倒 産 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

私のような昭和世代の映画ファンにとって懐かしい、

 大 映

 

この映画会社が倒産したのが、今からちょうど50年前の今日・1971(昭和46)年12月23日のことでした。

同社の誕生は、戦時中のこと。

戦時体制の一環として小規模企業の整理・統合が進む中、内閣情報局の指示によって新興キネマ・大都映画・日活製作部門を軸とした統合が行われ、1942(昭和17)年1月に大日本映画製作株式会社が誕生し、松竹・東宝との3社体制に。

初代社長には作家・菊池寛(↓)が就任。

 

 

阪東妻三郎・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・市川右太衛門の四大スターの共演による 『維新の曲』 を発表し、第一歩を踏み出しました。

    


そして1945年に社名を大映株式会社に改め、菊池寛が公職追放となったことで後継者となったのが、その後長らくワンマン社長として君臨する永田雅一でした。

1906年に京都で生まれ、19歳で日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所した彼は、いわゆる業界の叩き上げ。

1934年に日活を退社して第一映画社を創立したものの、2年後に解散。

その後新興キネマの京都撮影所長となり、前述の3社合併を情報局課長に賄賂を贈って実現させたといわれているのが、彼でした。

 

       

 

 他社に先駆けて定年60年制を導入するなど画期的なシステムを導入する一方で、1953年には松竹・東宝・東映・新東宝に声をかけ『五社協定』 締結を主導するなど、映画界での影響力を高めました。

その一方でプロ野球のオーナー、更にはパシフィック・リーグの会長を務めるなどしましたが、
社員を縁故で固め、その息子や親戚を採用し自らをカリスマ化。

映画の企画も全て永田社長の一存で決めるという独裁者ぶりは、やがて会社を傾かせることに。

それを象徴していると私が思っているのは、黒澤明監督の『羅生門』にまつわるエピソード。

この作品とその経緯については、こちらの過去記事をお読みいただきたく・・・。(↓)

 

当時、「黒澤はグランプリ、永田は知らんぷり」 などと揶揄されたそうですが、いかにやり手とは言えこういうセコい経営者が長く権力を振るうとどうなるかを、この会社の末路が如実に示しています。

〝経営者の器が会社の器〟っていいますから・・・。

その後これに気を良くしたのか、周囲の反対を押し切って『地獄門』を制作させ同作でカンヌ映画祭グランプリを獲得すると、日本初の70ミリ映画を製作。

また『大魔神』・『ガメラ』・『座頭市』シリーズなどヒット作品もありましたが、長谷川一夫の引退、五社協定に絡む山本富士子・田宮二郎の解雇、勝進太郎の独立など看板スターの相次ぐ離脱により観客動員数は低迷。

そして遂に
1971(昭和46)年12月23日、東京地裁から破産宣告を受けるに至りました。

同社は1974年、徳間書店の出資により大映映画株式会社として再建されましたが、2002年には角川書店(↓)が買収したことで、大映の歴史に幕が降ろされたのです。

 

 

会社は消滅したものの世に出した作品が今でも楽しめることが、せめてもの慰めでしょうか・・・。

 

 

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