開国派 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、幕末の日本を大きく開国に舵を切らせた大老、

  ほった  まさよし
 堀田 正睦 

 

の命日・没後160周年にあたります。

       

正睦 (初名:正篤 [まさひろ] )は、 1810(文化7)年に下総佐倉藩第3代藩主・堀田正時の次男として江戸藩邸で生まれました。

その翌年に正時が亡くなり、彼の養子であった正愛が第4代当主となりましたが、正愛自身が病弱で子も夭折していたため、正篤は正愛の養子となり、藩内の跡目争いを経て15歳だった1825年には家督を相続し第5代藩主に。

蘭学を奨励し佐倉順天堂を開くなどしたことから〝蘭癖〟と呼ばれた正篤は、1829年に奏者番(江戸城内における武家礼式の管理役)に任命されて幕政に関わると、1834年には寺社奉行に。

そして1837年には大阪城代として異動し、1841年・30歳で江戸本丸老中と、順調に出世。

老中首座・水野忠邦が推進した天保の改革に関わります・・・が、彼はこの改革が失敗すると見抜いており、1843年に病気を理由に老中職を辞任。

それは水野忠邦が罷免される僅か5日前でしたが、これにより彼は忠邦失脚連座を免れましたから、なかなか政治的嗅覚に鋭い人物だったようです。

 

老中辞任後は国元に帰って藩政改革に尽力しましたが、開国派だった正篤は1855年10月、当時の老中首座で彼より10歳近く年下だった阿部正弘(↓)の推挙により老中に復帰。

阿部の後任として老中首座に就いた彼はその翌年、第13代将軍・家定に篤姫が輿入れしたことから、〝篤〟を憚り正睦に改名すると、1858年にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスが調印を求めてきた日米修好通商条約締結に対応。

 

       

            Townsend Harris

 

下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震を全権としてハリスとの交渉に当たらせる一方、彼自身は条約調印の勅許を孝明天皇から得るべく上洛。

しかし強硬な攘夷論者だった天皇や公卿らの反対に遭い、勅許を得られませんでした。

※本来その必要が無かった勅許を求めたことが天皇家の政治参画意識に火を点け、後の薩長連合に討幕の勅許を出す契機になったともいわれています。 つまりは寝た子を起こしてしまった?

そして彼が上洛中に将軍継嗣問題が持ち上がり、徳川慶福を推す紀州派と慶喜を推す一橋派が対立。

しかしやはり彼が江戸を空けている1858年4月に大老の座に就いた井伊直弼が、正睦をはじめとする一橋派を排斥。


井伊大老が勅許を得ぬまま同年6月19日に日米修好通商条約に調印 (実際には、前述の井上・岩瀬の全権2名が直弼の許可を得ぬまま独断で調印) すると、その4日後に正睦は直弼に老中を罷免され、幕政から離れることに。

ご存知のように、井伊大老はその後反対派を〝安政の大獄〟で悉く粛清し、その恨みを買って1860年3月に起きた〝桜田門外の変〟によって水戸藩士らに暗殺されます。(↓)

 

 

その2年後、正睦は朝廷・幕府双方の命により佐倉城内に蟄居させられ、1864(元治元)年3月21日に53歳でこの世を去りました。

とかく日本史の中では、開国に舵を切ったのは井伊直弼・・・というイメージがありますが、実はその水面下の工作・根回しを行ったのは堀田正睦だったのです。

晩年は不遇でしたが、大正時代に入って彼が従三位が贈られたことからも、その功績は大だったと言えましょう。

阿部正弘・井伊直弼の両名に挟まれてあまり目立たぬ正睦に関して詳しく知りたい方には、こちらの書籍をオススメします。


 『開 国  愚直の宰相・堀田正睦 』 

            (佐藤雅美・著 講談社文庫・刊)
 

        

 

もし彼が勅許なしに直接ハリスと条約締結をしていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれまぜん。

どう変わったのか? そんなことを想像しながらお読みいただくと、一層面白いと思います。
笑3

 

 

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