【特別増刊・拡散希望】 沈 勇  | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

4月15日というと、タイタニック号の沈没が有名ですが・・・その2年前、今から113年前の今日、ある意味タイタニック号よりも世界中に衝撃を与えた沈没事故が起きていました。


それは日本海軍の潜水艇だったのですが、悲劇でありながらも世界中の人々から称賛を浴びたのは、艇長以下乗組員たちの散り際の見事さでした。

 

その艇長の名は、

 

 佐久間 勉 大尉

 

     

 

佐久間大尉は1879(明治12)年に福井県で生まれました。

 

1901年に海軍兵学校を卒業すると2年後海軍少尉に任官し、日露戦争に従軍。

 

第一・第四潜水艇長、駆逐艦 『春風』 の初代艦長などを経て、1908年に第六潜水艇長に着任しました。

 

日本海軍はそれまでアメリカ製の潜水艦を輸入していましたが、メーカーから新型潜水艇の図面を入手し、日本人だけの手で作られ1906年4月に竣工した初の国産ホーランド型潜水艇2隻のうち1隻が、第六潜水艇でした。
    

   

            第六潜水艇


当時の潜水艇は、兵器としては未だ実験の段階にあって信頼性に問題があったため、母艦艦長と潜水艇隊司令指揮のもと、艇隊単位で行動するのが普通。


しかし当該第六潜水艇は初の国産潜水艇ということで性能に多くの問題点があったため、第一潜水停滞から離れ単独で潜水訓練を行いつつ問題点の解明と改良を続けていました。


そして運命の1910(明治43)年4月15日・・・同艇は山口県新湊沖で潜航訓練中に浮上することが出来ず、沈没。


30歳の佐久間艇長以下20歳代の乗組員総員14名が殉職したのです。


当時は潜水艦の黎明期・・・世界的に沈没事故が多発しており、この直前イタリアで起きた同様の事故の際には乗組員たちが脱出用ハッチに折り重なったり、我先に脱出しようと乗組員同士で乱闘したまま死亡していることが確認されるなど、艦内はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

とは言えそれは、生存本能が働けば致し方ないとも言えます。

 

しかし第六潜水艇を引き上げてハッチを開けてみると、佐々木艇長以下殆どの乗組員は持ち場を離れず、最期まで任務を完遂しようとしていたことが判明。

 

それだけでも称賛に値しますが、更に世界を驚かせたのは佐久間艇長の胸ポケットからずぶ濡れで発見された2冊の手帳に記された遺書の中身でした。


    

 

『佐久間艇長遺言 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳無シ、サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ、沈着ニ事ヲ処セリ・・・ 』

 

という文章で始まる手記(遺書)は、あの日航ジャンボ機事故で亡くなった会社員が揺れる機内で書き残した遺書(↓)の如く、乱れた文字で埋め尽くされています。
 

しかし艇内の酸素が無くなりガスが充満しつつあった極限状態の中、艇長は潜水艇の開発に少しでも役立てようと39ページに及び詳細に艇内の様子や事故原因や応急処置の状況を書き残しており、さらに

 

『謹ンデ陛下ニ申ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之アルノミ』

 

と、天皇陛下に部下の遺族への経済的支援を依願しているのです。


何という部下思いの将校でありましょうか。

沈みゆく船から乗客をほったらかしにして我先にと逃げ出した某国の船長とは、大違いです。


この遺書に感激した諸外国からは弔電が相次ぎ届き、アメリカ合衆国議会議事堂には遺書のコピーが陳列されました。

またT・ルーズベルト大統領は国立図書館前にこの遺言を刻んだ銅板を設置し、真珠湾攻撃が行われた後ですら、撤去しなかったといいます。

 

日本国内でも、修身の教科書に 『沈勇』 と題して取り上げられていたのですが・・・しかし現在の日本国民で、佐々木艇長を知る人はどれ程いるでしょうか?

 

以前行われた岩国での追悼式で、駐日英国大使館付海軍武官がスピーチで発した、

 

「我が英国軍人に尊敬されている佐久間艇長の精神を、戦後の日本人は忘れている」

 

という言葉を、私たち日本人・・・特に政治家や文科省の官僚は噛みしめるべきでしょう。

 

あらためて武人・佐久間勉大尉と乗員のご冥福をお祈りすると共に、多くの日本人に彼の生き様と最期を知っていただきたいと存じます。

 

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