今日・4月17日は、おそらく我が国の歴史上最も過酷な状況下・・・即ち大東亜戦争敗戦時に総理大臣を務めた軍人・政治家、
鈴木 貫太郎 海軍大将
鈴木氏は、ちょうど明治に時代が変わった1868年に、現在の大阪府堺市で生まれました。
父親は代官を務め、体格が良く武芸に秀でた人格者だったそうですが、彼もその血を色濃く受け継いだようです。
その父が群馬県庁に招かれたため同地に引っ越した彼は群馬中学にで学び、その後上京して近藤真琴が主宰する近藤塾に入塾。
海国主義者だった近藤先生の薫陶を強く受けた彼は、息子を医者にしたかった父を粘り強く説得して、1884年に海軍兵学校入学。
日清戦争に従軍後1898年に卒業しましたが、当時の海軍は薩長閥が強く旧幕府系の彼は冷遇されていました。
それに嫌気がさして、1901年からのドイツ駐在中に一旦は辞めようと思ったようですが、父親から 「お国のために御奉公せよ」 という手紙を受け取った彼は海軍に残る決心を固めます。
そんな中、ドイツから帰国直後に日露戦争が勃発。
駆逐隊司令となった彼は、その訓練の激しさ故に部下から〝鬼貫〟などと怖れられましたが、その甲斐あってロシア海軍の旗艦スワロフに魚雷を命中させるなど日本海海戦勝利に大きく貢献。
その後1923年に海軍大将、翌年には連合艦隊司令長官に就任。
そして1929年、昭和天皇からその人格・見識を高く評価された鈴木大将は、請われて侍従長となりました。
それ故に1936年に勃発した二・二六事件では青年将校らに自宅で襲撃され、3発の銃弾を受け昏倒。
しかし、たか夫人がとどめを刺そうとした将校を制止し、その場を運よく逃れた鈴木氏は病院に搬送。
一度は心停止したものの、たか夫人の 「あなた、起きなさいっ!」 という一言で息を吹き返したとか。
やはり亭主の命運は、奥方が握っているんですねェ。😅
そして1944年に枢密院議長に就任した鈴木氏は、翌年7月に天皇陛下から組閣の大命を仰せつかります。
「自分は軍人であり政治手腕はありません。」
そう固辞する鈴木大将に、昭和天皇は
「鈴木の心境はよく分かる。
しかしこの重大な時にあたって、もう他に人はいない。
頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。」
と懇願され総理大臣就任を受諾した彼は、原爆投下・ボツダム宣言受諾・終戦という激動期の日本の舵取りを任されたのです。
そして玉音放送が流された8月15日に内閣総辞職。
しかし翌日には終戦に怒った国粋主義者らに私邸を襲われ、自宅は全焼したものの間一髪暗殺は免れました。
※終戦時の鈴木総理と、彼とは旧知の仲であった阿南陸相(↓)コンビだったからこそ、混乱なく終戦を迎えられた・・・と、私は思っています。
1946年に公職追放となった鈴木元総理は、まるで燃え尽きたかのようにその2年後の今日・1948年4月17日・・・82歳でこの世を去りました。
3歳の時には馬に蹴られかけたり、7歳頃には魚釣りの最中に川で溺れかかったり、海軍時代には錨と共に沈みかけたり砲台から海に転落したり、更に戦時中は夜の海に投げ出されたり・・・そして2度も暗殺されかかりながらその都度生き長らえた鈴木氏は、もしかしたら生まれながらにして神仏に選ばれし人物だったのかもしれません。
阿南陸相は玉音放送録音後に壮絶なる割腹死を遂げられましたが、一方の鈴木総理は自死しませんでした。
その理由をご本人が自伝の中で明確に語っておられますので、お知りになりたい方は、是非お読みください。
私自身、鈴木氏を尊敬していますが、その器の大きさを物語るエピソードをひとつご紹介しましょう。
戦局が悪化の一途を辿る中、敵国アメリカのルーズベルト大統領逝去の報に接した際、
「今日アメリカが我が国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。 私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。
しかしルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。 我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。」
という声明をアメリカに発信。
同じくアメリカと戦っていたドイツのヒトラーが口汚くルーズベルトを罵ったことと、実に対照的・・・まさに武士道精神そのものです。
〝強運も実力の内〟・・・歴史上唯一、天皇陛下に懇願されて総理大臣になった傑人のご冥福を、あらためてお祈り致します。