再 建 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

奈良の古刹・薬師寺

 

天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って680年に発願され、持統天皇によって697年に本尊の開眼、平城遷都に伴って718年に現在の地に移された、法相宗の大本山です。

 

修学旅行などで訪れた方も多いと思いますが、かつて見学者に分かりやすくた面白い法話をされることで有名な管主がいらっしゃいました。 

 

今日は、薬師寺再建に生涯を捧げたその名僧、

 

      こういん

高田 好胤 師

 

の命日・二十七回忌にあたります。

 

      高田好胤

 

高田師は大正13(1924)年の大阪生まれ。 

 

11歳の時に証券会社勤務のサラリーマンだった父を亡くした高田少年は、母親の実家だった東大寺龍蔵院に身を寄せた後、当時の薬師寺管主・橋本凝胤師の弟子として引き取られました。

 

橋本師は大変に厳しい方で、時には火箸で叩くこともあったそうですが、反面運動会の時は自ら弁当を作ってくれる優しさもあったそうな。

 

やはり教育には、愛のある厳しさが必要なんでしょうネ。

 

その頃の薬師寺は火災による焼失などで金堂と東塔しか残存しておせらず、しかもかなり荒れた状態だったとか。

昭和24(1949)年、副住職に就任した高田師は修学旅行生ら見学者への法話に力を入れ、そのユーモア溢れる話しぶりで全国的にその名を知られることとなりました。

 

私自身も、中学生時代に修学旅行で薬師寺を訪れた際、高田管主の法話を聴きました。 

 

内容はさすがに忘れましたが、にこやかにお話しをされる管主のお顔は記憶しています。 

 

今にして思えば、もっと真剣に聴けば良かった・・・まさに〝後悔先に立たず〟。😣

     

      東塔をバックに 右から3人目がナベちゃん

 

TVなどにも出演し、また多くの著作を出版した高田師は、仏教の普及活動と共に薬師寺の再建に力を注ぎます。

 

檀家のいない薬師寺で如何にして莫大な再建費用を捻出するか?

 

この難問解決のため、昭和43(1967)年に管主になられた高田師が考え出したのは、一人千円の〝写経勧進〟 でした。

 

私が前述の修学旅行で訪れた時は西塔がまだなく、金堂は工事中で作業シートで覆われていましたが、写経部屋には多数の希望者がおられた記憶があります。

 

当初は風呂敷に包んだお経を手に全国を講演行脚したもののあまり集まらなかったそうですが、やがて高田師が有名になるにつれ希望者が増え始め、1976年には念願の100万巻を達成、同年金堂が再建されました。

 

そして1997年には、何と600万巻を突破。 

しかし高田師は集まった写経料はもちろん、講演料や出演料、本の印税全てを薬師寺の再建費用に充てたそうで、ご長女曰く自宅の畳はガムテープで補修し天井の隙間からは星が見えたとか・・・。😨

 

そして見事、西塔・中門・金堂を再建した高田管主でしたが、

1998(平成10)年6月22日、胆嚢ガンにより74歳にて遷化されました。 

 

しかし亡くなられた年に薬師寺がユネスコの世界遺産に登録されるなど、高田師の再建悲願は見事に達成されたのです。

※日本一の宮大工・西岡常一棟梁が手掛けた大講堂が完成したのは、その5年後・2003年のことでした。

 

   

 

人々の心に残る法話と立派な寺院を遺された20世紀の名僧・高田好胤師のご冥福を、あらためてお祈り致します。 🙏

 

 

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