三男坊  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

皆さんは、小説家の芥川龍之介(↓)をご存知だと思います。

 

 

今日は、彼の三男にして日本を代表する作曲家、

 芥川 也寸志  さん

の命日・没後35周年にあたります。
 

       

芥川さんは1925(大正14)年に現在の東京・田端で生まれました。

也寸志という珍しい名前は、父の親友だった法哲学者・恒藤恭の〝恭〟を訓読みし万葉仮名に当てるという、いかにも文学者らしい凝ったもの。

父は彼が2歳の時に自殺してしまいましたが、その遺品であったSPレコードを愛聴し、特にストラヴィンスキーに傾倒したようです。

幼稚園の頃にはストラヴィンスキーの名作『火の鳥』の子守歌を口ずさんでいたそうで、絵本の詩に曲をつけ、五線譜を知らなかったので独自の記譜法で書き留めたそうですから、作曲家になる素養は十分。

しかし東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手で、に、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていたといいますから、分からないものです。😲

それでも東京高等師範附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に音楽を志すと、バイエルから猛勉強を開始。

1943年に東京音楽学校予科作曲部(現・東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格するも翌年には学徒動員で徴兵され陸軍戸山学校軍楽隊に配属、作曲係上等兵として終戦まで勤務し、様々な軍楽隊向けの作編曲に従事しました。

終戦後東京怨学校に戻って師事したのが、『ゴジラ』のテーマ曲で知られる伊福部昭さん(↓)

 

 

1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業しますが、本科卒業作品 『交響管絃楽のための前奏曲』 は伊福部さんの影響が極めて濃厚な作品となりました。
 

その2年後東京音楽学校研究科を卒業し、在学中に作曲した 『交響三章』 や 『ラ・ダンス』 もこの頃しばしば演奏された。

1950年には 『交響管絃楽のための音楽』 がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞し、同年3月に 『交響管絃楽のための音楽』 が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びました。

 

しかし有名になったことで、1958年には今で言うストーカーの女性に突然旅館の部屋に乱入され、彼に撥ねつけられると服毒自殺を遂げるというとんでもない事件にも巻き込まれましたが・・・。😨

おそらく昭和世代の方がご存知の作品としては、まずNHK大河ドラマ第2作目の『赤穂浪士』でしょうか。(↓)

 

 

伊福部さんのゴジラに、ちょっと似ているような気もしますが・・・このテーマ曲は板ムチによる〝バシッ〟という音が討ち入りの緊張感を醸しだしたことで視聴者の共感を得て、レコードも発売される程注目され、以降忠臣蔵の音楽として定着。

同時に 「大河のテーマ曲は交響楽」 というイメージも強くなり、翌年からのNHK交響楽団によるテーマ演奏へと繋がった由。

また映画音楽としては 第1回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞した 『八甲田山』(1977年) が最も有名でしょうか。(↓)

 

 

作曲だけではなく、1977~94年まで、NHKの音楽番組 『音楽の広場』 に司会として黒柳徹子さんと共演。

また同番組の他にもテレビの司会を何度か務めており、ラジオでも1967~98年まで 『百万人の音楽』 で野際陽子さんとパーソナリティーを務め、ダンディな容貌とソフトかつ明晰な語り口でお茶の間の人気を博しました。

 

交響曲や映画音楽だけでなく、童謡や校歌などで多くの作品を残し、JASRACの理事長を務めるなど幅広く音楽界に貢献した芥川さんでしたが、1988年夏に肺癌が見つかり入院・手術。

一旦は退院したものの、同年11月に再び病状が悪化し再入院。

そのまま体調が回復することはなく、昭和天皇が崩御された直後の1989(平成元)年1月31日に、63歳でこの世を去りました。

 

それでは最後に、3度の結婚(2人目の奥さんは女優・草笛光子さん)をしたモテ男・芥川さん自身の指揮による交響曲第一番・第4楽章を聴きつつ、ご冥福をお祈りしたいと存じます。

 



【余 談】

也寸志さん自身は父・龍之介に対して尊敬の念を抱いていたものの、社会人になってからも事ある毎に〝文豪の三男〟などと紹介されることに、「いい年をして親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」と語っていたとか。

有名人を親に持つ子の苦労が偲ばれますネ。
 
 
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