異 色 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日・6月20日は、徳川幕府歴代将軍の中でも名君の誉れ高い

 

 徳川 吉宗 第8代将軍

 

の命日・没後270周年にあたります。
 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-徳川吉宗

 

吉宗は1684(貞享元)年に(徳川御三家のひとつ)紀州藩2代目当主・徳川光貞の四男として生まれました。

 

しかし母・浄円院が元は大奥の湯殿番という身分だったため、幼年期は家老に育てられたとのこと。

 

14歳で第5代将軍・綱吉に拝謁して葛野藩主となった吉宗は、1705(宝永2)年に父・長兄・次兄が立て続けに亡くなったことにより、弱冠22歳で第5代紀州藩主となり、 将軍・綱吉から一字をもらい吉宗と改名。

 

藩政改革に着手すると、自らも木綿の服を着て質素倹約を徹底。


幕府からの莫大な借金を返済する一方で、城門前に 『訴訟箱』 を設置して民衆からの嘆願を受け入れ、文武奨励などの風紀改革にも努めました。

 

そして1716(享保元)年、第7代将軍・家継が8歳で夭折して家康以来の直系男子の血筋が途絶えると、第6代将軍・家宣の正室・天英院の指名により吉宗が初の御三家からの養子として宗家を継ぎ、第8代将軍の座に。

 

それまでの履歴を見るに、生まれた当初はとても将軍の座に就くことは予期できぬ境遇・・・当初将軍後継レースの最右翼だった尾張藩主・徳川吉通とその子五郎太の死が重なった末の事ゆえ陰謀説も囁かれていますが、やはり高い政治手腕と相まって、それは〝天命〟であったのかもしれません。

 

将軍になると、吉宗は紀州藩での経験を生かし、『享保の改革』 に着手。

 

南町奉行・大岡忠相の登用、公事方御定書の制定、江戸火消し・小石川養生所の創立、目安箱の設置など次々と新政策を打ち出しました。

 ※目安箱に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

1745(延享2)年、将軍職を長男・家重に譲りますが、家重に言語障害があったため、吉宗は〝大御所〟となり1751(寛延4)年6月20日に66歳で没するまで幕政を操ったとか。

 

もし吉宗の存在がなかりせば、徳川幕府の崩壊はもっと早く訪れた・・・そう高く評価される明君であったことは間違いないようです。

 

        

         『徳川吉宗』 (大石学・著 山川出版社・刊)  

 

180cmを超す長身で武道も奨励した質実剛健気質の吉宗でしたが、面白いのはその女性観。

 

1710年に流産が原因で妻を亡くして以降正室を持たなかったという彼は、大奥の美女を親元に帰して容姿の劣る者だけを残したり、外遊時に容姿が悪い女性に一目惚れ、大奥入りさせたりもしたとか。

 

嗚呼、なんてもったいないことを!😅 コラコラ

 

蓼 (たで) 食う虫も好き好き・・・人間の嗜好は分からないものですが、実はこれには吉宗なりの考えが。

それは女性は容姿ではなく貞正にして妬心無きを良しとし、また美女は暇を出しても嫁ぎ先はあるが、そうでない者は行先もないだろうから大奥で引き続き雇うというもの。

経歴も為政能力も、そして女性の扱いも異色の将軍でありました。

 

 

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