょうネ。😅

これに刺激される形で、1950年に入ると 『レッドソックス』

・『ホーマー』・『パールス』 の3チームが続々と結成。

前述の『ロマンス・ブルーバード』と合わせた4チームの代表が連盟を結成することで同意。

日刊スポーツ社に事務方を依頼し、同年3月28日に連盟が結成され、翌月に連盟初の公式戦となる日本女子野球連盟結成記念トーナメント大会が後楽園球場で17,000人の観客を集めて開催されました。

       

しかし当初は物珍しさもあって注目を集めたものの、やがてリーグ内が勝負優先派と興行優先派に分裂。

結局勝負優先派がイニシアチブを取ったのですが、女性の非力さ故に柵越えのホームランが1本も出ないという状況では、観客は集まらず。

結局2年後にはプロから企業出資のノンプロに格下げ。

 

徐々に下火となり、1959年には同連盟が解散し新たに日本女子野球協会が設立されたものの、1970年に最後まで残っていた女子野球チームのサロンパスが解散となり、消滅してしまいました。

映画『プリティリーグ』でもそうでしたが、当時は結婚すると家庭に入る女性が圧倒的に多く選手確保が難しかった点も、ネックになったのでしょう。

しかし2009年には日本女子プロ野球機構が発足し、野球好きの女性に門戸は開かれています。

そして実は1991年、日本野球機構が〝不適格選手〟から 「医学上男子でない者」 という条項を撤廃していますから、実力さえあれば女子選手が巨人や阪神でプレーすることも可能なんです。

現に入団テストを受け、2009年に関西独立リーグのチームに入団し、その後アメリカにも渡った吉田えり選手がいましたし。


もしかしたら、私の眼の黒いうちに本物の〝水原勇気選手〟がグラウンドに立つ日がくる・・・かも? 野球ボール

     

 

 

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今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、

 

 広瀬 武夫 中佐

 

の命日にあたります。

 

     

1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。

 

9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。

同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校する傍ら講道館で柔道を学び4段の腕前に。

 

      

                                    16歳の広瀬青年

 

兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。


日清戦争に従軍後1985(明治28)年には海軍大尉に昇進。

 

必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。


その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。

 

1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。

 

3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗って輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し実情を探索。

 

ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000

kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。

 

そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。

 

戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。

 

第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。

 

そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。

 

3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。

 

生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。

 

次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。

 

その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。

 

彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。

 

また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。

    

                 

 

敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(

 

  『 広瀬武夫  旅順に散った「海のサムライ」   
          (櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を賭けた素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?

 

軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。

 

伝説に近い有名人だけでなく、人の道を貫き私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか? 

 

以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)

いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。

 

最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。

 

 ◆ 他人の悪口を言ってはなりません
 ◆ 嘘をついてはなりません
 ◆ 弱い者いじめをしてはなりません
 ◆ 人を軽蔑してはなりません
 ◆ 愚痴をこぼしてはなりません

 ◆ 人をねたんではなりません

 ◆ 約束は守らねばなりません

 ◆ 口にしたことは実行しなければなりません

 

・・・嗚呼、耳が痛い。😣

 

同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。

 

 

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社会問題化している〝いじめ〟は、今に始まったことではありません。

 

人間の歴史が始まって以来ずっとあったことなのでしょうが・・・今日は、特に日本人特有のムラ社会的というか陰湿ないじめによって人生を狂わされた悲運の女性、

 斎藤 きち さん

 

この名前はご存じなくても 〝唐人お吉〟 といえばピンと来る方が多いと思いますが、彼女の命日にあたります。

お吉さんは、1841(天保12)年に現在の愛知県南知多町で船大工・斎藤市兵衛の次女として生まれました。

その後一家は伊豆・下田に転居したものの仕事が減って生活が苦しくなったため、彼女は7歳の時に河津城主・向井将の愛妾・村山せんの養女となって三味線などを仕込まれました。

養母せんの死去により14歳で村山家から離れた彼女は芸者となってお吉と名乗ると、アッと言う間に下田一の人気者に。

まぁこれだけの美形ですから、それも当然のことだったでしょう。(
   

      

            19歳のお吉さん

 

この人気芸者・お吉さんの運命を変えたのは、初代アメリカ総領事として来日した、タウンゼント・ハリスでした。

 

下田・玉泉寺を領事館として留まっていたハリスは、慣れない食事や環境のために吐血し体調を崩してしまいます。

そこで通訳のH・ヒュースケンは地元の役人に彼の世話をする看護婦の派遣を打診・・・ところが幕府側は、この時とばかり若い女性を妾として派遣しハリスの取り込みを画策。

そこで白羽の矢が立ったのが、お吉さんだったのです。

彼女は既に婚約者・船大工の鶴松がいたため当初固辞したものの

奉行所から「承知してくれたら鶴松には苗字帯刀を許し、大工頭の組下にする」と交換条件を持ち出され、渋々ハリスの許へ。

ところがお吉は腫物があるという理由で(というのは表向きでハリスが幕府の策略に気付いたため)僅か3日でお役御免に。

 

