年に2回発表される有名な文学賞・・・といえば、『芥川賞』 と 『直木賞』。
『芥川賞』 が芥川龍之介に因むことは皆さんご存じだと思いますが、『直木賞』 については如何でしょうか?
今日・2月24日は、その名の由来となった作家、
直木 三十五 さん
の命日・没後90周年にあたります。
1891(明治24)年に大阪市で生まれた直木 (本名・植村宗一・・・ペンネームの直木は〝植〟を分けたもの) さんは、早稲田大学高等師範部英語科に進学。
その頃東京の下宿に転がり込んできた大阪時代の級友の叔母と同棲・結婚。
親からの仕送りで暮らす日々を送りますが、無職ゆえに学費を滞らせて中退。
親に卒業証書を見せることが出来なかった彼は、卒業記念写真の撮影現場にこっそり顔を出し、その写真を実家に送って親を騙すことに成功します。
しかし卒業できなかったために就職口がなく、一時期奥さんが働きに出て彼が子供の面倒を見る〝主夫〟になったこともあったとか。
友人の勧めで出版社を立ち上げ一時は成功したものの、生来の浪費癖と芸者遊びで有金を使い果たし、挙句は経営資金の公私混同でトラブルを起こすなどして更なる赤貧生活に陥る羽目に。
1923年に起きた関東大震災を機に一時帰阪した直木さんは、その頃から小説を書くようになり、菊池寛氏が創業・発行し始めた 『文藝春秋』 に寄稿。
彼の書く辛辣なゴシップ記事・雑文は同誌の名物記事となり、発行部数の急伸に大きく貢献。 同時に彼の存在を文壇に認知させることになりました。
机に座らず、布団の上に臥して書いたという彼の筆運びの速さは驚異的だったそうで、1時間で400字詰め原稿用紙10枚はざら・・・最高で16枚という珍(?)記録も残っているとか。
また酒は飲めないのに酒席には顔を出し、冷静な目で酔っ払った仲間たちを観察するという変わった一面があったようですが、そういう独特の視点が彼の書く文章に人気があった要因だったのかもしれません。
彼を追いかける借金取りが皆ファンになったという、何ともいえぬ魅力を持っていたそうですが、健康になど全く気を使わぬ破天荒な生活ぶりは改まることはなく、やがて妻・愛人とも彼の許を去り・・・かねてより患っていた脳膜炎の症状が酷くなり、入院から僅か16日後の1934(昭和9)年2月24日、43歳の若さでこの世を去りました。
※彼の代表作 『南国太平記』 に因み、今日は〝南国忌〟とも言われています。
彼の葬儀は文藝春秋社の社葬として執り行われ、その翌年から同社・菊池寛社長(↓)が 『直木賞』 を制定。
新人(※最近は中堅) 作家による優れた大衆文学に対して授与されています。
31歳で 〝直木三十一〟というペンネームを使い始め、それから毎年三十二、三十三・・・と変え、菊池社長に 「いい加減に変えるのをやめろ」 と忠告されて三十五(さんじゅうご)で止まったといわれる彼の最終名。
故に 『直木賞』の正式名称は 『直木三十五賞』 というのだそうな。