破 戒 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

最近の若者は、もう彼の作品を読む機会はあまりないのかもしれませんが・・・今日は、我が故郷・信州に縁のある作家
 

 島崎 藤村 
 

の命日・没後80周年にあたります。

 

     

 

島崎(本名:春樹)は、1872(明治5)年に信州・木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)で代々本陣・庄屋を務める名家に生まれました。

国学者だった父・正毅 (後の名作 『夜明け前』 のモデル) から論語などを学んだ藤村は9歳の時に上京し銀座の泰明小学校に通い、明治学院普通部本科(現・明治学院高校の前身)に入学、キリスト教の洗礼を受けます。

学生時代は日本の古典や西洋文学を読み耽る一方で、明治学院の校歌を作詞。

 

在学中に父を亡くした彼は、卒業後20歳の時に洗礼してくれた木村熊二夫妻が創設した明治女学校高等科の英語教師になりますが、その翌年には北村透谷らが主宰する雑誌 『文学界』 に参画し、随筆などを寄稿。
 

24歳の時に東北学院の教師になり仙台に1年程赴任し帰京しますが、その時代にいくつかの詩集を発表。

その中の 『落梅集』 に収められた〝椰子の実〟は現在でも親しまれています。

 

そして3年後に信州・小諸にある小諸義塾の国語・英語教師になり、以後6年間同地で過ごした彼は、その間妻・泰冬子と結婚。  

 

1905年に小諸義塾を退職し再び上京すると、その翌年に被差別部落出身の小学校教師が自らの出生に苦しんだ末にそれを告白するまでを描いた 『破戒』 を自費出版。


       

           中学時代に買った岩波文庫の『破戒』

 

その成功を機に小説家に転身すると、1908年に 『春』 、1910年には 『家』 を発表。

 

1917年に慶應義塾大学の文学科講師となった翌年には 『新生』 を発表するなど小説家として名を成した藤村は、1929~35年まで代表作の 『夜明け前』 を中央公論に連載します。


そして日本ペンクラブの設立に関わり初代会長に就任。

   

更に帝国芸術院会員や日本文学報国会の名誉会員になるなど文壇の中心で活躍し、有名な 『戦陣訓』 (↓)の作成にも関わった藤村が脳溢血で71歳の生涯を閉じたのは、戦時中の1943(昭和18)年8月22日のことでした。    

 

 

日本文壇界の重鎮だった藤村ですが、その家庭環境は実に複雑。 


父親と長姉は発狂して亡くなっており、その父親が娘である藤村の妹と肉体関係を持ち、またすぐ上の兄は父親が違っていました。


そして藤村自身の女性関係もドロドロ。


最初に教師になった明治女学校では教え子と恋仲になり、それが原因で辞職。

 

そして妻が死去した後、42歳の時に家事手伝いに来ていた20歳の姪(次兄の娘)・こま子を妊娠させました。

若かりし頃ハシカ等で3人の娘を相次いで亡くし、更に四女出産後の妻に先立たれたことに同情はしますが、ちょっと・・・ねェ。

彼の作品には自らの体験を基にしたものが多いですが、もしかしたら彼の人生そのものが〝破戒〟だったのかもしれません。

 

         

         人気ブログランキング