初優勝 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今からちょうど50年前の今日、大相撲史上に残る快挙が達成されました。

それは、〝ジェシー〟の愛称で多くのファンから愛された、

 

 高見山 大五郎 


が、外国人力士として幕内で初優勝したこと。

       

 

1944年にハワイ・生まれた高見山関(本名:ジェシー・J・W・クハウルワ)は、フットボール選手として期待されていましたが、高校時代に交通事故で下半身を負傷してしまい、将来プロに進む夢を断たれてしまいます。

 

大相撲のハワイ巡業が行われた際、その体格を見込まれ高砂親方にスカウトされたジェシーは〝5年間衣食住保〟」 という条件で相撲界入りを決意し来日、史上初の外国人力士に。


しかし日本語が全く分からず、また当初はチャンコの味に馴染めずにケチャップをかけて食べていた彼は、部屋の力士達に大変カワイがられた(※相撲用語ではシゴかれる、という意味)とか。

 

パスポートを親方に預けていたため帰国することもままならず、山手線に乗って泣きながら何時間もグルグル回ったこともあったとか。

 

また独特のしわがれ声は生来のものではなく、扁桃腺の手術を受けた翌日に無理やり稽古をさせられ、ノド輪攻めを受けたことが原因だったそうな。

 

股割りの辛さに目に涙を浮かべながらも、「目から汗が出た」 と言い張って我慢した高見山関は、身長192㎝・体重200kg超という恵まれた体格を生かしてグングン頭角をあらわし、1968年に新入幕。

 

翌年小結に昇進すると1972(昭和47)年7月16日、千秋楽で旭国関を破って念願の賜杯を手にしたのです。(↓)

 

 

表彰式で、当時のニクソン大統領からお祝いのメッセージが読み上げられたのですが、まさにこの時こそが大相撲の国際化の幕開けだったのかもしれません。


その後関脇まで番付を上げ、初代貴ノ花関との名勝負でファンを熱狂させたものの、交通事故の後遺症が残る足腰の脆さが災いし、遂に大関昇進の夢は果たせず・・・40歳を目前にした1984年に惜しまれつつ引退。 

 

幕内在位97場所は歴代3位、そして幕内連続出場1,231回という現在でも破られていない最長記録を残した、本当に息の長いお相撲さんでした。
 

引退表明した直後、相撲がお好きだった昭和天皇が、

 

「高見山はなぜ辞めたのかね? 残念だったろうな。」

 

と文部大臣に仰られたというエピソードは有名。


引退後も彼が相撲界に残る意向があることを知った協会側は、親方になる資格として 「日本国籍を有する者」 という条項を加えたそうですが、日本人女性と結婚した高見山関は1980年に日本国籍を取得し、晴れて東関親方に。

 

その後は大関・小錦をスカウトし、また外国人力士初の横綱・曙を育成するなど相撲界に多大な貢献をした後、2009年に定年退職。

退職時、アメリカ下院が日本相撲界への貢献と日米親善に尽くした功績を称え、本会議で異例の感謝決議を行い、また相撲関係者として初めての菊池寛賞も受賞しました。

       

彼がなぜファンに愛されたのか?・・・それは、高見山関が〝日本人以上に日本人らしい〟力士だったからでしょう。


彼が育てた小錦関や曙関が活躍していた頃までは私も大相撲を観ていましたが、朝青龍が土俵上で(品格のない)振る舞いをし出して以降嫌気がさして、全く関心がなくなりました。

なぜなら、私は〝大相撲はスポーツではなく神事である〟と定義しているから。

日本古来の神事を、何も知らない外国人力士に荒らされている気がしてならないのです。

 

それは別にしても、私たちは東関親方の功績に心から敬意を表すると同時に、彼の生き様を通して現在の日本で忘れられがちな忍耐や努力という大切な事を、謙虚に学ぶべきではないでしょうか。



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