2003年に、小惑星25143に名が冠せられたことで、彼の存在を知った若者も多かったと思います。
今日は、我が国の〝宇宙開発の父〟と呼ばれたロケット工学のパイオニア
糸川 英夫 博士
の命日・没後20周年にあたります。
糸川博士は、1912(明治45)年に現在の東京都港区西麻布に生まれました。
小学校教師をしていた秀才好きの父親は、その年の東大の銀時計(首席)卒業者・鳩山秀夫の名に因んで次男に〝英夫〟と付けたのですが、結果的に息子は見事にその父の想いを叶えることになったわけです。
好奇心の固まりのような子供だったという糸川少年は、5歳の時に家で初めて電球が灯った時に感動。
「これは、誰が作ったの?」と 聞かれた父親が翌日 『エジソン伝』 を買い与えたことが、彼の人生を決めたのかもしれません。
国際化の時代を予見した父親は、息子を近くの教会の日曜学校に通わせオルガンまで習わせたそうですが、これが後に彼の音楽との関りの端緒でもありました。
そんな彼が中学3年生の時に、大きなショックを受ける出来事がありました。
それはリンドバーグの大西洋無着陸横断の成功。
多くの人は単純に 「すげぇなぁ」 と感心しただけだったのでしょうが、糸川少年の発想は違っていました。
「なぜ日本人は飛べないのか? お前が太平洋を飛べ、とリンドバーグに言われた気がした」
そうですから、まさに〝栴檀は双葉より芳し〟。
そんな彼は、東大工学部土木科に進学した兄・一郎さんに 「東大で一番入試の難しいところはどこ?」と訊いた時、「そりゃお前、航空学科だよ。 毎年、各高等学校のナンバーワンがやってくるんだ。」
と言われたこともあり、リンドバーグに追随すべく同学科に進学。
そして卒業後は当時日本屈指の航空機メーカーだった中島飛行機に入社。
そこで当時単座軽戦闘機としては世界最高傑作と言われた 『97式戦闘機』、更には戦闘機の 『隼』 や 『鍾馗』 の設計に携わり、本気でアメリカに勝てると信じて日々設計・開発に没頭。
1941年には東京帝大第二工学部助教授に就任し独力でジェット・エンジンの研究にも勤しんでいた彼でしたが、現実には敗戦。
更にGHQに飛行機の製造・研究を禁止された彼は、生きがいを失い一時は自殺まで考えたとか。
しかしそこで終わらないのが、糸川博士。
好きだった音楽、それも科学者らしく音響学に興味を持ち、ヴァイオリンの研究を始めたのです。
理想的なヴァイオリンの製作に熱中したことで精神的危機を乗り越えた彼は、本職(?)であるロケット開発を手掛けることに。
1954年に自ら東大学内に設立したAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:航空及び超音速空気力学)研究班を率いてのロケット開発に関しては、過去記事をお読みいただきたく・・・。(↓)
1956年に日本ロケット協会を創立し、自ら代表幹事に就任した彼は、1967年に東大を退官し組織工学研究所を設立するまでロケット開発の第一人者として大きな貢献を果たしました。
その後アメリカやフランスの大学で(客員)教授を務めたり、62歳からバレエを始めて舞台にまで立ったという博士は、1999(平成10)年2月21日・・・転居先の長野県丸子町で多発性脳梗塞により86歳で天に召されたのです。
博士の代表的な著作といえば、何と言っても1974年に大ベストセラーになった
『逆転の発想』 (プレジデント社・刊)
でしょう。 私は社会人になってから読みましたが、当時と比べ現代の科学技術はかなり進歩しているとは言え、その斬新な発想は今でも十分通用します。
柔軟かつ凡人とは次元の違う発想力を持つ糸川氏が、実体験に照らして
◆アイデア社長は失敗する。
◆アイデアは仕事全体の2%
と述べられているのは、実に興味深いところ。 また
◆“How are you?”の発想
◆感謝の心の大切さ
は、とかくおもてなしや気配りに秀でていると言われる日本人の盲点を突かれた気がしますし、
◆幼児教育が次の社会を決める
という主張は、現代社会を的確に予見していると言えましょう。
もしこれが出版された高校生時代に読んでいれば、私も理系に進んだかも・・・って、それはないか。
久々に同書のページをめくりつつ、日本が誇るロケット工学者のご冥福をお祈りしたいと思います。