遺 産 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

毎年12月10日に授与式が執り行われる、ノーベル賞。

日本人が受賞すると大きな話題になりますが、ではこの賞を創立した


 アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル
         Alfred Bernhard Nobel

とは、どんな人物だったのか?・・・今日はそこにスポットを当ててみたいと思います。

       

 

ノーベルは1833年、スウェーデンのストックホルムで生まれました。

父親は建築家であると同時に発明家だったそうですから、彼もしっかりそのDNAを受け継いだようです。

その父親が機械や爆発物の製造に成功し裕福になると、アルフレッドには化学や語学など複数の家庭教師がつけられたため、学校に通ったのは8~9歳までの1年半だけだったにもかかわらず、英・仏・独・露4ヶ国語を流暢に操れるように。

化学を学ぶためパリやアメリカに渡った後、父親の事業を手伝うようになった彼が最初に特許を出願したのは1857年。

以来彼は生涯で350もの特許を取得したのですが、その中で最も有名なのが、ダイナマイト。

クリミア戦争(1853~56)の終結によってそれまで兵器生産で儲けていた父親が破産したことで両親と共にスウェーデンに帰国した彼は、爆発物の研究に没頭。

ニトログリセリンの安全な製造・使用方法を開発した彼は、1863年に特許を取得。

 

しかし翌年爆発事故により弟と5人の助手が死亡し、彼自身も負傷。
これによりストックホルムでの研究を禁じられましたが、彼は諦めずにハンブルグに工場を建設。

そして1866年、ニトログリセリンをより安全に扱える爆薬を発明し、ダイナマイトと命名して特許を複数の国で取得し、1871年から製造を開始。

100近い工場で製造されたダイナマイトは世界中の土木工事で使用されるようになり、彼は莫大な富を手に入れました。

1884年にスウェーデン王立科学アカデミーの会員に選出され、またフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与され名誉も手に入れた彼ですが、1888年にある転機が。

それは4月に兄が亡くなった際、それをノーベル本人の死亡と間違えた新聞が「死の商人、死す」などと批判的な記事を掲載したこと。

これを読んだ彼は、自らの死後の評価を気にするように。

それが、生涯独身だった彼が築いた富の殆どを注ぎ込んだノーベル賞の創設に繋がりました。

1895年に心臓病が悪化したことで、ノーベル賞創立に関して記述した遺言状を記した彼は、その治療にニトロを使うよう医師に勧められたものの、それを拒否。

       

                      遺言状の一部

そして1896年12月7日に脳溢血で突如倒れると、その3日後の10日に63歳でこの世を去りました。

そう、ノーベル賞の授与式は、彼の命日に合わせて執り行われているのです。

※第1回のノーベル賞授与式は、今からちょうど120年前の今日・1901年12月10日。 この日物理学賞を受賞したのは、X線を発見したあのレントゲン博士でした。

若い頃から多国語を操り詩や戯曲を遺した故に、化学など理系だけでなく文学賞の創設も希望しながら、なぜノーベル賞から数学が除外されているのか?

それについては、こんな逸話が・・・。(↓)

 


彼の生涯とエビソードを知ると、今までとは違った目で授与式を見ることができるかもしれませんネ。

 

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