年功序列  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、旧日本海軍上層部に於いて最もその人物評価が分かれるとされる、

 

 南雲 忠一 大将

 

の命日・没後80周年にあたります。

 

     

 

南雲大将は1887(明治20)年に山形県米沢市で旧米沢藩士・南雲周蔵の次男として生まれました。

1905年に海軍兵学校に入校、3年後191人中5番の成績で卒業。

少尉に昇進後、海軍水雷学校普通科学生となった彼は、(機雷・魚雷などの)水雷畑の専門職であり、1920(大正9)年には海軍大学校を次席で卒業。

     
           
海軍中尉時代

 

同年海軍少佐に昇進して駆逐艦長になったエリート軍人でした。

 

1935年・第1水雷艦隊司令長官、1937年・海軍水雷学校校長、1940年・海軍大学校長を歴任した後、1941年4月に第一航空艦隊司令長官に就任。

旗艦『赤城』で真珠湾攻撃を指揮し、成功に導きます。

その後ニューギニア・インド洋など南方戦線で勝利を収めたものの、1942年6月のミッドウェー海戦で大敗北。

しかしその責任を取らされることなく第三艦隊司令長官、そして最後の第一艦隊司令長官を務めた後、「今度は帰らない」と自宅で家族に言い残して1944年6月に中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパンに赴任。

その言葉通り、アメリカ軍の猛攻撃により日本軍は玉砕し、翌月8日に南雲長官は自決。 享年57歳でした。

日本の方向を向いて正座し、割腹を遂げたといわれています。


さて、冒頭南雲大将に関してはその評価が大きく分かれる・・・と申し上げましたが、批判されるのは、


① 真珠湾攻撃で2次攻撃をせず徹底的な打撃を与えなかった。


② ミッドウェー海戦で魚雷と陸上用爆弾の装填判断に迷った

  ため米軍の攻撃を受け大打撃を被ったから。(↓)

 

 

確かにそれは事実ですが、私はこの全責任を南雲大将に押し付けるのは間違いだと思います。

 

そもそも彼は水雷畑出身であり、旧体質といえる砲艦主義者。

 

航空機・空母が主力となりつつあった大東亜戦争を指揮するトップとして適任だったとは言えないでしょう。


その彼を司令長官にしたのは、旧体然たる年功序列と温情主義。
 

アメリカ軍のような信賞必罰・適材適所の人事とは大違い。

真珠湾攻撃の際に2次攻撃をしなかったのは部下の意見をそのまま聞き入れてしまった結果であり、ミッドウェーでの混乱共々航空機に関して専門分野でなかったが故に臨機応変の判断が出来なかったことが原因。

南雲司令長官に非がないとは言いませんが、最大の責任は彼をトップに据えた海軍自体にあったと私は思います。

 

豪放磊落な性格で部下からも慕われていたという彼をミッドウェー敗戦の一事を以って酷評するのではなく、私たちはその根本である人事についての反省材料・教訓とすべし・・・そう私は考えますが、皆さんのご意見は如何に?
 

 

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