“エンジンの音轟々と 隼は往く雲の果て
翼に輝く日の丸と 胸に描きし荒鷲(赤鷲)の
印は我らが戦闘機”
この歌詞だけで曲名が分かるのは、失礼ながらかなり年配の方、もしくは軍歌ファンの方でしょうネ。
私が駆け出し営業マンの頃、取引先の社長が大好きでスナックに行くたび歌わされた、懐かしい・・・『加藤隼戦闘隊』。
今日は、大東亜戦争時にその勇名を轟かせた、日本帝国陸軍の雄にして編隊にその名を残した、
たてお
加藤 建夫 少将
の命日にあたります。
1930年頃
加藤隊長は、京都から屯田兵として入植した父母の間に、兄・姉に続く末っ子として1903年に現在の北海道・旭川市に生まれました。
加藤家は軍人一家・・・父は直後に勃発した日露戦争に軍曹として参戦・戦死し金鵄勲章を授与され、また兄も陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した逸材でしたが、インフルエンザに罹患して早逝。
兄を亡くした加藤隊長は一時落ち込んだものの、残された母・姉を支えるべく一念発起。
仙台陸軍幼年学校を経て1925年に陸軍士官学校を卒業。
丁度その年に航空兵科が新設されたこともあってか、本人の希望により陸軍航空兵少尉に。
翌年所沢陸軍飛行学校に入校すると、卒業時には成績優秀につき恩賜の銀時計を賜ったという正真正銘のエリート・パイロットでした。
支那事変でも戦場で活躍、その後も力量を認められて軍幹部の海外視察にも同行した彼の名が一躍有名になったのは、大東亜戦争開戦以降。
1942年初頭
陸軍・飛行第六十四戦隊を率い、新鋭機〝隼〟を操って南方戦線で活躍したことによるもの。
この編隊こそが、〝加藤隼戦闘隊〟と呼ばれた精鋭部隊でした。
〝隼〟は開発・設計に糸川英夫氏(↓)も参画したという、海軍の〝零戦〟と並ぶ陸軍の主力戦闘機。
広域戦線に対応すべく航続距離は長い反面、旋回能力が劣っていたそうですが、接収したイギリス軍戦闘機を2,3日で乗りこなしたという加藤隊長の腕前はその欠点を見事に克服・・・同隊はマレー作戦下で大活躍します。
一式戦闘機 『隼』
しかし1942(昭和17)年5月22日、僚機と共にイギリス軍のブレンハイム爆撃機と交戦中に被弾。
操縦が困難となり帰還不能と判断した加藤隊長は、部下が見守る中海面に突っ込み自爆。
(※機銃掃射による重傷・操縦不能説あり)
享年38歳・・・少なくともそれまで敵機18機以上を撃墜したエース・パイロットとしては、あまりに若き戦死でありました。
高度な操縦技術や明晰な頭脳を持ち合わせ、豪放磊落な性格でユーモア好き。
(長男・正昭氏は素粒子物理学専攻した理学博士で、後に東京大学名誉教授を務められました。)
そして未帰還となった隊員を思い涙したという人情家でもあった加藤隊長は、多くの部下に慕われたといいます。
2ヵ月後に大本営から戦死が発表され、各新聞は1面トップで大々的に加藤隊長の死を報道。
陸軍初の二階級特進で中佐から少将となり、従四位・功二級金鵄勲章・勲三等旭日中綬章を受勲、7月には陸軍省が〝軍神〟と公表。
9月に築地本願寺で執り行われた陸軍葬には、東條英機陸軍大将・内閣総理大臣他多数の将校が参列・・・後に冒頭ご紹介した軍歌や映画の主人公にもなりました。
当時としては170cmと大柄で彫りの深い顔立ちだったという加藤隊長・・・きっとトム・クルーズより凛々しかったことでしょう。
日本陸軍の〝トップ・ガン〟加藤建夫少将のご冥福を、あらためてお祈り致します。
(余談ですが、ゴルフ界で有名な尾崎3兄弟の次男・ジェットの名は、加藤隊長と同じ〝建夫〟。
3兄弟の父・尾崎実さんは、陸軍航空士官学校卒の教官でしたから、我が子に軍神と崇められた加藤隊長の名をつけたのでは?と、勝手に想像している私です。)