私が小学生の頃、〝日本最長の鉄道トンネル〟は北陸本線の敦賀~南今庄駅間にある、全長13,870mの
北陸トンネル
と習ったものでした。
しかし1972(昭和47)年3月に16,250mの山陽新幹線・六甲トンネルが開通して日本一の座を奪われてしまいます。
※因みに現在の日本最長鉄道トンネル(世界第2位)は、1988年3月に開通した53,850mの青函トンネル。
それで気が抜けたというわけではないでしょうが、その8ヶ月後・・・即ち今からちょうど50年前の今日・1972(昭和47)年11月6日未明に、このトンネル内で乗員1人を含む30名の犠牲者と714人もの負傷者を出す悲惨な列車火災事故が起きました。
電気機関車に牽引された客車15両編成の大阪発・青森行き夜行急行列車 『きたぐに』 が走行中、無人だった食堂車(11号車)の喫煙室から出火。
(※原因は、椅子下にあった電気暖房装置のショート)
これに気付いた乗客の通報を受けた車掌がかけた非常ブレーキと機関士の急ブレーキにより、列車は午前1時14分に敦賀側入口から5.3km地点で緊急停車。
「なぜトンネル内で停車させたんだ?」
と不思議に思う方、私を含めて多いと思います。
しかし当時の運転規定では、それが正しい措置でした。
この10年前の1962(昭和37)年5月に起きた『三河島事故』(↓)以来、国鉄は
「事故が起きたら列車を直ちに停車させ、危険がなくなるまで走らせてはいけない」
と運転士らに徹底指導していたのです。
しかしそれは〝膾に懲りて羹を吹く〟的なワンパターン・マニュアルであり、トンネル内や鉄橋上など様々なケースにきめ細かく対応した指示ではありませんでした。
換気のできない長いトンネル内で停車したため消防署の消火活動も出来ず、また高熱によって漏水誘導用樋が溶け落ち架線に触れてショートを起こして停電したため、列車は身動きが取れない状態に。
しかもトンネル内の照明は「運転士の信号確認の妨げになる」という組合側の要望により消されており、中は真っ暗闇。
更に深夜で乗客の殆どが就寝中だったため、現場は混乱の極となり、死者30名・負傷者714名の大惨事となってしまいました。
乗客の多くはトンネル内を徒歩で逃げようとしましたが、不幸中の幸いだったのは同時刻に反対の上り線を急行 『立山3号』 が走行していたこと。
一旦赤信号で停車したものの、信号が青に・・・異常を感じた運転士が午前2時頃に徐行でトンネル内を進行したところ、前から逃げてきた乗客を発見したため停車してドアを開放。
225人を救助して逆走し、トンネルを抜けたのです。
もしこの運転士の機転がなければ、死者は更に増えた可能性大。
しかし国鉄の対応の遅れ等があり、第二次救援列車がトンネル内に入ったのは事故から4時間以上経過した午前6時30分過ぎ。
犠牲者は、全員が一酸化中毒死でした。
「電化トンネル内では火災など発生しない」
と高を括っていた国鉄は、この事故後火災実験などを通して車両の難燃化および消火器の設置、トンネル内の点灯、またトンネル内や鉄橋上で火災が発生した場合は停車せず安全な地点まで走行するよう、大きくマニュアルを改訂。
とは言え、この事故が国鉄や組合の安全に対する意識の欠如と慢心による人災であったことは明らか。
高速道の屋根落下など、大きな事故が起きて犠牲者が出なければ改善しない・・・という後手後手の対策は、残念ながら現在まで変わっていません。
人間は、いつになったら先手を打てるようになるのでしょう?