その後も引き続き3ヶ月程(※この期間については諸説あり)玉泉寺に通ったお吉さんに対し、当初下田の人々は同情的でした。

ところが幕府から25両もの支度金をもらって羽振りが良くなった彼女を見ているうち、徐々にそれが嫉妬に・・・芸者に戻った彼女を待っていたのは、周囲の冷たい視線でした。

 

いたたまれなくなった彼女は、松浦武四郎という蝦夷を始め全国を渡り歩いていた武士に誘われて京都へ。

その後5年間何をしていたのか詳しくは分かっていませんが、明治維新直後の1868年に鶴松と再会した彼女は横浜で同棲。

3年後に下田に戻って髪結業を始めるも、相変わらず偏見の残る同地での商売は上手くいかなかったようです。

結局鶴松とも別れ芸者に戻ったものの、既にアルコール依存症になっていた彼女は酔って宴席で暴れるなどしたため2年で廃業。

最後は物乞いにまで身を落とし、1890(明治23)年3月27日・・・48歳で身投げをして自ら命を絶ってしまいました。

 

しかも人々は引き上げられたお吉さんの遺体を汚らわしいと忌み嫌い、河原に3日間も放置したまま。

気の毒に思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬ると、今度はこの住職が周囲から迫害され、結局彼も下田を去らざるを得なかったとか。

いじめられっ子を庇うと、今度はその子が標的に・・・今、学校で起きているいじめと同じ図式です。

 

そんな彼女の生涯を悲話を含めて紹介しているのが、こちら。

 『伝承悲話 唐人お吉』 (石垣直樹・著 万来舎・刊)


     
 

国のために我が身を殉じた悲運の人・お吉さんに対し、あの新渡戸稲造は

 

  〝からくさの 浮き名のもとに 枯れ果てし 

                                         君が心は やまとなでしこ〟

 

という歌を残しています。

ところで、『唐人』とは「お前は日本人ではない」という意味の蔑称。

 

つまり『毛唐』と同じ差別用語・・・地名ならともかく、個人名に冠すべきではありません。

私は今後二度とお吉さんのことを決して『唐人』と呼ばないことを誓いつつ、冥福を祈りたいと思います。🙏

 

 

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葬儀屋を始めて10年近く経った頃、

 

「ウチのオヤジはゴルフ大好き人間なんだけど、それらしい葬儀ってどうしたらいいのかナ~?」

とある先輩から相談を受けました。

当時既に80歳代後半に入られ、体調を崩して入院されていたお父様を慮ってのことでした。

幸いその後無事退院され、普段通りの生活に戻られた時期もあったのですが・・・遂に亡くなられたとの一報が入りました。

当初相談をお受けしてから、何度かメールや電話で先輩とやり取りをしていたのですが、最終的に私から提案したのは生花祭壇でゴルフ場そのものを再現する、というもの。

かつて一流企業の役員を務められた故に多くの会葬者が予想されたこのご葬儀は、通常の式場を2間ブチ抜きで使うことに。

その幅広いスケールに見合う祭壇でイメージしたのは、故人様が生前お気に入りだったという、太平洋クラブ御殿場コース。

毎年11月に開催される『三井住友VISA太平洋マスターズ』が開催される日本屈指の名門ゴルフ場です。

そして毎年最終日にドラマが生まれる最終18番ロングホールをモチーフにして制作した祭壇が、こちら。(

         

白菊と青色を吸わせた特殊なカーネーションで富士山を、青いデルフィニウムで池を、そして黄緑色のアナスタシアで作ったグリーンに黄色いピンフラッグが刺さっているのが、お分かりいただけますでしょうか?
(※画像をクリックいただけると、拡大でご覧いただけます。)

更にそのグリーン上にある白いバンカーの数も、忠実にコースと同じに再現しているんですョ。

ちなみに、実際のコースはこちら。(


   

通夜の開式ナレーションでは、

 

