竹 槍 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

最近のマスコミは捏造報道・情報操作に明け暮れ、とても真実を伝えるべきメディアの使命を果たしているとは言えない状況ですが、昔は
骨のあるまともな記者がいたようです。

 

今からちょうど80年前の今日、大東亜戦争真っ只中だった1944(昭和19)年2月23日の毎日新聞朝刊一面に、驚くべき見出しが躍りました。

            

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-記事
 

 『勝利か滅亡か 戦局はここまで来た』

 『竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ』

 

そして記事の内容としては、

 

「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。 大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは手遅れ。」  

 

「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵が飛行機で攻めてくるのに、竹槍をもっては戦い得ない。」 等々。

 

今読めば、まさにお説ご尤もなのですが・・・この記事を書いたのは、新名(しんみょう)丈夫という記者。

     

 

よくぞ戦時中に大本営を批判する記事を全国紙の一面に書いたものですが、実は新名記者は開戦時から海軍を担当し、半年間ガダルカナルに従軍して前線の悲惨な現状をその目で確かめていた人物。

 

しかし陸相も兼務していた時の総理大臣・東条英機は、これを見て大激怒。

 

彼は自らが出した 『非常時宣言』 の中で〝一億玉砕〟の覚悟を国民に訴え、婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施していたのですから、怒るのは当然。

 

大本営は、毎日新聞に対し掲載紙の発禁と編集責任者・記者の処分を命令。

 

しかし既に朝刊は各家庭に配布された後であり、新名記者自身は進退伺いを出したものの新聞社は受理せず、上席の編集局長・次長を引責辞任させるに留め、彼には逆に賞を与えました。

 

ところがこの記事が出てから8日後、新名記者に突然召集令状が届きます。
 

しかも激戦地・硫黄島への転属が内示されていたという、明らかな懲罰的徴兵。

 

彼は郷里・高松に戻り丸亀の重機関銃中隊に入隊しましたが、海軍がこの召集に猛抗議したおかげで硫黄島行きは免れ、3ヶ月で召集解除に。

 

そして海軍がすぐに報道班員としてフィリピンに送致したため、再召集されることはありませんでした。

 

超大国アメリカと戦っている時に陸・海軍が対立し、一国の宰相が竹槍で国民全員討ち死にを本気で考え、それを批判する一新聞記者の懲罰に血道を上げるという狂気の沙汰・・・これでは勝てるわけがありません。


トップが頓珍漢な事をやりだすと、国が滅びるのは古今東西を問わず・・・今の日本、この当時と比べてどうなんでしょうネ?

 

余談ですが、新名記者は1906(明治39)年生まれで、当時37歳。

 

海軍は同年代が1人も召集されていなかったことを取り上げ、彼を招集した陸軍を批判。

 

すると陸軍はその批判をかわすため、慌てて同年代で大正時代に徴兵検査を受けた人間を250名も招集して辻褄を合わせるという、何とも恐ろしい員数主義を敢行。

 

しかも彼らはその後硫黄島に送られ、全員玉砕・戦死したのです。

 

トップの迷走・つまらぬ意地の張り合いのおかげで命を落とすのは、いつも最前線の兵士たち。

 

新名記者自身はその後1981年に75歳で亡くなられましたが・・・この250名の悲劇を聞いた時、果たしてどんな思いだったのでしょう?


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