門 限 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

皆さんの知人・友人に、時間にルーズな方はいませんか?

信用されるかどうかの目安として、時間を守るかどうかは重要ポイントなんですが、中には毎回のように遅刻する人がいますょネ。

現代なら、「ごめん、ごめん」で済むかもしれませんが、江戸時代はそんなに甘くなかったようです。

その代表的な出来事が、今からちょうど310年前の今日・1714(正徳4)年1月12日に起きた

 江島生島事件

 

当時の将軍は第7代・家継・・・とはいえ、この年の彼はまだ5歳の幼子。

補佐役に新井白石がいたものの、彼はオブザーバーの身。

 

大老・井伊直興や老中・秋元喬知、更に側用人・間部詮房ら実力者が江戸城を闊歩し、さながら群雄割拠の時代。

そして大奥も家継の生母・月光院と6代将軍・家宣の正室・天英院をトップといる2大勢力が鎬を削っており、事件前は新井白石・間部詮房と親しい月光院側が有利な状況だったとか。

そんな中、その月光院の名代としてこの日〝御年寄〟の江島(当時33歳)が上野・寛永寺と増上寺へ前将軍・家宣の墓参りに。

その帰途、懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで現在の歌舞伎座がある東銀座付近にあった芝居小屋・山村座で生島新五郎の歌舞伎を観劇。

その後江島は生島を茶屋に招いて宴会を催したのですが、これが間違いの元。

 

すっかり夢中になり、大奥の門限に遅刻してしまったのです。

     
      『新撰東錦絵 生島新五郎之話』(月岡芳年 画)
 

大奥七ツ口の前で、入れろ入れないの押し問答をしている内にこの遅刻が江戸城中に広まり、遂には評定所が審理することに。

これには月光院サイドの勢力低下を狙う天英院側が、千載一遇の好機とばかりウラで画策した可能性も十分ありますが、結果的に大目付や目付までが関わる大掛かりな取り調べに発展。

大奥の緩み切った実態が明らかになりました。

そして生島との密会を疑われた江島は、拷問に耐えて自白しなかったものの島流しを言い渡され、月光院の減刑嘆願により信州・高遠藩に幽閉。

後に多少自由は許されたものの、27年間の閉居生活から解放されることなく、60歳で病死。

彼女の異母兄である旗本・白井勝昌は斬首、弟も重追放に。
更に大奥とその出入り業者ら総計1,400名が処分されたとか。

そして江戸城内の権力争いのトバッチリを受けたのは、生島新五郎ら役者たち。

彼は三宅島に島流し、そしてもっと可哀想なのは山村屋の座元・山村長太夫で、伊豆大島に流され芝居小屋は廃業。

更に江戸中の芝居小屋も簡素な作りに改装を命じられ、夕方の営業も禁じられたと言いますから、大迷惑もいいところ。

この一件で勢力を伸ばした天英院は、2年後に家継が夭折すると自らが推す吉宗(↓)を8代将軍の座に就けることに成功。

 


その直後、月光院に近かった新井白石・間部詮房を罷免しましたから、まさに願ったり叶ったり。

※ただし吉宗は1722(享保7)年に江島を除くこの事件の処罰者に恩赦を出し、生島も江戸に戻ったとか。


してみると、大奥に仕える女性1人の遅刻が、日本史を変えたことになりますか。

この事件に関しては、1953(昭和28)年から新聞に小説として連載され、映画・TVドラマ化もなされました。

著者は、NHK大河ドラマの第一作目 『花の生涯』 の原作者で、横綱審議会の委員長も務めた舟橋聖一さん。

興味のある方は、ご一読を。

 『江島生島』 (新潮文庫・刊)

 

    

 

大奥の実態や将軍家を巻き込んだ権力闘争、それに男女関係が絡み、面白く読める秀作です。

遅刻常習犯の部下には、この事件を教えた上で自分の身にどんな悪影響を及ぼすかを言って聞かせてください。

まぁ、殆ど効果は期待できないでしょうが・・・。😅

 

 

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