「富士山の麓に広がる名門・太平洋クラブ御殿場コースの名物18番ホールを、空から見上げる故人様の遺影写真・・・」

とご紹介すると、式場を埋め尽くした元同僚や部下、そしてゴルフ仲間の皆さんから

「ほぉ~っ!」

というどよめきが。

更に告別式の開式前には、その日弔辞を読まれる故人様の元部下で現在関連会社の社長を務めていらっしゃる方がわざわざ私を呼ばれ、祭壇の説明を求められました。

話をお聞きになられた直後「う~ん・・・」と唸られると、

「いやァ、ゴルフコースが生花祭壇で出来るとは驚きました。   きっと先輩も喜んでいるでしょう。」

と仰ってくださったのです。 
葬儀屋冥利に尽きるお言葉は、私の胸を熱くしてくれました。

そして式中にナレーションさせていただいた故人様の略歴紹介の最後は、こう結ばせていただきました。

「90年余のご生涯をゴルフに例えれば、最終18番ホールまで良きパートナーとキャディーに恵まれた、ナイス・ラウンドだったと申せましょう。」

式後に喪主を務められた先輩からは、

「無宗教葬のスタイルや、ゴルフ場の祭壇、それにメモリアル・コーナー等々、会葬者の皆さんからは好評だったょ。」

と言われ、ホッとした私。

フェアウェーを颯爽と歩く故人様の姿が、会葬者の記憶に何時までも残るご葬儀になったのであれば、またこのコースでトーナメントが開催されるたびに会葬者の皆さんが故人様を思い出していただければ、幸いでございます。🙏

 

 

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いよいよ、プロ野球が開幕・・・本格的な球春到来です。

今年はどのチームが優勝するのか、ファンの間では喧々諤々の予想合戦が繰り広げられていることでしょう。


さて、〝筋書きのないドラマ〟といわれる野球で最もエキサイティングな場面は最終回の逆転劇、更に言えばサヨナラ・ゲーム。

その中でも、これ以上ないという値千金の一発といえば


 代打逆転サヨナラ満塁ホームラン

 

でしょう。

 

この最も劇的なホームランが日本プロ野球で初めて飛び出したのが、今からちょうど70年前の今日・1956(昭和31)年3月25日・・・後楽園球場で行われた巨人-中日戦でのこと。

 

この歴史的な一打を放ったのは、巨人の樋笠一夫選手(1920-2007)。


        

同選手の経歴は少々変わっていて、旧制高松中学で全国中等学校優勝野球大会でベスト8まで進んだものの卒業後は職業軍人に。

戦後は広島鉄道局などのノンプロで活躍していたところを広島カープの目に留まり、1950年に30歳で入団。


いきなり打点・本塁打でチーム二冠となったのに、僅か1年で退団。
 

その彼を巨人が熱心に口説き落として獲得したのですが、当時の巨人は青田昇・与那嶺要など外野陣の層が厚く、広島の主力打者も代打に甘んじていました。

その彼がこの試合で代打として登場したのは、9回裏。

0-3でリードを許しながらも、1死満塁で一発逆転の場面。

相手チームの杉下茂投手の3球目・ストレートを狙いすまして振った樋笠選手のバットは見事にボールをジャストミート!

打球は左中間スタンドに一直線・・・ここに史上初の快挙が達成されたのです。


ホームインした樋笠選手は、まるで優勝監督のようにナインから胴上げされたそうな。

     

8年間の現役生活で打率.229、ホームラン54本という平凡な記録しか残していない同選手ですが、この一発で見事球史にその名を残しました。

 

さて、今までこの劇的なホームランは樋笠選手のものを含め、日本プロ野球では8本飛び出しています。

日本国内で初めてプロ(職業)野球の試合が行われたのは、1936(昭和11)年2月9日。(↓)

 

 

以来90年・・・現在ではCS・日本シリーズを含め年間890試合程行われていますから、少なく見積もっても累計試合総数は約7万試合以上。

 

従ってこの劇的ホームランの出る確率は約11年・約9,000試合に1度という低さ。

樋笠選手以降に達成した選手を年代順に並べてみると、

 

② 1956年6月24日 藤村富美男(阪神) 
  (藤村監督自ら「代打はワシ」と告げて打席に・・・。)

③ 1971年5月20日  広野 功(巨人)

④ 1984年6月11日  柳原隆弘(近鉄)
 
⑤ 1988年6月18日  藤田浩雅(阪急)

⑦ 2001年9月28日  藤井康雄(阪急)

⑧ 2011年10月22日 長野久義(巨人)


・・・あれっ、⑥は?

はい、決して忘れたわけではありません。

25年前の2001年9月26日に飛び出した史上6本目は、更に劇的。

現在まで日本はおろかメジャーを含めても史上唯一、いや今後もおそらく出ないであろう〝代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン〟なのです。

打ったのは近鉄の北川博敏選手。

 

前年阪神からトレードされてきた同選手の、まさに乾坤一擲・会心の一打・・・その瞬間をご覧ください。(※9分過ぎ ↓) 

 

北川選手の名は、この一打で近鉄ファン・プロ野球ファンの記憶に永遠に留められることでしょうが、この僅か4日後に打った⑦の藤井選手の一発も、実はやはり史上唯一となる2死・(お釣り無しの)3点差での達成だったのです。

しかし
北川選手の一発があまりに劇的だったため、完全に霞んでしまいました。

これもいわゆるひとつの〝運〟ですネ。

8本目の長野選手から15年経った今シーズン、果たして9本目は出るでしょうか?野球ボール

 

 

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