稲むらの火 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

地震や火山活動、陸地の崩壊に起因する海底・海岸地形の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象を〝津波〟と呼ぶのは、皆さんもご承知の通り。

その語源は、「沖で被害が出なくても、津(=港)で大きな被害が出る」ことからだそうな。

そして20世紀後半以降、“Tsunami ”が世界的に使用される共通用語になりましたが、今日・11月5日は、その


 世界津波の日

なのだそうな。

これは2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災を受け、3ヶ月後の6月に制定された 『津波対策の推進に関する法律』 で『津波防災の日』 として制定され、更に2015年12月の国連総会で〝世界津波の日〟として満場一致で決議されました。

東日本大震災後に制定されたなら、3月11日にすればいいのに・・・と思う方も少なくないと思います。

当初はそういう案だったそうですが、震災直後だったため被災者の心情を考慮して別の日になった由。

ではなぜ11月5日になったのか?
実は、この根拠も日本にありました。

それは、今から168年前の今日・1854(嘉永7・安政元)年11月5日に起きた、『安政南海地震』。

同日午後4時30分頃、紀伊半島から四国沖を震源地とする同地震は、フィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられ、四国の太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島、大阪平野および播州平野で震度6、九州から中部地方にかけて震度4以上と推定される巨大なものでした。

   
        
安政南海地震の震度分布 ×印が震源 

 

あの坂本龍馬もこの日は土佐に滞在していたそうですから、この大地震を体験しているはずですが、この時機転を利かせて多くの住民を津波から救った人物がいました。

その人の名は、


 濱口 梧陵(ごりょう  1820-1885)

     

 

紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)に生まれた彼は、12歳の時に本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子へ。

 

その後江戸に上って見聞を広め、開国論者となって海外留学を志願しますが、開国直前の江戸幕府には受け入れられず30歳で帰郷、地震発生直前に七代目濱口儀兵衛として家督を相続しました。

 

そして安政南海地震が発生し、広村に津波が襲来。

すると彼は自分の田にあった藁の山に火を点け、安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとして、人々を誘導。

結果的に村民9割・約270名の命を救ったのです。

 

また彼は、震災後も故郷の復興のため被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具等の提供をはじめ、各方面で復旧作業に貢献。

更に津波から村を守るべく全長600m、高さ5mの防波堤築造にも取り組み、そのおかげで1946(昭和21)年に起きた昭和南海地震の津波から、村の被害を最小限に抑えました。

冒頭の記念日は、まさにこの梧陵の活躍を後世に語り継ぐために創設されたようなものです。

この逸話は、小泉八雲が著書 "A Living God "の中で紹介し、それを読んだ中井常蔵が翻訳し 『稲むらの火』 として出版。

1937年から10年間にわたり国定国語教科書に掲載されました。

現在でも同書は出版・販売されています。

     

 

とかく日本人は熱しやすく冷めやすい、喉元過ぎると暑さを忘れやすい民族だと言われます。

こういった書籍や映像で過去に起きた天災を正しく後世に伝え、万が一の事態に備えさせなければなりません。

天災は、忘れた頃にやってきますから・・・。

 

 

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