電 鬼 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は私の敬愛する、慶応義塾の大先輩にして〝電力王〟と異名をとった大事業家、

 

 松永 安左エ門 

 

の命日・没後50周年にあたります。

       

どうですか、この眼光の鋭さと迫力・・・さすが〝電力の鬼〟と言われただけのことはありますょネ。

 

1875年に長崎県壱岐に生まれた松永翁は、福沢諭吉先生の著した 『学問のすすめ』 に感激して慶應義塾大学に入学、父親の急逝で一旦故郷に戻った後に再入学するも中退。

 

しかし在学中に知り合った諭吉先生の養子・福澤桃介氏(↓)の紹介で日本銀行入りし、僅か1年で退職した後は桃介氏と共に様々な事業を手がけます。

 

 

1910年には九州電気を設立、2年後には九州・西部合同ガスの社長に就任。

 

1917年には衆議院議員に当選、更には九州・関西・中部を網羅する東邦電力の社長になると、更には東京進出を狙って子会社・東京電力を設立して東京電燈と覇権を争うことに。

 

結局両社は合併、松永翁は大株主として同社役員に名を連ねます。

 

そして戦後は電気事業再編成審議会会長に就任、現在の9電力会社制の基礎を築きました。

 

こうやって略歴を紹介すると、単に一代でのし上がった実業家・・・という印象ですが、その人生は実に波瀾に富んだものでした。

 

ここに彼の電気 ジャナカッタ 伝記ともいえる著書をご紹介します。

 

 『爽やかなる熱情』 (水木楊・著 日本経済新聞社・刊)

 

        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-松永安左エ門

 

帯書きにある、〝破天荒に生き、「閉塞日本」を突き破った男〟の生き様は、同書のプロローグを読んだだけでも一筋縄でないことが分かります。

 

軍部が台頭した1930年代においても電力の民間主導管理を説き、講演会で軍閥に従属する官僚を 〝人間のクズ〟呼ばわり。

現代ならヤンヤの大喝采を受けるでしょうが、当時は命を狙われたことも。

 

また大東亜争開戦直後に引退・隠遁生活を送ったものの終戦後は 「これからは僕がアメリカと戦う」 と宣告、敗戦で重鎮たちが悉く追放された実業界に復帰。

 

日本の復興のために尽力し、電力の国家管理を目論む日本発送電会社側を抑えて、同社の全国9ブロック分割に成功し現行体制の確立に至ったのです。

 

一方で電力事業の発展を見越し思い切った設備投資を行うため、3年間で70%という電気料金の値上げを断行し、国民から批判されたことも。

 

しかし当時から東日本・50ヘルツ/西日本・60ヘルツと分離されていた周波数を60ヘルツに統一すべき、とアメリカで唱えられていた〝超電力連係構想〟導入を1度ならず提唱したり、関東大震災の折には電柱をなくし地下配電方式の採用を提案するなど、その先見性には鋭いものがありました。

 

1971(昭和46)年6月16日、95歳で大往生を遂げるまで現役であり続けた松永翁・・・明治・大正・昭和の3時代、日清・日露・2度の世界大戦と4つの戦争を経験した、まさに岸信介氏と並ぶ〝昭和の妖怪〟といえましょう。

 

もし50ヘルツ導入推進派の狭量な抵抗がなく、彼の提唱した超電力関係構想が実現していたなら、東日本大震災による電力不足は全国の電力会社の協力でカバー出来たはず。

 

〝昭和の電力王〟は、東京電力・福島第一原発事故を天国から眺めつつ 「それ見たことかっ!」 と怒っておられるかもしれません。 うー
 

 

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