先週末からの連休を利用し、私は女房と共に長年の念願であった鹿児島行きを実現しました。
2つの目的地を訪れるために・・・。
朝一番の飛行機で羽田を発ち、一路鹿児島へ。
離陸から約2時間後、眼下に初めて見る桜島は想像以上に大きくてビックリ!
そして着陸後、予約しておいたレンタカーのハンドルを握って薩摩半島を南下すること1時間余り・・・到着したのは、ひとつ目の目的地である、こちら。(↓)
行かれたことがある方なら、お分かりでしょう。 そう、
知覧特攻平和会館
1945(昭和20)年に入った大東亜戦争末期、戦局が悪化して本土が繰り返し空襲に遭う中、軍部はアメリカの進攻を阻止すべく、戦闘機を体当たりさせる特攻戦法を最終手段に。
同年3月26日から7月19日まで、各飛行場から延べ1,036名にのぼる20歳前後の若き兵士が沖縄特攻に出撃し、散華されました。
その中で最多の(※徳之島・喜界島経由を含む)439名が沖縄に最も近い知覧飛行場から4月1日~6月11日の間に飛び立っており、その飛行場跡地に隣接して1985(昭和60)年に建てられ、特攻隊員の写真や遺品・遺書、更に戦闘機などの展示をしているのが、この会館。
入場してすぐのロビーでは、知覧飛行場の歴史と特攻作戦の概要を紹介するVTRが流されており、それを観ただけで私の目はもうウルウル。
そしてその隣に展示されていた(海中から引き揚げられた)零式戦闘機の残骸を目にするや、
(こんな狭いコクピットに身体を押し込んで、沖縄までの片道2時間余りを操縦したのか・・・)
と想像しただけで、もう涙は止まりませんでした。
残念ながら他の室内展示物は撮影不可のため拙ブログではご紹介できませんが、散華された特攻隊員の顔写真と遺書を見るにつけ、その精悍な顔立ちと達筆に胸を撃たれました。
特に感銘を受けたのは、特攻隊員としては最年少・17歳で散華された服部武雄少尉の遺書。
さすがに17歳だけあって、ペン字(万年筆?)で認められた文字にはあどけなさがありますが、最後に 「さようなら」 と平仮名で締め括られた文章は、涙なくしては読めません。
自分は17歳の時、何をしていたのか?
ブルース・リーに感化されてヌンチャクを振り回し、プロ野球の結果に一喜一憂していたような気が・・・そのあまりの違いに、如何に自分が恵まれた時代に生まれたかをあらためて思い知さられました。
また知覧高女の女生徒たちに見送られる有名な写真を、皆さんもご覧になったことがあると思います。
この一式戦闘機 『隼』 に乗る穴沢利夫大尉(23)は、婚約者から贈られたマフラーを巻いて出撃したそうですが・・・その婚約者に宛てた、これも有名な
「智恵子 会いたい、話したい、無性に。」
という遺書を実筆(のコピー?)であらためて読み返すと、また涙腺が・・・。
そして特攻隊員が飛び立つ前の数日間寝起きしたという、半地下の〝三角兵舎〟が屋外展示されていましたが、中を見るとまるで刑務所のよう・・・というか、現代ならそれ以下の環境。
ここで「明日出撃」という命令を受けた隊員たちの心境は如何ばかりだったのか・・・もう想像すら出来ません。
以前から私は拙ブログに於いて、「中・高校生には是非靖国参拝を、そして(靖国神社内にある)遊就館と知覧特攻平会館の見学をさせるべき」と主張してきました。
私が訪れた時に詰襟の学生服とセーラー服姿の中学生が修学旅行で見学していましたが、1人の女生徒がノートに遺書を筆写しているのを見て、その思いは一層強まった次第。
きっと10代の若者が見学すれば、私たち大人以上に感じるものがあるはず。
飛行機を利用すれば東京からも日帰りできますので、10代のお子さんをお持ちの方は、是非一緒に訪れてください。
旅費をかける価値は、十分にあるはずですから。
見学後、会館から程近くにある〝特攻の母〟 鳥濱トメさん(↓)が経営し多くの特攻隊員を見送った 『富屋食堂』 へ。
鹿児島名物の焼酎を飲み比べしながら海鮮・黒豚料理に舌鼓を打ち、翌日に備えて英気を養いました。
・・・・・ To be continued!